竹内信夫先生のこと

竹内信夫先生(1945-2026)が2月3日に死去したと連絡があった。81歳になったばかりだった。ルソーの本でも書いたが竹内先生は私が大学一年の時に第三外国語でフランス語を習った人である。もっとも二学期からル・クレジオを読み始めたので挫折した。その後比較文学の大学院へ行ったら後継者扱いされていて、2000年から二年間主任教授をやって、2007年に定年退任して香川県へ帰り、ベルクソンの全訳を試みていたが未完に終わった。

 私の『なぜ悪人を殺してはいけないのか』という論文集がある(新曜社、2006)。表題は死刑廃止論への批判なのだが、一冊分の分量がなかったので、そのあとにいくつか短文が載っていて、最後に「カナダ留学実記」というのが載っている。これは、ブリティッシュ・コロンビア大学留学中に、アメリカ人教師二人と険悪な関係になり、博士号執筆資格試験に落ちて帰国するまでを描いたものだが、実はこれにはちょっとした後日談があり、そこに竹内先生が出てくるのである。そこは書いたのだが、迷ったあげく削除した。旧式のワープロのフロッピーに入っているはずだが、もう取り出せないので、思い出して書いてみる。
 何しろ博士号はとれないし、その他行きづらい事情があって、一九九二年七月に帰国したあと、私は東大比較文学の研究室へ足を向けるのが嫌だった。だが秋ごろになり、よんどころない事情で出向いたが、髭を生やしていたのはちょっと変装のつもりでもあったか。
 だが、駒場東大前の駅の、改札を出たところで、竹内先生に会ってしまった。
 「ああ君か。髭を生やしているんで分からなかった」
 と言ったあと、先生は、
 「あとで研究室へいらっしゃい」
 と、いくぶん暗い顔つきで言った。
 私は修士論文で『南総里見八犬伝』と英米文学の比較というのを書いて、芳賀、平川、行方といった先生方からは好評を得たが、今考えるとあれはまともな学問ではない、若書きの文藝評論であった。そのため昨年、まともだと思えるところを抜き出して『謎解き『八犬伝』』(河出新書)を出したのである。その修士論文は九○年に『八犬伝綺想』として福武書店から刊行していたが、さしたる反響は得られなかった。
 当時の東大比較はちょっと特殊で、本来の学問の規矩から外れたものも認めてしまうところがあり、佐伯順子の『遊女の文化史』などはその最たる成功例だったろう。竹内先生は、それを苦々しく思っているということが、あとで分かった。中でも凄かったのが伊東俊太郎で、「正しくてもつまらない論文より、間違っていても面白い論文のほうがいい」と放言したことがある。おそらく伊東は理系出身なので、文系の学問というものをまともな学問だと思っていなかったのだろう。現に伊東が『比較文明と日本』(1990)という本に書いた比較文化論は、平川祐弘から「エッセイでしかない」と裁断されていた。といっても、それ以外の多くの学生は、もっとちゃんとした実証的研究をしていた。
 竹内先生の研究室へ行き、どういう風に話が始まったのかは覚えていないが、結局は、私が書いたものが学術論文か文藝評論かというところに帰着した。もっとも、この議論はカナダですでに鶴田欣也先生とやっていたことだったが、改めて私は「文藝評論だからといっていい加減でいいということはないと思います」と反論し、先生は「そりゃそうだ、だが学問というのは正確なんだよ」というようなことを言った。
 もっとも、これより前のことだが、竹内先生は、研究するなら一流の文学者をやれ、と言っていて、そもそも一流か二流かといった判断は学問的にはできないことで、文藝評論的なものではないか、矛盾だ、と言っている人もいて、私もその通りだと思った。実はノースロップ・フライは『批評の解剖』で、学問はミルトンが偉いとかそういうことを言うものではないと言いつつ、自分はシェイクスピアをやっているのは、偉いと思っているからだという矛盾を犯している。
 少し悪い雰囲気で研究室を去り、私は惨めな気分で家へ帰った。それから何年にもわたって、私は、学問とは何かということを考え続けた。九四年に大阪大学へ赴任し、そこで博士論文を書いて、精神を病み、夜中に表へ飛び出して延々と歩いたりした。
 竹内先生は南方熊楠修論を書いた松居竜五のことは評価していて、あとで東大へ呼び戻すつもりだったらしいが、うまく行かなかったのは、英国へ留学した松居が博士号をとってこなかったからかもしれない。
 そういえば、二〇〇一年から私は駒場で英語を教え始めて、お昼どきになると比較研究室へ行って、生協で買ってきたいなり寿司などを食べるのが常だったが、ある時竹内先生が来て、「いなり好きなの?」と言ったことがあった。
 最終的に私は、ポストモダンはもとより、精神分析もテキスト論もユングも学問ではないという立場に到達した。もっともそのことは、これらを信奉する学者たちとの決別や軋轢を生むことになった。今では下手をすると、書誌学と伝記研究くらいしか学問ではない、くらいに思うことがある。
 福田和也について、最初の『奇妙な廃墟』だけが学問で、あとはアジビラだとスガ秀実が言っていたが、実際はエドワード・サイードが博士論文以降書いた『オリエンタリズム』だってアジビラだし、あの当時流行したポスコロとかカルスタの論文のほとんどがアジビラである。
 話を戻すと、竹内先生は、マラルメ専門のフランス文学の俊英として駒場へ来たのに、芳賀先生に気に入られて後継者にされ、ずいぶん苦しんで比較に合わせようとしていた。空海をやったのもそうだし、ほかにも色々あった。2007年に60歳で定年前に駒場を辞めて郷里の香川県へ引っ込んだが、2015年の『比較文学研究』には、自分は東大比較文学会から退会するという文章を寄せて、最後に「さようなら」と書いてあった。

