伊藤整『若き日の芸術家の肖像』→『若い詩人の肖像』
外出しない権利
國分功一郎の新潮新書『目的への抵抗』は、高校生を相手とした講義録で二つ講演が入っていた。どちらもコロナ騒動に関するもので、前者はジョルジュ・アガンベンが、政府の外出規制に抗議して炎上したという話から、アガンベンの「保守主義」を國分が擁護するといった話だった。
あの時も感じたが「生命を守るより大切なことがある」というのは、西部邁がよく言っていたことで、保守主義というより右翼的な感じがするが、國分が強調している「異動する権利」については、私は当時、「外出しない権利」が保証されたと感じていたということを思った。私は出不精な人間で、カナダにいた時、立命館の学生の一人から、あなたはなぜ自分の部屋に籠ってばかりいるのかと非難されたこともある。いや行きたいところがあれば行くのだが、コロナのころから収入が激減して、そもそも電車賃だってタダではないのだし、どこかへ行けばカネがかかるから、こりゃあどこへも行かないのに言い訳せずにすむようになっていいやと思った。
もしこれが、客商売の人が客が来なくなって困るという話なら、それは困るねと私も思うのだが、アガンベンや國分の議論はそういうことではないらしい。私だって自宅以外の場所に監禁されたら嫌に決まっているが、自宅にいろと言われても大して困りはしない。もちろん、仕事がなくなったら困るのだが、それは私の場合、外出とは関係ないのである。
(小谷野敦)
齋藤塔子『傷の声』アマゾンに書けないレビュー
人に教えられて、齋藤塔子『傷の声 絡まった糸をほどこうとした人の物語』(シリーズケアをひらく、医学書院、2024年11月)を読んだが、まったく頭が混乱してしまって、点数がつけられないのでアマゾンに投稿できない。
著者は2024年5月に、おそらく自殺している。享年26,と書いてあるが、これは数え年で、1999年生まれだから25歳だろう。多分首都圏に生まれ、二歳上の兄がいる。東大医学部を出て看護師をしていたが子供の時の経験から来る複雑性PTSDと診断され、リストカットを繰り返し、精神科に治療入院させられ拘束された。
著者の父と母は多分同い年で、だいたい1967年くらいの生まれと思われる。私の五つ下になる。父と母は高校で知り合ったらしく、父は多分東大を出て会社勤めをし、高給取りだったようだが、母は音大を出て、はじめ自宅でピアノを教えていたが、そのうちやめたらしい。この父は読書家で、家には多くの本があったというが、それが江國香織や伊集院静といった小説だったという。
著者も兄も中高一貫の私立校へ行くほど家は裕福で、こんな情況でも東大へストレートで行くほど頭が良く、美人だった(遺影が載っている)。著者が精神を病んだ理由は、父の暴言だという。何しろ変わり者で、当初、子供を明治時代のように育てたいと言い、「父上」と呼ばせようとしたという。母や子供たちを怒鳴りつけることが多く、母や著者は疲弊した。最後は家庭内別居状態になり、高校時代、経済的に困った著者は「パパ活」をしたが、来たのが70代のおじいさんで激しい嫌悪を感じたという。高校時代に学校で希死念慮を訴えたらスクールカウンセラーが話を聞いてくれ、そこからのち看護師を目ざしたという。
ところがこの手記を書いた後、名古屋あたりにいるのだろうか、兄に話を聞きに行くと、兄にはそれほど父が暴君だとは思えていなかったらしい。著者は、母から父が暴君だと吹き込まれ、洗脳されていたのか、自分の被害妄想だったのかと悩む。当時両親は離婚裁判をやっていて、著者が、父は母にDVをしていた、と証言したために母に軍配があがるが、著者はなぜか激怒している父を想像して罪悪感におののくが、父に電話すると父はそれほどでもなく、しかし著者は三年前に拘禁されたことで人権を侵害されたと感じ、人権戦士みたいな文章でしめくくる。これが4月のことで、翌月自殺したことになる。そして「おわりに」には不思議な文言があり「この本を読むことがないであろう私のパートナーは」「遠いところで噂にでも聞いてください」などと書いてあり、?となる。本の巻頭には夫の、妻死後の文章が置かれていて「夫・齋藤航貴」とある。いったい「読むことがないであろう」とはどういうことか。(最初に「家族へ」という手紙がついており「この本を一生読まないでください」といったことが書いてある。私は両親や兄のことだと思ったが夫も含まれていたのだ)
それに「極悪人」だと思っていた父のDVを証言したことで、なんで罪悪感を感じるのか。この手記は全体に意味不明なところがある。
