中国の恋のうた――『詩経』から李商隠まで (岩波セミナーブックス ) 川合康三・アマゾンレビュー   


男の片思いはやはりないか
星3つ 、2021/11/25
岩波のセミナーで語った内容なのでですます調。まえがきで、丸谷才一の『恋と女の日本文学』を名著としているがそれは疑問だが、丸谷が推して読売文学賞をとった張競の『恋の中国文明史』が無視されているのは意図的か。チャイナ文芸に恋のものは少ないと言われるが、『詩経』国風にはある。そこから六朝詩、李商隠と紹介していくが、『遊仙窟』を「下品なポルノ小説」(152p)と切り捨てているあたりは、おおやはり儒教道徳がしみついたチャイナ文学者だとのけぞった。チャイナ文芸には、男の片思いを述べた詩や小説が欠けていて、もっぱら相思相愛の才子佳人もの、ないし女の閨怨が主である、ということが改めて確認できた

統計学のサンプル数と文系知識人に時々ある傾向

私が若いころ、選挙の日に八時を過ぎると刻々と当落が伝えられていたのが、八時になるといきなり多量に当落の予想が出るようになった。出口調査の結果だが、これで選挙速報が面白くなくなったと言う人が多かった。

 また、その程度のサンプル数でなんで分かるんだと言う人もいて、それは統計学的には正しいのだが、文系知識人でもけっこう「信用できない」と言う人がいたが、この20年でそういう人もだいぶ減っただろう。これはテレビの視聴率調査についても、自分の周囲で調べられている人なんかいない、その程度の数でホントにわかるのか、といった文章を書いている人が昔はいた。

 文系の知識人のこういう限界はだんだんなくなってきているが、あとは進化論あたりが、特に米国などで信用しない人がいる。日本では生成文法がなかなか理解されず、サピア・ウォーフの仮説が今なお跋扈しているありさまである。生成文法を教えているのが文学部だから、かえって話は面倒である。

少年マンガと少女マンガ

少年マンガに比べて少女マンガの批評が少ない」と書いた人に対して、「少女マンガのほうが批評が多いだろう」という声があがっている。確かに橋本治のとか、少女マンガは論じられているようには思えるが、手塚とか石ノ森、永井豪、白戸三平、水木しげる、赤塚、藤子、長谷川町子など考えると一概にそうも言えない。だいたい現代の日本は膨大な量の「マンガ」が流通していて、少年、少女だけでなく大人マンガ、青年マンガ、レディコミなどジャンルも数多いし、何をもって批評とするのかもはっきりしない。礼賛も批評か、文庫化された際の解説文も批評か、と考えると、学問的事実を確認するのは不可能に近い。そもそも全体の中での「少女マンガ」の比率という問題もあるし、たとえば「キャンディ♡キャンディ」は批評されているのかといった問題もある。

 私はむしろ最近「批評」という言葉が定義されずに流通し、定義についての議論も起こらないことが問題ではないかという気がする。

「親にはナイショで・・・」の思い出

「親にはナイショで・・・」は1986年1月から3月までTBSで放送されていたドラマで、私は途中から観ていた。当時秋葉原はまだオタクの聖地ではなく、その電気店の店長をしているのが原田芳雄で、その妻が星由里子、これが花登筐が死んだあとだったので目が覚める美しさだった。その息子が高校受験を控えているのだが、安田成美が演じる高階えり子という謎めいた女子大生が家庭教師につくのだが、15歳の息子がこの「えり子さん」に恋してしまい、あやうく・・・といった筋で、これにえり子と知り合って惚れている駅員の柳沢慎吾と、えり子の弟の尾身としのりと、その彼女になる美保純、原田芳雄とアヤシイ店員の高橋ひとみなどがからむ。

 当時私は英文科の四年で、大学院の試験を受けて落ちるのだが、もちろん童貞だったし、うらやましく思いながら観ていた。安田成美は地方の金持ちのお嬢さんらしく、最終回で柳沢慎吾とベッドインしたあと、姿を消してしまう。

 原田芳雄はどういうわけか、妻を「広子さん」と呼び、ですます体で話すが、これは宇崎竜童をモデルにしたんじゃなかったか。妙にモヤモヤするドラマであった。あと東大の美術史の教授だった高階秀爾の娘が絵里香というが、これは偶然だろう。

マルグリット・デュラスと小児性愛

マルグリット・デュラスの『愛人(ラマン)』がゴンクール賞をとり、日本でもベストセラーになったのは1985年のことで、ほどなく映画化もされヒットした。デュラスは私小説作家ではないが、自分が14歳のころインドシナでシナ人富豪にカネで買われていた経験を描いたものである。

 のちに私はマーゴ・フラゴソの『少女の私を愛したあなた』という告発文を読んで、これだとペドファイルで非難になるのに『ラマン』が文芸作品扱いされるのはどういうわけか、と書いたが、どうやら最近ではデュラスは自分を対象とする小児性愛を肯定したと批判されるようになったらしい。

