女の歴史小説作家

 こないだ、女の人は歴史小説を読まないなあと思って、大河ドラマは観ていても歴史小説は読まないんだなと思い、そういえば女は司馬遼太郎を読まないと言われていた中、岸本葉子さんは司馬を読んでいたんで好感アップしたんだっけ、と思い、だが最近は女の歴史小説作家も増えているし「歴女」なんてのもいるし、と考えていたら、戦前は女で歴史小説書く人はいなかったということに気づいた。明治期から村上浪六とか塚原渋柿園とか歴史小説はあったし、樋口一葉とか田村俊子とか女の作家もいたが、女の作家が歴史小説を書くのは、大正期から書いていた吉屋信子が戦後『徳川の夫人たち』を書いた例はあるが戦前は書かなかったんじゃないかな。中里恒子も戦前からの作家だが宇喜多秀家夫人を書いたのは戦後だなと思い、女性作家が最初に歴史小説を書いたのについて調べてみたら、最初は大原富枝の『婉という女』だったかもしれないと思った。なおここで「歴史小説」というのは、実在の人物を主人公、または重要な人物としたもののことで、徳川時代に架空の剣客を描いたものは「時代小説」としており、そのため宇江佐真理は入っていない。山本周五郎や藤沢周平は主として時代小説の書き手だったが、「樅ノ木は残った」とか「市塵」とかを書いている(なお「樅ノ木」の「ノ」に注意)

 この表では分からないが、最近の女性作家の歴史小説は、杉本章子以来、絵師を主人公にしたものが多い。というか、女性作家は美術家を描くのが好きだ。

 

1960 大原富枝「婉という女」(毎日出版文化賞)
1961 杉本苑子「船と将軍」

1964 永井路子「炎環」(直木賞)
1965 安西篤子「張少子の話」(直木賞)、円地文子「なまみこ物語」
1966 吉屋信子「徳川の夫人たち」
1967 有吉佐和子「華岡青洲の妻」(女流文学賞)

1969 塩野七生「ルネサンスの女たち」

1971 平岩弓枝「日野富子」
1972 中里恒子「閉ざされた海」のち「中納言秀家夫人の生涯」

1975 三浦綾子「細川ガラシャ夫人」田中阿里子「秋艶記」

1978 宮尾登美子「一絃の琴」(直木賞)

1980 澤田ふじ子「天平大仏記」

1983 杉本章子「写楽まぼろし」
1984 山本昌代「応為坦坦録」(文藝賞)

1988 三枝和子「小説清少納言 諾子の恋」
1989 吉田知子『飛鳥の風 持統女帝』
1990 津村節子「流星雨」(藝術選奨)

1992 小石房子「女たちの本能寺」

1995 梓澤要「阿修羅」、藤水名子「赤壁の宴」

1997 松井今朝子「仲蔵狂乱」(時代小説大賞)、佐藤亜紀「1809」

2001 諸田玲子「源内狂恋」
2002 秋山香乃「歳三往きてまた」

2007 見延典子「頼山陽」(新田次郎文学賞)
2008 梶よう子「一朝の夢」(松本清張賞)
2009 奥山景布子「源平六花撰」
2010 木内昇「漂砂のうたう」(直木賞)
2011 澤田瞳子「孤鷹の天」(中山義秀文学賞)

2013 朝井まかて「恋歌」(直木賞)、林真理子「正妻 慶喜と美賀子」


2019 大島真寿美「渦 妹背山婦女庭訓魂結び」(直木賞)

2022 永井紗耶子「女人入眼」

2026 蝉谷めぐ実「見えるか保己一」(山本周五郎賞)

 

「響ー小説家になる方法」の一つの謎

天才文学少女が、芥川賞と直木賞を同時受賞する「響」というマンガが話題になったことがあった。2014年の連載開始で、映画化が2018年だからだいたい十年くらい前だ。

 さほど筋立てには感心しなかったが、一箇所だけ引っかかっているところがある。高校生の響が文藝誌の新人賞に応募するのだが、本名も連絡先も書いてなかったので、要件を満たしていないというので捨てられそうになったのを、女性編集者がたまたま読んで、これはすごい才能だと思い、編集長にそのことを話す。50歳くらいの男性編集長は、にこにこ笑いながら「それはとても残念だ」と言う。女性編集者は、何とか連絡をとるとか、選考の俎上に載せる方法はないかと考えているのだが、編集長はただ笑って「本当に残念だ」とだけ言う。

