「大江健三郎がいた日本」の私     小谷野敦(作家・比較文学者)

時事通信配信)

 大江健三郎氏が亡くなられた。かつて谷崎潤一郎が死んだ時、三島由紀夫は、「谷崎朝時代」が終わったと評したが、私には、その少し前から始まっていた「大江朝時代」が今終わったと言いたいところである。大江氏は、東大五月祭賞を受賞し、「東京大学新聞」に発表された「奇妙な仕事」を、文芸評論家の平野謙文芸時評で取り上げることによって、一躍有望な新人としてデビューし、ほどなく「飼育」で芥川賞を受賞したが、私には「奇妙な仕事」こそが初期大江において最も斬新な作品だと感じられる。当時、東大仏文科に在学中で、卒業とともにいきなり多忙な人気作家生活に入った大江氏には、苦しい時期が断続的に襲ってきた。高校時代からの年長の親友だった伊丹十三の妹と結婚し、精神的な安定をみたのもつかの間、浅沼稲次郎暗殺を題材にした「政治少年死す」を発表して右翼の脅迫に遭い、さらに脳に障碍のある男児・光が生まれ、彼とともに生きて行こうと決意して『個人的な体験』を書いたが、この中編にも賛否両論が渦巻いた。
 だが、大江氏の才能は、衆目の見るところずば抜けたもので、初期には著作はいつもベストセラーだったし、川端康成ノーベル文学賞をとった時、三島由紀夫は「次は大江だ」と悔しげに言ったという。私の見るところ、大江氏は七〇年代から軽いスランプの時期があったが、今世紀に入ってから『取り替え子』や『水死』などの一連の作品を発表し、近代日本最大の小説家になった。文章が悪文だと言う人もいたが、これは最初は平易な文章で書いて、それを晦渋な文章に書き換えて純文学らしく、ないしは大江作品らしくしていたのであり、下手で悪文だったわけではない。作家は、ある程度地位ができると、勉強しなくなる人が少なくないが、中年以降になっても勉強を続けたのは、谷崎潤一郎大江健三郎氏である。最も傑出した作品は『万延元年のフットボール』だろうが、私が中学三年の時初めて読んだのがこの作品で、この世にこんなすごい小説があるのかと圧倒される思いがした。だが、その筋立てに通俗的なところがあることは指摘されているし、大江氏は、純文学作家でありつつ、『キルプの軍団』のように、通俗的な筋立てをうまく使う作家でもあった。これとともに、伊丹が映画化した『静かな生活』は、次男や長女への素直な愛情が流露した傑作である。
 しかし一方で、偉大な作家だと認められつつ、敵視する人が何とも多かったのは、痛々しいばかりであった。政治的発言から、右翼の攻撃を受けるのはまだしも、左翼方面からも攻撃されたのは何だったのだろうか。ノーベル賞受賞者文化勲章を授与されるが、大江氏は天皇の手から渡されるこの褒章を決然と辞退した。現代の日本で、これほど断固たる国家権力との距離のとり方のできる文学者がほかにいるだろうか。私は高校一年の時、志望校に落ちて東京の私立高校へ通い、苦しい日々を、大江氏の小説を読むことで耐えた。『個人的な体験』を読んで涙を流したことを、人からバカにされたこともあるが、何構うものか。私は「大江健三郎がいる日本」の私であることを嬉しく思って生きて来た。

住井すゑ「橋のない川(一)」アマゾンレビュー

天皇制と差別

星5つ

住井すゑの生まれた奈良県を舞台に、誠太郎、孝二の二人の兄弟を主人公に「エッタ」と呼ばれ差別される人々を、天皇制との対比で描いていく。私は天皇制があるから差別があるのだといった非論理的な主張はしないが、人が生まれで差別されるということは天皇制も同じである。中でも、乃木希典明治天皇に殉死したのを話して校長が泣いたのを見て子供が笑うところが痛快であった。

