小説内小説

「劇中劇」のように、小説の中に小説があるということがある。推理小説などでもあるが、それはまあ仕掛けだからいいとして、優れた小説が入っているという想定で小説が入っていると、これはなかなか厄介だ。

 松本清張の「天才画の女」は、天才画家が現れたという小説だが、これをNHKでは竹下景子主演でドラマ化した。すると、「天才による絵」の現物を見せなければならなくなる。だがこれについては、NHKはいかにも天才による絵風のものを作るのに成功した。まあ、絵に詳しい人が見たらどうだか知らないが。

 あとは優れた音楽が演奏されることがある。やはり清張の「砂の器」では天才作曲家・和賀英了の曲という体でピアノ協奏曲「宿命」が流れるのが、野村芳太郎の映画で有名である。この曲は菅野光亮という作曲家が作り、世間では評価が高いが、私には凡作としか思えない。この小説自体、ハンセン病の親子の放浪の場面のおかげで名作扱いされているが、原作はそう大したものではないし殺人の説得力は弱い。

 丸谷才一の『輝く日の宮』の冒頭には、主人公である国文学者の女性が高校生の時に書いたという想定の、泉鏡花風の小説が置いてある。これの効果もあって同作は泉鏡花賞を受賞した。割とこの「鏡花風小説」は評判が良かったのだが、私には鏡花とは似ても似つかない失敗作に思えた。

 あと筒井康隆の『文学部唯野教授』にも、芥兀賞をとる唯野仁の小説の一節が出てくる。編集者は読み上げて感嘆している。いかにも純文学短編の書き出しらしく書いてはあるが、編集者が感嘆するレベルでは全然ない。かくのごとく、小説内で優れた小説を書くのは難しいことである。

小谷野敦

井上靖『北の海』を読んで驚く

『北の海』は、井上靖の自伝小説で、「しろばんば」「夏草冬濤」に続く、沼津の中学校を出て浪人していた半年の、柔道三昧の日々を描いている。翌年、四高の柔道部に入るよう誘われて金沢の四高を訪ねるのが表題の意味で、最後は神戸から両親のいる台湾へ向けての船に乗る。実に不思議な小説で、主人公つまり井上靖は「伊上洪作」なのだが、他の男たちはみな姓で「遠山」とか「木部」とか呼ばれているのに、洪作だけ「洪作」と呼ばれて特別扱いされている。さらに洪作を好きだというれい子もただ「れい子」と呼ばれている。

 『暗夜行路』について紅野敏郎が「時任謙作一人まかり通る小説」と評したが、これはまったく「伊上洪作ひとりまかり通る」小説で、しかも『暗夜行路』は後半はフィクションだがこちらは自伝的小説だ。洪作は、呆れるほどに誰からも好かれる。中年者からも同年輩の青年でも、男でも女でも、洪作を本気で嫌っている者はいないし、いじめる者もいない。よほど「愛されキャラ」だったのである。そしてそれを井上靖自身が、不思議なことだと思っていない。不思議といえば最後のほうで、台湾の母から来た手紙について、「まだ二、三通開封していない手紙がある」と書いてあるが、手紙というのは届いたらすぐ開封するものだろうに、不思議なことをする。

 私は『あすなろ物語』を読んだ時、なんだこのもて男小説は、と呆れたものだが、井上靖は、作家デビューしてからのすごい速度での文壇での出世も、要するに人々からよほど好かれたので、しかも川端康成のように、孤児として育ったから人と争えない性格になった、というような自己反省もない。川端は努力して「文壇の総理大臣」だったが、そのあと井上は、なるべくして「文壇の総理大臣」になっていた。普通に人はこの程度に人から好かれるものだろうと思って一生生きた人のような気がする。とてもこの人の真似は宮本輝などにはできないだろう、とつくづく感じ入るほかはない。

(追記)「北の海」の最後に、佐藤という医師が神戸で洪作を出迎えて、両親に頼まれて船の旅を同行するのだが、洪作が山の上で寝てしまったといった話を聞いて、「なるほど、噂に聞いた通りのいい坊ちゃんだ」と言い、洪作はむっとするのだが、これがまさに洪作の天真爛漫さと愛されキャラぶりを示唆している。だから著者も自覚はしているのだ。