小谷野敦

アランと反ユダヤ主義

大岡昇平の『小林秀雄』という、2018年に中公文庫でオリジナル編纂されたエッセイ集に、山城むつみの解説がついている。山城はここで、「エミール・オーギュスト・シャルチエ」の「アラン」について書いている。アランは第一次大戦に従軍したあと、「反ファシズム知識人監視委員会」の一員となったが、アランはその絶対平和主義の立場から、ヒトラーと戦うことをよしとせず、戦後、ヴィシー派とか敗北主義者と呼ばれて苦しみつつ81歳で死んだとあり、それが微妙に小林秀雄批判になっている。

 しかしアランは、この山城の解説が書かれた2018年に公刊された日記で、自分はドイツに勝って欲しいと思っているという反ユダヤ主義の思想を明らかにしていることが分かったという。山城はおそらくそのことを知らずに書いたのだと思う。

小谷野敦

大江健三郎の小説では

そういえば、大江健三郎の小説では何を読んだらいいかのリストを作っていなかったので、ここで作る。

「奇妙な仕事」

「人間の羊」

「空の怪物アグイー」

『個人的な体験』

「性的人間」

「セヴンティーン」「政治少年死す」

万延元年のフットボール

『みずからわが涙をぬぐいたまう日』

同時代ゲーム

筒井康隆はいかに独特か」(『筒井康隆全集』)

「静かな生活」

『キルプの軍団』

『取り替え子(チェンジリング)』

『憂い顔の童子

『さようなら、私の本よ!』

『水死』

 

孫武と女官たち

横山光輝の『史記』を読んでいたら、孫子のうちの一人、孫武の逸話があった。孫呉が新しい君主に仕えて、自分のやり方を見せるため、女官たちを集めて、太鼓を叩いて、右と言ったら右を向き、左と言ったら左を向けと命じた。だが実際にそれをやると、女官たちは笑うだけだった。孫武は主君に謝って、私の教え方が悪かったと言ってもう一度説明し、繰り返したが、女官たちは笑うだけだった。そこで孫武は女官の長二人を斬り殺した。そのためほかの女官たちは震え上がって、それからは右と言えば右を向くようになった。

