西恵子の「あげてよかった」を観た

 西恵子といえば、「ウルトラマンA」の美川隊員である。瑳川哲郎の隊長が出動命令を出す時、「美川隊員は私と一緒に」といつも言っていて、隊長機に同乗する美女である。初期ウルトラシリーズでは唯一、戦闘隊内に美人が二人いた片方である。

 その西恵子の、「A」から四年前のデビュー作「BG・ある19才の日記 あげてよかった!』(日活)がアマゾンプライムで観られたので、観た。大変つらいものがあった。これは「週刊女性」に読者が投稿して話題になった手記を原作としたもので、私は確かこの手記を読んだことがあるが、映画では、19歳の会社員女性が、好きになった妻子ある部長(二谷英明)に「処女をあげちゃう」という話で、全体がひどい。特にタチの悪い社員役で出てくる青島幸男が、女なんてのは押し倒してやっちゃえばいいんだ、あっちもそれを望んでるんだから的なセリフ通り、全編そういう感覚で作られているから、今では正視するに堪えないが、1980年でもつらかったろう。これはフェミがかった人が観ると怒りのあまり頭が爆ぜる危険性があるから注意しないといけない。

 脱いでいるわけではないとはいえ、白黒だし、美人だけれどこの程度の美人は芸能界にはいくらでもいるという扱いが目に見えるという意味でもつらかった。「ウルトラマンA」のほうが、いかに「ジャリ番」でも良かったと思うほどで、西恵子が1980年に女優を引退して夫ともに喫茶店を始めたというのもこのデビュー作からその種はあったなと思うのであった。

(小谷野敦)

歴史学に「まとめ」は必要か?-「観応の擾乱」を読む

 垣根涼介の直木賞受賞作『極楽征夷大将軍』を読んだら、足利尊氏ー直義兄弟の奇妙な関係が前半は面白かったが、後半で観応の擾乱になってからはあまりに武将たちの動きがぐちゃぐちゃで難儀したので、亀田俊和の『観応の擾乱』(中公新書)を読んでみた。ここで亀田は、佐藤進一の、鎌倉幕府以来の統治構造を維持しようとする直義と、それを変革しようとする高師直の対立という「定説」に異論を唱えている。

 以前から私が疑問に思っているのは、歴史学者の、事実を羅列するだけではなく、それに「まとめ」や「意味づけ」をしなければならないという風習である。この風習は文学研究者にもある。文学の場合は、作品や作家がどの程度偉いかということがくっついてくる。本郷和人さんと話していた時も、やたらと「権門体制論に都合が悪いから」みたいなことを言うので、そういう視点が必要なのかと思ったことがある。

 亀田の見方は、直冬の処遇をめぐる対立があったことと、師直はむしろ保守的だったこと、あと事実についていえば直義は殺されたのではなく病死だということくらいだが、ふと気づいたのは、女の登場人物がいないということで、北条政子、日野富子、淀の方茶々とか、大奥とか、歴史には女がつきもので、この場合、義詮を後継者にしようとする赤橋登子の強い意志とかがあったんじゃないかと思った。

(小谷野敦)

谷崎潤一郎の「一日」

 谷崎潤一郎が『青春物語』に書いた若い頃の思い出から作成した年譜を見ると、明治43年に和辻哲郎らと第二次『新思潮』を創刊する前の年のこととして、「史劇「誕生」を『帝国文學』(編集長栗原武一郎)へ送ったが没となり、自然主義に妥協した「一日」を書いて、恒川(陽一郎)の手を経て平出修に見せると、平出は面白いと言って『早稲田文學』の相馬御風(27)に掛け合うと言ったが纏まらないので恒川と平出を訪ねると、御風の手紙を見せられる。遂に纏まらず、失望と焦慮から強度の神経症に罹る。2月から春まで、茨城県助川(現、日立市)にあった偕楽園別荘に転地療養、花岡、大塚といった実業家と知り合う。ここで永井荷風(31)の『あめりか物語』を読み、元気づけられる」となっている。この「一日」という作品は、現在では影も形もない上、どういうものかということも谷崎は書いていない。

 ところで自然主義といえば、田山花袋の「蒲団」を想起する人が多いだろうが、果たして谷崎はこの当時「蒲団」を読んだのかといえば、それがどうも覚束ない。また『あめりか物語』は、私小説にほかならない上、永井荷風自身は「蒲団」を大変面白がっていた。

 私は、この当時の谷崎は、「自然主義」をちゃんと理解していなかったと思う。「一日」というのは、恐らく平凡な一日を平凡に描いた、当人が「自然主義に妥協した」と思っているものだろうが、ここで谷崎が「自然主義」だと思っているのは、明治41年に花袋が「読売新聞」に連載した「生」のことだろう。花袋が「蒲団」を書いたあと、自然主義の全盛期が来たというのが一般的な、というか中村光夫が作り上げた文学史の図式だが、花袋当人は、その後「生」「妻」のような実に退屈な長篇を書くようになった。それが「平面描写」というやつで、近松秋江はこの平面描写にあきたらず、「疑惑」や「黒髪」で、「蒲団」の衣鉢を継ぐのである。

 もし谷崎が「蒲団」や「少女病」をちゃんと読んでいたら、自然主義に対する誤解に気づいただろう。そこのところを、中村光夫が歪めて書いた文学史が今も流通しているために、理解されていないと思う。

(小谷野敦)

間宮茂輔の「広津和郎」

間宮茂輔(1899-1975)というのは、プロレタリア作家で、戦後も左翼作家として活動したようだが、よくは知らない。広津和郎とも親しかったようで、1969年に最後の著作として『広津和郎』(理論社)を出しているが、娘の広津桃子の『石蕗の花』に、これを読んで間違いが多いことに困惑した上、広津の兄が戦争中の熱海空襲の時、全裸になって外へ飛び出して凍死したと書いてあるのを見て驚き怒ったということが書いてある。桃子によればこの伯父は脳に異常を来して敗戦後二年目に病院で死んだということである。

