小説内小説

「劇中劇」のように、小説の中に小説があるということがある。推理小説などでもあるが、それはまあ仕掛けだからいいとして、優れた小説が入っているという想定で小説が入っていると、これはなかなか厄介だ。 松本清張の「天才画の女」は、天才画家が現れたと…

井上靖『北の海』を読んで驚く

『北の海』は、井上靖の自伝小説で、「しろばんば」「夏草冬濤」に続く、沼津の中学校を出て浪人していた半年の、柔道三昧の日々を描いている。翌年、四高の柔道部に入るよう誘われて金沢の四高を訪ねるのが表題の意味で、最後は神戸から両親のいる台湾へ向…

鶴渕先生のこと

私が通っていた越谷市立富士中学校に、鶴渕先生という社会科の教師がいた。当時、40歳くらいだったろうか、顔にやけどがあった。何でも、一年か二年前までは理科の先生だったが、授業中の実験で爆発事件があったためで、そのため理科の先生をやめて社会科に…

音楽には物語がある(66)ラップは詩か  「中央公論」6月号

『東京都同情塔』で芥川賞を受賞した九段理江が、受賞インタビューで「音楽が好き」と言ったので、おっと身構えた。音楽が嫌いな人というのはめったにいないので、この言葉には色々な意味がある。九段の場合、「ヒップホップが好き」と言っていたから、その…

八木詠美「空芯手帖」の謎

八木詠美の「空芯手帖」 が太宰治賞をとった時、「ウソ」だったはずの「妊娠」がいつの間にか本当になっている意味が分からず、当時産経で文藝時評をしていた石原千秋に「最初にウソだと言ったのがウソだったんじゃないか」というはがきを出したりしたのだが…

車谷長吉「忌中」の虚実

私は、伝記を書いた作家、つまり谷崎潤一郎、久米正雄、里見弴、川端康成、近松秋江、大江健三郎、江藤淳の著作は基本的に全部読んでいるが、それ以外にほぼ全作品を読んでいる作家となると、車谷長吉と西村賢太になろうか。 車谷の「忌中」という非私小説が…

自筆年譜(小谷野敦)

1962年 12月21日、茨城県水海道市(現常総市)三坂町(三妻駅そば)に生まれる。父建三は時計職人。水海道一高へ行っていたが肺結核で三年病臥し、大学へ行きそびれていた。母清子は中卒で銀行に勤めていた。 1965年 6月、同市森下町に平屋一戸建てを建てて…

日本の大学の博士号

「日本では昔は文系の博士号を出さなかった」というようなことを言う人がいる。これが「あまり」がついたり、「若い人には」がついたりすればいいが、「まず」「まったく」とか、「若い人にはまったく」とかつくと、それはデマである。実際には1924年以来多…

2023年度小谷野賞

小谷野賞の発表です。 橘玲・安藤寿康『運は遺伝する』(NHK出版新書) 特別賞 アビゲイル・シュライヤー『トランスジェンダーになりたい少女たち』(岩波明監訳、産経新聞出版)

エミール・ギメと「忠臣蔵」

エミール・ギメはフランスの富豪で、明治初期に来日して日本を見て回り、浮世絵などを大量に買い込んでフランスでギメ美術館を作ったり、日本についての著述をした人で、その挿絵を友人のフレデリック・レガメーが描いている。 そのギメの『明治日本散策 東…

高村光雲「幕末維新懐古談」レビュー

岩波文庫版で読んだのだが、これは青空文庫にも入っている(ただしバラバラなので注意が必要)。高村光雲の懐古ばなしを、大正11年に日曜ごとに光太郎と田村松魚が聞いて、松魚が筆記したものだが、ですますの語り口調でべらぼうに面白い。それはまあ、光雲…

石川淳「諸国畸人伝 改版」 (中公文庫)レビュー

「別冊文藝春秋」に1955年から56年まで連載された、十人の近世から近代にかけての工芸職人などの伝記集。大江健三郎が初めて石川淳に会った時この本をくれたというが、その後大江と石川の関係はやや曖昧模糊としている。 人は都々逸坊扇歌、鈴木牧之、小林如…

村上元三「五彩の図絵」

1973年6月14日から、74年9月14日まで、「朝日新聞」夕刊に連載された時代小説。中公文庫で上下二冊。背表紙の解説を書き写すと、 「元禄十五年十二月、赤穂浪士の討入りが、上杉家の若武者、春日今之助の運命を変えた・・・・・・。公儀に隠した城の修築、禁裡修復…

どう「黒幕」?

