谷崎潤一郎詳細年譜(昭和34年まで)

jun-jun19652005-06-23

(写真は谷崎お気に入りのストリップ女優・春川ますみ

1958(昭和33)年        73

 1月、「明治回顧」を『東京タイムズ』に掲載。『谷崎潤一郎全集第一巻』に「序」を掲載。志賀直三『阿呆伝』に序を寄せる。『国歌大観』新版見本に「私と国歌大観」を寄せる。
   4日、喜美子宛年賀、戌年の歌。
   5日、後藤宛年賀、中旬以降お出で。
   松子と連名キーン宛書簡、手紙お礼、松子は筆跡が米国の図書館に展観されて光栄、そちらの新聞雑誌に出たマキオカの批評いろいろ見た、十月二十三日のサタデーレヴューに出たあなたのも有難く、後になるほど好意的なものが増えている様子。
   7日、『婦人公論』2月号から「残虐記」を連載(11月号で中断)。
   8日、川崎市下並木佐竹方稲葉ちよ宛葉書、葉書拝見、来てもらうのは恐縮なので笹沼峯岸と相談し参上する。(この年、笹沼、峯岸鎮治、杉浦貞二で千代未亡人を囲む会を開く)
   13日、滝井宛葉書、品物お礼、二月にもう一度貰えるそうだが中旬から旅行なので上旬に頼む厚かましくて失礼。こちらからも送った。後藤宛葉書、それでは26日待っている。
   15日、『張込み』封切。新村からデコちゃん宛書簡。
   26日、後藤来訪か。
   28日、東京三越で潤一郎全集原稿挿画展。
 2月1日、千萬子宛書簡、吉井と橋本邸へ行ってくれお礼、必要なのは釈迦像を調べてもらうこと、和服姿の写真がまだ宗ちゃんから届かない。あの日の君の姿は素晴らしかった。「ワーニャ伯父さん」を観に行って失望、文学座はあまり上手ではない、民芸のほうが上、「マダムと泥棒」(アレック・ギネス)面白いので御覧。
   3日、富崎春昇死去(78)。
   4日、千萬子宛書簡、今日はみな上京僕一人留守番、明日朝出掛ける、志賀高原行きにポケットマネー送る。
   5日、産経ホールで谷崎全集出版記念講演会、淡路恵子、泉京子、白木マリ、中川弘子、関千枝子が花束贈呈。講師・正宗白鳥小林秀雄、三島、伊藤、円地。十返(司会?)入場希望者多く入れず。映画「春琴抄」上映。長尾より書簡、既に潺湲亭は「石村亭」になっていたとあり。
   6日、千代子宛葉書、東一にネクタイ贈る約束したのでヤングエージへ行ったが品切れでいいものなし、一本送った。
   7日、千萬子宛葉書、桜のこと。
   10日、西田宛葉書、酒粕お礼、全集一部天金は反対だが、豪華版のつもりもなし。志賀宛葉書、湯葉生麸お礼、先日里見と小津が湯河原に来たので会った。
   13日、大阪北区此花町大道弘雄宛書簡、「懺悔話」はよく覚えている、あれのおかげで大阪朝日は発禁になり申し訳ない。下らないので全集に入れる気はない。著述のこともう少し詳しい材料がないと書肆へも話せない。 
   19日、千萬子宛書簡、元気で帰洛とのこと、君の写真は出来がよくない、市田商店が友禅染で源氏絵巻の展観をするというが、ヤエから言ってきたので「君が中に立つなら嫌だ」と言ったら市田の重役が中公へ頼みに行った。講演会盛況のこと。30日前後京都へキク連れていく。たをり宛、スキーのことなど。
   24日、松子より長尾宛書簡、岩波『中国詩人選集』(吉川、小川環樹)は谷崎は読み下し方が気に入らない。
   26日、横山大観死去(90)
   30日、京都へか。
 3月、大江健三郎『死者の奢り』文藝春秋より刊行。
   24日、港区麻布森元棟木準宛書簡、5日付手紙拝読、長く旅行中で返事遅れた、あの色紙は二十年前のものだが出来が悪いので代わりの短冊を同封。
   26日、西田宛葉書、『延年益寿秘経』(道教の房中術のテキストとして昭和七年松本道別記す。この年、限定48部のガリ版刷りで出た)到着お礼、「鍵」特製版夏頃出す予定。