 これというのも昨年、フランスの作家マツネフというのが、少女をセックスの対象にしていたのを批判されてからで、(「同意」 ヴァネッサ・スプリンゴラ 著, 内山奈緒美 訳. 中央公論新社, 2020.11)、当時フランスの知識人らが、少女との性愛はOKだという署名をしたとされ、ボーヴォワールフーコーも書いたとされ、のちフーコーは書いていなかったと訂正される騒ぎになってからである。

【毒家族】マルグリット・デュラス “小児性愛”を肯定した仏大作家と長男至上主義の母(ELLE DIGITAL) - Yahoo!ニュース

「しかしこの作品が世界的作品となったことには大きな問題があった。この関係性は明らかに少女買春であり、ペドファイルの物語。それを「愛だった」と結論付け、大っぴらに肯定してしまった。」

 佐伯順子さんは、90年代半ばから、デュラスの「愛人」と樋口一葉、特に「にごりえ」の比較というのを何度か書いている。別にデュラスが一葉を読んでいたわけではないし、こちらは私小説でもあり、そもそも「比較文学」というのはこういう関係ない作品をいきなり選び出して比較するものではない。「アメリカ派」などと言われてやる人も以前はいたが、今では異端である。

 はじめはちょっとした手すさびだったのだろうが、最新の『比較文学研究』106号にも「コンタクト・ゾーン」における女性の〈声〉: 「にごりえ」と『ラマン』が描くジェンダーの共鳴 」という「論文」を載せていて、まだやっているのかと呆れたものだが(なおこの雑誌は査読雑誌だが、これは依頼して載せた論文なので査読つきではない)、佐伯さんは、少女のデュラスが、男社会が作った性軌範から自由であるといった擁護の仕方をしていて、これは90年代に宮台真司が、援助交際少女を擁護したときに使ったのと同じ論法で、佐伯さんは時代が変わったことには気づいておらず、これでフェミニズムをやっているつもりなのだろう。25年も同じ題材を繰り返してボロボロになるまで使ったりしないでもっとほかのものも読んだらどうかね。

 しかし私はデュラスの「愛人」は面白くも何ともなかったし、デュラスの作品に感心したことがなく、通俗作家だろうと思っている。

小谷野敦

 

『谷崎潤一郎伝』の今昔

 私が『谷崎潤一郎伝』を出したのは2006年で、それから15年たって文庫版が出たが、特に大きな加筆訂正はしていない。「シナ」を「中国」にしたのは、近代に限ってのことで、別にそのままでも良かったのだが面倒なので直した。

 「松の木蔭」などの新資料を使って加筆してほしかったというレビューがあったのだが、「武州公秘話」の続編は、確かに「松の木蔭」に書いてはあるが、元の本でアンソニー・チェンバーズが松子から密かに見せてもらって書いたのを移していて、そちらのほうがまとまっているので、別に修正の必要はないと思った。いじると却ってチェンバーズ氏に失礼になる気もした。

 2006年には、谷崎と渡辺千萬子の往復書簡集も、嶋中鵬二宛ての書簡集もすでに出ていて、そのあと出た松子姉妹への書簡や娘鮎子への書簡集、「松の木蔭」などには、大きく伝記を変更すべき資料はなかった。せいぜい真鶴館のおかみとの不倫にからんで、私は谷崎の孫かもしれないという記事が『新潮45』に出たのが気になったが、これも黙殺した。

 歴史でも伝記でも、新資料というのはいつか尽きるものだ。

小谷野敦

田中優子「遊廓と日本人」アマゾンレビュー

2021年11月14日に日本でレビュー済み
 
私はかねて田中優子を「江戸幻想派」として批判し、田中の2002年の本『江戸の恋』を徹底批判したこともある(「中庸、ときどきラディカル」)。もともと、近世文化が遊里遊女という奴隷を女王として成り立っていたことは、大正末年に阿部次郎が『徳川時代の芸術と社会』で批判したことで、フェミニズムとは関係ない。田中はフェミニズムに加担しているふりをしているから、本書冒頭で「ジェンダー論」の視点から、遊廓は今後はあってはならないと書いていて処世術を窺わせるが、どうもここの書きぶりは、現代のソープやヘルスもいけないことになるらしい。ではセックスの相手がいない男はどうしたらいいのか、考えてからものを言うべきではないか。あとなぜ「遊女」が生まれたのかと考察しているが、娼婦は他国にももれなく存在するもので、ただ日本だけが近世文化において妙に重要な位置を与えられた。田中にはそこを比較考察する視点がない。女かぶきの禁止が遊廓を生んだと書いているが、吉原遊廓は女かぶきの禁止より前の元和三年ではないか、また中世にも遊女はいたのではないか。近代においてマリア・ルス号事件のために娼婦が(偽の)解放をされたように書いているが現在の研究ではマリア・ルス号以前から明治政府は遊廓の改革を考えていたことになっている。「鬼滅の刃」にあわせて急ごしらえしたような本で、あまりふだんからちゃんとものを考えていないことが分かる。
 
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