「肩させ裾させ」と「促織」

 コオロギのことを「ツヅレサセコオロギ」とも言い、これは秋になって鳴くのは、寒い冬に備えて衣服を織れと促して「肩させ裾させ綴れさせ」と鳴くからだと説明されている。
 しかしこれは、シナ発祥のことがらで、シナではコオロギを戦わせる「闘蟋」という賭けを伴う遊びが盛んで、瀬川千秋の『闘蟋 :中国のコオロギ文化』には、コオロギは「快織(カイジー)、快織(早く機を織って寒さに備えよ)」と鳴くのだと聞きなし、それでコオロギを「促織」と呼んで、後漢の「文選」にはすでにこの呼称があったというのだから、日本の文明以前からあった呼び名で、唐代の杜甫にも「促織」というコオロギを詠んだ詩があるという。それをいつ「肩させ裾させ」と日本流に翻訳したのかは知らないが、誰か調べた和漢比較文学者はいないのであろうか。

 

三田誠広「遠き春の日々 僕の高校時代」アマゾンレビュー

 

2022年5月18日に日本でレビュー済み

 

近松秋江の日記

青木正美さんから著書「昭和の古本屋を生きる」(日本古書通信社)を送ってもらったら、青木さんが以前所持していた近松秋江の未刊行日記の紹介があった。大正十四年(1925)のもので、新潮社から出た「文章日記」だが、あまり本式には書かれておらず、三万円で落札したとのこと。紹介されたのは、三月の、新しい女中が来たことと、11月に、徳田秋聲還暦祝賀の相談会をやったことくらいである。すでに手元にはなく、誰に売ったかは分からないとのことであった。

ヘンリー・フィールディング伝 澤田孝史    アマゾンレビュー

これは面白い
星5つ 、2022/05/06
こんな面白い伝記がなんで刊行当時話題にならなかったんだろう。はじめ劇作家としてファルスの名人とされ、ついで小説で名をあげつつ、治安判事にもなり、政治にもからんだ46年の太く短い人生を、著者の善悪両面を容赦なく描く筆致が抉りに抉る。一般読者は偉人伝が好きだからこういう書き方は嫌うのかもしれないが、はじめのうちは無味乾燥に見えるがいったん本筋へ入ると飽きさせない。ちょっとこの著者がその後、大学の先生はしているが論文を書いている様子がないのは心配だ。

竹田出雲二代(最終回)