 のち1988年に『孔子』が売れた時、『新潮』の千号記念号で大江、江藤、石原、開高の座談会があり、ああいうのは通俗じゃないかという話になり、井上靖にもいい純文学はあるというところから、石原が、直接井上にそう言ったら「ああいうのは売れません」と言ったという。このあたりが井上靖の天真爛漫たるところではないか。

小谷野敦

鶴渕先生のこと

 私が通っていた越谷市立富士中学校に、鶴渕先生という社会科の教師がいた。当時、40歳くらいだったろうか、顔にやけどがあった。何でも、一年か二年前までは理科の先生だったが、授業中の実験で爆発事件があったためで、そのため理科の先生をやめて社会科に転じたという話だった。しかし私は三年間、教わることはなかったが、顔のせいもあってか、有名な先生だった。

 高校へ行き始めたころ、自転車で駅へ向かう途中、駅から中学校へ歩いてくる先生ともう一人の先生に挨拶したことがある。

 高校三年になった時、私は同じ市内で引っ越したが、弟は同じ中学校へ通っており、その近所に鶴渕先生の家があった。これは農家で、やや広めの庭に家庭菜園みたいなものがあった。母などはよく「鶴渕先生の家が」と言っていたが、それから大阪へ行くまで十数年はあったが、私はついぞ先生に会ったり挨拶したりしたことがなく、両親も別につきあいはなかったようで、没交渉のままであった。

 母が死んで、父も施設へ入ったあと、実家を放置することになって、挨拶に行ったことがあるような気がするが、その時も結局は先生には会えなかった気がする。

音楽には物語がある(66)ラップは詩か  「中央公論」6月号

 『東京都同情塔』で芥川賞を受賞した九段理江が、受賞インタビューで「音楽が好き」と言ったので、おっと身構えた。音楽が嫌いな人というのはめったにいないので、この言葉には色々な意味がある。九段の場合、「ヒップホップが好き」と言っていたから、その意味かな、と思った。ざっくり言って、ラップのことである。『ユリイカ』に発表された短編「Planet Her あるいは最古のフィメールラッパー」では、口の中で韻を踏む言葉を探す主人公(作者自身)が出てくる。しかし、九段のデビュー作「悪い音楽」は、音楽教師が主人公で、クラシックからヒップホップまで様々な音楽が出てくるから、そのように幅広く好きということかもしれないし、先の短編では、主人公はiPODに音楽を入れて出先でも聴いているから、それも、特別に好きという意味かと思える。私は出先で音楽を聴きながら、というのはやらない。外を歩きながらイヤホンとかで音楽を聴いている人がいるが、交通安全的に危険である。家にいても、音楽を聴きながら仕事をするということは、若い頃はできたが、三十過ぎてからは音楽に聴き入ってしまってできなくなった。

 ところで、私はジャズから後の新しい音楽は苦手である。ラップに至っては、嫌いといってもいい。日本の近代詩というのは、西洋の詩を真似して作られたものだが、韻律がないから、「詩のようなもの」になっている。島崎藤村などの新体詩は七五調の音数律で作られていたが、いつしか廃れてしまった。加藤周一らマチネ・ポエティックの詩人たちは、日本語の詩で韻を踏む実験をした。その成果の一つが、四つも曲がついたことで知られる加藤の「さくら横ちょう」だが、(中田喜直別宮貞雄、神戸孝夫とあと一人)私は昔、別宮作曲のものを鮫島有美子が歌うのを何回も聴いた。味わいがあるが、詩としては後に続く人が出ないのはやむをえないだろう。

 九段理江には『しをかくうま』という小説もあるが、やはりラップを詩の一種と見ているのだろうか。私はつらつら考えたり、知り合いの詩人の意見を聞いてみたりしたのだが、ラップは詩ではないという結論に達した。

 西洋の詩は、弱強五歩格(アイアンビック・ペンタミータ)など、ある程度の長さの詩行の後ろに韻がついているが、ラップの韻は、せわしなく次から次へと続き、特にそれを即興でつけていくところに人は面白みを見出しているらしい。西鶴の、俳句興行で一昼夜に千句の俳句を詠むみたいな、ないしは連歌のようなところがある。連歌などはちゃんと文学扱いされているが、私は、結局は遊びだろうと思っている。

