この本は、最初のほうはものすごく面白い。鉄柱詩を集めるのがインベさんの趣味でそれが一番面白いが、お地蔵さんの話とか、電車の発車メロディーとか、千葉県のキョンとか、様々な社会現象を奇抜な発想で論じていく。途中でネタ切れになったようなところもあるが、編集者が巧みに面白い話が分散するようにしている。私はインベさんのファンで、書評を書いた時に「愛情を感じた」と本人に言われたので、愛情ゆえにちょっとおまけして五点にしておく。面白い本であることは間違いない。「もろともせず」なんておかしな日本語もあるけど。
四方田犬彦と伊藤比呂美
四方田犬彦の新刊『わたしの神聖なる女友だち』(集英社新書)が図書館に入ったので借りてきた。これは集英社のPR誌『青春と読書』に連載されていたもので、27人の、故人や老若含む「女友だち」をポルトレ式に描いたものだ。昔篠山紀信のヌード写真集で『激写・135人の女ともだち』(1979)というのがあったから、それを意識しているのかどうか。私はこの本が出ることを知って、自分は何人くらいの「女友だち」について書けるだろうと思ったら、まあ無理やりやれば20人くらいにはなると思った。
最初に出てくるのが佐伯順子で、何しろ箕面南小学校の先輩後輩で、東大比較文学の先輩後輩だが、小学校では在籍期間はかぶさっていないが、住んでいた場所が近かったという。もっとも在住した期間はこちらもずれている。死んだ芳賀先生がやっていた研究会でよく会っていて、泉鏡花についていずれ共著を出す話をしていたが、まだ実現していないという。
やはり大学院で私の先輩だった弥永徒史子のことも出てくるが、32歳で脳腫瘍で死んでしまった人で、私が大学院へ入ったころ四方田らが論文集を編纂していた。水原紫苑も出てくる。何しろ行動範囲も交友範囲も私の百倍くらい広い人だから、とても叶わない。
だが本書の白眉は伊藤比呂美に関する章で、ほかの人は故人はともかく今でも友達だが、伊藤比呂美は四方田と大学院で一緒だった西成彦と結婚して子供まで作ったがのち別れたという関係で、今では四方田と伊藤は決裂しているので、珍しいことになろう。
決裂の原因は、『青春と読書』掲載版によると、ある雑誌に伊藤が、四方田と女性演出家について事実無根のスキャンダルを書こうとしていて、見つけた西成彦が驚いて四方田に連絡し、掲載はされなかったというのだが、新書判ではここがぼかされていて、「ある卑劣な行為」を行い、四方田は強烈な不潔感を覚え、脳髄が嘔吐しそうだったと書かれている。
佐伯順子の項の最後には、彼女の「清潔感」という言葉がシメに使われていて、そこが面白いと、私に教えてくれた人は言っていた。四方田も『遊女の文化史』に触れつつ、全面的に優れた研究だとは言っていないが、まあ・・・いや、やめておこう。
そういえばこの本には、鷺沢萌に触れた章もあるが、四方田は対談で一度会い、その後一緒に大久保の韓国料理店へ行ったことがあるだけだという。私は比較的鷺沢萌は好きな作家だが、確か佐伯順子さんは鷺沢萌とあと一人女性との鼎談を東京メトロポリタンTVの深夜番組でしたことがあったはずである。
(小谷野敦)
「絶望の裁判所」半分まで読んだ感想
瀬木比呂志という、元裁判所の判事で、明大教授に転じた人が十年前に書いた『絶望の裁判所』(講談社現代新書)が売れているというので図書館から借りてきたが、妙に読みにくく、半分で挫折した。この人は、日本の裁判所は海外に比べてひどいとか、2000年以後ひどくなっていると言いたいらしいのだが、私は裁判所というのは人間主義的な発想で動いているのではなく、判例に基づいて非人間的な判断をするところで、それを適宜利用するしかないと思っているのと、海外の裁判所がそんなにいいとも思えないので、この著者はアメリカに留学したことがあるというが、それはアメリカの裁判所のいいところだけを見ているんだろうと思った。
それに、官僚の世界というのも冷酷非情な人間でないと務まらないと考えているので、この人はそれが合わなかったんだろう、とも思う。実際には大学教授の世界もそれなりに面倒くさいのだが、それでも裁判所よりはましだったということか。
あと、最近は日本でも最高裁がトランスジェンダーに関する変な判決を出したりしているが、この著者はどうも「民主的」らしいが、そういうことをどう考えているのか分からないので、これも「絶望の裁判所」のうちなのかどうか、気になった。