 宝暦二年五月には新作「世話言漢楚軍談(せわことばかんそぐんだん)」を上演した。作者は、竹田外記を名のった出雲、冠子、半二、松洛、中村閨二である。この十月には、京都の北側芝居で、上方で最も人気のある女形となった中村富十郎が「百千鳥娘道成寺」を踊っている。竹本座では、十一月には同じ顔ぶれの作「伊達錦五十四郡」が上演されたが、出雲としてはつくづく、千柳の力の大きかったことを思った。吉田文三郎はいよいよ野心をふくらませ、竹本座から自立したい気勢を見せ、出雲はこれを押さえていた。この年、竹田の一族で死んだ女性がいることが墓誌で確認されているが、出雲の後妻ではないかとされている。
 宝暦三年(一七五三)七月二十一日、竹田小出雲が死んで、のちの三代出雲清宣が三代目小出雲となった。おそらく小出雲はのち竹本座座元の前名であり、出雲の息子が小出雲を名のっていたのが、少年の年ごろで死んでしまい、出雲の弟が三代小出雲になったのではないかとされているが、本当はどうなのか分からない。
 五月五日からは新作「愛護稚名歌勝鬨」を上演した。出雲は竹田外記を名乗って筆頭作者となり、ほかに冠子、閨助、半二、松洛、中邑阿契となっている。これは説経節「愛護若」を中心にしているが、その筋はほとんどなくなり、平将門を討った俵藤太と、征東将軍として途中まで向かった藤原忠文が、藤太と平貞盛が将門を討ったために恩賞に与れず、怨霊となった話をもとに、藤太の子・藤原千晴と、忠文の孫・古曽部蔵人の意趣を背景に、政治を壟断する高階景連を討つまで、複雑な筋が展開する作品である。
 翌宝暦四年には、二月に「菖蒲前操弦(あやめのまえみさおのゆみはり)」、四月に「小袖組貫練門平(こそでぐみかんねらもんべい)」、十月に「小野道風青柳硯」と、同じ顔ぶれで出したが、平安時代前期の謀反ものである「小野道風」が久しぶりに当たりをとり、歌舞伎でも上演された。小野道風と柳と蛙のとりあわせはこの浄瑠璃に始まる。
  十一月に江戸では、二代目松本幸四郎が二代目團十郎だった海老蔵の養子となり、四代目団十郎を襲名した。これは三代目團十郎が早世して空白になった期間をへてのことで、のちに四代目は実子の三代目松本幸四郎に五代目團十郎を譲って自分は幸四郎に戻り、さらに海老蔵を襲名するという経緯をたどっている。団十郎松本幸四郎の名はこのような所以でからみあっており、明治以後、七代目松本幸四郎となったのが、三重県出身で振り付け師の藤間勘右衛門の養子という地位ながら、幸四郎の名を襲名したのにはずいぶんカネがかかったというが、そこから團十郎不在の時代に「勧進帳」の弁慶を一六〇〇回演じたと言われ、長男がのち十一代團十郎になったのもゆえのないことではなかったのである。
 だが、その年の年末から、出雲の体調が優れなくなった。六十四になるが、親爺はもっと高齢まで元気だったが・・・・と思いつつ、腹の具合が悪く、漢方医を呼んだが、腹に手を当てていた医師の顔色が変わったのを、出雲は目にしてしまった。
 座では、旧作を上演していたが、客はそれなりに入っていた。文三郎の人気が高かったからともいえる。
 七月のごく暑い日だったが、出雲はひそかに、息子の小出雲に、松洛と半二を枕元へ呼んだ。
 「多分あたしはもうダメだと思う」
 出雲は、そう言った。小出雲は前から聞いていたが、松洛も半二も、うなだれて聞いていた。
 「この先、竹本座が前の勢いを続けられるとしたら、半二、お前さんが中心になってのことやと思う」
 半二が身を乗り出そうとしたのを出雲は両手でおさえて、
 「もちろん、そないなことは分からん。分からんが今のわっちの見るところではそうや。そやから、松洛さん、ご苦労やけどそのつもりで半二を育ててやっておくれやす」
 松洛と半二が、涙を流し始めた。
 「あとな、ええことばかりやないねや。文三郎のことや」
 二人の顔が引き締まった。小出雲は前から聞いていた。
 「あれは利かん男やなあ。芸人ちゅうのは、時にはああでなけりゃあかんこともあるけど、こっちからしたら話は別ちゃ。どうしてもこれはあかんと思たら、追い出しておくんなはれ」
 松洛が固唾を呑んだ。
 「おい・・・水」
 出雲が妻を呼んで、水を飲ませてもらっているのを潮に、松洛と半二は席を立った。
 翌明暦五年には、松洛、半二らの新作「崇徳院讃岐伝記」を、出雲以下の作者名義で上演したが、すでに出雲はその上演を観ることも難しくなっていた。
 十月十五日からは、やはり出雲を筆頭作者とする新作「平惟茂凱陣紅葉」を上演したが、ついにこれが二代出雲の白鳥の歌となり、出雲は十一月四日、六十五歳で不帰の客となった。
 竹本座の座元は、四代目竹田近江が継いだ。息子の小出雲は二代目の没後四年で、三代目出雲を継いだが、作者として名を残すほどのことはなかった。そのため、一般に竹田出雲といえば、千前軒の初代出雲と、二代目出雲の二人が知られている。
 二代出雲の死後三年で、吉田文三郎は竹本座を追放されることになり、四代目竹田近江は『倒冠雑誌』というパンフレットを出して文三郎に対して竹本座の立場を守ったが、浄瑠璃作者については残った史料が少なく、昭和初年まで、竹田出雲が二代にわたることが知られていなかった。竹本座の再興を担ったのは近松半二だったが、「近江源氏先陣館」「妹背山婦女庭訓」などを当てたころには、竹本座自体が廃座となり、別の興行主の手に移っていた。世間の人気ははっきりと浄瑠璃より歌舞伎のほうに移り、天明三年、半二は最後の作品「伊賀越道中双六」を未完のまま五十八で没し、「伊賀越」は別の者の手で完成されて上演されたが、それが竹本座の残り香の最後の輝きとなった。

