バルトーク日本における悲劇

 『バルトーク晩年の悲劇』を読み始めたがこれはいかんと投げ出す。翻訳もあまりいいものではないのだが、これは著者アガサ・ファセットが、1940年にナチスから逃れた59歳のバルトークが五年後に死ぬまでの見聞を描いたもので、私はバルトークの伝記を求めているのである。しかるに、『バルトーク物語』はへんてこな書物だったし、伊東信宏『バルトーク』(中公新書)は伝記ではなく、バルトーク民族音楽収集の研究だ。古いものなら伝記もあるようだが、音楽之友社の「不滅の大作曲家」にも「作曲家・人と作品」にも、バルトークは入っていないのだ。何なのだこれは。

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西村賢太の「落ちぶれて袖に涙のふりかかる」(『新潮』11月)は、川端賞の候補になって落選する話を軸に、突然のぎっくり腰での苦しみやらが描かれている。しかし、『新潮』の担当編集者から候補になったと聞かされた(『薪潮』となっているが)、そのあたりから、『新潮』の矢埜編集長には嫌われているとか、そういうことが書いてあって面白い。そこで西村は、以前野間文芸新人賞の候補になった時、古書店野間清治の本『世間雑話』を見つけて、ふと買っておいたら思いがけず野間新人賞をとったので、ゲンをかついで、今度は川端の本を買っておくかと古書店に寄り、『みづうみ』を買うと、そこで堀木克三の本という奇覯書を見つけるという展開になる。これは、1966年の『暮れゆく公園』だが、確か「かつぞう」ではなくて「よしぞう」だったはずである。普通なら一万円以上の高値がつく、堀木の唯一の著書で、西村によると、佐佐木茂索による序文がついていて、それはどうやら堀木宛の私信らしく、『不同調』『文藝春秋』周辺でうろうろしていた堀木が、戦後、文春社長となった佐佐木に原稿を売り込もうとした時の返信らしいという。

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オタどんが触れていた『宇野浩二書簡集』(増田周子編、和泉書院、2000)をようやく入手、しかしこれはいかん。オタどんが指摘した通り、昭和26年の書簡を28年と誤っているのは、アラビア数字の消印の読み違えだろうが、周辺状況を調べていないからである。また、書簡中の人名などについての註がまったく恣意的で、「谷崎」とあるのはおおよそは精二なのだが、そのことも書いていない。誤刻も多く、102pにはバルザックの「コウゼニイ・グランデ」などとある。「ユウゼニイ・グランデ」であろう。あとがきで、書簡の著作権者に述べる謝辞で「心よく」了解してくれたと書いてある。「快く」であろう…。 
 増田さんは当時32で、同じ頃出した宇野浩二書誌も、言語道断といっていい、単行本に入ったものしか書いてないものでこれが博士論文だから恐れ入る。谷沢永一から浦西和彦と受け継がれた関西大書誌学の伝統は、いま教授の増田さんの無能でなくなってしまうのだろう。