真ん中へんに、母へのインタビューを録音したものもあるのだが、そこでは重要なことが書かれていない。「なぜ結婚したのか、結婚前から乱暴な人だと思わなかったのか」である。父はアル中だったらしいが、著者も病気のせいもあって酒を浴びるほど飲むらしい。そしてもう一つ、著者がなぜそんなに早く結婚したのか、また夫は妻の病気を知って、結婚を躊躇しなかったのか。それどころか、まだ20代であろう兄も結婚している。両親の仲が悪かった人は結婚しないとよく言われるが、この一家はなんだか知らないがやたらと早めに結婚する。顔がいいからだろうか。何だか私にはこの著者の夫が、著者の美貌に迷って結婚してしまったようにすら見える。
アマゾンレビューでは感動的な本だと書いている人もいるが、私には一種
の奇書にしか思えない。読んでいていらいらする、と私に教えてくれた人も言っていた。恐ろしいのは文章に乱れがなく、プロのようにうまいことで、もしかするとこの著者は天才と狂気は紙一重の人なんではないか、またそれは多量の小説を読んだ父の遺伝なのではないかとすら思う。
東浩紀『訂正可能性の哲学』アマゾンレビュー
2点
東浩紀という人の本は、あまり読まない。これも二冊目だろうか。結構変な書物で、前半はヴィトゲンシュタインやクリプキ、アーレントなど哲学者の論をあれこれ引用して、「家族」と「訂正」について語っている。あれ?と思ったのは79pの「そして人は大人になる。大人になるとは、子の立場から親の立場に移行するということである。たとえ生物学的に子どもをつくらず、ずっと独り暮らしだったとしても、社会人として生きているかぎり、組織をつくったり後輩を育てたり、なんらかの家族的な人間関係に入り、それを運営する立場にならざるをえなくなる」。いや、私は生物学的に親になっていないし妻はいるが、組織なんか作ってはいないし後輩を育ててもいない、というか世間にはそんなことをしない人だってたくさんいるし、仮にそういうことをしたとしても、それを「家族」とは言わないだろう。それに著者は、「家族は誤配で生まれ、訂正可能性によって持続する。それがぼくの考えだ」(88p)と書いているが、その「訂正」とは何か。仮に、子供を産んだのが間違いだったと思ったら訂正するのか。まさかそうではなかろう。ならばそこをちゃんと説明しなければならないはずだが、この本にはその説明がなく、ただ「人間は訂正できる」みたいに理解されている。
著者はどういうわけか、京都へ梅原猛を訪ねたことがあるが、梅原猛こそ、『水底の歌』の決定的な誤りを益田勝実に指摘されつつ、半世紀にわたって頑として訂正せず、しかも益田を罵ることまでした人間ではないか。
第二部ではルソーについて書いてあるが、これは今度出した本に詳しく書いたが、著者のルソー理解は鹿島茂が「オタクやニート」と言ったのを「コミュ障やメンヘラ」と言い換えただけの杜撰なもので、ヴォルテールやウォルポールの悪質な悪戯や、当時のフランス知識人のひねくれた神経について理解していない。また『社会契約論』を重視しているようだが、現にルソーは逮捕状を出されており、当時率直な意見を公刊できたはずはなく、公刊著作をもとにルソーを論じきることはできない。また「一般意思」という言葉に、この著者はこだわり過ぎで、ルソーは決してカントのような学者ではないので、理路整然と議論を展開したわけではない。
この本は2023年に出ているが、その当時すでにLGBT思想(トランスジェンダリズム)が世界中を混乱の渦に巻き込んでいたのだが、その源泉となったジュディス・バトラーの思想はフーコーが淵源だと説く人もいる。第一部の末尾で哲学の価値を縷々解説する著者は、そこのところをどう考えているのか、何も言っていないのは保身ででもあろうか。
(小谷野敦)
新刊です「ルソーとその妻テレーズ」あとがきを公開
「ルソーとその妻テレーズ」あとがき
二〇一七年七月、私は三十五年間、一日も中断することなく喫ってきたタバコをやめた。そのあとの壮絶な苦しみは「幻肢痛」(『蛍日和』幻戯書房)に書いてあるが、そこにも少し書いたように、ちょうど同じころから、ものを書く仕事が激減した。それは断煙とは無論関係なく、激しい出版不況のせいである。それはそうで、インターネットでただの文章や動画が見放題の時代に、わざわざカネを出して文章を読もうなどという人が前と同じようにいるはずがない。それに、政治や経済ならともかく、文学の、しかも娯楽小説ではない純文学の実作や評論など、世間はまったく求めていない。現にそのころから、科研費つきの研究書ではない、作家の固有名詞が入った一般向けの文学の本というのは出なくなった。漱石や宮沢賢治や太宰治など一握りの人気作家や、政治的な思惑込みの三島や大江健三郎だけが、固有名詞入りでも出せるようになった。スタンダールやバルザックやディケンズなどの名前が入った本などほとんど出なくなり、「教養のための」といった題名を持つハンディな本しか出ないようになった。さもなくば、「羅生門」とか「山月記」とか、高校の国語教科書で知られている作品についての本が出る程度か。