竹田出雲二代(第六回)

 延享五年(一七四八)七月十二日、桃園天皇の即位により寛延改元され、その八月十四日から、竹本座で「仮名手本忠臣蔵」が幕を開けた。始めは大当たりというほどでもなく、その長さに辟易する客もあったようだが、次第に人気が上向いてきた。
 だがその九月に、事件が起こった。九段目で人形を操っていた吉田文三郎が、語りの竹本此太夫に、人形の動きに語りを合わせてくれ、と注文をつけたが、此太夫が嫌がり、二人が衝突して、座元の出雲の調停に任された。出雲は、人気絶頂の文三郎を下ろすことができず、此太夫を休ませて、豊竹座から迎えた竹本大隅を代わりとした。これを不満として、此太夫は、島太夫、百合太夫、友太夫と連袂して退座、ライヴァルの豊竹座へ移籍した。豊竹座から代わって竹本座へ、千賀太夫長門太夫、上総太夫が竹本座に入った。「忠臣蔵騒動」と呼ばれるこの事件で、竹本座の客足には鈍りが出た。
 それでも「忠臣蔵」の人気は高く、十二月には大坂の嵐座で上演され、嵐三十郎が由良之助と勘平を演じた。翌寛延二年二月には江戸の森田座で上演され、山本京四郎が由良之助、五月からは市村座坂東彦三郎が由良之助、六月半ばから残る中村座澤村長十郎が由良之助で、江戸三座がそろって上演することになった。
 当時は著作権の概念がないから、浄瑠璃と歌舞伎の当たり狂言は、このように他座で断りもなく上演されるのであった。そのせいでもあるまいが、「忠臣蔵」は一年は続演せず、寛延二年四月からは、出雲・松洛・千柳の「粟島譜嫁入雛形」を掛けている。これは謡曲「富士太鼓」の流れをくむ富士浅間ものの一つで、享保年間に並木宗輔が豊竹座で書いた「莠伶人吾妻雛形(ふたばれいじんあづまのひながた)」の書き換えであった。七月からは、出雲・松洛・千柳の新作「双蝶蝶曲輪日記」の上演が始まる。「夏祭浪花鑑」に続く男の侠気を描いたもので、相撲とり濡髪の長五郎、捕手の南与兵衛のからみあいが眼目で、翌年歌舞伎で上演され、今もよく上演される。その上演中の七月二十四日、三味線方の長老の、初代鶴沢友次郎が死去した。
 出雲は五十八歳になっており、座の経営に専念するため一時作者から離れ、千柳と松洛二人で「源平布引滝」を書いて、十一月に上演し、上々の当たりをとった。翌寛延三年は旧作の上演が続いたが、千柳が古巣の豊竹座に戻りたいと言い出したため、出雲、松洛は止めたが、意思は固く、ついに最後の置き土産として、千柳・松洛作で「文武世継梅」源頼信・頼親を十一月に上演し、千柳は豊竹座へ戻って宗輔に名を戻した。代わって作者部屋に乗り込んできたのが、人形遣いの吉田文三郎で、吉田冠子と名のって作者に名を連ね、寛延四年二月には、吉田冠子・三好松洛作「恋女房染分手綱」を上演すると、大当たりとなり、八カ月の続演となった。初めて作者に名を連ねて松洛を越えて筆頭作者となるなど、文三郎の才気と我儘勝手さが目につき、千柳が竹本座を離れたのも文三郎が鬱陶しかったからだと分かる。