   30日、津島宛書簡、全集付録に「羹モデル考」お礼、懐かしく拝読、中公が私の知らない間にお願いしたのでしょう、四月には一ヵ月ほど京都へ。祇園は初子がいなくなり屋寿栄が引いて寂しい。西山翠嶂死去(79)
   31日、墨彩堂宛書簡、荷物届いた。12、3日頃入洛。毎日新聞社長本田親男、野村らと来訪、熱海で糸川べりの赤線地帯を見に行く(野村「風土と文学」)。
 4月1日、売春防止法施行。
  同月、「ふるさと」の取材のため、中央公論社から大型車で、濱谷浩(44)、小瀧、竹森清編集長、担当の綱淵と出掛ける。伊吹は京都女子学園に勤務。
   4日、喜代子・喜美子・千代子・子供四人が熱海に来てワニ園で遊ぶ。千萬子宛葉書、たをりよこしてくれてお礼、帰りは八日、重子が連れて。私と松子は14日入洛。
   6日、後藤宛葉書、九日午後三時に来てくれ、安倍能成も夫婦連れなので夫人とともに、12日には京都へ。
   12日、血圧が高いのを気にしつつ松子と京都へ。恵美子ら見送り。体調悪し。入洛後、御池木屋町高折病院へ行き院長の帰りを待って導尿してもらう。
   13日、松子重子千萬子と平安神宮で桜見。深泥池円通寺詩仙堂をドライブ。
   14日、東京出張中の清治が夜行で朝帰洛。もう一度松子重子たをり渡邊夫妻と車で平安神宮祇園吉初で小憩の後都をどり、八千代、小浜に会う。重子とたをり帰宅、四人でナイトクラブ田園、春川ますみが出るのを知って。まだ来ないというので京極のSY京映で「青春物語」(ペイトンプレイス)を一時間ほど観て戻る。清治と千萬子踊る。十年ぶりに松子と踊る。ますみ、太りすぎたようだ。
   15日、松子重子がレニングラード交響楽団を聴きに行って留守していると関千枝子が来て、「夜の波紋」(内川清一郎監督、高千穂ひづる主演、5月20日封切)撮影で京都入りしているが出番がなかなか来ないと言うので二人で松竹座へ「夜の鼓」(今井正監督、橋本忍新藤兼人脚本、同日封切)を観に行き、有馬稲子の美に感心。(「四月の日記」)
   16日、北白川から西田宛書簡、26日の会に来る由、生憎その後宴会だがちょっとでも会いたい。
   21日、デコちゃん紹介の報せに新村から喜びの書簡。
   24日、全集刊行記念中公愛読者大会を大阪産経会館で開催。司会・十返、講師・伊藤、有吉佐和子井上靖、東光。
   25日、デコちゃん夫婦を、新村出宅へ連れていく。
   26日、会?
 5月、「あの頃のこと(私と朝日新聞)」を『週刊朝日奉仕版』に掲載。同月、岩田時子結婚。
   5日、熱海から嶋中宛書簡、京都で新村を訪ねた際、立命館大学教授の山元一郎(44)が昨夏ベルリン大学で「鍵」についての講演を聴いた由、講演者は嘗て京大にいたエッカルトという人。(Andre Eckardt 1884-1974 朝鮮文化研究者)
   7日、佐々木祥雄宛書簡、銭稲孫軸など到着。
   8日、信綱宛書簡、持参、京都から帰って一度挨拶にと思いつつ失礼、先般は「野村望東尼全集」(熱海、全集刊行会、信綱編)恵贈お礼、病中このような仕事感銘。近々重山先生上京の折り来訪の噂。
   10日、「ふるさと」を『中央公論』6月号に掲載。
   15日、上京した新村、デコちゃん宅を訪ねる。
   18日、神戸オリエンタルホテルから熱海の重子宛書簡、シェリー酒送った、こないだのヒッチコック劇場に出ていたアモンティラドも。たをりに電話したら月火は幼稚園の遠足だが行かず、一家でオリエンタルに来るそう。
   19日(月)渡辺一家来るか。
   26日、熱海より舟橋宛葉書、来月上旬あたり妻同伴で参上、相撲の本も返す。
 6月10日午後一時から産経会館でミス「婦人公論」最終審査会、石原、成瀬が欠席し、大江健三郎らが加わる。これに参加したKを秘書として雇う。舟橋を訪ねる。両親もあり。「四月の日記」を『心』7月号に掲載、川田順「歌仙頼政のこと」も載っている。
  この上京の際か、毎日社長本田が銀座浜作で接待、その後ゲイバーへ行く。野村の兄死去の電話がある。
