(写真は谷崎が親しかった小出楢重の裸婦像)
1936(昭和11)年 51
1月4日、草人宅で福田蘭童(31)に紹介される。蘭童は谷崎不在中の草人宅で松子には会っていた。
5日、荷風、左団次、嶋中と偕楽園で「新春懇談会」。
パール・バック『大地』(新居格訳、第一書房)を読んで感心(三部作の第一)。
11日、生田長江死去(55)。
日、随想「翻訳小説二つ三つ」を『読売新聞』に掲載。三宅が担当で稿料百円。
19日、『中央公論』2月号の「新春座談会」、荷風、左団次、嶋中。
30日、大毎和気律次郎宛書簡、東京で家畜研究の雑誌を発行している駒城という獣医から写真と手紙来て、シャム猫値段三百五十円とのこと、奥村さんに勧めたらどうか、意向を聞いてくれ、『改造』の小説を書くため甲南荘へ通っている。
2月3日、丁未子(30)、菊池寛の媒酌で文春記者・鷲尾洋三(29)と結婚。牛込弁天町で鷲尾の母と同居。
15日、志賀宛書簡、その後ご病状如何ですか、和田より伝言、お見舞いに参上のつもりですが多忙、お宅のお嬢さんの生年月日をある人から訊ねられた、また身長、趣味、出身学校等も教えていただきたく、血圧が上がって医者から禁酒を言い渡され即日実行しましたが減食は難しい。
26日、2・26事件。この前後、煙草をやめ、生涯禁煙を守った。酒がやめられないので言い訳のため(「高血圧症」)
27日、雨宮宛書簡、若紫中途まで送る。ゲラにした方が直しやすい。帝都の騒ぎよく分からず。
3月2日、雨宮宛、若紫続き、ここは省略しているのでそのつもりで。
8日、川口松太郎宛書簡形式で『明治一代女』の序を書いているが、三月刊行なのでこの日付はそれに合わせたものか。
30日、雨宮宛葉書、膝を負傷したのは事実、もう全快、見舞いお礼、
31日、奈良に志賀を訪問、二年ぶりに会う。雨宮日記に「文章読本」は既に六万部売れたとある。(細江)
岡本かの子、「鶴は病みき」を『中央公論』に持ち込むが色よい返事でないので谷崎に斡旋を頼むが読んで断られる。
4月、『鶉鷸隴雑纂』を日本評論社から刊行。『文章読本』の代わり。
4日、山田孝雄から雨宮宛葉書、前に言ったとおり「若紫」の藤壺との密通懐妊の箇所の翻訳に反対である旨。
9日、雨宮宛葉書、流感で寝込んだがあと二三日で治る、そしたら源氏猛スピードでやる。山田の意見は十中八九尊重。
14日、雨宮宛葉書、明日上京。
15日、上京か。
16日、中央公論社か。雨宮に、千代や丁未子への不満を語る。
5月、「上方舞大会について」を『上方』第六十五号に寄稿。
1日、笹沼の長女・登代子が鹿島次郎と結婚。
2日、歌舞伎囃方住田多蔵が志賀を訪問、谷崎への紹介を喜んでいたとある。
6日、横浜鶴見豊岡の三田貞(草人)内から松子宛書簡、航空便で契約書届きました、これから交渉します、お写真はみなさま美しく平安朝絵巻物から抜け出したよう、大阪御寮人様快方のよし、今朝重子様宛お見舞い状差し上げたところ、偕楽園の花嫁は新婚旅行中修善寺温泉で発病、急性盲腸炎とのことで今日午後笹沼夫婦迎えに行き夕刻帰京直ちに入院手術、明日は病院へ見舞いにまいります、喘息を徹底的に治療しますよう。
7日、鹿島登代子を病院に見舞う。
22日、志賀、加納、中村純一、小野と上司海雲を訪ねる。
26日、雨宮宛、葵はじめの方送る。
6月、『文学界』に「鶴は病みき」掲載、川端の世話。岡成志「阪神奥様交游記」を『改造』6月号に発表。
『郡虎彦全集』全三巻、創元社より刊行、編集里見紝。
草人は谷崎と直子の間を疑い、松子宛に書留で、もう来ないようにと言い、絶交。
1日、雨宮宛書簡、月末偕楽園披露で上京、長野、白嶺と会って相談したい。
4日、雨宮宛書簡、原稿料言わなくても送ってくれ。装丁はよし。
9日、改造社佐藤績宛書簡、原稿の訂正遺漏なきよう。
15日、潤一郎六部集の内『蓼食ふ蟲』(三七〇部限定)を創元社から刊行。雨宮宛書簡、原稿送付、25,6日出立。
19日、「猫と庄造と二人のをんな」後編を『改造』7月号に発表。
22日、雨宮宛書簡、「葵」送る。24日出発、宿は鶴見(草人宅)ではなく芝。
24日、夜上京、月末まで東京に滞在、偕楽園披露のため。