 その大当たり続演のさなかの六月二十日、将軍職を息子の家重に譲って大御所となっていた八代将軍吉宗が死去した。九月七日には、豊竹座へ移ったばかりの並木宗輔が五十七歳で死んでしまった。竹本座では十月から、「役行者大峰桜」を出したが、ここに作者として加わったのが二十七歳になる近松半二である。近松門左衛門に親炙し、「虚実皮膜」の論を『浪花土産』に書いた儒者・穂積以貫の息子で、本名を成章という。義太夫好きのあまり父のつてで竹本座に入り、私淑する近松の名をもらって近松半二と名のり、のち竹本座の最後の栄光の日々をもたらす浄瑠璃作者になる。「役行者」は、壬申の乱を扱ったもので、天智天皇の死後、その皇子を名のる悪人の大友の皇子が、天智の弟の清見原皇子に打ち負かされる話を、いろいろ家臣の者の浄瑠璃的な逸話で彩ったものである。立作者が竹田外記と名のった出雲で、ほかに竹田文四である。この文四というのは何者か分からない。ほかに松洛、冠子が加わる。半二は序段を書いただけだが、作中には千島之助、初日という恋人同士が、忠義のために自害する場面があり、半二はのちに自作『妹背山婦女貞訓』でこの趣向を繰り返している。その上演中の十月二十七日、吉宗の死や前年の桃園院の死を契機として宝暦と改元された。十二月には豊竹座で、並木宗輔の遺作となった「一谷嫩軍記」が上演され当たりをとった。
  招かれて、初日に出雲と松洛はこれを観に行った。一の谷の合戦が出てくると知った出雲は、
 (あっ)
 と思った。ここでは熊谷次郎直実が平家の公達・敦盛を討つ。観ていると、案の定、それは直実の子供を身替りにしたものだった。松洛が、ちらりと出雲の顔を見たから、出雲もうなずいて見せた。
 子供の身替りは、父の初代出雲が得意とした、浄瑠璃にはよくある趣向だったが、二代出雲はこれを嫌った。千柳の宗輔は、出雲のもとを離れて、思いのまま翼をはばたかせ、子供の身替り劇を残して旅だったのだ。
 「十六年はひと昔」
 という熊谷の述懐を聴いて、出雲はひたすらに泣いた。
 (何が十六年だ、お主は五年しかいなかったやないか)
 という涙である。松洛も同じことを思ってか泣いていた。実に「三大名作」は、並木千柳が竹本座にわずか五年いた間に作られたのであった。 
 宝暦二年五月には新作「世話言漢楚軍談(せわことばかんそぐんだん)」を上演した。作者は、竹田外記を名のった出雲、冠子、半二、松洛、中村閨二である。この十月には、京都の北側芝居で、上方で最も人気のある女形となった中村富十郎が「百千鳥娘道成寺」を踊っている。竹本座では、十一月には同じ顔ぶれの作「伊達錦五十四郡」が上演されたが、出雲としてはつくづく、千柳の力の大きかったことを思った。吉田文三郎はいよいよ野心をふくらませ、竹本座から自立したい気勢を見せ、出雲はこれを押さえていた。この年、竹田の一族で死んだ女性がいることが墓誌で確認されているが、出雲の後妻ではないかとされている。
 宝暦三年(一七五三)七月二十一日、竹田小出雲が死んで、のちの三代出雲清宣が三代目小出雲となった。おそらく小出雲はのち竹本座座元の前名であり、出雲の息子が小出雲を名のっていたのが、少年の年ごろで死んでしまい、出雲の弟が三代小出雲になったのではないかとされているが、本当はどうなのか分からない。
 五月五日からは新作「愛護稚名歌勝鬨」を上演した。出雲は竹田外記を名乗って筆頭作者となり、ほかに冠子、閨助、半二、松洛、中邑阿契となっている。これは説経節「愛護若」を中心にしているが、その筋はほとんどなくなり、平将門を討った俵藤太と、征東将軍として途中まで向かった藤原忠文が、藤太と平貞盛が将門を討ったために恩賞に与れず、怨霊となった話をもとに、藤太の子・藤原千晴と、忠文の孫・古曽部蔵人の意趣を背景に、政治を壟断する高階景連を討つまで、複雑な筋が展開する作品である。