  同月、川端の媒酌で三島結婚式。
   12日、舟橋宛書簡、一昨日は。預かった軸の揮毫はいずれ。
   15日、川田宛書簡、見舞いお礼、信綱も今は脚部難渋の様子、頼政の話おもしろく拝見。
   23日、笹沼家へ。日帰り。
   24日、佐佐木信綱を訪問。  
   25日、信綱宛書簡、お礼、帰って早速紫式部集を調べ問題の歌発見。松子から長尾宛書簡、谷崎の質問。
   27日、舟橋宛葉書、軸片方失敗したので半折を二枚入れて送った。野村宛書簡、先般浜作の会で、小瀧君に聞いたがあなたの近親に不幸があり会のため臨終に会えなかったとのこと、お悔やみ。長尾より回答書簡。
 7月、『むさうあん物語』七に序を寄せる。大江健三郎芥川賞受賞。
   3日、三島より書簡、本日嶋中来訪、谷崎からのシャツ地をもらうお礼。家族でボリショイサーカスへ行った。お勧め。8日からの「薔薇と海賊」招待します。
   6日、松子より長尾宛絵葉書。
   17日、「銀座百点」8月号のため淡路恵子と対談「緑陰に語る」。
   20日日劇ミュージックホールへ、演目は「夏の夜はいたづらもの」。松子重子恵美子はボリショイサーカス。
   21日、千萬子宛書簡、25日に文学座の「薔薇と海賊」(三島、『群像』5月号)を観にいく。
   22日、笹沼家へ。千萬子宛書簡、秘書代わりの娘を一人雇ったが役に立たないで困っている。伊吹さんも少し気に入らないので若いのをと思ったが子供はやはりダメ、君の半分の半分も役に立たない。
   24日、千萬子より書簡、誕生日のお祝い送った、是非日劇連れていってくれ、編物手芸の教室を開いた。『週刊明星』見たが伯父様は美男。
   26日、「薔薇と海賊」観て感心。
   27日、千萬子宛書簡、お祝いお礼、四日頃立ってくれ、富士五湖二泊と新橋演舞場日劇は君と二人で、何でも買ってあげます。
   31日、千萬子宛、『比較文学』第1号の「報告 林憲一郎 別天地に日本文学を講じて」の抜刷と英文要旨。林(1913-2003)京大教授、フランス文学、比較文学
 8月、前進座で「法成寺物語」を上演、『月刊前進座』に「『法成寺物語』回顧」を寄稿。秦豊吉の遺著『日劇ショウより帝劇ミュージカルスまで』に「秦豊吉君のこと」を寄せる。
   2日、千萬子より書簡、昨日文学座観てきた。パンフ読んだ感想。
   22日、松子から伊吹宛書簡、山田孝雄を訪ねてほしい。
   31日、松子より長尾宛絵葉書、先日皆で富士五湖をめぐった(重子恵美子)。
 9月、『婦人公論』の新編集長三枝佐枝子(39)が嶋中とともに京都の谷崎を訪ね原稿を頼むと荷風との対談を提案される。満月の日、吉兆でとある。(三枝「女性編集者」)   1日、墨彩堂宛書簡、別便で東大寺大仏蓮弁の拓本送った、委細電話。
   2日、角川源義宛葉書、『近代文学の孤独』恵贈お礼、漱石論のみ読んだ。
   3日、伊吹から、時日を訊ねる手紙。
   4日、伊豆大島妹尾宛書簡、先般京都では来訪お礼、その後熱海へ帰って探したら「お栂」原稿見つかる、一つは君夫人の談話、一つは冒頭一二章だが丁未子(鷲尾夫人)が筆写したか。むしろあなたと君夫人の恋愛を描きたい、二つ送るので補足してくれると嬉しい、丁未子も何か覚えていないか。伊吹宛、武生のO氏次第との返書。
   7日、「彼岸花」封切、観る。
 kの遅刻、解雇、居座り事件が起こり、嶋中が因果を含めて地元へ返す。
   13日、千萬子宛葉書、橋本さんから厨子前机本尊届いた。
   15日付、ヴェニス映画祭でパリ滞在中の高峰秀子から松子宛書簡。『無法松の一生』で金獅子賞受賞。
  『婦人朝日』10月号に市田やえ「鴨東綺譚の奈々子といわれて」。
   22日、妹尾宛書簡、返事がないので不安。不着ということはないでしょうね。妹尾は、自分たち夫婦のことを書いて欲しくなかったので無視したらしい。以後谷崎と音信不通。