7月始め帰宅か。
11日、雨宮宛書簡、送稿、今後はいちいち言わないので稿料頼む。
15日、鮎子宛書簡、送金のこと。北海道旅行費とある。この頃雨宮宛書簡、注は多すぎるよりなさ過ぎるほうがいい。
18日、雨宮宛、頭注は先に書いた通り。
19日、『改造』8月号に短い談話「東京にて」。
30日、雨宮宛、原稿。
8月5日、鮎子宛書簡、五六日前から隣の空き地でサーカス興行が始まりうるさくて仕事できず、警察に陳情したが一軒だけではどうしようもないというので妹尾の部屋を借りてやっているがうまくいかず、送金遅れる。妹尾とはその程度には和解したか。
この頃、後隣の家に祈祷師が越してきて早朝から大勢信者が来て題目念仏いろいろ唱えてうるさく、家主に怒るが仕方なく、別の家を探す。
6日、早大教授五十嵐力より雨宮宛書簡、「明石」の巻の『細流抄』の注釈を付記。谷崎の質問によるものか。(細江)
7日、雨宮宛、原稿料のうち110円は鮎子に。
15日、雨宮宛、明石の巻完了、近日上京社長に会うが旅行の予定などないか。
19日、夜行で上京。
20日、芝に宿泊。
21日、鮎子を訪ねようと思っていたが用事早く済み、花岡に会って一緒に帰ろうと言われたので夜行で帰る。トヨちゃん夫婦とご飯食べた。(鮎子宛書簡)
9月はじめ頃、鮎子からの沢庵を持って龍児が来る。
3日、鮎子宛書簡、祈祷師のこと、アトリエ社からの出版について千代から手紙を貰ったが、詳細は菊池寛へ直接手紙出した、三笠書房のほうはキッパリ断る、春琴抄独訳は差し支えなし、ドイツ語は忘れてしまったから見る必要なし、と佐藤に伝えてくれ、またネルヴァルは見つからないと伝えてくれ、先月の上京のこと、龍児が来たこと、「毛が生えてきたのは何より祝着」、源氏は澪標を終えて蓬生にかかる、これは僕の大好きな巻(末摘花の引き取り)
25日、鮎子宛書簡、家見つかったが家賃をねぎっているが、十一月にならないと移れないから、塩原の笹沼別荘にでも行って仕事しようか、月末にでも上京、昨日「松風」まで済み今日から「薄雲」、秋の温泉行き楽しみ。
10月17日、向島笹沼別邸より松子宛書簡、首人形は昔見たようなものはなく、割合高い、Cヴィタミンは調べ中、大村氏は百日咳の薬だから喘息専門薬ではないと言う、先だっての吸入薬はいいものだそうで、中央公論は金を出してくれる、恵美子の運動会までには帰る、千枚突破のお祝いにご馳走してくれる。鮎子はまた非常に痩せてきている。
31日、内出より小石川の佐藤豊太郎宛書簡、先日上京の折りはゆっくりお話伺えず失礼、その折りお願いしたもの鮎子より受け取りました、妹尾も喜ぶと存じますが、観艦式に取り紛れ、鮎子、龍児と観艦式では軍艦に乗せてもらい楽しみました明日二人は京都へ行く由。
11月18日、雨宮宛、移転は21日、金頼む。
21日、兵庫県武庫郡住吉村反高林に転居(倚松庵)。家主後藤靭雄はレノールというベルギー人と後藤ムメの長男。家賃85円。裏にシュルンボン家。
12月、菊原琴治、日本画家西村五雲、毎日新聞山口広一らと南禅寺瓢亭。非凡閣『現代語訳国文学全集』のうち窪田空穂『源氏物語(上)』刊行。
18日、雨宮宛書簡、24、5日頃上京、非凡閣の窪田訳源氏さっそく読んだが大したことなし。
24、5日頃、上京か。
この年、北星堂から沖田一/Roy Humpherson 英訳 Ashikari and The Story of Shunkin 刊行。『春琴抄』陸少懿訳、上海の文化生活出版社から刊行。
1937(昭和12)年 52
1月、雨宮庸蔵、『中央公論』編集長に復帰。谷崎源氏担当者は出版部長・福山秀賢。 12日、雨宮宛、今度の人の名を忘れたのであなたに送る。
28日、志賀宛葉書、本月末か来月始めに伺います。前日電報。
2月6日、雨宮宛書簡、福山から手紙、旅行中だというのであなたに送る。稿料のこと福山に伝言頼む。
11日、前進座出演の映画「戦国群盗伝」封切、観て感心する。
15日、菊の屋で久しぶりに志賀に会う。
17日、志賀宛葉書、昨夜は思わぬ所で拝顔、22日参上と申しましたが当日用事でき不可、武者さんによろしく。
