五味康祐のクラシック随筆

五味康祐(1921-80)という作家は、私が高校三年になった日に59歳で死んでいる。だからそのころはまだ生きていて「こうすけ」と呼ばれており、のち私は「やすすけ」が正しいのだと知った。五味は人相見もやっていて、当時よくテレビに出ており、帰宅すると母が「今日テレビで五味コースケさんがね」などと話していた。当時海城高校の最寄り駅は新大久保だったが、そこの、プラットフォームへあがる階段の脇に、五味が和服姿に髭のおなじみの姿で、確か腕を組んで「ゴミを大切にしなさいっ」と言っているポスターが貼ってあった。一緒にいた級友が「これは芥川龍之介でも成り立つんだぜ」と言っていたのを覚えている。

 五味は『柳生連也斎』などの剣豪小説の流行作家だったが、もとは「喪神」で芥川賞をとった作家である。だが、「喪神」は驚くべきことに剣豪小説なのである。何だか松本清張芥川賞をとったのみたいだなあ、と思うが、この第28回芥川賞は、五味と松本清張の二人受賞だったので、選考委員会の席上に毒ガスでも撒かれたのではないかと思うほどである。特に「喪神」のほうは、選考委員中で推したのは佐藤春夫坂口安吾石川達三の三人だけで、なんで受賞したのかよく分からない。

 その次に有名な五味の作品としてよく上げられるのが「一刀斎は背番号6」だが、これも珍妙な小説というか、題名でネタバレしている。伊藤一刀斎の末裔だという剣豪がいきなりプロ野球に現れて打てば必ずホームランを打つという実にバカバカしい話で、小説をなめてんのかと言いたくなる。

 そんな五味の名を高からしめたのが、1972年に川端康成が自殺した時に出た『新潮』の臨時増刊「川端康成読本」に載せた短編「魔界」である。これは「本当のことを言おうか」という、谷川俊太郎だか大江健三郎だかのマネみたいな始まりで、太宰治が語り手という趣向である。五味は戦後、三鷹に住んでいて、太宰と相撲の男女ノ川三鷹に住んでいたから「三鷹の三奇人」と呼ばれたというが、太宰といえば芥川賞に落とされたことで川端を恨んで「川端康成へ」を書いた人である。その太宰が、『眠れる美女』のモデルと睡眠薬のことについて、川端を半ば罵るのである。「仏界入りやすく魔界入りがたし」と川端が言ったのからとっているのだが、この小説以来、川端といえば「魔界」と言うことになってしまった。のちに臼井吉見が『事故のてんまつ』で川端家の若いお手伝いへの川端の執着を暴いて川端家から訴えられかけた時、臼井は、なんで五味はいいんだ、と準備書面で反論した。川端家(事実上川端香男里)は、五味は無頼作家だからその書くことを世間は信用しないが、臼井は教科書にも載る作家だから世間が信用すると、恐るべき反論をした。これは1977年だから五味はまだ生きている。

 実は五味は1965年に自分が運転する自動車で人をはね、女性二人を死なせて、執行猶予つきの有罪になっており、そこで精神的一転機を来して、旧作である『二人の武蔵』を書き直したりしている。それと、クラブホステスのヤッコといった『眠れる美女』のモデルは、大江健三郎の親友と結婚しているので「本当のことを言おうか」はここでつながってくるのである。

 さて五味にはさらにクラシック評論家という顔もある。作家のクラシック評論といえば「あらえびす」野村胡堂が有名だが、五味のは未読だったので『西方(せいほう)の音』(新潮社、1969)というのを読んでみた。これは中公文庫にも入っている。だがクラシックの評論家の通例に漏れず、曲よりも演奏家の話ばかりしていて、何それを誰それが録音したのが誰そらの演奏よりいいだのと書いてある本であったが、冒頭に西洋のレコード会社のカタログの話が出てきて驚いていると、五味は初対面の人に会うと、クラシックの曲が脳内に流れるたちだと言い、「概して男性はまだいいが、女性となると、かりそめごとで済まない。(略)一人の未知な女性が、目を見交わしたときフランクのヴァイオリン・ソナタを鳴らしてきたために、私はどれほど惨めなことになったか。ビバルディの『ヴィオラ・ダ・モーレ』が妻に幸いしたぐらいのもので、他はことごとく私を惨めな状態で失恋させている」というこの文章を、私は三回読み返してやっと意味が分かり、キザさに呆れ返った。