(小谷野敦)
生涯でいちばん不味かった食事
ふと思い出したのだが、大学一年から二年生のころ、私は綾瀬にある塾で教えていて、そこは東大生が教えるというのをウリにしていた。ただし男子だけだった。だがその中に一人だけ、東大生ではない人が、教えている学生の紹介で教えに来ていたらしい。ところがその人の教え方が行き当たりばったりで、塾の教頭みたいな30代の人から、「それは君が遊んでるんじゃないか」と言われ、いろいろ話した結果、その人は辞めることになった。
ということを、ある土曜日の夜、アルバイト学生十人くらいが集められて、塾を主宰する50代くらいのおじさんから説明を受けた。その東大生じゃない人を紹介した人は、何も知らなかったらしく、驚いて、その当人は別室にいるので、ボク連れてきます、と言い、おじさんは「いや、それはいいと思います」と制止し、それを聞いていたらしい当人が顔を出してその人に、いや、俺あっちにいるから(あとで話に来てくれれば)みたいなことを言った。
その説明が済んで、近くの大衆食堂からとったらしい、ご飯に、ただ玉葱を切って炒めただけのものがついている定食が配られてみなで食べたのだが、誰もほとんど口を利かず、実際よほど安くて不味い食事だったのだが、生涯であれほど不味い食事というのは食べたことがなかった。そのアルバイト学生の一人が、坂仁根という、今は弁護士になっている、当時は写真に夢中になっていて大学卒業後写真学校へ行った人である。
(小谷野敦)
90歳代で死んだ人(2024)
今年は私の目にとまった限りこれだけの人が90代で死んでいる。2023年には同じ基準で11人、今年は30人だったので、年々増えているということで、2025年は50人くらいになるかもしれない。
利根川裕(96
粟津則雄(96
宗田理(95
小山内美江子(94
鷹羽狩行 (93
久我美子 (93
白石かずこ (93
市村真一 (99
山田宗睦 (99
エドナ・オブライエン (93
湯浅譲二 (94
桂米丸(99
新川和江(95
荒井献(94
宇能鴻一郎(90
フレドリック・ジェイムソン(90
細江英公(91
斎藤栄(91
白井佳夫(92
大山のぶ代(90
高階秀爾 (92
上村淳之 (91
吉田蓑助 (91
谷川俊太郎 (92
猪熊葉子 (96
小中陽太郎(90
間宮芳生(95
久里洋二(96
渡辺恒雄(98
川田順造(90
子供のころ本当だと思っていたがあとでウソか間違いだと分かったもの
・オーソン・ウェルズが「宇宙戦争」をラジオで流したら本気にした人たちのパニックが起きた→都市伝説
・サブリミナル効果→実は大してないことが分かった。
・サピア・ウォーフの仮説、エスキモーには雪を表す言葉が何百とある→後者はウソ、前者もほぼ間違い
・ワープ航法→できないことが分かった。
・イエズス会士はいい人たち→日本侵略を考えていた。
・ゴジラのような巨大な怪獣は地球上では直立できない。
・宮澤賢治やゴッホのように天才芸術家は死んでから評価される→そうでもない。
・ポツダム宣言受諾後皇居の前で泣く人たちの写真→やらせ。
・大戦中、日本中で空襲があった→田舎ではなかった。
・戦後、食糧難で人々はヤミ米に頼った→田舎ではなかった。
・杉田玄白らが「ターヘル・アナトミア」を訳した時、「フルヘッヘンド」という言葉が分からずみなで知恵を集めて分かった→そんな言葉は原書にない。
・しゃっくりを止める方法で、お椀に水を入れて真ん中より向こう側の水を飲む→効かない。
・本を出すと印税ガッポガッポ→一部の売れてる作家だけ。
・タモリがニセ外国語を始めた→藤村有弘が先。
・プロレスの流血試合→自分やレフェリーがカミソリで切り、氷をあてて止血し、夜の部では同じところをまた切ったりする。
・「刑事コロンボ」は日本で翻訳が出ている→シナリオをもとに日本人がノベライズしたもの。
・「ドリトル先生」シリーズは井伏鱒二が訳している→石井桃子が訳したのに井伏が手を入れたもの。
・シェイクスピアは民衆演劇→王侯貴族の観るものだった。
・歌舞伎は民衆演劇→裕福な町人や武士の観るものだった。
・「ウルトラセブン」の「盗まれたウルトラアイ」など怪獣の出ないものは、シナリオ作家が上層部に抵抗して人間ドラマを書いた→怪獣の着ぐるみを作る予算がなかった。
・田中角栄は小学校卒→中央工学校(専門学校)を出ている。