竹田出雲二代(第五回)

 まさに竹本座の黄金時代が訪れた。この機を逃さず、出雲ら三人は「仮名手本忠臣蔵」の製作に取り掛かった。ほぼ五十年前に起きた、赤穂の浅野内匠頭による高家吉良上野介への江戸城内での刃傷と切腹大石内蔵助に率いられた四十七人の浪人による吉良家討ち入りは、日本中の話題となり、幕府は四十七士に切腹を申し付けたが、次の将軍となった家宣は浪士びいきだったし、多くの武士が四十七士を武士の鑑と称えた。
 徳川時代には、関ヶ原合戦以後の同時代の出来事を劇化・小説化することは禁じられていたが、「世界」を変えることで見逃されていた。赤穂事件は、事件直後からそのようにして劇化されていた。はじめは吾妻三八による歌舞伎化「鬼鹿毛無佐志鐙」で、大石は大岸宮内とされ、小栗判官の世界に移された。大坂篠塚庄松座でのことで、豊竹座の紀海音は「鬼鹿毛武蔵鐙」と同じ外題でこれを書き直して上演されている。
 『太平記』の高師直、塩谷判官を最初に用いたのは、宝永五年(一七〇八)京都の亀屋座で上演された歌舞伎「福引閏正月」だとされるが、近松門左衛門はそれより先の宝永三年に、「兼好法師物見車」を書いて初演されている。これは『太平記』の、師直が塩谷判官を討つ話で、その発端は塩谷の妻に懸想した師直が、兼好法師に恋文を代筆させたというところからこの題になっている。しかるに近松はその四年後にその続編として、「碁盤太平記」を書き、塩谷の浪人たちを大星由良之介がたばねて師直の屋敷を襲撃してこれを討つ話としている。なお「兼好法師物見車」では、塩谷の家老は八幡六郎となっており、のち大星と改名する。赤穂浪士の討ち入りは大坂・京都でも話題だったが、幕府として同時代の出来事を脚色するのはご法度だったから、このような形にして、もし咎めを受けても「兼好法師物見車」だけは助かるようにしたと言われる。
 ほかにも、浄瑠璃・歌舞伎の赤穂浪士ものは多いが、大石内蔵助を大岸宮内とするもの、大星由良之介とするものがあり、小栗・横山の世界にするもの、師直・塩谷の世界にするものがあり、塩谷の妻の名を顔世とするものがあった。豊竹座の「忠臣金短冊」は、小栗・横山の世界で、大石は大岸由良之助とする混成形式であった。
 赤穂浪士ものは、浅野内匠頭の七回忌、十四回忌などにブームになっていたが、五十年後が近づいてまたあちこちで上演され、延享三年(一七四六)七月十八日、大坂の中の芝居の市山座で、吾妻三八作の「大矢数四十七本」が上演され、座元の市山助五郎が大岸宮内を演じたといい、延享四年には京都の中村粂太郎座で、澤村宗十郎が次作自演した「大矢数四十七本」が上演されたという。
 『歌舞伎年表』は、明治期に伊原敏郎(青々園)が編纂したものだが、そこに「大矢数四十七本」について、「この狂言を更に竹本座の人形に移して、「仮名手本忠臣蔵」となせしなり」と書いてある。しかし「大矢数四十七本」の台本は残っておらず、伊原が何を根拠にこう書いたのか分からない。渡辺保はこれによってか、「仮名手本忠臣蔵」にオリジナリティ―がないかのごとくに書いているが、疑わしい。
 「仮名手本」のほうの主人公といえるのは、むしろ早野勘平とお軽であろうが、そのモデルとなったのは萱野三平とされている。萱野は浅野家の家臣で、内匠頭の刃傷を早駕篭で赤穂へ知らせた一人だったが、浪人後、郷里の摂津国萱野村へ帰っていて、父から大島家への仕官を命じられて仕え、大島家が吉良家と関係が深かったため板挟みとなって苦しみ、切腹して果てた人物である。
 これをモデルとした早野勘平は、豊竹座の「忠臣金短冊」に登場している。小栗の家を浪人した勘平は、妻・歌木とともに敵の横山を討とうとして失敗し、妻が討たれるが自分は逃れる。さらに大岸(大星)に近づくが疑われて力弥に刺され、苦しい息の下から横山家の絵図面を大岸に渡し、大岸は連判状に血判を押させて、勘平は死んでいく。
 「大矢数四十七本」に「仮名手本」の勘平があったかなかったかは分からない。だが、あったとしたらそのことがどこかに記されているはずで、やはり「仮名手本」の勘平の物語は、オリジナルではあるまいか。