小谷野敦

「花嫁は十五才」と「ハノーバー・ストリート」

和泉雅子主演の「花嫁は十五才」(1964)という映画を観たら面白かった。これの冒頭近くで、主人公のむく太(山内賢)とひろ子(和泉)が知り合うシーンは、バスの中で座ったひろ子が級友とにぎやかに談笑しているのをむく太が立って遠くから見ている。級友が降りてしまってひろ子一人になる。前に老婆が立っている。つかつかとやってきたむく太が「君、学生だろう。立てよ」と言い、ひろ子は立って老婆が座る。二人は同じ停留所で降りるが、ひろ子がびっこをひいて歩いて行くのを見たむく太が驚いてあとを追い「ごめん」と言う。ひろ子は「いいのよ」と言い、今度はスタスタと歩き出す。むく太はまた追い駆けて(びっこのまねをするなんて)「ひどいじゃないか」と言う。するとひろ子はスカートをまくりあげて、腿に包帯が巻いてあるのを見せ、運動でやっちゃったと言い、怪我しているのは事実だと示す。

 「ハノーバー・ストリート」(1979)という、ハリソン・フォードがラブストーリーをやった映画があるが、これに似たシーンがあった。ここではハリソン・フォードがびっこを引いて歩き、レスリー・アン=ダウンが知らなかったと言って謝るが、そのあとフォードはわざとらしく飛び跳ねて、びっこがウソであることを示すが、これは大変いやな感じがしたものだ。監督はピーター・ハイアムズだが、影響関係があるのか偶然かは分からない。「花嫁は十五才」は題名どおり、15歳の中学生であるひろ子と17歳のむく太が結婚しようとして周囲の顰蹙をかう話だが、これは79年の山田太一脚本のテレビドラマ「沿線地図」に影響している気がした。

 今だったら、15歳の女子と同棲したら条例で逮捕されてしまうだろう。当時『平凡』に掲載されたという藤原審爾の原作を読んでみたいと思ったが、単行本化されていないのか、題名が違うのか見つからない。内容的には伊藤咲子の「木枯しの二人」(1974)を思わせる。

小谷野敦

川端康成と真下五一

日本近代文学館』の月報『日本近代文学館』11月15日の号に「寄贈に寄せて<真下五一について>」という三上聡太氏(同志社大学助教)の研究ノートが載っている。このうち、1961年から62年にかけて「朝日新聞」に『古都』を連載した川端から、京都文壇の重鎮である真下五一への未紹介の書簡が翻刻されている。「十四日」と書いてあり、封筒はないようである。内容は『古都』執筆に際してもらった助言へのお礼である。三上氏はこの中に「二十一日のペンの会には残念ながらお目にかかれませんね」とあるところから、私と深澤晴美さんの『川端康成詳細年譜』に、1961年10月21日に京都でペンクラブ懇親会があったところから、その前の10月14日としているのだが、書簡中には『古都』について、「睡眠薬でもうろうとして書いた」とあり、これは連載終了後の手紙である。『古都』の連載は61年10月から62年1月23日なので、62年1月以降とすべきだろう。

 三上氏は川端の専門家ではないので、小さなことだがここに記しておく。

小谷野敦

縄田一男『武蔵』アマゾンレビュー

3点

本書は2002年9月に書き下ろし文藝評論として刊行されている。企画は二年前からのようだが、2003年に
NHK大河ドラマ市川新之助主演の「武蔵」をやっているから、それへの当て込みもあったろうし、当
時人気のあった井上雅彦の「バガボンド」もこの企画が通る下地だったろう。6年前に秋山駿の「信長」
がベストセラーになったのも、発想のもとだったかもしれない。しかしこれは、売れなかったようで、7
年後に「「宮本武蔵」と日本人」と改題して角川ソフィア文庫になっているが、講談社で文庫化しなかっ
たのは売れなかったからだろう。
 前半は吉川英治宮本武蔵』の分析で、後半は五味康祐光瀬龍柴田錬三郎津本陽笹沢左保
ど後続の作家たちの武蔵を論じており、よく読み調べてある。しかし吉川『武蔵』というのは、そもそも
元の講談で佐々木小次郎が父の仇だというのをなくしているため、勧善懲悪ですらない、ただ人殺しをし
て人格が立派になっていくというわけの分からない男になっており、「バガボンド」はどうだか知らない
が大河「武蔵」は失敗に終わり、今や宮本武蔵という剣豪は過去の遺物になりつつある。著者はその発端
に日本の敗戦を見て、懐かしんでいるようだが、こんな殺人鬼が英雄たりうる時代は、終わってしかるべ
きだと思う。
小谷野敦