いま大河ドラマでやっている「長徳の変」についてウィキペディアで見ると、藤原道長が「黒幕」だと書いてあるのだが、どういう風に黒幕なのかは書いていないから分からない。 平安前期の「応天門の変」も、伴善男が応天門に火をつけて源信に罪をなすりつけよ…

「ですます体」の逆襲

日本近代文学史では、山田美妙の「ですます体」は、尾崎紅葉らの「だである体」に敗れたということになっているが、実際にはですます体はかなり根強く生き延びていて、最近の新書などはですます体が多いし、児童文学も以前からかなりですます体だ。ほかにで…

音楽には物語がある(65)作詞家の条件  中央公論・5月号

私が若いころ、歌謡曲好きの友人が「作詞をして当たったらいいなあ」というようなことを言っていた。作詞家というのがどれくらいもらえるのか、歌がヒットするとそれだけで儲かるのか、その後仕事が多く来るから儲かるのか分からないが、何しろ一つの歌の作…

水原紫苑の天皇短歌について

2023年の1月ころ、私はツイッター上で、水原紫苑の歌集『光儀(すがた)』(2015)には、天皇礼賛の短歌がある、と書いた。すると歌人の吉田隼人という人物からそんな事実はないと言われた(吉田は、当人=水原からの抗議を私が無視したと書いているが、ツイ…

江藤淳・野口冨士男VS秦恒平

1988年に、江藤淳は日本文藝家協会を中心に、売れ行き不振の文藝書を応援するために文藝書専門店を作ろうという気炎を上げていた。その結果米子市にそういう店ができたのだが、そこへ、文藝家協会理事長・野口冨士男と江藤淳が、自分の勧める文藝書百選とい…

音楽には物語がある(64)堀江美都子の変革  「中央公論」2024年3月

アニメ歌手として不動の地位を誇る堀江美都子(1957- )は、私が大学生のころにはすでに「堀江美都子大全集」などというLPが出るほどの大物だったが、私は関心はあったけれど、特にLPを買うとかファンクラブに入るとかいうほどのファンではなかった。しかし…

人にはそれぞれ理由が・・・

沖雅也が自殺した時(1983年)私は大学二年生だったが、東京へ向かう電車の中で二人のおじさんがその話をしていて「なんで自殺なんかするのかねえ、女でも作りゃいいんだよ」と言っているのを聞き(その時点ではまだ第一報しか入っていなかった)、沖雅也が…

歴史上の人物の名誉毀損

新潮社のPR誌『波』に、俳優の高嶋政伸が「インティマシー・コーディネーター」というですます調の文章を書いている。私はほとんど観たことのない「大奥」というドラマで高嶋が徳川家慶の役をやり、自分の幼い女児に性的暴行を加える話を撮影するのに、役を…

宇野信夫『役者と噺家』九藝出版

これまた、読書メーターにはこの本の登録がないしするのでここに書いておく。歌舞伎の俳優と落語家の思い出噺だが、あまり有名どころは出てこず、不遇な役者、落語家が多いところがいい。特に、二代目の左団次が死んだあとの未亡人の零落ぶりが、はっとする…

永井龍男「雑文集 ネクタイの幅」講談社、1975

何しろアマゾンレビューからは閉め出されているし、読書メーターにはこの本の登録がないしするのでここに書いておく。最初のほうはいかにも身辺雑記や天気の話などが多かったが、自作解説や他の文学者の話になると面白くなる。子母沢寛が『戊辰物語』をほと…

創作「これはフィクションです」終

ふと、蕨ミニシアターというストリップ劇場へ行ってみようか、と思った。これは九年くらい前に一度行ったことがある。埼玉県のさいたま市の南にちんまりと存在する蕨市の蕨駅から歩いて少し行ったところにあるが、狭い階段を昇って行って、貧弱な楽屋みたい…

創作「これはフィクションです」(3)

その夏は、どえらい暑さだった。地球温暖化がどんどんひどくなっているのではないかと、泉は不安になった。妻のいるフランスもかなり暑いらしかった。 泉には、友達がいない。もちろん、学生時代の知り合いとかで、何かあったらメールするとかいう相手はいる…

創作「これはフィクションです」(2)

泉が予備校生から大学生になるころは、吾妻ひでおがブームになったり、大久保康雄訳のナボコフ『ロリータ』が新潮文庫に入ったり、『ミンキーモモ』や『コロコロポロン』がアニメになったりして、ちょっとしたロリコン・ブームだった。それが数年後に、宮崎…

創作「これはフィクションです」(1)

これはフィクションです 小谷野敦 朝、目を覚ますと、今日はどういう楽しいことがあるかを考えないと、起き上がれない。たとえばその日は、昼には天ぷらそばを食べよう、と思って起き上がった。 十五年前にタバコをやめてから、こうなった。それまでは、朝起…

猫の目の谷崎潤一郎

城山三郎の『もう、きみには頼まない 石坂泰三の世界』を読んでいたら、一高時代の話で谷崎潤一郎が出てきて、「両手をポケットに突っ込んで猫のような目をして歩いている秀才の谷崎潤一郎」と書いてあったが、谷崎のこういう描写は見たことがないのでメモし…

フィクションの笑いと事実の笑い

大江健三郎の『ピンチランナー調書』は、大江没後、雨後の筍のように叢生した大江論の中でも、あまり言及されることはない。この長編が新潮社から刊行されたのは一九七六年で、「哄笑の文学」として大きく宣伝されていた。その時中学二年生だった私は、二年…

中西進と中村光夫について

Amazonで、私の「もし『源氏物語』の時代に芥川賞・直木賞があったら」に、sasabonという人が2月26日づけでレビューを書いた。「目くじらを立てるほどではないですが、過去の名作を恣意的に「芥川賞・直木賞」に選定したというお遊び」というタイトルだ。以…