橋本恭子『『華麗島文学志』とその時代ー比較文学者島田謹二の台湾体験』感想

 ちょっと機縁があったので近所の図書館にはなかったが北区図書館から取り寄せてざっとななめ読みした。著者は生年が書いていないが恐らく私より年上で、これは一橋大学の2010年の博士論文で2012年刊行だから著者は50歳を超えていただろう。実にものすごい量の文献を読破していて、これは十年がかりである。力作である。

 島田謹二(1901-93)は文化功労者比較文学者で、東北帝大の英文科を出たあと台北帝国大学教授となり、敗戦直前に香港へ渡ったが敗戦後日本へ引き上げて東大教養学部の英語教授となり、1954年比較文学比較文化の大学院を設置し、芳賀徹平川祐弘亀井俊介小堀桂一郎らを育てた人で、私はいわばその孫弟子に当たる。だから東大比較では島田謹二は伝説的人物で、私は一度だけ比較の演習室で行われた講演を聞いたことがある。没後は島田謹二学芸賞というのが、比較の出身者に毎年授与されていて十年ほど前まで続いたが、私は貰っていない。女癖の悪いのでも有名で、娘の斎藤信子の『筏かづらの家』には、子供らをよそに愛人の家に住む島田の姿が描かれているし、平川が『新潮』に書いたエッセイでは、島田の隠し子に会った話も書いてある(隠し子ではないという説もある)。女関係の尻ぬぐいをしていたのは小堀だとも言われており、島田謹二賞もだいたい小堀が主導していた。私と同期の筑波大教授・加藤百合さんは島田にかわいがられて、養女になる話もあったというが、まあそういう人だから比較の女の人はよく島田の家に呼ばれていたらしいが、私は行ったことがない。

 さて「華麗島」というのは台湾の別称で、島田没後『華麗島文学志』というのが刊行されたが世間では沈黙していた、なぜか、というのが橋本著の主題である。なお橋本は東大比較とは関係なく、学習院大卒、一橋大院で、松永正義安田敏朗に師事したというが、東大比較の平川や古田島洋介にも世話になったと書いてある。

 『華麗島文学志』は、台湾で植民地主義的だと批判されてきたが、そこには誤解があって、これは実は台湾での日本人文学についての論だという。橋本はしかし、その誤解を解きつつ、島田には植民地主義的な限界があった、と結論づけるのだが、戦前の人であり、弟子たちがあんなナショナリストに育ったんだから、まあそうだろうと私は思う。

 島田の著書で有名なのは、司馬遼太郎の『坂の上の雲』の元ネタになったというので有名な『ロシヤにおける広瀬武夫』『アメリカにおける秋山真之』で、死ぬ前には後者の続編の大著『ロシヤ戦争前夜の秋山真之』が出ている。橋本はこれらの軍人伝について、外国の「社会や知識人から謙虚に学び、自らのナショナリズムを豊かに育成」するさまを描いたと肯定的に評価し、島田は台湾に関してそれができず、ついに西洋中心主義だった、というのだが、ロシヤやアメリカは西洋なので、つまり島田は自分が書いたものと矛盾しているのではなくて、西洋からでなければ何かを学ぶのは難しいと考えていたというだけのことだろう。

 しかし私はあまり島田謹二に興味がない。二冊あるとはいえやや薄い『ロシヤにおける広瀬武夫』はまあ通読できたが、『秋山真之』は、読み始めてすぐその二段組にうんざりし、こんな軍人伝は読む気にならずそれきりである。島田はこれらを比較文学の業績だと強弁していたというが、少年時代からミリオタだった島田は、こんなものを三点も書いている間に、佐藤春夫の伝記でも書いた方が良かったんじゃないかと思う。現に今でも佐藤春夫のちゃんとした伝記はないのである。

 『日本における外国文学』も島田の比較文学の主著に数えられるが、私はざっと見て特に興味をひかれなかった。あと台湾における日本文学として佐藤春夫の「女誡扇奇譚」がよく挙げられるのだが、私は日本近代文学全体の中でも別に大した作ではなく、こんなものしか生み出さなかったのかと索然たる気分になる。

 あとこれは実に申し訳ないのだが私は台湾文学というものをまったくと言っていいほど知らない。だからこの著作に、実に力作で労作だという感想は持てるが、それ以上のものは持てなかった。

 あと「島田というと、往々にしてブッキッシュなロマンティストと見られがちだが」戦時中リアリストでもあった、と書いてあるが、へえそうなのかと思った。私は、女好きのミリオタで反共主義者だと思っていた。