 というか、ラップに近いのは、詩よりも香具師の口上だろう。「けっこう毛だらけ猫灰だらけ」といったあたりだ。ラップの場合はもうちょっと上品だが、その代わり聞いていてうるさい。結局は、好みの問題でしかないのかもしれない。私が年をとったせいではない。私は若い頃から、こういう新しいポップ音楽は苦手だった。

 その若い頃、天沢退二郎らが、中島みゆきの歌を礼賛し、それを「詩」として評価しようとする動きがあったが、それに対しても、中島の歌は曲と合わせてのものであって、単に詞だけ取り出したら詩として評価することはできないという声もあった。その一方、ボブ・ディランノーベル文学賞を受賞しているし、過去の民衆詩は、西洋でも東洋でも、音楽を伴って歌われていたという歴史もある。難しいところだ。

小谷野敦

 

八木詠美「空芯手帖」の謎

八木詠美の「空芯手帖」

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太宰治賞をとった時、「ウソ」だったはずの「妊娠」がいつの間にか本当になっている意味が分からず、当時産経で文藝時評をしていた石原千秋に「最初にウソだと言ったのがウソだったんじゃないか」というはがきを出したりしたのだが、そこのところはどういうわけかあまり話題にならないまま、世界各国で翻訳されているということになり、第二作では河合隼雄物語賞をとったので、文庫版の解説ではどうなっているのかと松田青子の解説を読んでみたら、主人公は「魔女」になったから妊娠が事実になる、と書いてあった。うーん。

車谷長吉「忌中」の虚実

 私は、伝記を書いた作家、つまり谷崎潤一郎久米正雄、里見弴、川端康成近松秋江大江健三郎江藤淳の著作は基本的に全部読んでいるが、それ以外にほぼ全作品を読んでいる作家となると、車谷長吉西村賢太になろうか。

 車谷の「忌中」という非私小説があって、私は好きなのだが、それは作中に越谷と水海道が出てきて、それが私の二つの郷里だからである。

 精神科医春日武彦は、2005年から06年にかけて『文學界』に「無意味なものと不気味なもの」を15回にわたって連載し、不気味な文学作品の短編を15本取り上げて論じている。のち文藝春秋から刊行されている。しかし本業でもないのによくこんなマイナーな小説を読んだなと呆れるくらいだが(ただし古井由吉高井有一富岡多恵子など、作者名は有名である)、その14回目で車谷の「忌中」を取り上げて論じている。「うふふ。」という変な題名である。

 筋をいえば、流山に住む菅井修治という66歳の金融ブローカーが、妻の病気に苦しみ、心中をはかるが妻だけ死んでしまい、妻の遺体を押し入れに放置したまま二ヶ月遊びほうけ、その後で自分も自殺して、「忌中」と書いた裏面に遺書を書いて、玄関に張っておいたという話である。車谷はこれを、朝日新聞2003年5月27日夕刊にあった三面記事を参考にしたと書いている。永井龍男の「青梅雨」みたいな趣向だ。だがその当該記事は見つからず、春日はフィクションだろうと書いているし、これを架空の記事とした論文もある。だが春日の本が今度中公文庫に入ったのを見たら、実は名前は違っているがほとんど同じ記事が1984年の朝日新聞にあった、という(実はこの発見は文藝春秋の元本の時からあったという)。

 