 私は『史記』をちゃんと読んでいないのだが、この話はいかにも無気味である。一度も訓練を受けていない女官が、軍事的説明を受けて笑うだけだったというのは、分かるようだが、日本の歴史でこういう話を読んだことがない。そして、なぜ女官がただ笑うだけだったか、もちろん原文には説明がないし、マンガにもない。どうにも無気味である、と言うほかない。

奥野健男の『金閣寺』論

この数日、奥野健男の『三島由紀夫伝説』(新潮文庫)を読んでいた。これは1993年に新潮社から刊行された大冊で、藝術選奨文部大臣賞を受賞している。奥野は97年に71歳で死去し、この文庫版は奥野の意向を体して、森孝雅(三輪太郎)が三分の二に圧縮したものだというが、私は元来三島が嫌いで、戯曲、通俗小説、文藝評論においてはその才能は認めるが、純文学小説はまったく受け付けないので奥野のこれも読んでいなかったのだが、佐伯彰一先生の本を読んでいてふと気になって図書館から借りてきたのである。

 読んでいて、三島と親しいと思っていた奥野が、存外冷淡であることに気づき、『仮面の告白』を高く評価している点と、村松剛が頑強に認めなかった三島の同性愛をあっさり認めていることに驚いていると、『金閣寺』の評価へ来て、奥野が読んで感じたことが、私が感じたことと同じなのに驚いた。

 私は『金閣寺』に、まったく共感できないし感心もできない。なんで金閣寺が「美」の象徴で、それを焼くことに何の意味があるのか分からない。大学一年の時の同級生も、「あれ(金閣寺)を読んだら(あまりにくだらなくて、三島を読むのは)やめるよ」と言っていたくらいだが、奥野もそう感じたという。

「ぼくが『金閣寺』にどうしても共感できないのは、ぼくが現実の金閣を少しも美しいと思っておらず、読みながらたえず貧弱な建物のイメージ、つまりにせの美の象徴が眼前に去来するためであるかも知れない。」

 しかし『金閣寺』は絶賛され、読売文学賞をとり、柳美里が『ゴールドラッシュ』を出した時も、新潮社的に『金閣寺』と並べて宣伝されたが、私には『金閣寺』と並べられただけでつまらない小説のような気がしてしまう。あとで水上勉が『金閣炎上』を書いたが、これは犯人の林養賢を水上が知っていたからだろう。だが酒井順子は『金閣の燃やし方』などというのを書く。これは読んだが何が言いたいのかまったく分からなかった。そして内海聡の『金閣を焼かなければならぬ』が大佛次郎賞をとる。この著者は精神科医で、林養賢を統合失調症だと言っている。奥野もそう言っており、それと同化した三島も気が狂っていったのではないかと書いている。内海の本は、なのにどういうわけか『金閣寺』は名作だというところへ行く理路がまったく理解できなかった。

 もっとも奥野も、そのあとで、金閣寺は三島が嫌った「女」の象徴で、祖母と母を否定したのだ、などと意味づけはしているが、私にはそういう操作がうまく行っているとも思えない。三島は通俗小説には才気を示したが、『金閣寺』を頂点とする純文学小説はすべて愚作だとすら私には思える。

 もっとも奥野も、世評は芳しくないこと夥しかった『鏡子の家』や『春の雪』も褒めているし、『金閣寺』のところと、三島の「女嫌い」のところ、あと最後になんで「天皇陛下万歳」だったのか、と疑問を呈するところに、冷静な筆致を感じた。

小谷野敦

大岡昇平『コルシカ紀行』

私は大岡昇平が好きなので、もう30年くらい前に、何か一冊書こうかと思ったが、『武蔵野夫人』が面白くないし、『花影』も、高見順が言った通り、大岡の家庭で起きたこととかを省いているため肝心のところがない。それに『レイテ戦記』を読んでいない。戦記ものが苦手なので、それで大岡について書くのも無理があろうし、だいたい大岡昇平について一冊書いても、商業的に出してくれるところなどない(か、無印税になる)。