小谷野敦

微温化され中産階級向きにされる大江健三郎

 9月13日の昼過ぎ、今日都内のホテルで、大江健三郎のお別れの会が開かれたというニュースをX上で見た時、あっ私は呼ばれなかったんだという悲哀が突き上げてきた。衝撃を受けつつあちこち調べてみると、大江についての本を書いた榎本正樹は呼ばれたが行かなかった、高原到も呼ばれたが仕事があっていけなかったとかポストしており、かなり幅広く呼ばれたらしく、もしや蓮實重彦も呼ばれなかったのではと思ったが呼ばれていたようだし、私がパージされたのは明白で、私は衝撃のため二日ほど仕事が手につかなかった。

 そこで私は「眠れる森の美女」の舞踏会に呼ばれなかった魔女のごとくタタリ神となって以後は語るが、近年、大江健三郎中産階級向け、お茶の間向け、テレビ向けに微温化され、デオドラント化されている。スピーチしたのは黒柳徹子山内久明、朝吹真理子というあたりがすでに微温的ではないか。

 そもそも私が中学3年の時『万延元年のフットボール』を読んだのは、今どき天皇制などというものが生きていることへの怒りからであった。

 だが、ノーベル賞をとっても文化勲章は辞退し、藝術院会員にもならなかった大江だが、そのお別れの会を藝術院会員の池澤夏樹天皇崇拝家の島田雅彦が仕切っていたり、天皇制など平然と認めていそうな「なんリベ」の面々が参集する集まりと堕していた。

 しかし、大江自身に責任がないとはいえない。大江だって人間だから、あさま山荘事件のあとから次第に、中産階級的市民に愛される文学者になろうとして、障害のある息子を前面に出したり、「谷間の村」を聖化したりしてきたのだし、当人にT・S・エリオットのような君主主義詩人を好きになってしまう部分もあった。

 そこへ、この十年ほど、柳田國男やら谷間の村やら、微温的な方向へ大江を持って行くような論者が跋扈しつつあり、まあ私はよほどの危険人物だと思われたのであろう。

とはいえ私は大江の九条護憲とか反核とか反原発に批判的だし、実際には今の日本ではそういうことをテレビで言うのは別に難しくはない、反天皇を言うのはむしろどんどんタブー化していて、昔は「朝まで生テレビ」でも反天皇制の論客は出演できたが、今では最初から排除されている。

 川端康成の伝記を書いた時もつくづく思ったが、川端には「眠れる美女」を書くような危険で反市民的な部分もあるのに、遺族と取り巻きの学者などはそういうことを隠したがる。「魔界」くらいならいいが、臼井吉見ではいけないのだ。

 だからまあ、これから、本来の初期の荒々しい大江健三郎を取り戻す戦いが始まるので、「お別れの会」などというのは、微温的文化人の集いに過ぎなかったと考えておくのが正しいことであろう。

小谷野敦

「蒼ざめた馬をみよ」その後

「だれのものでもないチェレ」を観る

 これはハンガリーの1976年の映画で、78年に岩波ホールで上映されているから、その時の新聞評や広告で題名が記憶に残っていたか、「キネマ旬報」では79年に18位になっている。

 いきなり、東欧の農村に全裸の6歳くらいの女児が牛を追っている場面から始まる。この女児が主人公のチェレで、映画の真ん中あたりまでずっと全裸で生活していて度肝を抜かれる。

 あとでわかるが舞台は1930年の独裁政権下のハンガリーで、チェレは孤児院からジャバマーリという女にもらわれてきた子供で、ジャバマーリは悪い女で、支給金目当てにチェレを引き取っただけで、衣服すら与えず、虐待の限りを尽くす。その上住んでいる家はもと住んでいたヤーノシュという老人を追いだして不正に取得したものらしく、ヤーノシュ老人は納屋に住んでいて、この人だけがチェレに優しくしてくれるが、チェレと老人が二人の憲兵と話しているのを見たジャバマーリは、密告されるのを恐れて、毒入りのミルクを老人に飲ませて殺害し、さらにチェレにも毒入りミルクを飲ませようとするが、チェレは寝ている赤ん坊にそれを与えようとする。するとジャバマーリが発見して「人殺し! 毒入りミルクを赤ちゃんに飲ませようとしたのよ!」と叫ぶ。ジャバマーリには夫もいてこの時止めるのだが、別に妻の悪事を何とも思っていないらしいのが不気味である。