   23日、千萬子宛書簡、東大寺観音院で蓮弁毛彫拓本を作ってくれたので分ける。「赤い陣羽織」(山本薩夫中村勘三郎香川京子有馬稲子)封切、観る。
   名古屋へ行き、山口広一御園座へ行くか。
   25日、名古屋旅行から帰る。
   28日、原田稔が東京の学会に出席、台風にあって熱海へ逃げてきて一泊。
   29日、千萬子宛書簡、昨日のこと、『野の仏』(若杉慧)は創元社へ言ったから近く届く。松子重子が四日頃吉初女将の二七日で京都へ、私は多忙で行かれず。ついでに明の法事もして78日頃熱海へ帰るのはトキとキクの婚礼が同日にあるので。その後二十日前に三人で京都へ。鮑宛書簡、22日手紙拝見、源氏の漢訳は銭稲孫のものが出ている筈(出ず)だが新訳が出るのは喜ばし、挿画は絵巻を使うとよろし、中公の了解を得て私のを使ってもよし、船便で角川の絵巻と私のを送った。
   30日、パリの秀子から松子・恵美子宛書簡。
 10月4日、コロンビアのキーン宛書簡、『ロリータ』はいずれ翻訳も出るだろう楽しみ、「鍵」をストラウスが英訳すると言っているどうなるか。千萬子より書簡、春鶯囀の地唄を書いたとか、前進座の研究所へ出掛けて三時間いたとか、秋には恵美子の式に出るつもりがお流れ。
   5日、川田順『源三位頼政』春秋社より刊行。
   6日、千萬子宛葉書、和歌三首。
   7日、千萬子宛葉書、和歌二首。『婦人公論』で荷風、佐藤観次郎と座談会「昔の女今の女」永田町の八百善で。
   8日、千萬子宛書簡、ギロンコリから台風見舞いが来たので返事適当に。
   10日、千萬子宛葉書、和歌三首。
   11日、千萬子宛葉書、和歌四首、トレアドルパンツ。
   13日、千萬子宛書簡、和歌四首、君に関する歌が次から次へとできて小説捗らない、文学座の「マクベス」観にいく。
   15日、トキとキクの婚礼。
   16日、千萬子より書簡、まあ次々と歌を。ギロンコリ手紙出しておいた。
   17日、千萬子宛、22日ハトで三人たつ。前進座へは24、5日頃行くがあまり演出演技は気に入っていない。
   18日、千萬子宛書簡、マクベスの原文と訳本、鴎外のが一番、逍遙は一番ダメ、福田のはまあまあ、野上はまだ見ていない。ウィルソンの注つきを送るが福田はこれを参考にしたらしい。明日観にいく。
   19日、マクベス観にいくか。芥川也寸志杉村春子。千萬子より書簡、お礼、原文は女専で習った市河三喜の注のついたもの。テレビで観たが云々。
   22日、松子重子とハトで京都へか。
   28日、山口広一宛書簡、先日は名古屋で失礼、京都にあと十日ほど滞在、四日中座で「細雪」観るつもり、他に大阪で落語は寄席はどこがいいか、新世界のヌードショウも観たい、電話してくれ。
 11月、新橋演舞場の東をどりで舟橋脚色「少将滋幹の母」再演、パンフレットに短文を寄せる。読売ホールで「法成寺物語」上演。
   3日、松子、長尾の新宅を訪問、長尾の母が教えた木下惠介の話。鈴木虎雄、文化功労者
   4日、中座で「細雪」観るか。
   7日、サイデン宛書簡、今日のハトで熱海へ帰る、明大英語教師の澤田卓爾がマキオカシスターズの英文を原文と対照して書き入れしたのを送ってくれたのでお見せしたい、熱海へ来たら澤田を紹介したい、下旬どうか。熱海へ帰る。
   12日、鳴沢から終平宛葉書、江戸川乱歩との対談は、前に「宝石」の原稿を断ったことがあるので引き受けてもよいが、最近読んでいないので話題は考えてくれ、今月は忙しいので十二月がよい、暇になったら知らせる。
   18日、木村荘八死去(66)
   20日、福田家に登代子・喜美子・千代子訪ねて来、皆で日劇。演目は乱歩のヌード連続殺人「夜ごと日ごとの唇」。山田孝雄死去(84)
   23日、佐々木祥雄宛葉書、表具受け取った。27日待っている。
   24日、千萬子宛葉書、武者小路の歌届いた潺湲亭のも頼む、乱歩と対談することになったので置いてきた「点と線」送ってくれ。