三島由紀夫に同情する

 私は三島由紀夫が嫌いだが、安岡章太郎の『僕の昭和史』を読んでいたら、思わず三島に同情してしまった。というのは68年ころか、三島が「自衛隊をいつまでも継子にしておいてはいけない」と言うと、反米らしい安岡が「そうですね、自衛隊がクーデタを起こして米軍を追い払ってくれたら」と言ったから、三島が「同盟国に対してクーデタを起こすなんて・・・」と困った顔をしたというからである。

谷崎精二の娘婿

尾崎一雄の『あの日この日』の記述から、谷崎精二の長女・恭子と結婚したのが上山徹三という早大英文科卒の音楽評論家であることが分かった。つまり精二の教え子ということになるだろう。

上山敬三, かみやま、1911年4月14日-1976年9月27日
岩手県出身。早稲田大学文学部英文科卒。谷崎精二の長女・恭子と結婚。日本ビクター株式会社レコード本部勤務。音楽評論家。

著書

*『日本の流行歌 歌でつづる大正・昭和』 (ハヤカワ・ライブラリー) 早川書房, 1965 

共著

*『激動の昭和』安藤良雄, 小佐田哲男, 瀬木慎一, 高山英華, 長谷川泉, 野村光一, 吉川英史, 上山敬三, 双葉十三郎, 尾崎宏次, 川本信正 集英社 1976

架空の試験

もし私がミリオンセラーを出して金持ちの作家になり、秘書を雇うことになったら(ありえないが)、以下のような試験を課したいと思う。

 

・以下は日本近代小説の登場人物である。これらの人物が登場する作品名を書け(複数の作品に登場する場合は複数書いてよい)

小町田餐爾
内海文三
村越欣弥
葉越明
早瀬主税
葛木晋三
五十嵐伝吾
鷲見柳之介
間貫一
鴫沢宮
富山唯継
川島武夫
萩原初野
小野繁
関欽哉
小泉純一
長井代助
津田一郎
青山半蔵
岸本捨吉
竹中時雄
瀬川丑松
猪子蓮太郎
大江匡
皐月葉子
時任謙作
藤代信之
斯波要
蒔岡貞之助
佐々伸子
尾方信吾
都筑明
得能五郎
静間重松
大庭葉蔵
犬飼多吉
杉戸ヤエ
和賀英良
本多繁邦
正木典膳
東堂太郎
伊吹信介
財前五郎
杜岡冬人
唯野仁
火田七瀬
千葉敦子
山田桂子
根所蜜三郎
長江古義人
竹原秋幸
鈴原冬二

音楽には物語がある(51)ブーニンの今昔 「中央公論」三月号

 スタニスラフ・ブーニンが、この夏、住居がある八ヶ岳山麓と東京で、9年ぶりの演奏会を開いたというので、その様子を紹介したNHK/BSプレミアムの番組を観た(「天才ピアニスト・ブーニン 9年の空白を越えて」)。

 9年というのは、主としてブーニンが「石灰沈着性腱板炎」で左肩を痛め、そのリハビリをしていたためだが、4年前にはさらに左の足首を骨折し、持病の糖尿病のため骨折した部分が壊死する危険が大きいというので、脚のその箇所を切ってつなげるという大手術をしたためもあり、そのため脚は左だけ短くなり、厚底の靴を履いて歩いている状態だ。ブーニンは56歳になる。演奏したのも、シューマンの軽いものが中心で、東京での公演のアンコールでショパンの小品が出たくらい、ダイナミックな曲はまだ演奏できないらしい。

 ブーニンが一躍有名になったのは、1985年に、ショパン・コンクールで19歳で優勝しただけでなく、その激しい演奏ぶりが月曜日の夜の「NHK特集」で放送されたからで、日本で特にブーニン人気が高かったのはそのせいで、いったいなぜ「NHK特集」がそんなに観られたのかと後から不思議に思ったが、月曜日の八時は民放では「大岡越前」や「ザ・ベストテン」があったし、それほどNHKの視聴率が高かったとも思えず、口コミで広がったものであろうか。

