昭和の「まじめ」

阪大へ就職してひと月ほどした五月ごろ、言語文化部が教養部から独立した十周年祝賀パーティーというのが開かれて、生協の二階の食堂に集まった。私らみなスーツにネクタイ姿だったが、一人だけ、ネクタイをしていない40代くらいの教員がいた。ヨコタ村上ら30代半ばの連中が、ひそひそと、あれはどうなんだ、などと話していて、ヨコタは50代くらいの教授に文句を言ったりしていた。冗談めかしてではあったが、変なことにこだわるやつだと私は思った。「(彼は)くそまじめだから」と言う人もいたが、男女問わず性的な話をしかけ、女性職員に酔って「あんたとセックスしたい」とか言い、女子学生を研究室に連れ込んでセックスしてしまうこの男は、なるほど「昭和のまじめ男」なのだなと私は今にして思うのである。

ポモ崇拝者誕生の時

2002年の12月に、東大比較文学出身者による「恋愛」シンポジウムが行われた。その時、「ドン・ジュアン」の比較文学などは成立しないと、プリンストン大学に提出した博士論文で主張していたヨコタ村上孝之は、その話をして、「じゃあドン・ガバチョ比較文学ってのもできるんですか」と言った。ポモ的詭弁であって、単に「女たらし」をドン・ジュアンで代表させたことを利用した言葉遊びに過ぎない。

 だが出席していた大澤吉博教授は、そういう正面からの反論はせず、「ドン・ガバチョ比較文学、いいんじゃないですか」などと言っていた。これは午前中の部で、私は客席にいたから何も言えなかった。午後の部では私とヨコタの言い争いになった。

 後日、比較研究室で、東アジアから来た留学生女子が、ヨコタのことを「頭がいい」と言うのを聞いて、ああいうペテンに引っかかる学生や若者がいるからポモが跋扈したんだなと思ったことであった。

小谷野敦

生殖器に電流を

私は英文科を出て比較文学の大学院に行ったが、二年目に英文科で高橋康也先生が開いている大学院のゼミに出席した。阿部公彦河合祥一郎といった人たちがいた。そこで知り合ったT君は、法学部から英文科の大学院へ来た人で、親の命令でいやいや法学部へ行かされたということで、いろいろ話してみると文学に関心が深く、親しくなった。

 その後私はカナダへ行き、大阪へ行きしたが、T君はある大学に勤めてから東大の助教授(駒場)になり、あれこれ話をしたが、東大へ行ったころ、ポスコロをやると言いだしたから、ちょっと嫌な予感がした。私は当時、精神分析とかポモとかポスコロとかカルスタとかいうのをうさんくさく感じ始めていたからだ。

 2009年に、T君の単著が送られてきた。読んでいて私はギョっとした。ハロルド・ピンターを論じた個所で、ピンターがトルコへ行って、アメリカのトルコ政策はひどい、と話していたら、別の人が「いや、背後にソ連があるから仕方ないのですよ」と言った。するとピンターは「いや、私たちは生殖器に電流を流す話をしていたんだよ」と言ってごまかしたというのだが、T君はピンターのこういう発言を礼賛していたのである。これで、ああ、もうこの人はダメだ、と思った。見ているとポモにやられた人になってしまったようで、ご多分に漏れずフロイトにもやられていたらしく、ほぼ絶縁状態になったが、早くまともな学問に立ちかえってほしいものだ。

小谷野敦

 

対談集の夢

 私は若いころ、山崎正和とか江藤淳みたいな有名文化人になりたかったが、結局それは半分くらいしかかなわなかったと言うべきだろう。

 30代半ばで「もてない男」が売れた時は、もっと売れていくつもりでいたが、まあそうもならなかった。まあ当ての外れたのは、大学へ再就職できると思っていたことで、これが一番でかいが、あとはもっとあれこれ「対談」の仕事があって、対談集なんかもできるだろうと思っていたのも、当てが外れた。

 あの当時、西部邁の『論士歴問』(1984)とか上野千鶴子の『接近遭遇』(1988)とかの対談集も出ていて、どちらも面白かった。この二人の著述よりこっちのほうが面白かったし、西部も上野も、その後は派閥を形成したりして狡猾で陰険な人になっていったが、当時はまだ若くて誠実だった。

 まあ私も対談とか鼎談をかき集めれば一冊になるくらいはあるんだろうが、中にはあまり成功しなかったのとか、決裂寸前なのとか、相手が刑事罰を受ける人になったのとかあって、まず無理だろう。しかし有名文化人が対談集を出すというのが、まだ本が売れて、今みたいにネットであくたもくたがものを言わない時代の産物だったのだね。

小谷野敦

音楽には物語がある(47)ウルトラヒーローと冬木透 「中央公論」11月号

 劇映画「シン・ウルトラマン」を観に吉祥寺まで行ったのは、東京都での新型コロナ感染者数が千人を切った日の翌日で、電車に乗るのは二年四カ月ぶりだったが、感染者数はその日にはまた千人を越し、さらに三万、四万まで増えていて、あの一日しかなかったことになる。