二〇一九年は最悪な年で、断煙によるうつ状態に加えて、妻が交通事故にあい、軽傷で済んだのは幸いだったが、仕事はますますなくなった。あちらから依頼がなければ、売り込むしかないが、私が立てた一般向けの企画は次々と却下された。単に、売れないと見なされたからで、そして実際に出しても売れはしない。私は「絶望」という言葉は使いたくないのだが、この年の夏は本当に絶望した。さらに血便が出て、大腸にポリープが見つかり、恐怖におののいて過ごした。
幸いポリープは良性だったが、翌年からコロナ騒動が始まった。だが、私にとっては、支援金ももらえるし、コロナゆえに仕事がない、と考えることも可能だったから、コロナの時期はある意味ではまだ良かった。そしてコロナが終わって、相変わらず仕事は減ったまま、ないしは減り続けている。私は一九九九年に大学を辞めたが、その理由の一つは関東に戻りたかったからで、それからも首都圏の大学への就職活動はしてきたが、一つも実ることはなかった。この時期も、毎年のように公募には出し続けていたが、面接にさえ呼ばれず、ただ薄い封筒が返ってくるだけで、あけなくてもそれが「貴意に添えず」といったことの書いてある型どおりの文書が入っているものであることは分かったから、開封すらしないこともあった。
そうして私はルソーについて書き始めた。何しろ日本文学や英文学以外のフランスの作家について書くのは初めてだから、苦労した。塩野七生の『ローマ人の物語』全十五巻まで参考のために読んだから、三年くらいかかった。
ルソーの晩年は悲惨である。『新エロイーズ』がベストセラーになってから二年ほどで、逮捕状が出され、スイスから英国へと逃避行を続け、しかもその間スイスでは投石を受け、ヴォルテールなどからほとんど理不尽と言うほかない迫害を受けた。最後は本を出すことも事実上禁じられて、パリの陋巷に隠棲し、被害妄想の狂人と思われつつその晩年を送ったのである。
だが、ルソーのこのような晩年は、私に勇気を与えてくれた。ルソーのような偉大な文筆家ですら、このような惨めな晩年を送ったのであれば、私程度の不如意など何ほどのことやあらん、という気持ちにさせてくれたのである。世間には、苦しい、貧しい若い時代を過ごし、のちに成功する人の物語はあふれている。だが実際には、一時は成功してもそのあと売れなくなり、つらい晩年を迎える人だっている。もっともそれが、自業自得の結果ではしょうがない。ルソーは実に、自分では優れた仕事をしつつ追い詰められていった文筆家として、私を勇気づけてくれたのである。
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本書でお世話になったのは東大の王寺賢太氏で、ほかに立教大学の桑瀬章二郎氏にもメールで問い合わせをさせてもらった。だが、申し訳ないことだが、私は王寺氏も参入しているルソーの政治思想についての哲学的思弁について、深入りして勉強する能力を持ち合わせなかった。そのことはすまないと思っているが、もし私の寿命が三百年くらいあったら、そういう勉強もできたかもしれないと考えている。
表紙のテレーズの肖像画を描いてくれたのは、十八歳の美術科の高校生・護山梓さんである。私の草稿のうちテレーズに触れている部分を読んで人物像をくみとり、理想的な肖像画を描いてくれた。深く感謝したい。今回も幻戯書房の田口博氏にお世話になった。
自己嫌悪を感じない
前に何度も書いたが、私は自己嫌悪というものを感じない人間である。記憶しているのは高校三年の時、母の田舎の八歳くらいの男児が事故死して、その葬儀に行った時、私は葬儀中にだらだらと涙を流したが、すぐあとになって、それが演技だったことに気づいて深い自己嫌悪を感じ、以後偽善的な振る舞いはやめようと思った。それからあと、一回くらいは自己嫌悪を感じることはあったが、それ以外にはまずない。
小林麻衣子さんとまだ話をしていたころ、西村賢太の著作権が石川県立文学館に移ったことについて、「それくらいならあなたが結婚して受け継いでいたら良かった」というようなことを言ったら、「もしそんな(印税目当てに)結婚していたら自己嫌悪で引き裂かれていただろう」という意味のことを言われて、は? となったことがある。私は単に、文学館という組織に行くよりかは、近縁者が著作権を持っていたほうがいいだろう、という意味で言ったのである。そもそも賢太の印税が、今後もそれほど大きな量で産出され続けるかどうか分からないし、不思議なことを言う人だな、と思った。