 作者は文藝業界の取材もして書いているんだろうが、この編集長のにべもない態度は、何を表現するために描いたのだろうか。

1,文藝雑誌の編集長は、本気で優れた新人を探そうなどと考えていない

2,本当にそんなすごい才能ならいずれ別の形で出てくるだろうと思っている。

 私はなんか「1」のような気がするんだよな。誰か作者に質問したりしてないんだろうか。

(小谷野敦)

 

倉本聰とUFO

 倉本聰が北海道へ行った当時、UFOにとらわれていたことはよく知られているが、1975年の「うちのホンカン」では第一回からUFO騒ぎで、この当時からそうだったことが分かる。1978年の映画「ブルークリスマス」では、竹下景子がUFOの光線を浴びて血が青くなるというSFサスペンスに仕立てており、81年の「北の国から」では、原田美枝子の先生がUFOに乗るのを生徒たちが目撃するという逃れようのない展開にしており、この時点では倉本自身がUFOの実在を信じていたと思われる。

 ところで「うちのホンカン」の主役は大滝秀治の平巡査だが、見ると「もう定年じゃないか」という感じのお爺さんだが、当時大滝は50歳で、実年齢は十分現役なのである。八千草薫が妻で、まるで娘のように見えるのだが、八千草は六つ下で、44歳である。

勝呂奏『評伝藤枝静男』アマゾンレビュー

 前半は大変細かによく記述してあり、誤植もほとんどない。後半になると、作品の文藝時評での扱われ方の紹介が増えていく。何しろ藤枝は日記を焼き捨ててしまったから、伝記作家にとって大切な資料が失われているのが残念だ。手紙類も特に多くは引かれていない。

 さて、なぜか触れられていないのが、1975年12月22ー23日の「東京新聞」夕刊の、「文学ーこの一年を顧みる」の件で、この時は江藤淳、中村光夫、平野謙、藤枝の四人で話し、六月に出た耕治人の「うずまき」に、「恩人に土地をだまし取られた」とあるのを、これを実名を書けないところが問題だと平野が言い、藤枝が「川端康成」と名を出している。川端と親しかった立原正秋はこれを読んでおかしいと思い藤枝に電話して訊いたら、あれは平野の発言だが、平野から、君が言ったことにしてくれと頼まれてやったと言い、卑怯だと激怒した立原は平野と絶縁したということが、平野の追悼文「平野さんとの距離」に書いてある。これは藤枝が「嘘に荷担した」数少ない事例であり、私が伝記を書いたとしたらこれは決して外さないだろう。名和哲夫の伝記は未見なのでそちらも確認してみる。なお著者が信頼を置いている青木鐵夫のウェブ上の年譜にも、この件は触れられていない。

(ただしこの「だまし取られた」は耕の妄想に近いが、川端の妻の弟の三八郎が耕に土地を貸した結果トラブルになったもので、その時川端が助けてくれなかったということが耕はのちに実名を出して言っているが、この時川端を非難した川嶋至は、武田勝彦に反論され、文藝誌から永久追放になった)

(小谷野敦)

天沢退二郎『光車よ、まわれ!』のアマゾンレビュー

どうも三年くらい前に書いたレビューらしいが、私が書いたのと、表示されているのとが違うので、私が書いたのをここに掲げておく。点数は三点。

「バトル・ファンタジー」

40年以上前から気になっていたのを、今回初めて読んだ。少年ドラマみたいな感じだが、詩人なので素人感がある。舞台は小田急線の祖師ヶ谷大蔵、千歳烏山あたりであることが地図から読み取れる。「中島みゆき」が登場するのが、偶然かどうか話題になっているが、やはりすでに中島みゆきを知っていたと思う。流山寺(るざんじ)小学校も、流山児祥からとってつけたのだろう。

