柏原兵三の遺作「独身者の憂鬱」

柏原兵三(1933-72)は、大江健三郎と同期の友人だが、独文科へ進み学者になり、68年に「徳山道助の帰郷」で芥川賞をとったが、東京芸大助教授だった72年2月に急死した。38歳だった。

 「独身者の憂鬱」は中編で、「独身」として「新潮」71年9月号に一挙掲載されたが、新潮社では本にならず、72年1月に中央公論社から出ており、その一か月後に急死したわけである。

 自伝的作品らしく、青年がオナニーを覚え、女体を夢想しつつ、近くにいる女性に恋慕したりして、一人とはデートにまでこぎつけるのだがちっとも面白くなくて別れてしまったり、友人の誘いで娼婦を買ってみたりする。売春防止法施行以前となっているから1956年ころのことか、この時「影絵」というのを見るのだが、元幇間だという老人が、女体の人形を使って性戯を影絵として見せるもので、この部分がこの小説では一番面白いところか。芥川賞作家が書いたものとしてはかなりな凡庸の作で、新潮社で本にしなかったのはそのせいかと思う。

 当時の文学部の院では、就職の話は教授のところにしか来ないので、院生は教授に呼ばれて「群馬大へ行くか」と訊かれ、OKしないとそのまま放り出されると書いてあったが、当時はそうだったらしい。

 主人公は先輩夫妻が海外へ行った留守宅を預かるが、机の引き出しから、新妻の局部を撮影した写真を発見し、興奮してオナニーしてしまったりする。そういう点で私は研究対象としてはこれは面白かった。柏原は疎開先でいじめられた経験があり、それを「長い道」に書いたのを、のちに藤子不二雄が漫画化し、映画にもなっている。死去の際は結婚していた。

小谷野敦

吉村昭の「ほんのりしたチチ」

吉村昭の『蟹の縦ばい』に「ほんのりしたチチ」というエッセイが入っている。同人誌の友人のP君というのが、家業のクリーニング屋をやりながら小説を書いていて、芥川賞直木賞の候補にもなったという。その人がある時自分の胸部をさらけだして、チチが少しふくらんでいると言って触らせたというのだ。その後その人はクリーニング店を家族に任せて、詩の同人誌を出すようになったという。

 川口則弘さんに訊いたら、直木賞候補にはなっていないが、須田作次(1925-2006)だろうという。なるほど、「福島県生まれ。日本大学芸術学部中退。家業を営むかたわら『文学者』等に作品を発表。同人誌『MY詩集』主宰。」と「直木賞のすべて」にあり、1962年に「島のしらが」で芥川賞候補になっている。

      •  著書は三冊ある。
    • 異本在原業平. 東京書房, 1957 

吉村昭が違って見える

私は吉村昭(1927-2006)の愛読者である。しかし全作品はあまりに多すぎて読み切れていない。エッセイ集『蟹の縦ばい』(1979、のち旺文社文庫、中公文庫)を読んだら、うすうす気づいてはいたが知らなかった面を知った。

・大酒飲みであることを知った。多作な作家は、馬琴、漱石、川端など下戸であることが多い。そうでなければ多作できないだろう。吉村は多作な上に取材を必要とする小説を多く書くから、ものすごく多忙で、酒を飲んでいる暇などないだろうと思っていたから意外だった。

・世代相応に男尊女卑家であることが分かった。妻は津村節子で、小説を書いてもいいという条件で結婚したが、本心では小説を書く妻などは嫌だったという。呆れたのは、自分の誕生日に、夕方から近くの飲み屋へ出かけて酒を飲み、夕飯の支度ができたら飲み屋へ電話がかかってきて、それから家へ帰るということにしていたら、飲み屋で学生たちと知り合い、亭主関白ぶりを見せつけようとして、電話がかかってきてからも30分くらい飲んでいたら、また電話がかかって、ほかの人(子供二人)はみな食べてしまったと言われたという話だ。

芥川賞候補に四回なって落とされた不遇時代の話が有名だが、両親を早くなくしてはいるが実家は会社をやっていて兄がそれを継いでおり、吉村は本当に苦しい時はその会社へ勤めに出ていたりして、本当の貧乏ではなかったことは知っていたし、70年代には津村が少女小説を書いてかなり稼いでいたことも知っていた。だが家には常勤のお手伝いさんがいて、谷崎潤一郎のように家族同様にしていたと知り、ブルジョワだなあ、と思った。

・子供のころ、浅草住まいで、家の近所に四軒の映画館があり、ちょっと足を伸ばせば12軒あり、時どき親の目を盗んで映画を観に行っていたという。映画だってカネがかかるし、やっぱり都会のブルジョワ育ちなんだなと思った(高校から学習院だし)

・これは時どき思うのだが、小学校の担任の先生の名前がフルネームで書いてある。もしや昔の通信簿には担任のフルネームが書いてあったのだろうか。私はかろうじて苗字を覚えているだけだ。

 

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小林勇「隠者の焔」など

岩波書店の会長だった小林勇が、『文藝春秋』1970年6月号に書いて、同名の短編集として文春から出したものは、明治の学者・狩野亨吉の隠された生活を推測して描いたものである。狩野は生涯独身だったが、柳田千津子という女と若いころ何らかの関係があり、姉の富子とも何か不思議な関係があり、40歳を過ぎてからは隠遁生活を送り、膨大な春画を描いていたという。春画といっても、それはどうやら自分を主人公にしたものだったらしい。そして狩野は、125歳まで生きるつもりだったらしい。

珍映画「LOVE LIFE」を観た

深田晃司監督の「LOVE LIFE」という映画を観たらかなりの珍物だった。若い夫婦らしい木村文乃永山絢斗に、4歳くらいの息子らしい男児がいて、その男児がオセロの王者になったのでお祝いをしている。そこへ夫の両親(父は田口トモロヲ)が来るんだが、実は男児は妻の連れ子で、妻のほうは再婚、夫のほうは前の同じ役所に勤める彼女を振って結婚し、両親は不満だということが分かる。しかるに風呂で遊んでいた男児が足をすべらせて事故死してしまう。

 葬儀に、男児の実の父が現れるが、これが父が韓国人、母が日本人という韓国籍の男で、ろうあ者という設定。しかもあとでわかるが50歳近いらしく、なんで妻が結婚していたのかかなり不明。妻はキリスト教徒らしく、夜中にホームレスのために炊き出しをやったりしているから、福祉の心で結婚したんだろうか。韓国人はそれまで何をしていたのか不明なまま、役所へ生活保護の手続きに来て、元妻は手話通訳をするはめになる。

 夫は欠勤が続く元カノに会いに行ってキスしてしまうし、韓国人は義父が危篤だというのでフェリーに乗って帰国するのに、妻は「あの人を放っとけない」と言って同乗してしまうが、義父が危篤というのは実は嘘で、息子の結婚式だった。妻は帰ってきて夫と顔を合わせ、これからどうするか、というところで終わるのだが、そもそもこの妻の両親というのがまったく何をしているのか分からない。途中で地震も起こるし、受けそうな要素をあれこれぶちこんだだけの珍作・駄作としか思えなかった。

小谷野敦