音楽には物語がある(69)「青春」嫌い  「中央公論」9月号

 先ごろ、三島由紀夫賞山本周五郎の選考委員会と、それに続く記者会見を見ていたら、山周賞の受賞作について、選考委員の小川哲が、「青春小説」としても読める、というようなことを言っていて、受賞者もその点について質問されていたので、おや、と思った。

 文藝評論家の磯田光一が死んだのは、1987年の始め、私が大学院に入る少し前だったが、その時『現代詩手帖』が磯田の追悼特集を組んだので、やや意外に思いつつ買ってきたら、中に北方謙三の寄稿があった。北方は中央大学在学中に磯田に学んでいて、純文学小説を書いていたが、のち、『逃がれの町』などでデビューしたころ、磯田に会う機会があり、磯田が、君の小説、読んだよ、と言い、ああいうのを書いていくと新しい青春小説になるんじゃないかと言われ、北方が恐縮したということが書いてあった。

 私はその時、「青春小説」という、まるで角川映画の宣伝文句に出てきそうな言葉を、ちゃんとした文藝評論家が使ったということに、ちょっと驚いたのであった。少なくとも当時の私にとって「青春」という言葉自体が、使うのを憚られる「こっ恥ずかしい」言葉であった。

 私が中学2年生だった1976年にヒットした森田公一とトップギャランの「青春時代」という曲がある。うちの父が妙に好きだったが、当時からその題名に私は嫌な感じを覚えていた。運動会の時に、知らない生徒が作った「ぼくたちの青春を」みたいな垂れ幕を見たことがあって、けっ、中学生のくせして何が青春だよ、と思ったのを覚えているが、のち20代になっても、森田公一が歌ったみたいな、大学時代に女と同棲する、なんて華々しい、それでいて当人は「甘酸っぱい」か何か思っていそうな「青春」とは私はもちろん無縁だった。谷崎潤一郎にも「青春物語」という回想があるが、その内容は、関西で遊んでいたら汽車恐怖症に罹って東京へ帰れなくなったという、私自身が経験することになる事態を描いていて、あまり「青春」っぽくはない。

 小椋佳の「さらば青春」(1971)は、1975年に田中健が「みんなのうた」で歌ったが、実はこの歌の歌詞には「青春」という語は出てこない。私はこちらの歌は歌詞が現代詩風で好きだが、この題名はどういうつもりだろう、という気持ちを持っている。五木寛之の「青春の門」が映画化されたのもその頃のことで、ちょっと流行していたのかもしれない。もっとも「青春時代」のほうも、今となってはそんなに嫌いな歌ではない。実をいえば私も20代のころ、普通の男のふりをして文章の中に「青春」と書いたり、「青春」が出てくる短歌を詠んだりしたことがある。

 しかし、世の中には、それこそ女とあれこれあるような「青春」を送った人がいて、躊躇もなく「青春小説」などという言葉を使うんだろうと思うと、やっぱり嫌な感じがする。村上春樹などは、いかにも「青春の思い出」みたいなものを書く作家だと思って、『ノルウェイの森』からあとは嫌っていたが、今世紀に入ってからは、それほど嫌な感じの作家でもなくなった。それでも油断すると「あの村上春樹」に戻ることがある。

 女に振られる『三四郎』も「青春小説」じゃないか、と言う人もいるかもしれないが、私の体験はあんな生やさしいものではないことは「悲望」を読めば分かる。しかし考えてみると、「青春」とか「青春小説」とか言いたがるのは、たいてい「男」ではないのか。女の歌手が「青春」と歌ったり、女の作家が「青春小説」と言ったりするだろうか。しかし太田治子の『青春失恋記』とか林京子の『青春』とか、題名に入っているのはあることはある。しかし「さらば青春」のように、青春は題名には使っても、歌詞や本文にはあまり使われない言葉ではなかろうか。(その後、結構歌詞や本文に出てくることに気づいた)

小谷野敦

年上のお兄さんのエッセイ

 若い頃、というのは大学生から院生になりたてのころだが、私は鴻上尚史(1958-)、野田秀樹(1955-)、村上龍(1952-)などのエッセイを愛読していた。具体的には『鴻上夕日堂の逆襲』『ミーハー』『すべての男は消耗品である。』などだが、それらは自分が関心を持っていること、まあ具体的には女のことだが、それについて手のひらを指し示すように面白く語ってくれる感じがした。だが、それらは次第に読み返す対象ではなくなっていった。

 思えばあれは、才能ある年上のお兄さんのエッセイだったのだろう。19歳の男の子にとっては、25歳の男の書くものが、ドンピシャリに面白いという現象がある。それは40歳の男からしたら、どうということのない世間知に過ぎないのだが、19歳には魅力的であるという、そういうことで、私などは晩生だからそれが24歳ころまで続いていた、ということだろう。

小谷野敦

車谷長吉の変名

車谷長吉癲狂院日乗』では幾人かの人の名が「よ氏」「り氏」などと変名にされている。この処置は高橋順子氏がやったことである。しかし「も氏」については、翻訳書の題名が書かれているので、すぐ高山芳樹氏であることが分かった。