   27日、千萬子より書簡、「眼の壁」しか読んでいないが日本のミステリーは読まず嫌いでクロフツやアンブラーの方がいい、対談楽しみ。松子が感冒のため一人で上京、草月会館で辻留主人嘉一の出版記念会(『料理のお手本』か『茶懐石』)があって出席、祇園の初子が黒髪を舞うのを観、福田家に泊。翌日の笹沼の金婚式出席のため。
   28日、福田家で贈り物の鉄斎の絵の箱書きをしていた時、右手に麻痺を来たす。笹沼夫人を呼んで箱を渡し、稲垣医師の診察を受け、十日ほどそのまま養生する。
  『週刊朝日』7日号で夢声と対談(問答有用)
 12月に入って、前川の紹介で東大の沖中重雄(57)の診察を受ける。
   4日、宗一郎・千代子が見舞いに来る。
   5日−12日、モスクワ藝術座が「桜の園」「どん底」など上演(新橋演舞場
   6日、千萬子より福田家宛絵葉書、ゴッホ展行った。
   8日頃、稲垣に付き添われて湘南電車で帰宅、熱海で中沢徳弥の診察を受ける。沖中から三ヵ月の静養を勧告される。
   10日、「気になること」を『中央公論』新年号に掲載。三島の『潮騒』が「しおざい」と濁らないのを褒め、大江健三郎(24)『死者の奢り』「他人の足」の文章を批判。   14日、千萬子宛葉書、スタンダール恋愛論」送ってくれ、代筆なので書きたいことが書けない。
   16日、千萬子より書簡、計画いろいろダメになり残念、28日そちらへ行く。「どん底」の訳本いいの探している。
   18日、千萬子宛書簡、ロシヤ戯曲は神西訳が評判がいい。別便で「どん底」「桜の園」「三人姉妹」送らせる。君にだけ自筆の手紙書いている。君の手紙は大切に保管して時々取り出して読み返している。千万子さま
   22日、長尾より、硯のお礼の書簡。
   この頃、頼尊清隆が取材に来る。 
   25日、東大沖中博士の忠告で高血圧のため来年正月一杯面会謝絶の案内状を出す。 この年、中央公論文庫『鍵』刊行。円地文子『女面』講談社より刊行、読んで感心する。

1959(昭和34)年          74
 1月、田畑晃(こう)が秘書となる、津島の友人の娘。月給二万円。『日本』で「谷崎潤一郎対談」連載開始、この月は有馬稲子
   2日、「東京新聞」に頼尊の記事。
   3日、「北国新聞」で吉井勇と対談「昔と今」。
   12日、千萬子より書簡、吉井を訪ねたが留守。
   14日、大映細雪』封切、監督島耕二、京マチ子山本富士子、轟夕紀子、叶順子。
   15日、川島雄三監督「グラマ島の誘惑」で春川ますみ映画デビュー。
   18日、志賀高原より千萬子の書簡。
   20日、千萬子宛自筆書簡、君のスラックス姿が大好き、アノラックというのが何か分からず秘書(田畑? 女子大卒278歳アメリカ旅行をしてきた)に訊いて分かった。スポンサーになるが小瀧を使ってこっそり現金を持ってこさせる。潤。
   29日、千萬子宛自筆書簡、たをりがトランジスタラジオが欲しいそうだがどんなのがいいか。今度市川崑が『鍵』を映画化するが主演は京マチ子がいいか山本富士子がいいか意見を。千萬子より書簡、別便で自作帽子を送った。たをりは男の子にもてる。
   30日、千萬子宛自筆葉書、前便見たと思う、君からは新しい時代の風俗等を聞きたい。4月に日劇で「白日夢」をやる。もう一通。
 2月1日、千萬子より書簡、たをりの附属入園のための知能テスト。ラジオは一万八千円もする。テレヴィのおかげでたをりは何でも知っている。日経新聞社から出ている『光琳』(田中一松編)が欲しい。
   2日、千萬子宛現金書留、二万円、夜になると手が痛い。
   この間、千萬子が来て、上京の際重子もついてくる。アノラックとスラックスを買う。
   5日、NHKラジオでデコちゃんとイヴ・モンタンの対談を新村猛(50)が通訳し、新村出感激す。
