乳がんだった川端康成

 鶴見大学で「川端康成とその時代」という蔵書展をやっており、その解説パンフを入手した。ちょっと解説に疑問がある。第一に来るのは竹内道之助宛の1953年3月18日の川端の手紙で、山田吉郎解題だが、竹内は三笠書房社長で翻訳家、この時は川端の『再婚者』を竹内の勧めで三笠から出したので二十部送ってくれという手紙らしいが(本文は見ていない)、『再婚者』は藤岡光一の装幀なのだが、これは竹内の変名である、そのことが書いてない。
 第三は1961年4月25日、京都市中京区木屋町三条下ル其中気付で、川端から新潮社の菅原国隆宛書簡で、『眠れる美女』の原稿が同封されていたらしく、少ししか書けなかった詫び状。解題は片山倫太郎だが、「其中」が「きっちゅう」と読む川端行きつけの旅館であることを把握していないらしく、上羽秀の「おそめ会館」ではないかとしている。
 谷崎潤一郎から和気律次郎宛の書簡もあるが、ここで谷崎が「四度ノーベル文学賞候補になり」とある(糸日谷輝)が、四度というのは根拠不明で、ノーベル賞委員会は50年たつと資料を公開するので、1963年までは出ているが、谷崎が死ぬのは65年なので「四度」と確定できるはずがない。
 また1945年3月17日の佐佐木茂索から久米正雄宛書簡で、伊東に疎開中の佐佐木が「此手紙より先に文庫へ伺うか鎌倉へ余るか今のところ予定もつかぬ状態」と引用されているが「余る」は読み違えだろう。「文庫」は、始まったばかりの貸本屋鎌倉文庫だろうが、これも書いていない(糸日谷)。

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 もう一つ、石川偉子の調査で出てきた、佐藤春夫を囲む「春の日の会」の会誌『春の日』の第三号つまり最終号が外村繁の追悼特集で、川端から同年外村へ出した手紙が載っている。ここに、前年(1961)川端が乳がんの疑いで入院したとある。私は藤田圭雄日記に「川端さん、乳がんの」とあったのを見て、妻の秀子だと思ったのだが、どうやら川端自身だったらしく、三年後に胸の腫瘍の手術、と高見順日記にあるから、これのことだろう。男にもまれに乳がんがあるのは知っていたが、まさかと。