江藤淳と谷崎潤一郎

 中上健次が、谷崎潤一郎をすごく気にしていたことは知られている。「物語の豚」などと罵りつつ、崇敬していたというに近い。それが一番如実に出たのは、1988年の江藤淳との対談「文学の現在-1-今、言葉は生きているか」『文藝』だろう。これは赤坂の菊亭という料亭で行われているが、私はそんな高級料亭、行ったことがない。

 「「吉野葛」からあとの谷崎がすごいんですから」と言い、「僕だって谷崎くらいには」と口にして、江藤が「へえ、まあいいや」と嘲笑するので、「江藤さん、聞いて・・・」ととりすがっている。

 この様子だと江藤も谷崎を評価しているようだが、考えてみると江藤は谷崎について何もまとまったことを言っていない。江藤の批評というのは、自分が言いたいことがあって、それを言うために作家や作品をダシに使うもので、小林秀雄流なのだが、谷崎や川端はそれにうまくはまらなかったのである。

 しかし、谷崎や川端を文藝評論として論じるのは実はかなり難しいことで、谷崎なら中村光夫、野口武彦、河野多恵子などがやっているが、一番成功したのは河野の『谷崎文学と肯定の欲望』だろう。その河野にして、『細雪』は認めないという立場をとっていたし、時にマゾヒズムに焦点を当てることがあり、これはほかの人もやっているが、巷間有名な谷崎のフット・フェティシズムなるものは「富美子の足」と『瘋癲老人日記』にしか出てこないんじゃないか。

佐藤愛子の「ヤキが回った」

 私が高校一年の頃、母が佐藤愛子のエッセイ集『坊主の花かんざし』の1を買ってきて読んでいた。「『坊主の花かんざし』って何かしらねえ」と言うから、「土佐の高知の播磨屋橋で」あたりだろうと思ったが、何だかその時は面倒になって「漱石みたいなもんだろ」と言ったら、母はもちろん意味が分からず「あーら、漱石はとっても偉大な作家じゃない」と意味不明な会話になった。

 もっともその『坊主の花かんざし』をあとで読んでみたら、それほど面白くはなかった。佐藤愛子は直木賞の『戦いすんで日が暮れて』は読んだ。このタイトルは軍歌「戦友」の一節だが、田畑麦彦との離婚のゆくたてを書いたものだったと思う。あと父・佐藤紅緑を描いた『花はくれない』とか、少年ドラマの原作になった『マッティと大ちゃん』とか読んだ。津村節子もそうだが、当時は芥川賞や直木賞をとった作家が、少女小説など書いて儲けていたのだ。

 しかし佐藤愛子といえば、「朝日新聞」に1994年に連載されていたエッセイ「戦いやまず日は西に」である。これはもちろん、直木賞受賞作のタイトルをもじったものだ。その4月21日の号に、町中で福引をさせようとした青年から「おかあさん、おかあさん」と呼ばれて気持ちがほっこりした、と佐藤は書いた。すると三回くらいあとの5月12日号で、先日の寄稿について、「佐藤愛子もヤキが回った。それはキャッチセールスだ」という投書があった、と佐藤は書き、そんなことを言うなら私は若い時からヤキが回っているのであると書いた。世間知が欠落しているから、色んな人に欺されて生きてきたのだ、この連載のタイトルもそういう意味だ、もしキャッチセールスの男たちにどこかへ連れ込まれたなら、私はそこで戦っただろう。勝つか負けるかは分からないが、だから人生は面白いのである、と書いた。

 佐藤愛子の書いたものでは、これが一番面白かった。切り取っておいたはずだが今見つからない。しかし、31歳で阪大へ就職したばかりの私が、こんなエッセイに感動したために、戦ってばかりの人生になったのかという気も、しないではない。それは必ずしも面白かったとはいえない。

 ところでこの「戦いやまず日は西に」は、連載が終わったあと、朝日新聞社ではなく海竜社から単行本になり、集英社文庫になった。それはきっと「朝日新聞」との戦いがあったのだろうと思う。そういうところがいい。

(小谷野敦)

樋口覚という人

伊藤整『日本文壇史』講談社文芸文庫の第一巻には、紅野敏郎の解説と、樋口覚の「作家案内」というエッセイがついている。この文芸文庫は、このように二つの解説を載せることがあるが、私はむしろ年譜をつけてほしいと思っている。樋口覚はこの文庫が出た1994年に47歳で、それより先『一九四六年の大岡昇平』で平林たい子文学賞をとっている。『三絃の誘惑』で三島賞をとるのはこの二年後になるが、私はその時『三絃の誘惑』を読んで、多くの日本語の間違いを見出して仰天したことがある。

 さてこの「作家案内」は、吉本隆明が伊藤整を「人間は色と欲でできている」と思い込んでいるところがダメだと言ったというのを紹介して、「『マチウ書試論』の作者として、これは当然の言である」とくる。まあ何となく分かることは分かるのだが、その話はよそでやってくれという気持ちもないではない。