   9日、千萬子より書簡、お礼、たびたび出掛けると松子重子に気がさす、恵美子のことは小さいことでも隠す。                  
   14日、帝国ホテルで笹沼金婚式祝賀会。松子・重子が出席。
   16日、千萬子宛書簡、私もあの日重子が上京とは思わず夕刻女中に聞いて驚いた、複雑な人なので折りを見て忠告する。恵美子のことを隠すのは余りにあなたに対して劣っているから。いずれ谷崎家も渡辺家もあなたに支配されるでしょう、私はそれを喜んでいる。私に遠慮することはなくどんどん意地悪してくれ。あなたは橋本関雪の天才をただ一人受け継いでいる。同日、「白日夢」ゲラ刷り送る。
   18日、千萬子宛書簡、今度雇った秘書についてあなたが、「そんな高い給料を払う価値はない」と言っていたそうで、松子から二度も注意を受けた、一二ヵ月内に解雇して、書斎を整理するだけの少女を雇う。同日千萬子より書簡、思ったことをぱっぱっと書いて出してしまって後悔、シナリオのこと、最近はショートショートというのがある。
   19日、千萬子より書簡、秘書については松子の主観が混じっている。私が何とか言ったから首というのはやめて。松子は最近経済ノイローゼ。
   20日、千萬子宛代筆書簡、手紙の件了解。たをりの試験は今日、結果分かったら報せて。
   25日、新村から書簡、近所のナショナル電機店からデコちゃんのポスターを沢山持ってきてくれたのであちこち張った。
   26日から5月5日まで、日劇MH七周年豪華公演「白日夢」
   28日、日劇パンフレットに「観客になって楽しみたい」掲載。
 3月、『日本』5月号のために春川ますみと熱海自宅で対談。
   1日、千萬子宛自筆書簡、松子は千萬子の言うことを私が聞くのを悟った。秘書はこれから本格的に使ってみる。
   3日、千萬子宛書簡、「白日夢」パンフ同封、後のほうは丸尾が書いたもの。春川は映画の人になったが特別出演、谷内リエの踊りが素晴らしいそうだ。私は四月末か五月でないと行けないので3月に行って感想聞かせてくれ。
   5日、千萬子より書簡、出したいけれど遠慮していた。早くよくなって一緒にMHへ行きたい、日本のバレー・オペラは色彩のセンスが悪いが、三島の「葵の上」は良かった。明日はカルメン
   8日、千萬子宛書簡、シミオナートのカルメンはどうだったか、きっと気に入ったと思う。先日新潮社の佐藤亮一が来たので君の写真を見せたら清宮(島津貴子)に似ていると言われ松子も同意したが清宮などあなたには比較にならない。「千萬子拝」は他人行儀なのでやめてください。
   9日?『週刊新潮』3月16日号に「谷崎恵美子さんの御難−−間違えられた初舞台の写真」掲載。産経ホールの武智鉄二演出の道成寺舞踊会に恵美子が出たが、別人のヌード写真が間違えられて某週刊誌に掲載され、縁談が壊れたと谷崎が怒っている。
   12日、千萬子より書簡、カルメン素晴らしかった、デル・モナコを観るのもこれが最後かと思うと。週刊新潮見ましたが、誰も伯父様との関係まで気づかないので、あまり抗議や手記など書かず黙殺がよいのでは。あれで縁談が壊れたというならそんな人はいいでしょう。拝と書くのは敬愛の印。
   14日、千萬子より書簡、清治と喧嘩した、金がない、毎月一定額送ってほしいとお願い
   16日、千萬子宛、松子は22日はとで入洛、週刊新潮は私が書いたのではなく松子と恵美子が相談して作った、私の全集十七巻を発送する時ついでに出した。(全集はいつも署名してあなたに発送してからでなくては他の人にはあげない)恵美子があんな仕事をしているのが不賛成で、不愉快。あなたは自分で自分の美しさが分かっていない、拝はやめてください、それならこちらも拝をつける。潤一。
   22日、松子入洛か。
   25日、サイデン宛代筆書簡、「鍵」翻訳気が進まないなら辞退してもよし、澤田と会ったそうだが何か意見は。
   27日、自宅で銀婚式?