 もう一人、勘平の恋人お軽の兄・寺岡平右衛門がいる。これは史実の寺坂吉右衛門がモデルである。寺坂は足軽身分で、討ち入りには参加したが、吉良を討ったあと、公儀へ届け出るためほかの浪士たちと離れ、そのために切腹組から外れることになり、命存らえて、この「仮名手本忠臣蔵」初演の数年前まで生きていた。
 寺岡平右衛門は、岡平として「碁盤太平記」に登場する。彼は師直方に奉公して情報を探るが、そこから大星方へ送り込まれ、力弥に怪しまれて斬られる。そこで大星に初めて素性を打ち明け、碁盤に石を置いて師直方の軍備を教えて死んでいく。これが「仮名手本忠臣蔵」ではお軽の兄として登場する。
 赤穂浪士の物語は、判官の切腹、城明け渡しまでと、討ち入りの間を何でつなぐか、が成否の鍵を握った。この間をつないだのが、お軽勘平の物語である。そしてこれを考えたのは、並木千柳であろう。
 二代出雲、松洛を前にして、千柳が語る。
 「判官刃傷の時、小姓の早野勘平は腰元のお軽とあいびきをしておりやした。そのため塩谷家を追放されて、山崎街道沿いのお軽の実家に婿入りしておりやす。せやけど塩谷の討ち入りには参加したい。お軽の父親の百姓・與市兵衛は祇園の茶屋にお軽の身を売って五十両の金を作りやす。勘平は浪人の一人・千崎弥五郎・・・これは神崎与五郎ことでんな、これに再会して、仇討の資金を調達するから、仲間に入れてくれるよう話します」
 出雲と松洛は、うんうん、と聞いている。
 「ところは山崎街道、五十両の金を懐に家路を急ぐ与市兵衛の前に現れたのは山賊一人、これ、実は塩谷の家老だった斧九太夫の息子の定九郎でやす」
 「あ、大野九郎兵衛やな」
 出雲が言う。史実において、大石の一味に加わらなかった不忠者として知られるのが大野九郎兵衛で、赤穂の開城後は行方知れずになっている。その息子を、あろうことか山賊にしてしまうのである。
 「与市兵衛を殺して五十両入った財布を奪ったところへ、猟師になった勘平が猪を追ってやってきま。猪のつもりで撃った弾は定九郎に当りま。暗闇をやってきた勘平は、手さぐりで、人の体に触り、驚いて薬はないかと懐中を探りますのや。すると出てきたのが五十両の入った財布。これがあれば浪士の仲間入りができると、勘平は死骸をそのまま、家へ帰ってきますのや」
  出雲、松洛は頷いて聞いている。浄瑠璃にはありがちな展開だ。
 「与市兵衛の家ではその妻おかやとお軽がおります。そこへ、お軽を売った店の女主人と番頭がやってきて、お軽を早う引き渡すよう談判しております。おかやは、与市兵衛がまだ帰らないので待ってくれと言っております。そこへ番頭が、これと同じ縞の財布に五十両入れて渡した、と財布を見せますが、それを見た勘平がぎょっとします。あれこれやりとりのあと、勘平は、途中で与市兵衛に会ったと言い、店の主人らはお軽を駕篭に乗せて連れて行ってしまいます」
 出雲と松洛が、一様に首を傾げた。やや不自然だと思ったからだが、浄瑠璃ではこの程度の不自然はよくある。それでもそのたびに気にしてはいる。
 「お軽が行ってしまったあと、村人数人が、与市兵衛の死骸をかつぎこんできます。おかやはびっくり仰天しますが、そこへ浪士のうち、千崎と原郷右衛門がやってきます。おかやは、勘平に対して、いかに元武家じゃとて、舅が死んだのにちっとも動揺していない、己れが殺したのじゃろ、と詰め寄ります。浪人のうち、一人は怒りだします」
 出雲が、ちょっと首をひねった。
 「そこで勘平が、人々の目を盗んでいきなり腹に刀を突きたてる」
 出雲と松洛が、ははあ、という風に少しのけぞった。
 「それから長台詞で、猪と思って撃ったのが舅だった、と話します。その間に、浪人の一人が与市兵衛の死骸を検めて、これは刀傷や、と言います。そういえばここへ来る途中定九郎が死んでいた、というところから、与市兵衛を殺したんは定九郎で、勘平が撃ったのも定九郎だと分かり、勘平はいまわの際に、浪士たちの血判状に血判を押してこと切れる」
 「ははあ」
 と出雲がうなり、
 「いいでんな、それで、お軽はどうなります」
 「それが次の段、祇園一力の茶屋の段で出てまいります」