1984年8月18日夕刊

玄関に「忌中」の紙張り、自殺 野田で病気と借金苦の老夫婦

 十七日夜、千葉県野田市尾崎、金融ブローカー岡田幸八(64)方の玄関の戸に、「忌中」と印刷した紙が張りつけてあるのを、借金の取り立てにきた埼玉県内の金融業者が見つけ、千葉県警野田署に届けた。同署で調べたところ、台所で幸八が首をつって死んでいるのが見つかった。また、妻錦さん(65)の死体が十畳間の茶箱の中につめ込まれているのも発見され、「忌中」の紙の裏や十畳間にあった大学ノートに幸八が書いたとみられる遺書めいた走り書きも残されていた。
 死体の状態や遺書の内容から同署は、二カ月半前に病気を苦にして自殺した錦さんの死体を幸八が放置したうえ、多額の借金を抱える幸八もあとを追って自殺したものとみており、死体遺棄事件として調べている。
 遺書によると、六月四日、幸八と錦さんが、錦さんの高血圧を苦にして家の中で首つり自殺しようとしたが、錦さんだけが死に、幸八は死に切れなかった。幸八は死体の処置に困り、茶箱につめて隠した。また、幸八は、金融業や知人らから五百万円以上の借金があった。
 遺書には、借金の支払い能力がないため、「死にたい」などとも書かれており、妻の自殺と借金を苦にした幸八が後追い自殺したらしい。ただ、妻の自殺をなぜ警察に届けず、二カ月半も放置していたかなど、不審な点もあり、さらに調べている。
 幸八夫妻には、子供や身寄りがなく、近所付き合いもほとんどなかったことから、近所の人たちは事件には気づかなかった。

 

自筆年譜(小谷野敦)

1962年 12月21日、茨城県水海道市(現常総市)三坂町(三妻駅そば)に生まれる。父建三は時計職人。水海道一高へ行っていたが肺結核で三年病臥し、大学へ行きそびれていた。母清子は中卒で銀行に勤めていた。

1965年 6月、同市森下町に平屋一戸建てを建てて引っ越す。

    市内の二葉幼稚園(キリスト教系)に通う。

1967年 5月、弟が生まれる。秋、交通事故に遭う。
1969年 水海道小学校に入学、担任は海老原昭子先生。
1970年 11月、三島由紀夫事件の数日後、二度目の交通事故にあう。
1971年 4月、埼玉県越谷市に転居、出羽小学校に転校。担任は女性の町田先生。

1972年 4月、担任は男の佐々木先生。

1973年 4月、クラス替えがあり、担任は男の小林先生。人形劇「新八犬伝」が始まり、夢中になる。

1974年 4月、クラス替えがあり、担任は男の田沼先生。
1975年 小学校を卒業、越谷市立富士中学校に入学。「刑事コロンボ」「警部マクロード」に夢中になる。
1976年 夏、米国ミネソタ州ルカンにホームステイ。大河ドラマ風と雲と虹と」をきっかけに原作を読み、歴史小説好きになる。長編漫画『昔今後六名記』を書き始める。天皇制反対論者になり、男女平等主義者になる。

1977年 竹下景子のファンになり、結婚したいと思う。創刊された雑誌『フェミニスト』を買い始める。
1978年 1月、『万延元年のフットボール』を読み、衝撃を受ける。浦和高校受験に失敗し、私立海城高等学校に入学。大江健三郎を耽読し、自分も23歳で芥川賞をとろうと考える。いじめに遭う。ドストエフスキー『白痴』を読むが理解できない。

1979年 クラス替えがあるがいじめの親玉とはまた同じクラス。担任は現代国語の岡部由文(のち就実大学教授。専門は中古国文学)。成績が良くなり、いじめがやむが、他の生徒や教師へのいじめはやまず。アニメ「赤毛のアン」や人形劇「プリンプリン物語」、再放送していたアニメ「キャンディ♡キャンディ」に夢中になる。読書ではシェイクスピアを愛読。川端『雪国』を読むが理解できない。

1980年 川端康成三木卓に熱中する。初めて歌舞伎を観に行く。

1981年 卒業、東大入試に落ち、駿台予備学校に通う。吾妻ひでおが好きになる。

1982年 東大文科三類に入学。第二外国語はドイツ語。同じクラスに岡田直樹、鈴木晃仁がいた。サークル「児童文学を読む会」に入り、同人誌に小説や戯曲を書く。秋、駒場祭コクトーの「恐るべき子供たち」を劇化し演出する。
1984年 東大文学部英文科に進学。授業が退屈で失望する。

1985年 エドワード・オルビーで卒論を書き、楽しいと感じる。
1986年 英文科大学院入試に失敗、留年する。12月、中野里晧史教授が急死する。
1987年 「マクベス」で改めて卒論を書いて卒業し、大学院比較文学比較文化に進学。
1989年 「八犬伝」の英米文学との比較で修士論文を書いて、修士課程修了、博士課程進学。秋より駒場の郵政省電気通信研修所で英語を教える。
1990年 6月、修士論文を修正した『八犬伝綺想』を福武書店より刊行。8月、カナダのヴァンクーヴァーブリティッシュ・コロンビア大学博士課程に入る。