 4月初旬、伊吹を呼び、再び秘書になってくれないかと頼む。伊吹は嶋中の話も聞いてから、京都へ帰る。
   8日、高浜虚子死去(86)。
   12日、松子より伊吹宛書簡、秘書受諾の懇願、伊吹すぐ返信。
   18日、伊吹宛書簡、田畑代筆、秘書受諾のお礼。
   19日、たをり宛葉書、リリーがいるのにほかの犬を飼ってはかわいそう。
   20日、千萬子より書簡、熱海へ行きたい。昨日は三人で映画「黒い稲妻」観てきた。千萬子。
   21日?「高血圧症の思ひ出」を『週刊新潮』に発表(27日号−6月1日号、6回連載)、田畑の筆記。
   25日、千代子と日劇へ、谷崎原案「白日夢」を観に行く。春川出る。
   27日、伊吹宛代筆(千萬子?)書簡、六月一杯で構わない。
   30日、永井荷風死去(80)、毎日新聞夕刊に談話「一番身近な作家失う」。
 5月、平凡社世界名作全集『細雪』を刊行。『日本』の対談第二回、春川ますみ
   5日、千萬子宛代筆、8日のはとで行く、きみを連れて。「恋愛論」別便で返す。   8日、気分転換を兼ね京都へ。重子は熱海で留守。
   10日より京大病院前川のもとへ通院。伊豆山からトキ男児出生の電話。
   16日、松子より長尾宛書簡。
   21日、長尾が渡邊家へメロンを持って見舞い、松子が応対するが、これから親戚の結婚披露宴だと。
   その後ほどなく熱海へ。
 6月、『日本』対談第三回、松山善三高峰秀子
   16日、金森徳次郎死去(74)
   17日、「鍵」映画化の宣伝が行き過ぎだと大映に抗議、新聞紙上で謝罪広告
   20日芦田均死去(72)
   22日、千代子が、谷崎夫婦銀婚式の祝い品を持って福田家へ見舞いに来る。
 7月2日、小津が谷崎来信を受け取る。
   3日、伊吹、京都を発ち熱海へ。
   8日、千代子、福田家へ見舞い。
   16日から、伊吹による「夢の浮橋」の口述筆記。
  福田家に泊まって東大で診察を受け、頸椎に異常のあることが分かる。
   19日、笹沼・喜代子・登代子が熱海来訪、一泊。
   26日、松子より長尾宛書簡、病状について、安倍能成から貰った明月上人の巻物の詩について質問。
  田畑晃の務め、この頃終わる。全集完結。
 8月1日、嶋中来訪、「夢の浮橋」の掲載決定と、伊吹の正社員としての辞令について話す。この後、伊吹、綱淵に質問の手紙を出す。
   6日、千萬子宛伊吹代筆、誕生日には祝詞カードお礼、たをりさまが来ても私の病気の上大変なので今夏は諦める。
   7日、千萬子宛代筆、生島様から経筒図頂戴、秋には京都へ。
   8日、松子より長尾宛書簡、明月については秘書に調べさせたので同封する(と書いて忘れた)。
   10日、長尾から松子宛。『婦人公論』9月号に恵美子「父谷崎潤一郎と私」。
   12日、松子から長尾宛書簡、同封したつもりが忘れた。
   13日、「夢の浮橋」第一稿完成の祝宴、嵐になる。
   14日、長尾から、明月の詩について解説。
   25日、千萬子宛代筆、こちらへ届いた軸大雅堂四幅はそちらへと思ったものなので返送する。夕刻、小瀧来訪、谷崎の機嫌の悪いのを心配する。
   26日、小瀧、「夢の浮橋」三分の二を持ち帰る。
   27日、川田宛葉書、『葵の女』恵贈のお礼、31日来駕待つ。
   下旬、小出泰弘来訪、墨流しを実演する。
   29日、伊吹、「夢の浮橋」全部を中公へ持ってゆく。
   30日、安倍より葉書、明月の詩の解説について。
   31日、川田順来訪か。
 9月1日、松子より長尾宛書簡、安倍の葉書同封、お礼。
   10日、「夢の浮橋」を『中央公論』十月号に発表。
   12日、長尾より書簡。淀川宛、「風と共に去りぬ」の黒人メイドの女優はハディ・マクダニエルでいいか。