『文士の魂・文士の生魑魅』(新潮文庫)を見ると、最初のほうの「伝記小説」というのが、98年10月の『波』に、「意地っ張り文学誌」の第三回として書いたものであることが分かる。そこでは、最初の作品集『鹽壺の匙』を出した1992年、神田小川町の酒亭「円居」で、歌人の持田鋼一郎(1942- )、筑摩書房校閲部の高山芳樹と酒宴を持ち、そこで持田が、「作家は書くことがなくなると伝記小説を書いたりし始める。高井有一立原正秋の伝記を書いたりしている」(大意)と言ったのを書かれたので、「よ氏」と記されている高山が絶交状を送ってきたというのだが、私は高井有一の『立原正秋』は名著でしかも代表作だと思っている。それに言ったのは持田なんだから、高山が絶交してくる理由はよく分からない。あと『金輪際』に入っている「白黒忌」というのも、その「よ氏」がモデルらしく、見せたら、発表しないでくれと言われたというが、それはポルノ映画に出たという女の話で、映画は「看護婦白黒日記」というのだが、そんな映画は実在しないから題名は変えてあるのだろう。

 あと「り氏」は、名作「抜髪」に関係あるらしいが、「抜髪」はどう見たって車谷自身が母親から罵られている話で、「り氏」がどう関係しているのかは分からないが、『新潮』編集部で相談したら載ることになったそうである。り氏というのは鈴木力という人で、りきさんと言われていたそうだ。

小谷野敦

作家の生理

 今年の大河ドラマで、紫式部が「源氏物語」を書いている場面を見ていて、ずいぶん書くのがのろいなと感じていたのだが、あれは吉高由里子が自分で書いていて、吉高は左利きなので、ものすごい訓練をして書いているというから、それでのろいのかと思った。作家の生理から言うと、あのスピードで物語を書いていては、興が削がれるのではないかと思うのだが・・・

 私が大学生のころ、「児童文学を読む会」というサークルで、SF好きな先輩が、多分英語圏のSF作家が、タイプライターで小説を書いていて、一度だけ手が止まった経験がある、という逸話を、大変大仰に、一度だけだって、みたいに話していたことがあり、私はその時ちょっと、いや、そんなもんだろうと内心では思っていた。私はどっちかというと書くのは早いほうだろうが、ずっと書き続けるというほどの才能はないから自分で経験があるわけではないが、プロの作家なら、まあそのくらいのスピードで書かないと困るくらいに物語は湧き出てくるだろうと思ったのである。

小谷野敦

女男爵アメリー・ノトン

ベルギーにアメリー・ノトン(1967- )という作家がいる。女で、幼い頃日本で育ち、日本企業で働いた経験もある。日本ではノートンとされているが、これは英国の作家メアリー・ノートンと間違えたのか、綴りはNothombなのでノトンだということを、比較文学会でフランス文学者の先生に教えられた。

 この作家の最初の長編『殺人者の健康法』がめっぽう面白かった。私は戦後のフランスの作家が軒並み嫌いなので、戦後フランスの小説ではピカ一というくらい面白かった。日本の企業を描いた『畏れ戦いて』はそれほどでもなかったが、第二作『午後四時の男』も面白かった。これは原題を「カティリーナ弾劾演説」といい、古代ローマキケロの演説からとっているが、ある土地へ引っ越してきた65歳になる夫婦が、毎日午後四時になると訪問してくる隣人に悩まされるという話である。しかし、ノトンの小説はフランスでもヨーロッパでもベストセラーになっているが、日本ではとんと売れない。もっともフランス人の感覚は特殊なのだが、フランスを苦手とする私にはこれは面白かったという特殊な例になっている。もっともこのノトンは、父からの遺産なのか、貴族であって女男爵(バロネス)だという。私は君主制や貴族制は前近代の遺物だと思っているから、これはちょっと困った。しかしあと二冊翻訳があり、これは「ノトン」になっているし、こちらも読んでみよう。

小谷野敦

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永井龍男の災難

 私は永井龍男文化勲章をとるほどの作家かどうか疑わしいと思っている。当時、左翼作家が多くて勲章を辞退した結果、永井に回ってきたのだろう。

 その永井が1974年から76年1月まで『小説新潮』に連載した身辺雑記『身辺すごろく』の最後の回を読んでいたら、永井が鎌倉での知り合いの死去に際して「彼ほど波乱の多い人生を送ったものはいないだろう」(大意)と書いたら(これは林房雄のことだろう)、ある人から手紙が来て、「私のほうが波乱の人生でした。妻の病気で困っているとき、あなたに金屏風を売ろうとして(以上大意)あなたに冷酷な、茶化し的返事をもらったのを忘れていません」とあった。これは五年前に、永井がある宿に泊まったら金屏風が立ててあり、そこから何だか金が漂い出してくるような気がして、金屏風を手に入れたいと思っていると新聞に随筆を書いたら、二人の人から金屏風を売りたいという手紙が来て、その人には丁重な断りの手紙を書いたということで、永井は慌てて、釈明の手紙を書いたという。人間、どこで何があるか分からないものである。

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『ミカドの肖像』の思い出

猪瀬直樹の『ミカドの肖像』が出たのは1986年の暮れで、私が大学院へ入るちょっと前だったが、4月ころには読んで、大層面白く、友人に電話してぺらぺらしゃべったら、面白いところは全部君に聞いてしまっていたとあとで言われた。

 それから三年くらいして、私は修士論文を本にすることにしていて、それが出る少し前の1990年5月ころ、スミエ・ジョーンズに連れられて池袋の居酒屋で小森陽一、渡辺憲司、関根英二と会ったことは前に書いた。四方山の話のうちに、スミエ先生が、『ミカドの肖像』が面白かったという話を始めたら、小森や渡辺は、左翼的でない『ミカドの肖像』が気に入らなかったらしく、明らかにスミエさんを無視して、そのころ岩波新書で出ていた多木浩二の『天皇の肖像』が良かったと話し始めたので、私は少々驚いたのだが、この両者はついに話がすれ違ったままだった。

 もっともスミエさんと渡辺憲司はその後も共同作業をしていたから、あの程度のことはよくあることなのかもしれない。