 「あ、なるほど、そこで大星の遊蕩となるわけですな」
 「さよう。大星は敵方を欺くため祇園・一力の茶屋で遊蕩に耽っております。敵方に寝返った斧九太夫ーこれが大野九郎兵衛ですなーが、大星を試すためにご主君の命日だというのに蛸を食わせ、大星はいやいやながら食うという趣向です」
 「えげつないもんですな」
 「これはあとで意趣返しがあります。食べ酔うて寝てしもうたふりの大星のところへ三人の浪士が来て性根を確かめようとしますが、大星は寝ていて答えず、三人が呆れて帰ってしまうが、足軽の寺岡平右衛門だけは残ります。これは、討ち入りに参加させてもらいたいのと、妹のお軽に会うためです」
 「あ、寺坂吉右衛門(史実の)の妹がお軽いうことなんやな」
 と松洛が口を入れ、千柳は、さようでおます、と言って先を続ける。
 「そこへ、大星の息子・力弥がやってまいります」
 これまでの「赤穂浪士」ものでも、大石内蔵助の息子で討ち入りに最年少で参加した主税は、大星の息子・力弥としてたびたび登場しており、名前は一貫している。祇園の茶屋では、力弥の色恋が描かれたこともある。
 「力弥の合図で寝たふりをしていた大星が起き上がり、こっそり力弥から文を受け取ります。それを縁側へ出て読んでいると、片側の高い座敷で、酒で盛り潰されて寝ていたお軽が、恋文を読んでいるのだと思い、手鏡に写したものをこっそり読み取ります」
 また、出雲と松洛が首をかしげたが、千柳は、あとで説明しますという目まぜをした。
 「ところが、お軽と大星の目が合ってしまい、大星は梯子を持ってきてお軽を高い部屋から下ろし、ぐじゃぐじゃと話をして、大星が惚れた、見受けしょう、と言います。大星が行ってしまうとお軽は・・・・」
 「ちょっと待った」
 出雲が声をかけた。
 「お軽は父と勘平の死んだのは知らん言うことでっか」
 「そうです。そこが肝どすさかい。さてお軽は喜んで、家に手紙を書こうとします。そこへ入れ替えに戻ってきたのが平右衛門で、お軽と出くわす。けど父と勘平が死んだのは言えない。お軽は平右衛門に、請け出されたと喜びを伝えます。それが大星にだと聞いて、ああ本心放埓、主君の仇を討つ気はないのか、と平右衛門が嗟嘆すると、お軽が、盗み読んだ文の話をして、あるぞえ、と言う。詳しく聞いた平右衛門、大星がお軽を身請けして殺す気でいるのが分かり、お軽を自らの手で切ろうとする。そこで、親与市兵衛と勘平が死んだことを初めて話し、言い含められてお軽も覚悟をすると、奥から大星が出てきて、両人とも心底見えた、と平右衛門に義挙に参加する許しを与え、床下に潜んでいた九太夫を、お軽の手を借りて刺し殺します」
 語る千柳も興奮していたが、聞いていた出雲と松洛も手に汗握ってしまった。山崎での勘平の切腹にもやもやしていたものが、ここでぴったり一つにまとまるのを感じたからだ。大石の遊蕩は何度も描かれているが、これほど鮮やかにふくらませたのは知らない。
 「ちょっと待ってください、これで六段目なんですか」
 と出雲が声をあげた。浄瑠璃は普通五段で完結するが、これではまだまだ完結しない。
 千柳は、
 「そうです、今回は五段で終わらせないつもりです。七段、いや九段になるか」
 赤穂事件ものの集大成として絶後の傑作ができるのだ、ということは、作者たちの了解事になっていた。さらにこの後は、史実の上で浅野内匠頭を後ろから抱き留めた梶川与惣兵衛を「加古川本蔵」として主人公とし、その娘と大星力弥が許嫁だったという話があり、さらに浪士たちに加担した天野屋利平も入れることになっている。段数は、外題の文字数と同じく奇数にすることにして、九段ないしは十一段ということで、出雲、松洛があとを続けることになった。
 結局、第八が「道行旅路の花聟」として景事、第九が、梶川与惣兵衛をモデルとする加古川本蔵の娘が大星力弥の許嫁だという設定から、由良之助が出てきて本蔵が腹を切る「山科閑居」、第十が、天野屋利兵衛をモデルとする天川屋義平が、師直の手下らに屈しない男伊達ぶりを描く「天川屋」、第十一が最後の討ち入りの段ということで、出雲、松洛が手分けして書いた。