20日、潤一郎六部集のうち『盲目物語』を創元社から刊行、装丁挿画安田靫彦。
3月6日、安田宛書簡、本できたので送る、九里の絵が入ったのは手違いで、磨滅しているので入れるなら書き直してもらうべきだった。中旬頃上京するが日程未定。
上京。
20日、佐藤の老母が尿毒症で入院。千代が看護。
鮎子とともに佐藤母見舞い。
22日、佐藤秋雄宅で採血。
23日、東京より松子宛書簡、又出血の由案じられる、佐藤の婆入院、嶋中は国に不幸ができて帰国、明日帰る。25日に面会金を受け取る。
25日、松子宛書簡、龍児鮎子を連れてどこかへ行くかも、27日正午頃帰宅予定、
27日、帰宅か。
4月3日、代々木の土屋宛書簡、『源氏物語』の仕事が足かけ三年にわたり窮乏、五百円を貸してもらいたい。
7日、土屋宛書簡、昨夕為替到着、お礼、短冊揮毫の件承知、しかし源氏の仕事は精神的負担ゆえ暫くお待ちを。
14日、嶋中宛書簡、あの手紙を出した日より肛門が痛みはじめ診察を受けると肛門周囲炎でこのままでは痔瘻になるので入院手術せよと言われ、灸を勧められて試してみましたがこれで直らなければ入院しようと思う、仕事に頓挫したこと残念。
16日から6月15日、東西朝日新聞に荷風の「ぼく東綺譚」連載。16日、嶋中宛書簡、やはり灸や指圧療法では効かず痛み激しく入院することになった、勝呂氏は妻の古い知人、月末には出られるはず、さて三百円お貸しいただきたい。
17日、西宮勝呂病院に入院(「主おもむろに語るの記」)。
18日、手術。松子重子。
21日、嶋中宛書簡、お見舞いありがたく、経過順調ながらガーゼの取り替えは激しい痛み。金子承諾ありがたくまだ着きませぬが早く。
30日、退院、電車で病院へ通う。
5月4日、嶋中宛書簡、退院の知らせ、本日初めて座って書いています、仕事は頓挫したがこのくらいの休息があってよいかも、八九日より執筆始めます。横溝正史宛書簡、『真珠郎』(六人社)の題字を谷崎が書き、送ってきたのへの礼、自分も探偵小説を書いてみたい、水谷、乱歩によろしく。
5日、佐藤豊太郎宛書簡、ご老母様無事ご退院の由、長らく鮎子を手元に留め失礼、十日には帰京させる。
6月18日、芸術院会員に推薦する文部次官イトウケンキチの電報来る。辞退の電報を打つ。(「主おもむろに語るの記」)
19日、菊五郎が藝術院のような名誉を受けなければ偉いと語る。
20日、谷崎辞退と新聞に出る。
21日、夕飯後木場宅、松子と芦屋、神戸を散歩して帰ると大毎記者来ている。電報一本で失礼だと言う。
22日、「大毎」に辞退の記事。一高時代の友人の文部省監修官大岡保三、説得に来て受諾。ほかに露伴・鏡花・秋聲・武者小路・菊池ら。白鳥・藤村・荷風は辞退。
23日、東西「朝日」に受諾の記事談話。
7月、鮎子「父を語る」『婦人公論』
1日、森田詮三、三菱商事東京勤務となり白山御殿町に移る。
7日、蘆溝橋事件勃発。これにより、『源氏物語』刊行は時局柄好ましくないと中央公論から話。
11日、北支事変と命名。
25日、『猫と庄造と二人のをんな』(装幀装画安井曾太郎)を創元社から刊行。
8月、西宮書院より大野麦風『大日本魚類画集』の第一輯刊行。品川清臣が担当で、谷崎に題字を書いてもらう。
29日、詮三と一家が東京へ移る。重子も同行。
31日、鮎子宛書簡、こちらはみな元気、自分だけ毎日注射。『猫と庄造』一冊上げる、すぐに売れてしまい手元にも創元社にもほとんどない、先日こっちでお母さんに会いお金のこと聞いていたので五十円送る用意をしていたらお金の要ることができ足りなくなったが三十円だけ送る。
9月2日、「支那事変」に改称。
8日、重子から手紙(細雪)
13日、小石川区白山森田方重子宛書簡、あれから毎日噂していましたが今朝お手紙で様子分かり安心、まだ落ちつかないと思うがそろそろ東京の味が分かってくるでしょう、これから秋刀魚がうまくなる、松茸が出たら送る、東京と大阪往復生活も気晴らしになってよし、シュルンボン家のアマさんは二人ともマダムと喧嘩して一日で辞めた、マダムが口癖に日本人バカですと言うから、今日は正念寺施餓鬼。