 最後にチェレには救いが訪れるわけではなく、悲惨な結末を迎えるので、うつ状態の人は観ないほうがいいだろう。

音楽には物語がある(57)かもめのイメージ 「中央公論」9月号

 NHKでやっていた「土曜ドラマ」の「松本清張シリーズ」の一つとして1977年に放送された「たずね人」は、実は松本の原作はなく、早坂暁のオリジナル脚本だった。筋は、戦争中にインドネシアに駐屯していた日本人兵士と現地人女性との間に女の子が生まれ、成長したその女性(鰐淵晴子)が林隆三のカメラマンの手助けで父を探しに日本に来るというものだ。実は父は与党の大物政治家になっていて、醜聞を恐れて別の人物を替え玉に立てる。テレビのご対面番組で対面したこの偽父は、子供のころよく歌ってくれた思い出の曲だと娘がいう、中山晋平作曲の「砂山」を二人で歌うのだが「雀鳴け鳴け」のところを「鴎」と間違えて歌い、林隆三が疑念を抱くというのが発端だ。

 北原白秋の「砂山」には、中山のほか、山田耕筰も曲をつけているが、私はこの当時中学3年で、初めてこの曲を知ったのだが、「鴎」のほうが自然な気がして、ちょっと不思議に思った。だが今考えると、鴎という鳥が海辺を象徴する鳥として美化されたのは、大正時代よりあとのことだったのではないか。

 たとえば、1932年(昭和7)には丸山薫の詩集『帆・ランプ・鴎』が出ており、「かもめの水兵さん」は1937年の歌で、武内俊子作詞、河村光陽作曲でヒットしている。もっとも「森鴎外」の雅号には鴎が入っており、これは千住の「鴎の渡しの外」からとったというし、若山牧水の歌集『海の声』は1908年(明治41年)で「白鳥は悲しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」は、杜甫の「飄飄何所以 天地一沙鴎」からとられた、鴎のことだとされているし、この歌集はほかにも鴎を詠み込んだものがある。しかし、古典和歌に鴎が出てくるのは思いつかない。「都鳥」というのは『伊勢物語』に出てきて、これはユリカモメのことだとも言われているが、鴎ではない。

 「ソーラン節」にも「かもめに問えば」という歌詞が出てくるが、この歌が一般化したのは、戦後に三橋美智也が歌ってヒットしてからだろう。1963年にソ連の女性宇宙飛行士テレシコワが人工衛星で地球の軌道に乗り、「私はかもめ」(ヤー・チャイカ)というコールサインを出したことで、このコールサインは流行語にもなって、「ウルトラQ」(1966)で、人工生命M1号が宇宙へ飛び出して軌道に乗り、「私はかもめ」と言っている。しかしこの言葉はチェーホフの戯曲「かもめ」の中で、名声を得ようとしている女優志願のニーナが、若い人気作家トリゴーリンの愛人となるが子供を産んだあとで捨てられ、半ば狂気のようになって繰り返すセリフで、美しいイメージではないのである。

 鴎がさらにポピュラーな鳥になったのは、「かもめのジョナサン」以来であろう。原題は「ジョナサン・リヴィングストン・シーガル」で、作家リチャード・バックが1970年に出して、スピリチュアル小説としてヒッピーの間で広まり、73年に映画化され、日本では74年に五木寛之訳として刊行され、これもロングセラーになった。下訳をした國重純二(故人)はそれで家を建てたなどと言われていた。バックの次の作『イリュージョン』は、麻薬作家と見られていた村上龍が訳している。

 1978年には渡辺真知子の「かもめが翔んだ日」や、中島みゆきが作って研ナオコが歌った「かもめはかもめ」がヒットしているが、どちらもチェーホフの系統を引いた「ふられた女」のイメージである。

 実際の鴎は、雑食鳥類で、海辺の生物の子供などを捕食することが多いが、20世紀になってからずいぶん文化史の中で有名になった鳥だと言えるだろう。

小谷野敦

笙野頼子「発禁小説集」を読む

「群像」から追い出された笙野頼子が鳥影社から出した「発禁小説集」を読んだのだが、中にはトランスジェンダーとは関係ないのも、それは少ししか書いてないのもあった。質屋へ行く話が痛々しかったが、宝石とか時計を入れているので、ああそうか質屋というのはそういうものを入れるのかと思ったが、ワインというのもあって、ワインなんかなんで持ってたんだろう、酒飲みなのかなと色々謎だったのと、本を売るとかいうことはないのかと疑問だった。

 鳥影社との縁は『季刊文科』という雑誌に短篇を依頼されて縁ができたということである。事実誤認がないよう精密に校閲をしてもらったということだが、「子宮」と書いたために文壇から追われた女性作家がいた、というのは瀬戸内寂聴のことだろうが、これは疑わしい。「花芯」がエロティックだと批判されて、反論を書かせてくれと斎藤十一に泣きついたら、作家がそんなことでどうすると叱られたというのだが、そのあと五年書かせてもらえなかったというのは、泣きついたからなのか「花芯」を書いたからなのかはっきりしないのである。それに五年というのは、今考えるとずいぶん短い謹慎期間だなと思う。瀬戸内が文学賞を29年貰えなかったのは長いなとは思うが。

外国語学習伝(終)