 桃子が当時存命だった志賀直哉にこの話をすると、騒ぎ立てないほうがいい、特に間宮にとって糧道を断つということはしてはいけないと言ったという。

 もっとも、広津の『続・年月のあしおと』に出てくる、広津の愛人で、広津につきまとって困らせた「X子」の実名を「秋月伊里子」と書いているのは、本当なんだろうか。

2025年度小谷野賞

昨年度の小谷野賞発表です。

・小川剛生『「和歌所」の鎌倉時代:勅撰集はいかに編纂され、なぜ続いたか』NHKブックス、2024

・河原梓水『SMの思想史:戦後日本における支配と暴力をめぐる夢と欲望』青弓社、

 

後者は、題名はこんなですが著者は日本史が専門で、『奇譚クラブ』というSM雑誌の極めて実証的な研究で、村上信彦という女性史研究者が変名で寄稿しており、サディストだったという事実を明らかにしています。

:発掘賞

伏本和代『デパスな日々』そして企画、2013

 これは三木卓さんの遺作集を編纂していて、三木さんが寄稿していた『そして』を編

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集していた伏本和代という92年の文学界新人賞をとった作家の短篇集を読んだらなかなか良かったので、選びました。

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英文科から比較文学

 四方田犬彦という人は、比較文学での修士論文がスウィフトだった。これは「「ガリヴァー旅行記」における対話的構造--スウィフトと文学的ジャンルの問題」として、四方田が30歳のころ、どういうわけか『比較文学研究』に一部が載ったのだが、その末尾には、全体は近く単行本として刊行予定と書いてあった。だが実際にそれが『空想旅行の修辞学 『ガリヴァー旅行記』論』として七月堂という自費出版の出版社から出たのはそれから13年もたった1996年のことで、どういうことかと私も驚いた。
 それはともかく、四方田の初期論文がスウィフトであることは本人が書いていたからか知られていて、そのため四方田が英文科卒だという誤解が当時はよくあった。宗教学科卒である。東大英文科から比較文学の大学院へ行ったのはこれまで四人しかいない。亀井俊介、井上健、私、田中雅史である。亀井先生はもちろん博士論文で日本学士院賞をとり、東大名誉教授として先ごろ長逝した。井上先生は京大から東工大へ来たが、大澤吉博さんが急逝したためその代わりに東大へ来て比較文学会の会長も務め、今も調整役として力を発揮している。田中は四方田と同じで由良君美の弟子だったが、途中から日本文学をやるようになり、甲南大教授である。ところで甲南大学文学部には、日本中世文学専攻の田中貴子という教授もいるので、学部では「貴子先生」「雅史先生」と呼ばれているらしい。

 田中のあと、英文科から比較へ行く人が出なかったのは、表象とか地域文化とかの大学院ができてそちらのほうが魅力的だったからだろう。大体今では西洋文学を専攻するなら当該の国で博士号をとってくるのがエリート道である。その一方、新井潤美さんは私の三つ上だが年齢は一つ上で、ICUから比較文学へ来たが帰国チャイルドだったし、今では東大英文科の教授になっている。もっとも、東大英文科の教授で、英国文学専門の人は、これまでほとんど、日本英文学会の会長を務めている。もし新井さんがならずじまいに終われば、初めてのことだが、それは女だかららしい。それはちょっとどういうもんかと思わないでもない。

(小谷野敦)

小川哲『地図と拳』のん?

私は「満州国」ものが苦手である。ベルトルッチの「ラストエンペラー」も、安彦良和の「虹色のトロツキー」も、面白くなかった。ただ田中絹代が監督した「流転の王妃」だけは面白かった。これは皇帝溥儀の皇后が阿片中毒で、その禁断症状で苦しむところが、煙草をやめた時の自分を思わせたせいもある。しかし概して私には、満洲で馬賊になるみたいな、男の子的な夢にピンと来ないところがある。

 小川哲の直木賞受賞作『地図と拳』が、図書館で借りられるようになったので借りてきて読み始めたが、これも満州国ものであるせいか、ピンと来なかった。1899年から1955年までの話のようだが、全部読まずに言うのはいけないのだが、何しろ分厚いし、直木賞の選評で林真理子だけピンと来ていないのと、前作『ゲームの王国』の乗れなさ加減から、どうもこの作家とは合わない感じがした。

 その『地図と拳』の冒頭は、二人の主役級の日本人が乗っている船が松花江をいくところで、ロシヤ軍の査察が入り、人々はピストルなどを川へ投げ捨てる中、日本人の一人がカバンの底へナイフを隠すのだが、見つかってしまうという話だった。しかし、ナイフといえば当時旅行をする際には生活必需品というに近く、ロシヤ軍がそんなものを問題にするだろうか。飛行機に乗る時はナイフは持ち込めないので、それから類推したのか、それとも本当に当時ナイフの携行が問題にされたという史料があるのか。小説の冒頭というのは「つかみ」なので、そこからこんな風に引っかかるというのは、どういうものかと、ちょっと思った。

 もっとも小川哲は東大博士課程中退なのだが、前に小川がラジオに出た時、司会者の芸能人が、この「中退」というのが何か恥ずべきことだとでも思ったのか、「まあ、もう学ぶことはないというので退学したんですね」などと言っていたのが気になって、博士課程における中退とか満期退学というのを、テレビに出るような学者はちゃんと説明してほしいものだと思ったことであった。(博士号をとらないと「修了」にはならない)

(小谷野敦)