23日、秋季皇霊祭(秋分の日)、松子に、信子、清治、れい子ちゃんが加わって高座の滝からロックガーデンへハイキング、晩は博愛楼で支那料理、三宮映画館でニュースを見る、谷崎夫婦は足元不確かなのでロックガーデンは途中で棄権(重子宛書簡)
25日、重子宛書簡、昨日はお手紙お礼、脚気はまたぶり返して毎日注射、聞けばお嬢様もまだ直らぬ由、その後信子も毎日のように来るが寂しい、23日のこと、本日太郎さんが来て私の部屋へ拡声器を取り付けてくれ、平井さんがよい女中を世話してくれることになり○どんには暇を出す、松子また喘息でブロカノンの注射、恵美子の神経衰弱が嵩じて眠れず、睡眠不足で痩せてきたので重信政英医師に見てもらうとぶらぶら遊んだほうがいいとのこと、学校も適当に休ませることにした。自分の部屋では寂しいようでママさんの布団で寝ている、人形のルミーちゃんを脇に。
10月10日、嶋中宛書簡、源氏は二千三百枚に達しあと八九百枚、痔の後捗ったが夏頃から脚気出て鈍った、毎日注射をして昨日回復これからは一瀉千里、時局が長引いても完結したら出版するか、私は平和になるまで待ちたく、瀧田の法事は発起人として私も出るべきか。
19日、名古屋医科大学神経精神病学教室杉田直樹宛書簡、一昨日伺った由知らせて来たほっとした、近日帰ってくる、私も東京で会うか名古屋で会うかお礼。恵美子を診てもらったか。
26日、松子と江州旅行、松子が豊太閤贔屓なので縁の地を見たく、当てもなく出掛けるが長浜へ着いた時はもう夕暮れ時、スミモトという旅館で断られ、その一、二年前泊まった彦根の楽々園を思い出し戻って泊まる。これは井伊家の別邸八景亭。
27日、朝になって昨日の夕刊を見ると、五・一五事件の服役囚・橘孝三郎が許されて母の危篤に駆けつけた記事が出ている。(「初昔」)
11月、映画化は難しいだろうとしたパール・バック『大地』の米国映画を観て感心、反省する(『きのふけふ』)
9日、大坂夷橋南詰の松亭で某氏と会食した後、心斎橋筋を散歩、文楽座へ入り、駒太夫が堀川(近頃河原達引)の与次郎内の段、伊達太夫が友次郎の三味線で中将姫の雪責め(鷓山姫捨松)を語るのを聴き、太夫らの老いに驚く。
24日、妹尾君急死(43)。健太郎はその後天理教に入信。
12月9日、渋沢秀雄(45)宛書簡、最初の著書『熱帯の旅』(岡倉書房)を送って貰った礼状、こういうものは普通の文人には書けない、あなたの頭髪の様子が変わったのが著書で分かった、こちらも白髪を加えている。
11日、南京占領で提灯行列。
18日、土屋宛書簡、上海の通信懐かしく、田漢はあの後日本へ来て拙宅に一週間泊まっていった、内山完造も過日来訪一日遊んでいったが東京であなたに会ったと言っていた、さて19日夜行で上京20日午前中電話して都合訊くつもりだが用件は、あの後痔で入院して二ヵ月仕事が遅れ、事変勃発により刊行を一時見合わせることとなり、しかし東洋文化発揚のため最終的には都合がよいけれど困窮してまた五百円貸していただきたく、短冊は正月の書き初めに書く。
19日、夜行で上京か。
20日、潤一郎六部集のうち『吉野葛』を創元社から刊行、挿画樋口、北尾による吉野の写真二十五葉入り。
同月、大貫鈴子宛、来年の晶川の二十七回忌にお参りをしたいと手紙。
24日、芝区南佐久間町旅館竹水荘から松子宛書簡、恵美子が心配してくれるのありがたく、学校へ出す文句は「帝国万歳」「千秋万歳」などどうでしょう。信子に失礼な手紙を出し怒っていないか、昨日加藤さんの弟子面会、写真をくれと言うので江木のを預けた、今度はよい結果になるよう、鮎子と龍児は今朝つばめで出発、往路はまっすぐ紀州へ行き帰りにゆっくりする由、明日お昼に森田様一行を偕楽園へ案内。私は25日の夜汽車で出発、26日午前11時40分梅田着、午後一時頃帰宅、偕楽園のお土産を買ってお昼にしてもらう、信子、清治の分もある、いま大貫鈴子が来ているので急ぎ書いた、戸外はみぞれ、えらい寒さ。
25日、森田詮三、重子らと偕楽園で食事、その夜東京発か。
26日、午後一時帰宅か。
この年か、精二も汽車恐怖症の神経症に罹る。「四十八歳の時はどうにもそれがひどくって、死ぬより外仕方がないと覚悟した程だった」