 さらに、谷崎潤一郎が1965年7月に死んだ夜、NHKテレビで伊藤と三島由紀夫が谷崎邸の庭で対談をしたという話に移り、伊藤は谷崎を初めて評価したと言い出す。死後に出た『谷崎潤一郎の文学』のことなのだが、「この本は、無思想で、ただ耽美派ないしは変態作家といわれて評価されなかった谷崎文学の定説」を覆したというのだが、帝国藝術院ができると第一回に会員に選ばれ、『文章読本』『現代語訳源氏物語』をベストセラーにし、戦後は文化勲章を受章した谷崎を、評価されなかったとは何をもって言うのか。「無思想」というのは要するに左翼陣営からの批判であり、すでに佐藤春夫がそれには答えている。

 文庫解説というのは、初心者への案内なのだから、樋口のような思い込みが強く偏りのある人に書かせるのはどうかと思わずにはいられないのである。

(小谷野敦)

 

宇佐見りんとドストエフスキー

『ユリイカ』の「総特集 中上健次」に、宇佐見りんがエッセイを寄せていた。二年くらい前に大学を卒業して、大学卒が行くようなところではない接客業に就職したというが、発達障害などを抱えて苦労しているようだ。

 その冒頭に、漱石の『明暗』に出てくる小林という印象的な男のセリフの部分が引用されている。小林は、ドストエフスキーの偉大さは知識人には分からないと言って涙を流す男で、誰かモデルがいるような気がする。

露西亜の小説、ことにドストエヴスキの小説を読んだものは必ず知ってるはずだ。いかに人間が下賤げせんであろうとも、またいかに無教育であろうとも、時としてその人の口から、涙がこぼれるほどありがたい、そうして少しも取りつくろわない、至純至精の感情が、泉のように流れ出して来る事を誰でも知ってるはずだ。君はあれを虚偽と思うか」

 と言うのだが、私は昔からこのセリフに違和感を覚えてきた。なぜなら私たち戦後の人間は「男はつらいよ」的な(ないしは共産党的な)感覚によって、下層の人間や無教育な人間のほうが人間が純粋であるという感覚を持っているから、それをあたかも驚くべきことのように言う小林のセリフは奇異に聞こえるのだ。

 漱石の時代には、もちろんまだ山田洋次的・共産党的な感覚は共有されてはいないが、では、教育のある人間・富裕層の人間がそんなにありがたいことを言うかといえば、「小僧の神様」などその感じではあろうが、泉鏡花の作品などを読めば、ここで小林が言うような、下層の人間のほうが純粋であるという感覚はやはりあったのではないか。とすると漱石がここでドストエフスキーを持ち出す必要はないのではないか。

 ところで同じ『ユリイカ』には柄谷行人もエッセイを書いているが、柄谷はもう文学について書くことはないと断ったのだが押して頼まれて書いたという。だが、これを読むと、私の邪推だが、柄谷はもはや中上健次をそれほどの作家だとは思ってはいないのだろうということが分かる。ところで柄谷はずっと前に江藤淳について、江藤は、言葉が人を救わないことを知っていると書いていた。『漱石とアーサー王伝説』が出たころだから1976年くらいの『解釈と鑑賞』だが、だから江藤はカネをやったという。私も、言葉は一瞬だけ人を救うが、本当に人を救うのはカネや薬や仕事だと思う。だから小林の言うことはますます奇妙に感じられてならない。

 ところで私も、中上がそれほどの作家だとは思っていない。宇佐見りんは「お嬢さんに中上が分かるか」と言われ、反撥しているが、金持ちの父親から仕送りを受けていた中上こそ「お坊ちゃん」だろう。

(小谷野敦)

「ル・プティ・プランス」と周辺の人びと

日本では内藤濯が長いこと独占してきた『星の王子さま』の題名で知られるサン=テグジュペリの小説は、大学生の時、「児童文学を読む会」の読書会で読んだ。リポーター(本を提案し、読書会をリードする役)となったのは笠浦友愛さんだったが、私にはこの小説だか童話だかは、かなりピンと来なかった。ほかにもそういう意見の人がいたが、笠浦さんは、スルメのように噛めば噛むほど味が出る、と言っていた。

 のちに修士論文を書いていた時、ユング派のマリー=ルイーゼ・フォン=フランツの『永遠の少年』を読んだが、これがこの「プティ・プランス」を題材にしたものだったが、私はひどく興奮して修論に取り入れたので、指導教官の渡邊守章先生も『永遠の少年』の翻訳を読んだが、「テグジュペリ」などと書いたところがあり、これはひどいねと言っていた。

 2007年にサン=テグジュペリの著作権が切れたというので、多くの「新訳」が出たが、この時、やはり東大駒場のフランス語教授だった加藤晴久が『憂い顔の『星の王子さま』』という本を出しているのを今回知って読んでみた。主として、内藤濯の訳がひどいということを言っているのだが、むしろその当時、倉橋由美子とか斎藤美奈子といった、フランス語ができるわけでもない人が実に「自分だけが知っている」みたいな口調で解説しているのをこき下ろしているのが、溜飲が下がった。