1991年 寮で立命館大学から来た日本人学生たちと知り合う。
1992年 同退学、7月に帰国。
1993年 4月、帝京女子短期大学で英語の非常勤講師。
1994年 4月、大阪大学言語文化部講師となる。12月、シンガポールでの「暗夜行路」会議に出席。

1995年 3月「夏目漱石を江戸から読む」を刊行するが、執筆依頼がなく、うつ状態になり病院に行って薬をもらう。
1997年 4月「男の恋の文学史」となる論文で学術博士号取得。助教授となる。10月『男であることの困難』、12月『<男の恋>の文学史』を刊行。
1999年 1月『もてない男』が売れる。3月、大学を辞職して東京三鷹に住む。明治大学兼任講師。秋、由本陽子と結婚式をあげる(入籍はせず)。12月『江戸幻想批判』を刊行。
2000年 夏、仙台旅行。
2001年 1月『バカのための読書術』刊行。3月『軟弱者の言い分』刊行、記念に岸本葉子と対談。4月、東大教養学部英語非常勤講師となる。「聖母のいない国」(ユリイカ)「日本恋愛思想史」(文學界)連載。5月、『明治の文学・田山花袋』を編纂。
2002年 6月『退屈論』刊行。7月、由本と別れる。11月、『聖母のいない国』でサントリー学芸賞。永福町に移転。12月、駒場で恋愛シンポジウム、金沢の星陵短大で講演。

2003年 6月『性と愛の日本語講座』刊行(『月刊言語』連載)。
2004年 3月、明大を辞職。8月『すばらしき愚民社会』(『考える人』連載)を刊行。9月、アルヴィ宮本なほ子と共訳のハロルド・ブルーム『影響の不安』を刊行。11月、『評論家入門』を刊行。

2005年 3月、『恋愛の昭和史』を刊行。10月、栗原裕一郎らとの共著『禁煙ファシズムと戦う』を刊行。

2006年 6月『谷崎潤一郎伝』刊行。7月、小説「悲望」を発表。続いて「なんとなく、リベラル」を発表。11月、母が肺がんと分かる。
2007年 4月、柴田葵と結婚、浜田山に転居。『文學界』の連載終わる。9月『日本売春史』(『考える人』連載)刊行。12月、母死去。

2008年 5月『童貞放浪記』刊行。12月『里見弴伝』刊行。
2009年 1月『美人作家は二度死ぬ』刊行。3月、東大をクビになる。猫猫塾を開く。4月『東大駒場学派物語』刊行。7月『私小説のすすめ』刊行。映画「童貞放浪記」公開。
2010年 2月『天皇制批判の常識』刊行。5月『日本文化論のインチキ』刊行。10月「母子寮前」発表、芥川賞候補となる。『現代文学論争』刊行。
2011年 東日本大地震。5月『久米正雄伝』刊行。
2012年 猫猫塾を閉鎖。集英社インター事件。12月、父死去。
2013年 2月『日本人のための世界史入門』刊行、15万部売れる。5月『川端康成伝』刊行。
2014年 「ヌエのいた家」が芥川賞候補となる。3月『馬琴綺伝』刊行。
2015年 2月『江藤淳大江健三郎』刊行。8月『このミステリーがひどい』刊行。
2016年 8月、深澤晴美共編『川端康成詳細年譜』刊行。

2017年 3月『芥川賞の偏差値』刊行。7月、35年間喫い続けたタバコをやめる。噛みタバコスヌースをやる。9月『文豪の女遍歴』刊行。11月『純文学とは何か』刊行。

2018年 4月『東十条の女』刊行。12月『とちおとめのババロア』『近松秋江伝』刊行。

2019年 6月、妻が交通事故に遭う。9月、大腸にポリープが見つかり切除する。小池昌代との対談『この名作がわからない』刊行。

2020年 コロナ騒動始まる。3月『歌舞伎に女優がいた時代』刊行。

2023年 7月『蛍日和』刊行。