 当時、音楽評論家の吉田秀和が、ブーニンを「果たしてアンファン・テリブル(恐るべき子供)なのかアンファン・ギャテ(甘やかされた子供)なのか」などと評していたが、優勝後のブーニンは数年で西側へ亡命し、特に日本での人気が高かったこともあり、当人は日本の聴衆が気に入ったと言っており、ジャーナリストの日本人女性と結婚し、日本を拠点に活動してきた。

 しかし、ホロヴィッツポリーニのような「大ピアニスト」にはなれなかったと言うべきで、むしろヴァン・クライバーンに似た感じの、あとでしぼんだ感じすらするが、ブーニンの場合は本人の責任というより、時代がすでに「スター演奏家の時代」ではなくなっていたからだろう。カラヤンバーンスタインのようなスター演奏家の時代は、CDができYouTubeができたこととはあまり関係なく、演奏のレベルが一定の高さになり、新進の演奏家なら誰でもそれくらいは演奏するようになると終わった。あとは、数奇な人生を売りものにする演奏家などがスターになる時代になった。

 そういえば、旧ソ連出身のブーニンは、ウクライナ戦争をどう思っているのかと思ったが、そういう話は出なかった。ブーニンは祖父の代からのピアニストで、祖父のネイガウスウクライナ出身の人物だった。

 ブーニンブームの当時、さかしらな評論が、ああいう眼鏡をかけた秀才タイプが、女性はけっこう好きなのである、などと書いていたが、あれから37年、何を思うかブーニンだが、日本人妻をもつ人としては、演奏後の「アリガトゴザイマシタ」以外には日本語は話さず、ずっとドイツ語で、字幕がついたり妻が通訳したりしていた。むやみと片言の日本語を使うべきではないという判断は正しいだろう。

NHK特集」が放送された85年12月は、私はエドワード・オルビーというアメリカの劇作家についての卒論を提出し、翌年急死してしまったシェイクスピア学者の中野里皓史先生に読んでもらうところだった。翌年になるとスペースシャトルが爆発し、4月には岡田有希子が自殺し、大学院入試に落ちた私は一浪して比較文学の院を受けようと考え始めていた。あれから37年たったのだ。

パオロ・マッツァリーノ「思考の憑きもの」アマゾンレビュー(掲載拒否)

あまりシャープな人ではない

星1つ 小谷野敦

この人は昔からいるが、イタリア人を装った日本人らしい。匿名で他人を批判したりするのは卑怯である。初めて読んでみたが、夫婦別姓について、反対論を批判する文章があった。私は夫婦別姓は、やりたければやってもいいが議論が十分になされておらず、不健全だと感じている。そもそも野田聖子が言い出したのは、野田の家名を残したかったからだというのが分かっているが、子供の姓が野田にならなければ夫婦別姓にしても意味はないので、ジャーナリストはどういうつもりだったのか野田に聞いてほしい。ほかにも、一人娘で家名を残したいという動機で夫婦別姓などと言っている者がいたが、やはり子供の姓についての議論がなされていない。著者は、前近代日本は夫婦別姓だと言ってお市の方の例をあげているが、お市浅井長政に嫁しても浅井長政の姓が変わらなければ子供は浅井氏となる。もし男が婿入りしたら男の姓が変わるから、前近代でも夫婦同姓になる。もしそういう動機で夫婦別姓にしたら、子供ができた時に夫婦間でもめごとが起こるだろうと私は言っているのだが、マッツァリーノはこの話にも全然乗ってはこない。大した論客ではないなと思った。

宮崎哲弥八木秀次の『夫婦別姓大論破!』を貶しつけているが、前近代の日本は夫婦別姓というのはここに書いてあり、それは女の腹を借り物とし、家には入れないという思想からで、別にリベラリズム夫婦別姓だったわけではないと書いてあるんだがそういうことは無視する。

キャロライン・ケネディが結婚しても旧姓のままでも、子供の姓は夫の姓である。要するにそういうことだが、そういうこともマッツァリーノは知らんふりをするから、ふーんそういう人なんだ、と思う。