近ごろ、文藝評論は滅びるとか、小説家が文藝評論を書き出したとか言われているし、昔の文藝評論はどんなだったのかと、川村二郎(1928-2008)の『限界の文学』という、講談社が設定した亀井勝一郎の第一回受賞作に目を通してみた。この亀井勝一郎賞というのは、終りのころに柄谷行人の『マルクスその可能性の中心』や、野島秀勝の『迷宮の女たち』が受賞していて、どちらも文庫になっていて、私は面白く読んだ。結構短命に終わった賞で、それからしばらくして新潮社が小林秀雄賞を作ったが、これはほどなく、文藝評論の賞ではないことが分かり、今では文藝評論専門の賞というのはほとんどない。
川村二郎というのは、軍人の家に生まれ、ドイツ文学を専門とし、佐伯彰一らとともに批評を始めた人で、鏡花とか露伴とか百間とかの幻想文学を好み、吉行淳之介や中上健次が好きで、保田與重郎を論じたり「イロニー」とか「アレゴリー」とかよく言う人で、右翼っぽくて、25年にわたって読売新聞の読書委員を務め、藝術院会員にもなった人だが、文藝評論家というのは伝記の対象にならないので、伝記というのはない。今ではほとんど読まれていない。朝日新聞記者の川村二郎(1941-2020)は同名異人である。(小林秀雄も「論」はあるが伝記はない。書簡も日記も公開されていないからである。書簡や日記が出てこないとちゃんとした伝記は書けない)
川村の批評家としてのデビュー作は、折口信夫の「死者の書」論(1961)だとされており、それはこの論集に入っている。だが順番に読むと、はじめのほうに、専門のドイツ文学についてのものが並んでいる。ベンヤミン、アドルノ、ルカーチ、ホフマンスタールといった具合に出てくるが、難しくて歯が立たない。
そういえば昔、イルメラ=日地谷・キルシュネライトというドイツ女性が『私小説』という評論を書いて、小林秀雄の「私小説論」をやり玉にあげ、日本の文藝評論は論理的に書かれていないと言っていた。私は当初感心して読んだのだが、そのうち、ドイツの文藝評論だってどの国だって文藝評論というのは非論理的なもので、アドルノだってベンヤミンだって、学術論文として書いたもの以外は非論理的ではないかと思った。
さて川村に戻ると、「批評の生理」という、これは『ドイツ文学』という学術誌に載ったものだが、アドルノとルカーチの、批評というのは学問なのかそれ自体文学なのかという問題が論じてあり、興味をもって読んだ。そこではたとえばクルチウスは、学者としては一流だが批評家としては落ちるといったことが書いてあって面白かった。これによると、ルートヴィヒ・ローナーという人の『ドイツのエッセイ』という本があるらしいが、翻訳はないようだ。
この本に載ったものを書いたのは川村が三十代の時だが、ドイツ文学はもとより、古代ギリシャ文学から現代ギリシャ文学、近世浄瑠璃までやたらとものを知っているのに呆れるが、批評家の若いころというのはこのように自分の博識を誇ろうとするものだ。たとえばワグナーを論じるのに、自分は声楽が苦手なので、いっそ「ジークフリート牧歌」がいいと言ってみたい、などと書くのにはちょっと苦笑して、それならタンホイザー序曲でもローエングリンの第三幕への前奏曲でもマイスタージンガー序曲でもいいではないかと思ったのだが、多分それらを出すのは恥ずかしいと思ったのだろう。
始めは、ドイツ文学と日本文学くらいが知識の範疇かと思っていたが、ダレルの『アレクサンドリア四重奏』の梗概まで教えてくれた(前のエントリー)し、ビュトールとかロブ=グリエのヌーヴォー・ロマンについてもひとくさり知識を披露してくれた。ケレーニイを重んじているようだがユングについてはバカにしているようだ。とにかく神話が大層好きらしく、神話を現代化した『ユリシーズ』とか、エリオットの『荒地』とかも出てくるが、私は『荒地』というのは『祭祀からロマンスへ』などの参考文献で勉強してからでないと分からないものだということを確認できた。
あと現代ギリシアのニコス・カザンザキスという作家のことも書いていて、この人は「その男ゾルバ」という映画化もされた作品が有名で、ノーベル賞にも推薦されたがギリシャ政府が邪魔をして、受賞したカミュが、カザンザキスのほうが自分より百倍ノーベル賞にふさわしいと言ったとかいう。川村はこのカザンザキスの「オディッセイ」という「オデュッセイア」の書き直しを英訳で読んだらしく、実に熱をこめて語っているのだが、わざわざ英訳で読む気にもならない。
川村の代表作で文庫にもなっていた『銀河と地獄』は昔読んだ。これは日本の幻想文学を論じたもので、中に近世の浄瑠璃作者たちの章があったが、川村はかなり浄瑠璃には熱中していたらしく、若い頃浄瑠璃の素晴らしさについて熱弁したら、そこにいた人に、あんな愚劣なものを褒めるのは日本文化への侮辱だと怒られたと書いている。谷崎潤一郎は、浄瑠璃を「痴呆の芸術」と呼び、特に「寺子屋」のように子供を犠牲にするのがイヤだと言っていたが、川村はどういうわけか谷崎の名は出さず、この点について「寺子屋」は礼讃し、かえって「盛綱陣屋」のほうがひねこびていると非難する。さらに「摂州合邦辻」で、折口の論を引いて、玉手御前の恋が策略だとのみ考えたのでは面白くない、ウソから出たまことだと熱弁を振るっていて、この辺は、ああ川村二郎だなあと思う。私の師匠の渡辺守章も、歌右衛門の玉手御前を見てきて「蹴殺すど」ってところが恋する女のように見えないんだよね、と言っていたことがある。
最後は最近の日本文学ということで河野多恵子について書いてあるが、やっぱり幻想文学の、血なまぐさいのが好きなんだなあと思った。
あまり川村二郎が好きではないが、文藝評論家というのはこのくらい知識がないとやっちゃいけないよねえ、という気がする。
(小谷野敦)