 映画自体は「ウルトラマン」総集編的なものだが、冒頭に「ウルトラQ」(一九六六)が入れ込まれていたので、私には、音楽担当の宮内國郎の世界だなあという印象が強かった。私は昔から「ウルトラセブン」(一九六七)「帰ってきたウルトラマン」(一九七一)が好きで、初代マンは好きではなかったが、それが、宮内の音楽の、軍事調なのが、悪くはないが、冬木透のマーラー風のホルンが鳴り響くクラシック風の音楽のほうがずっと好きだったからであるという側面も強いことが分かった。映画の脚本家である庵野秀明(監督は樋口真嗣)は若いころ自主製作映画で「セブン」と「帰マン」の世界を再現したことはあるが、特に今回の選択はそれとは関係ないだろう。

 しかし、「帰ってきたウルトラマン」の主題歌だけはすぎやまこういちで、私は当時小学三年生で、初めてこの名前を耳にしたのではあるまいか。当時はあまり感じなかったが、いま聞くとあまりいい歌ではない。当時まだ作曲家としてはかけだしだったすぎやまは、公開されているNGバージョンも作っているが、こちらもあまり関心しない。一九七九年にすぎやまはカラー版「サイボーグ009」の主題歌を作っているが、これも歌詞に無理やり曲を合わせている感じがしてよくない。すぎやまの才能が開花したのは翌年の「伝説巨神イデオン」からではないだろうか。

 「ウルトラマンA」(一九七二)も主題歌だけは葵まさひこ(一九三七―八四)で、ハニー・ナイツのメンバーだが、あまり好きな曲ではない。「帰マン」や「A」では、冬木の戦闘曲が何よりの楽しみだったとも言える。

 「ウルトラマンタロウ」(一九七三)は、主題歌は阿久悠作詞・川口真(一九三七―二〇二一)作曲で、この主題歌は明るくていいが、劇伴は日暮雅信で、戦闘隊ZATの奇抜な制服や戦闘機などのデザインと相まってコミカルな雰囲気の「タロウ」の世界を強調する結果になっていた。

 しかし、その「タロウ」の第四十九話「歌え!怪獣ビッグマッチ」は、往年の歌謡映画のパロディになっていて、秩父の山中にオルフィと呼ばれる音楽好きの怪獣が住んでいて、時々姿を現しては村人と一緒に音楽を楽しんでいたという。見た目は美とはほど遠い怪獣なのだが、へその脇から丸く束ねた楽譜を取り出すと、ヨハン・シュトラウスの「こうもり」の題名が書かれた楽譜で、村人たちは楽器を持っており、怪獣が指揮をするという珍中の珍である。

 しかるに、怪獣がいるのに退治しないのはZATの怠慢だと言いだした団体があり、副隊長の荒垣(東野孝彦、のちの英心)がなぜか軍服を着こんでその代表(草野大悟)に会いに行く。なお「タロウ」では、隊長は名古屋章なのだが、スケジュールの関係かほとんど登場せず、指揮は副隊長に任せているのだが、この回のあとで東野が怪我をして入院してしまい、そのためアフレコができず、この回の東野は声が違っている。結局草野の正体は宇宙人で、人間が怪獣と仲良くするのを邪魔しようとしたという筋なのだが、この回のシナリオは、ウルトラシリーズで異彩を放っている石堂淑朗で、石堂は東大独文科卒で、大島渚の映画の脚本などに参加していたが、ウルトラシリーズでも、天女など宇宙から女性がやってくる筋を得意としたが、のち保守派の論客としても活躍した。クラシック音楽が好きだったのだろうが、このところ、クラシック好きというと右翼・保守の論客が多いのはどういうわけであろうか。

知らないで驚く

 私が高校生のころ、予備校でもらった二枚折の冊子か何かに、予備校の日本史の教員が、「円座」を「わろうだ」と読むことをこないだまで知らなかったのでショックを受けた、と書いていた。そのあと、学問は難しいものだとでも続いたのだろうか。しかしこの人はせいぜい30歳くらいだったのではないか。

 2005年ころ、日文研の研究会で、井上章一さんが梅蘭芳を知らなかったので、そこにいた人みながえっと驚いたことがある。そりゃ驚きますよ。

 私の場合、25歳くらいまで「スイート・ルーム」を「甘い部屋」だと思っていたとか、若いころにはそんなのはたくさんあった。

作家の取材と研究

吉村昭が、俳人・尾崎放哉の最晩年を描いた『海も暮れきる』を読んだ。放哉は私の好きな俳人だが、実に凄惨な最期だった。ところでこれは77-79年に講談社の『本』に連載されたもので、吉村は放哉歿後50年くらいで、小豆島へ行って関係者の話を聞いて書いている。

 しかし、小説の形で取材の成果を生かすのは作家として当然のことながら、これだと後代の研究者が使えないという問題が起きてしまう。××の息子である△△さんはこう言った、と書いてあれば使えるのだが、そうではないわけだから。まあ、鷹揚な研究者なら、吉村昭の小説にはこう書いてあり、どこまで本当かは分からない、くらい書くだろうが、小説家と研究者の役割分担の難しいところだ。私は根が学者なので、仮に取材したら小説ではなく伝記にするし、万が一小説にしても、注をつけてどういう取材の結果であったか記しておくだろう。

小谷野敦