   19日、毎日新聞「今月の小説」の平野謙、読売新聞に正宗白鳥の「『夢の浮橋』を読んで」が出る。
   20日、『潤一郎訳源氏物語』新書版第一巻を中央公論社から刊行(35年5月完結)。内山完造死去(75)
   21日、朝日新聞文藝時評で臼井吉見が「夢の浮橋」を酷評。
   26日、伊勢湾台風近づく。
  「文壇昔ばなし」を小瀧が口述筆記。
   29日、鷲尾丁未子が笹沼千代子を訪ね歓談。
 10月、「台所太平記」の草稿「女中列伝」の筆記が始まる。東横劇場で「お国と五平」再演、久保田演出、配役は31年と同じ。
  吉田精一編『谷崎潤一郎−−近代文学鑑賞講座 第九巻』(角川書店)刊行。
  精二、ポオ生誕百五十年で、「ポオ小説全集」全六巻を邦訳した功績で日本探偵作家クラブより表彰される。
   2日、千萬子より書簡、吉井が悪いようで、五年前から睡眠薬を飲んでいて、切れると機嫌が悪い、これは内緒。妹の式があと数日に迫り、母が悲しんでいる。
   8日、高折八洲子結婚式。
   16日、「朝日新聞」に「谷崎潤一郎氏の近況」の記事。右手が悪く口述筆記をしている、とあったため、全国から見舞いの状が届く。長尾より書簡。  
   17日、源氏新書版刊行記念で挿絵原画展を新宿伊勢丹で。午後松子のサイン会。
   下旬、陶器店「喜多川」開店祝の文章、「幼少時代の食べ物の思ひ出」、「伊豆山放談」を筆記、石黒敬七(63)『写された幕末』全三巻(アソカ書房、57−59)に触れる。
 11月、「文壇昔ばなし」を『コウロン』に掲載。日本文学全集『谷崎潤一郎集(二)』を新潮社から刊行。新版『幼少時代』刊行、序を記す。歌舞伎座京舞」筋書に「京舞礼讃」を掲載。「あの頃のこと(山田孝雄追悼)」を記す。「探美の夜」最終回。
  『週刊公論』創刊。
   1日、テレビ出演のため、松子、看護婦のみや子、医師中沢と上京、福田家。
   2日、午後七時半からのNHKテレビ「ここに鐘は鳴る」に出演。稲葉夫人、笹沼、津島、長田幹彦、金子竹次郎、内田吐夢、紅沢洋子、岡田茉莉子伊藤整、山中美智子、吉井勇今東光、小学校の同級生長谷川良吉、杉浦貞二、峯岸鎮治が出演。伊吹は和服を届けるが、出演は背広だった。出演料の少なさに激怒。
   3日、里見紝文化勲章受章。
 「或る日の問答」、「おふくろ、お関、春の雪」を筆記。
   4日、円地文子の娘素子と富家氏が帝国ホテルで結婚披露宴。
   12日、千萬子宛代筆、手袋お礼、一月号心に短歌載せたのでできたら送る。
   17日、千萬子宛、「心」原稿コピー、この頃北白川辺をあの気狂い女が徘徊すると聞き彼奴を刺激するのを恐れて題を変えた、たをりについて書くのもやめた。
   19日、千萬子宛代筆、手袋お礼。
   21日、杉並区和田本町実篤文庫中川孝宛代筆葉書、武者小路の挿画「紫式部」教えられて気づいた。単行本「夢の浮橋」に「文壇昔ばなし」も入れるので武者の挿画も二、三入れる。武者によろしく。
 12月、「幼少時代の食べ物の思ひ出」を『あまカラ』に掲載。「おふくろ、お関、春の雪」を『週刊朝日別冊』に掲載、硲伊之助の挿画。「大坂」に「ざか」とルビが振ってあったので手紙を出し、編集者水野多津子から詫び状が来る。『探美の夜 完』講談社刊行。
   3日、水野多津子宛、再度手紙。雑誌掲載用。
   10日、「或る日の問答」を『中央公論』新年号に掲載。「石仏抄(千萬子抄)」を『心』1月号に発表。
   11日、千萬子より速達、出産が迫っている、重子来るそうだが今回は遠慮したい    12日、千萬子宛代筆、羽子板送った。
   19日、山田孝雄一周忌のために「あの頃のこと」を筆記。
 この年、中央公論文庫『幼少時代』刊行、鏑木清方「カットについて」「『幼少時代』で思い寄ること」、安田靫彦「蠣殻町界隈」を併載。
 この年、大坪砂男、作家廃業。