今回、「賢太殺人事件」の第十章を削除していたら、激しい自己嫌悪を感じただろうと書いているのを見て、あっこれだ、と思った。自己嫌悪癖のある人なのであろう。
(小谷野敦)
五味康祐のクラシック随筆
五味康祐(1921-80)という作家は、私が高校三年になった日に59歳で死んでいる。だからそのころはまだ生きていて「こうすけ」と呼ばれており、のち私は「やすすけ」が正しいのだと知った。五味は人相見もやっていて、当時よくテレビに出ており、帰宅すると母が「今日テレビで五味コースケさんがね」などと話していた。当時海城高校の最寄り駅は新大久保だったが、そこの、プラットフォームへあがる階段の脇に、五味が和服姿に髭のおなじみの姿で、確か腕を組んで「ゴミを大切にしなさいっ」と言っているポスターが貼ってあった。一緒にいた級友が「これは芥川龍之介でも成り立つんだぜ」と言っていたのを覚えている。
五味は『柳生連也斎』などの剣豪小説の流行作家だったが、もとは「喪神」で芥川賞をとった作家である。だが、「喪神」は驚くべきことに剣豪小説なのである。何だか松本清張が芥川賞をとったのみたいだなあ、と思うが、この第28回芥川賞は、五味と松本清張の二人受賞だったので、選考委員会の席上に毒ガスでも撒かれたのではないかと思うほどである。特に「喪神」のほうは、選考委員中で推したのは佐藤春夫、坂口安吾、石川達三の三人だけで、なんで受賞したのかよく分からない。
その次に有名な五味の作品としてよく上げられるのが「一刀斎は背番号6」だが、これも珍妙な小説というか、題名でネタバレしている。伊藤一刀斎の末裔だという剣豪がいきなりプロ野球に現れて打てば必ずホームランを打つという実にバカバカしい話で、小説をなめてんのかと言いたくなる。
そんな五味の名を高からしめたのが、1972年に川端康成が自殺した時に出た『新潮』の臨時増刊「川端康成読本」に載せた短編「魔界」である。これは「本当のことを言おうか」という、谷川俊太郎だか大江健三郎だかのマネみたいな始まりで、太宰治が語り手という趣向である。五味は戦後、三鷹に住んでいて、太宰と相撲の男女ノ川も三鷹に住んでいたから「三鷹の三奇人」と呼ばれたというが、太宰といえば芥川賞に落とされたことで川端を恨んで「川端康成へ」を書いた人である。その太宰が、『眠れる美女』のモデルと睡眠薬のことについて、川端を半ば罵るのである。「仏界入りやすく魔界入りがたし」と川端が言ったのからとっているのだが、この小説以来、川端といえば「魔界」と言うことになってしまった。のちに臼井吉見が『事故のてんまつ』で川端家の若いお手伝いへの川端の執着を暴いて川端家から訴えられかけた時、臼井は、なんで五味はいいんだ、と準備書面で反論した。川端家(事実上川端香男里)は、五味は無頼作家だからその書くことを世間は信用しないが、臼井は教科書にも載る作家だから世間が信用すると、恐るべき反論をした。これは1977年だから五味はまだ生きている。
実は五味は1965年に自分が運転する自動車で人をはね、女性二人を死なせて、執行猶予つきの有罪になっており、そこで精神的一転機を来して、旧作である『二人の武蔵』を書き直したりしている。それと、クラブホステスのヤッコといった『眠れる美女』のモデルは、大江健三郎の親友と結婚しているので「本当のことを言おうか」はここでつながってくるのである。
さて五味にはさらにクラシック評論家という顔もある。作家のクラシック評論といえば「あらえびす」野村胡堂が有名だが、五味のは未読だったので『西方(せいほう)の音』(新潮社、1969)というのを読んでみた。これは中公文庫にも入っている。だがクラシックの評論家の通例に漏れず、曲よりも演奏家の話ばかりしていて、何それを誰それが録音したのが誰そらの演奏よりいいだのと書いてある本であったが、冒頭に西洋のレコード会社のカタログの話が出てきて驚いていると、五味は初対面の人に会うと、クラシックの曲が脳内に流れるたちだと言い、「概して男性はまだいいが、女性となると、かりそめごとで済まない。(略)一人の未知な女性が、目を見交わしたときフランクのヴァイオリン・ソナタを鳴らしてきたために、私はどれほど惨めなことになったか。ビバルディの『ヴィオラ・ダ・モーレ』が妻に幸いしたぐらいのもので、他はことごとく私を惨めな状態で失恋させている」というこの文章を、私は三回読み返してやっと意味が分かり、キザさに呆れ返った。
(小谷野敦)