・落語は江戸時代から明治にかけて作られた→原型はそうだが、今聴いている落語がまとまったのは昭和になってから。
・演歌は昔からある→1970年代に完成した。
・前近代、東北の人と九州の人は話が通じなかった→庶民はそうだが武士には武士の共通語があったから勝海舟と西郷隆盛は話ができた。
・アメリカ軍は京都に文化財が多いというのでほとんど空襲をしなかった→原爆投下予定地の一つだったのでその効果を見るために広島や新潟と同じく空襲しなかった。
・進化論を説明する、首の長いキリンと短いキリンの絵はミスリーディング。
・「を」は「うぉ」と発音する→「お」と発音する。
・日本人はユングが好き→村上春樹が世界中で売れたからユングは世界的に人気がある。
30日追加
・脳は10パーセントくらいしか使われていない→割と全部使っていた。
・舌を噛むと自殺できる→怪我はするが死ぬ要因はむしろ舌が喉に詰まることによるので、効果的な自殺法とはいえない。
・ヘレン・ケラーはサリバン先生の教えで、水に「ワーラー」という名前があることを知った→まだ三重苦になる前に水がワーラーだと教えられて覚えていたのを思い出しただけである。第一耳の聞こえないヘレン・ケラーにはサリバン先生が「ワーラー」と叫んでも聞こえない。
・オオカミに育てられた少年や少女は実在しない。
1日追加
・「十手」「十戒」「五十点」の読みは→「じって」「じっかい」「ごじってん」
最初に褒めてくれた人
その昔、私が阪大にいたころ、ある同僚ではない友人が、車谷長吉が白洲正子をいつも褒めるのは、車谷が無名のころ白洲が褒めてくれたからだという話をした。
そういう「最初に褒めた人への義理」というのは結構あって、筒井康隆は『ベトナム観光公社』を丸谷才一が褒めてくれたことがあるため、生涯丸谷に頭が上がらず、筒井らしくなく丸谷を褒め、擁護していた。金井美恵子は最初「愛の生活」で太宰治賞に応募したが、それは選考委員に石川淳がいたからで、作品は最終選考には残ったが受賞せず、佳作でも優秀作でもなかったが石川淳の熱い推薦のため『展望』に掲載され、金井はデビューしたため、金井はのちに石川淳が死んだあと、石川淳の小説はその後つまらないと思うようになったが、恩があるから言えなかったと言っていた。
西村賢太なら、初期に褒めてくれたのは久世光彦だが、これは早くに死んだのであまり気にせずに済んだ。実は最初から褒めていたわけではない石原慎太郎を、最初から褒めていたかのように言って親しくしていた。大江健三郎なら最初に取り上げてくれたのは平野謙だが、これは『みずからわが涙をぬぐいたまう日』の誤読書評事件以来、距離ができてしまったが、平野が死んだ時は追悼文を書いている。
谷崎潤一郎でさえ、初期に褒めてくれた永井荷風のことはかなり気に掛けていて、『つゆのあとさき』なんか絶賛したが、谷崎だけが褒めていたとも言われる。芥川龍之介を最初に褒めたのは、もちろん夏目漱石だし、川端康成を最初に褒めたかどうかはともかく、面倒を見てくれたのは菊池寛だ。泉鏡花を最初に認めたのは、まあ尾崎紅葉だろう。大正期になると、他の作家というより『中央公論』の滝田樗陰に認められるのが一番嬉しかったりもする。
戦後になると、新人賞や芥川賞があるから、特に誰が誰を、ということは少なくなるが、大岡昇平は小林秀雄の弟子筋だとか、深沢七郎は正宗白鳥が褒めたとか、小川国夫が自費出版で出した『アポロンの島』は大して売れなかったが、買った島尾敏雄が数年後に新聞で絶賛して名があがったとか、大庭みな子の『三匹の蟹』は江藤淳が絶賛したとか、笙野頼子の群像新人賞受賞は藤枝静男が泣いて頼んだからとか、新井素子を見出したのは星新一だとか、そういう逸話はある。田中康夫は、江藤淳が勘違いして絶賛したようなところがあった。フランス文学者だった福田和也を文藝評論家としてデビューさせたのも江藤だったが、これもややボタンのかけ違いめいたところがある。
川端康成は、北条民雄や岡本かの子を世に出した、名伯楽としての面もあり、大江健三郎は大江賞を創設して若い作家に授与していたが、特に大江が見出したということはなかった気がする。それに対して、丸谷才一は、辻原登や池澤夏樹など、目をかけた作家はどんどん賞をやって出世させた。多和田葉子や奥泉光、阿部和重などは、柄谷行人か「批評空間」グループが引き上げたような印象があるし、川上未映子は『早稲田文学』で渡部直己が見出したと自分で言っている。
(小谷野敦)