坪内祐三『変死するアメリカ作家たち』アマゾンレビュー

本書は、2007年に白水社から出ている。だが、書き始めたのは1993年だという。90年に32歳で「東京人」を辞めた坪内は、知り合いだった西堂行人という演劇評論家で、未来社社長の西谷能英の弟だった人から、『未来』に何か書かないかと誘われ、もともとアメリカ文学専攻だった坪内は、1920-30年代の「ロストジェネレーション」のアメリカ作家のうち、変死した作家、しかしフィッツジェラルドヘミングウェイのような有名どころではなく、日本では無名に近い作家たちのことを書き始めた。最初がデルモア・シュワルツ、次がハリー・クロスビー、そしてナサニエル・ウェストだが、このうち日本でも少しは知られているのはウェストくらいか。そのまま放置され、坪内は「明治の文学」の編集をし、『靖国』を書く。ここで坪内は、90年代の自分は無名だったから、こんな無名の作家たちを書いた本は出して貰えないだろうと思った、と最後の章で書いている(面倒なことだがこの本は「あとがき」がなく、今引いた部分は最後の章の最初のほうに書いてある)。だが、それは大きな間違いである。無名なアメリカの作家たちを書いた本は、有名な著者が書いてもこの本のように売れないのである。それは大学でアメリカ文学を教える人が大学紀要に書いて、金星堂のような教科書出版社から、教科書を採用した見返りとして出して貰うくらいしかないのだ。2007年といえば坪内は50歳だが、それでもその程度のことが分からなかったのか。そしてその坪内自身は、たくさんの連載を抱える売れっ子文筆家ではあったが、酒のために変死することになる。
 この本は、そういうマイナー作家の伝記紹介にしかなっておらず、ナセニエル・ウェストがアメリカでは没後評価が高まったのに日本ではちっとも人気が出ない。それはなぜかということを考えなければ日本で出す本として意味がないのに、坪内はそれをしていない。また、のちに日本近代文学の人だと思われるようになった坪内が、なんでこういうアメリカ作家に入れ込んでいたのかというのも謎である。それは江藤淳が最初にアメリカに行った時、まだアメリカ文学を研究するつもりだったということへの驚きに通底している。

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「大谷崎」の解説

私は谷崎潤一郎が「大谷崎」と呼ばれるのは、三島由紀夫小林秀雄が勘違いした「偉大だから」「おおたにざき」なのではなく、弟の精二も作家だから「大谷崎(だいたにざき)」「小谷崎(しょうたにざき)」なのだと言ってきたが、疑念を差し挟む人がいるのでいくつか証拠を加えておく。

 これは『アカツキ』という雑誌の1936年2月号に、三原丘二という人が書いた「大小の弁」で、精二が「小谷崎」だと書いて、「大西郷」というのは本来弟の従道との区別だったのが「偉大なる西郷隆盛」と間違われたのと同じだと書いている。

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 また水守亀之助の「わが文壇紀行」では、精二を「中谷崎」とし、末弟の終平を「小谷崎」としている。

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 もちろん、発端が何であれ結果的に三島や小林が「偉大な谷崎」の意味で使っているのだから偉大な谷崎だ、と言う人は、それはもう各人ご自由にと言うほかない。

小谷野敦

井上一馬『『若草物語』への旅』アマゾンレビュー

若草物語への旅

星4つ - 評価者: 小谷野敦、2025年11月19日
私は「赤毛のアン」が大好きなのに、「若草物語」はどうしても好きになれない。それで本書を読んで
みた。これは書き下ろしの歴史文学紀行だが、第一章の一部は『別冊文藝春秋』に載ったということで、
その際の担当は明円一郎氏だったという。この人は知っていて、私が芥川賞候補になった時に電話をくれ
た人である。それはさておき、話はむしろルイザ・メイ・オルコットの父ブロンソン・オルコットが中
心で、エマソンの影響を受け、超越主義者、奴隷制度反対、菜食主義者の父は、学校経営やコミューン
の運営に失敗し、四人の娘のいる家族を養えず、妻に大きな負担をかけた。次女ルイザはエマソンやソロ
ーの影響を受けつつ、父が南北戦争に行っているという設定で『若草物語』を書いたという。だが本書
は、アメリカ植民地初期から、エマソンやソローの時代のアメリカ史のいい勉強になった。父ブロンソン
はそんな生活でありながら89歳まで生きたが、ルイザは一人で家族を支えて55歳で死んでしまったという
のが悲しい。思うに『若草物語』が事実に基づいていながら、父が南北戦争に行っていることにして(実際には60歳になっていたからありえない)父の真実を隠蔽したからではないかと思った。