岩波文庫『花魁と油売り 明代人情小説集』馮夢龍、大木康訳の「真珠の肌着」を読んで呆れる

 表題の岩波文庫に、東大東洋文化研究所名誉教授の大木康が訳した「真珠の肌着」として入っているのは、明代の「三言」と略称される『喩世通言』『警世通言』『醒世通言』のもとの題『古今小説』の巻頭にある「蒋興哥重会珍珠衫」の訳だが、この妙に読みにくい「小説」を読んで、私はそのバカバカしさに呆れ返ってしまった。

 筋はこうである。身分のある蒋という男が平氏・三巧児という妻を娶り夫婦は大変仲が良かったが、陳大郎という妻もいる男がこの三巧児に横恋慕し、薛という婆さんの口車に乗せられて、人妻と浮気をして三巧児は真珠の肌着を陳にあげてしまい、そのことが分かったので蒋は妻を離縁する。陳大郎には王氏という妻がいたが、自分の浮気がばれたことを知った陳大郎は病気になって死んでしまい、王氏はまたどういうわけか蒋と再婚する。王氏が持っていた真珠の肌着を見つけた蒋は、王氏の前の夫が前の妻の不倫相手で、死んでしまったことを知る。さて、蒋は道ばたである老人と争いになって老人が倒れて死んでしまう。この時、裁判を司ったのが知県の呉という男で、三巧児はこの男と再婚していた。罪に問われているのが元の夫だと知った三巧児は、それは私の兄だと言って夫に泣いて頼んで蒋が罪に落ちないようにしてもらう。蒋を連れてくると、蒋と三巧児は実は愛し合っていたので抱き合っておいおいと泣き、事情を知った呉は三巧児を蒋に与える。蒋には王氏がいたので、平氏を正室、王氏を側室とする。

 徳川末期の『梅暦』のような人情本で、三角関係は一人を正室、もう一人を側室にすることで解決するが、この方式は馬琴が「三七全伝南柯夢」でこしらえたものだが、馬琴は明代白話小説を読んでいたからそのもとはここにあったわけだ。それにしても、あまりのストーリーのバカバカしさに私は呆れ返った。 だが解説を見ると、これは名作だとされているらしく、セルバンテスの短篇と比較しながら、「一度は別れながらも、心のうちで、それぞれ未練を抱く心ばえが、しみじみと味わい深い」とある。

 私は恋愛の比較文化史が専門なので、中国文学の恋愛にも注意を払ってきたが、これは知らなかった。だが「源氏物語」も一夫多妻的だし、陳大郎が死んでしまうあたりは柏木を思わせるが、全然ストーリーの質が違う。中国人というのは本当に男性中心的な秩序の中に生きてきたんだなと言うほかない。

(小谷野敦)

 

辞書は三省堂!

 私は高校生の頃、親に頼んで読売新聞から朝日新聞に変えてもらったはずだが、どういうわけか、1994年から読売の日曜版で連載が始まったけらえいこの「あたしンち」を読んでいた記憶がある。94年から私は大阪にいたが、わざわざ読売をとるとも思えないので謎なのだが、確かそこに、頑固な感じの英語の先生が「辞書は三雀堂(さんじゃんどう)!」と呼号する場面がいささか滑稽に描かれていた。むろん「三省堂」のもじりである。

 実は私は中学生で英語を習い始めた時、辞書は三省堂だと思い込んでいて、『新コンサイス英和辞典』を買い、以後大学生の頃までこの辞書を使い続けたので、しまいにはぼろぼろになっていた。ところがふと気づくと、世間では研究社の「英和中辞典」という緑色の箱のやつを使っている人が多く、もしや、「辞書は三省堂」というのは古いんではないかと思い、小学館の「プログレッシブ英和中辞典」というのを買ったのだが、それから数年後、『別冊宝島 欠陥英和辞典の研究』というのを書店で見かけてすぐ買ったのだが、これが副島隆彦が書いて物議を醸したやつである。この時副島は、主として研究社の英和辞典を攻撃していたので、研究社が、あなたが指摘するようなことは他の社の辞典にも当てはまる、研究社だけ狙い撃ちするのは卑怯だと批判したのだが、私はむしろ、「辞書は三省堂」だと思っていたから、その時すでに研究社が英和辞典の権威になっていたことに軽い驚きを感じたりしたのである。

(小谷野敦)