 しかしその後、フランスのイルゴイエンヌが提唱したモラル・ハラスメント概念を、東大教授の安冨歩がこの小説で解説したり、どうもこの小説は個々人都合のいいように解釈できるものらしい。

 日本で流行したのも、当時ミッチー・ブームというのがあり、皇太子妃の美智子が愛読していると言ったかららしい。内藤濯は猪熊葉子や川端らと一緒に美智子を交えた会合を開いていたが、美智子目当てに集まる人が多くなって嫌になってやめてしまったという。私には息子の内藤初穂が『星の王子の影とかたちと』で描き出した内藤濯という人の肖像は、さほど好ましいものではない。ただ加藤晴久が言うようにちゃんと翻訳したらいい作品かというとそれも疑わしい。

篠田節子『青の純度』(ラッセン関係)の真相

少し前に、原田裕規の書評がもとで話題になった篠田節子の『青の純度』(集英社)が図書館で借りられたので、読んでみて、驚いた。

 原田は、これが明らかにクリスチャン・ラッセンをモデルにしているのに、なぜ自分が出したラッセンの研究書が参考文献から注意深く消されているのかを問題にし、集英社と篠田自身が返答したが、世間では疑惑がくすぶっていた。

 だが、読んでみれば理由はまったく明らかで、ラッセンから訴えられることを恐れたからである。筋は、有坂真由子というアートジャーナリストが、一時は一世を風靡したマリンアートの画家、ジャンピエール・ヴァレーズが消えてしまったことについて、ハワイへ渡って調査をするうちに、ヴァレーズの新倉海玲(みれ)という日本人の妻に会い、ヴァレーズが八年前にダイビング中の事故で死に、その死体はイルカに喰われて残骸しか残らなかったこと、のみならずヴァレーズは偽画家で、実は日系のササキ・グラントという男がゴーストライターだったということ、さらにもう偽画家を続けるのは嫌だとヴァレーズが言い出したため、大麻を盛られて事故に見せかけて殺されたということを知るというものだ。

 原田の書評当時から、これはラッセンに訴えられるのを恐れたのではないかという声はあったのだが、彼らはネタばれを恐れて筋を書かなかったから表に出なかった。集英社が、書評を書く前に連絡してくれれば、と言ったのは、そうすれば裏でその事情を話したのにという意味だった。だが一度書評が出てしまったらおしまいだ。また、原田が裏でそれを言われても、表には出しにくい。

 仮にラッセンに訴えられた場合、参考文献にラッセンの名があると不利になるから、あえて削除したのである。ここで、原田がなぜそのことに気づかなかったのかが不思議だが、やはり美術の人なので、小説におけるモデル問題の面倒さを知らなかったからだと思う。

 さらに原田は、この小説の出来を礼讃していたが、それはまあ皮肉かもしれないが、実在の人物を思わせる画家を出しておいて、死んだだのゴーストライターがいただのという筋にするのは、小説として極めて筋が悪い。先日、帚木蓬生が実在の人物を死なせた件で回収騒ぎがあったが、篠田のこれもそれに劣らずひどいと思う。外国人だから気づかれないと思ったのかもしれず、下手をすると比較文学の研究材料になりそうだ。もっとも篠田は以前から、実在の人物をモデルにする手つきに危うさがあった。

(小谷野敦)

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ヤクザと間違われる

私の高校一年の時の担任は、大澤という体育教師だったが、この人が、飲食店でヤクザと間違われたことがあると自分で言っていた。白い背広を着て入ろうとしたら、店員が、「ちょっ、ちょっ、ちょっとお待ちください」と制止したのだそうだ。実際、体つきは大きいし、顔は怖くはないのだがかえってそれもん感を出していただろうとみな思ったが、生徒たちは、自分はヤクザと間違われるような担任を持っているのか、といくらか悲しい気分で受け止めていたように記憶する。

 あれは阪大へ行く前だったか、母と三越だかへ行って背広を買おうとした時、店員が出してきたものに私がぼそりと「なんだか堅気の人が着るみたいだな」と言ったら店員が急に色合いの違うものを出してきたことがあった。母は早急にその場を立ち去り、「あんたが堅気なんて言うからヤクザだと思われてそういうのを出したのよ」と言われたのだが、私は背広というのが嫌いで、学者というのは堅気の職業だと思っていなかったからそう言ったのだが、そうとられるとは思わなかった。

 あと最近、といっても十年くらい前に、近所のファミマから家へ帰ろうと自転車を走らせていて、左手から飛び出してきた柄の悪いアンチャンと言い争いになった時に、「お前ヤクザだろ」と言われたことがあるが、これは別に本気で言ったんじゃないだろう。これは小説に書いたが、なんて題だったかな。