 今度『コルシカ紀行』(中公新書、1972)というのを読んでみた。私は日本に、プロスペル・メリメについての本が一冊もないのをひどいと思って、英語の伝記を見ながら書こうかと思ったこともあるが、それはいくら何でもだし、これも売れないから出してもらえないのでやらない。大岡にはメリメについて書いた短編を集めた『凍った炎』というのがあるが、これが日本では唯一メリメについて書かれた本といえるかもしれない。さてコルシカ紀行というのは、71年に62歳になる大岡がヘルシンキで講演をしたあと、ドイツ、フランスなどヨーロッパに五週間滞在した時の紀行だが、ヘルシンキで足を痛めて、こむら返りが頻繁に起こるようになり、満足な紀行はできなかったが、『海』にナポレオンのことなどを含めた紀行文を連載し、別途『海』に載せた「島」というコルシカ素描を合わせたもので、本としての出来は良くない。

 しかし後半、特にコルシカ島とは関係ないサン・テグジュペリの話になると、ジュール・ロアの『サン・テグジュペリの愛と死』の翻訳を読みながら、筆が飛躍し始める。大岡は大人向けのサン・テグジュペリを愛読していたが、戦後「児童文学研究家を称する皇太子妃が」『小さな王子』(星の王子)のことを言うと50年代後半の日本で流行った、と書いたり、サン・テクスが自分が書いたものによって戦場へ赴き死んだ若者がいるのではないかと書いたのを、サンに職業的物書きとしての意識がなかったからで、職業作家は自分の書いたものに責任をとらないものだと痛烈な皮肉を書いたりしている。

 この時あたかも天皇が欧米訪問をしており、ニクソンと対談しているのだが、投石する者がいたとかで大岡が「何という国辱。天皇を外へ出すべきではない」としているのは、やはり大岡の天皇に対する態度が両義的であるのを感ぜざるをえない。

 また『人間の土地』はむしろ随筆なのだが、フランス・アカデミーはこれを小説と認めて小説大賞を授与した、と書いて「小説は本格小説でなければならないとか、私小説は日本独特の随筆であるとか、堅苦しいことをいっていたのは、日本の文壇とアメリカの大学の創作科の教師だけだった」とあるのは、アメリカの大学でそういう現象があったのかと(大岡はこれより前にアメリカに留学している)はっとさせられるものがあった。

小谷野敦

言わないようにしよう

浅羽通明という人が、2007年の著書でだったか、もう天皇制批判を強く言うのはやめる、と宣言したことがあって、あとで見た私は、「保身」を感じて、ちゃんと言うべきじゃないかと言ったことがある。

 昨年、東京科学大学(旧東工大)で比較文学会があり、最後に「科学と文学」みたいなワークショップがあって、田村義也が司会をし、小松史生子、信岡朝子、伊藤亜紗の三人が発表をした。うち後輩で面識があるのは田村と信岡さんで、信岡さんは本の書評をしたこともある。伊藤亜紗だけが非会員で、学会運営の君野隆久が参加を望んだという。

 この時、伊藤亜紗だけはレジュメを配布せず、パワポは使ったが見ているこちらには何も残らないようにしたから、記憶で言うと、「科学は社会的構築物だ」と言ったので、あっ構築主義だ、とそれを学問として認めていない私は驚いたのだが、あとで自由に質問することは認められていなかった。さらに伊藤は「それをあまり強く言わないようにしたい」と言ったので、こちらは、もちろんあまり言わないでほしいと思ったのだが、浅羽の時とは逆になったのが変な感じがした。しかし理系の大学の教授をしていて「科学は社会的構築物だ」と言うのは驚きであった。

小谷野敦