 飛行機の席は、奨学金を出したカナダ政府でとったものだったか、詳しいことは忘れたが、禁煙席だった。私は当時はまだ耐えられたから、寝る時間になって暗くなった時にこっそり一服しただけだった。
 留学生を空港で待っていて大学まで案内してくれるサービスに申し込んでおいたので、若くて太ったカップルみたいなのが待っていて、車で彼らのアパートへ連れて行ってくれたが、単に自分らで申し込んで大学から少量の謝金をもらっているらしく、私はソファで寝るだけだったし、夜には変な仲間が数名集まってきて酒を呑んでいたから、これは要らなかったな、と思った。
 そこに一泊して大学へ行き、割と狭苦しい大学の寮の部屋に入った時は、やっと落ち着いたが、不安も大きかった。ヴァンクーヴァーの夏は当時は日本よりはずっと涼しくて、翌年の夏は、ここに住めるなら住みたいと思うくらい気候としては快適だったが、その夏もそんな感じだったろうか。大学の中央には「スチューデント・ユニオン・ビルディング」という横に広がったビルがあり、食堂やカフェテリア、モントリオール銀行の支店からゲームセンターまで入っていたが、そこへ行ってコンコースのようなところへ足を踏み入れたとたん、向こうから、篁さんが片手に大き目の鞄を持って歩いてくるのに出くわしてしまった。私はそこに立ち止まったまま呆然として見ていると、あちらはちらりとこっちを見た程度で通り過ぎてビルから出て行ってしまった。
 私はパニック状態になり、寮へ飛んで帰ると、入り口のあたりにあった旧式の公衆電話に、途中で作って来たのか、コインをじゃらじゃらと入れて、清滝に国際電話をかけた。よくあんな電話でかかったものだと思うが、東京では午後八時から十時ころだったろう。オペレーターが英語で話しているのが聞こえて、清滝が「イエス、イエス」とせくような声で答えているのが聞こえて、やっとつながった。
 「会っちゃった。無視された。どうしよう」
 と情けない声を私は出したが、清滝は、
 「これからだよ」
 と沈んだ声で言った。だがほどなく多量のコインもたちまち尽きて、通話は切れた。
 大学院の授業は九月からなのだが、その前に夏休みの語学コースに出席するために八月に来ていたので、その間に、大学からバスで十五分ほどのところにある住宅街の半地下の部屋を借りて、八月中にそこへ移った。清滝の住所は、いつか教えてもらえるだろうと思って、そこに置いてあった紙に長い手紙を書いていたが、十月ころになってやめてしまった。
 それから八年がたった。私はカナダ滞在中、ついに篁さんには口も利いてもらえず、帰国して一年半して大阪大学の英語の講師になった。吉川さんが隣の駅に住んでいたので、つきあうようになったが、私が不安神経症を患ったため、ダメになった。それでも博士論文を日本で書いて博士号をとり、「朝日新聞」にも連載するようになったころ、大学のメールボックスに、英国からのやや分厚いエアメールを発見した。清滝美紀からだった。宛先は、大阪大学文学部比較文学科、となっていたが、私が所属していたのは語学教師の集まりの言語文化部というところだったから、そちらから回って来たのだった。
 それから授業があるところだったので、学生に何かさせている合間を縫ってあわてて読んだが、清滝は今では英国人と結婚して英国に住んでいるという。「朝日新聞」で、私が大阪大学にいるのが分かって手紙を書く気になったという。インターネットが普及するまであと一、二年という時代のことである。
 「あなたのことは今の夫にも話しました。「身分が違った」と言いました。大げさな言葉を使いましたが、夫は私を抱いて泣いてくれました」
 といったことが書いてあった。
 私はその日すぐに返事を書いた。ワープロで書いたはずで、吉川さんとつきあっていたこともあったことも書いた。出すとすぐ、今度は私の住所宛てに返事が来て、
 「あなたの住所を知るために吉川さんに問い合わせようかと思ったのですが(吉川さんの勤務先大学は知られていた)、もしかしたらつきあったりしているかもしれないと思って躊躇していたのですが、問い合わせなくて良かったです」
 といった返事が来た。私はまた返事を書いた。あと二年くらいあとなら、メールで済んだことだろうが、そのあと、返事は来なくなった。
 それから十年くらい、いやもっとたった頃だろうか。私はふとインターネットで「清滝美紀」を検索してみた。すると、どうやら本人のものらしいフェイスブックが見つかり、見ていくと、本当に地方の商業高校が最終学歴であることが分かった。私は、当然大学くらい出ているものと思って訊いたりしたのを、悪かったなと思った。
 今調べたら、フェイスブックは見つからなくなっていた。もう消息を知ることもないだろう。それだけの話である。

(おわり)