「現代文学論争」補遺2

忠臣蔵とは何か』論争と丸谷才一

 丸谷才一(一九二五− )は、三島由紀夫梅原猛と同年である。東大英文科の大学院を出て、國學院大学の教授をしており、作家として独立したのは四十を過ぎてからのことだ。若いころ、篠田一士らと同人誌『秩序』をやっており、一九五二年からそこに長編『エホバの顔を避けて』(のち中公文庫)を連載したのが、デビュー作ということになるがこれが単行本として刊行されたのは六〇年のことである。その間、もっぱら、グレアム・グリーンやジェローム・K・ジェローム、また英文科の後輩で、のち東大教授になる高松雄一(一九二九− )らとともに、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』を翻訳したことで、次第に名を知られていった。六二年に「彼方へ」を『文藝』に載せて文藝誌にデビューし、六六年に書き下ろし長編『笹まくら』を刊行し、好評を得て、河出文化賞を受賞した。
 丸谷は、日本の私小説批判で知られる批評家でもあり、『エホバの顔を避けて』は、旧約聖書のヨナ記を題材にしたものであり、『笹まくら』は、大学の事務員をしている男が、かつて徴兵忌避をしたことを題材にした作りごと小説である。だがその一方で、三島の観念的小説をも評価しておらず、六七年に二度芥川賞候補になった時も、選考委員の三島の反対でとれなかったと言われたが、六八年、短編「年の残り」を、三島も認めて受賞したのは、四十二歳の時だった。
 大学を辞めて筆一本の生活に入ったが、丸谷は次の小説をすぐには発表せず、長編の執筆に五年近くをかけた。その間、批評、エッセイを数多く書いた。丸谷は、英国流の風俗小説を評価し、そのようなものを書こうとし、日本的と見られる、内面へ沈潜する文学を否定して、社交的で賑やかなものを好んだ。そこから、エロティックなもの、グルメ・エッセイなどが多く書かれ、七二年に書き下ろし長編として刊行したのが『たった一人の反乱』で、これが好評を博し、谷崎潤一郎賞を受賞したが、この作は、資産家の息子である中年の会社員が妻を亡くしたあと、婆やと一緒に暮らしながら、愛人を作り、それが愛人というより妾で、これを正妻に「直す」という、時代錯誤的な小説だったが、丸谷は日本近代文学の中でも、花柳小説を、私小説とは異なる社交的文藝として評価しており、なかんずく永井荷風を評価した。ただ花柳小説の私小説もあるわけだが、その辺は自己の表出の度合いが強ければ、丸谷には否定された。西欧における社交界の代わりに、日本には花柳界があったというのが丸谷の持論で、だから初期には、『多情仏心』のような里見紝の小説を評価したが、里見には『安城家の兄弟』のような壮大な私小説もある。
 三島由紀夫の自決の際には丸谷は「僕は武張ったことは嫌いです」と言っている。正仮名遣いを用いるため、保守派に分類されることもあるが、政治的発言はほとんどせず、ただ元号の廃止を数年前に唱えており、必ずしも政治的保守派ではない(第一、井上ひさしも、可能な場合は正仮名遣いを使う)。石川淳を師と仰いだが、恐らく目標としたのは舟橋聖一で、丸谷は舟橋の『ある女の遠景』を絶賛しており、これは良家の令嬢が藝者のように振る舞う時代遅れの小説だと言っているから、『たった一人の反乱』は、あえて時代遅れに書いたものである。
 しかし、これを「フォニイ」として退けたのが、江藤淳だ。江藤は丸谷の宿敵となる。丸谷はその間、社交的文藝として評価する中世日本の和歌を研究し、七三年には『後鳥羽院』を刊行して読売文学賞を受賞、文壇的地位を揺るぎないものとし、七五年にはトリッキーな中編『横しぐれ』を発表したが、これ以後は、十年に一編の長編小説を書き下ろしで刊行するようになり、それが八二年の『裏声で歌へ君が代』、九三年の『女ざかり』、二〇〇三年の『輝く日の宮』ということになる。また『日本語のために』のような、福田恆存の衣鉢を継ぐようなエッセイ、大岡昇平の『野火』をテクストとし、比喩の用い方を中心とした『文章読本』など、話題作を次々と刊行し、山崎正和大野晋を相手として対談本を出し、七八年には芥川賞選考委員に就任した。
 七八年には『日本文学史早わかり』を上梓しており、これは詞華集を中心として日本文学史を組み立て直すもので、『万葉集』に始まり、『古今和歌集』以降の二十八代集、また連歌、および俳諧連歌によって時代区分を行い、個人の事業としての文藝に対置されるものとして、複数の人間によって構成される文藝の価値を提唱した。そして自ら、大岡信石川淳らと、連歌の試みを行いもした。
 丸谷はこれを、日本文学史読み直し第一弾として、第二部として構想したのが『忠臣蔵とは何か』であった。私は一九八四年に東大英文科に進学したが、その年、主任教授の高松雄一の頼みで丸谷は英文科でジョイスについて講義することになっていた。人気作家だから、その講師料はおそらくあまりに低額であったろうが、大教室に大勢が集まった。ところが、丸谷は、ジョイスの話はやめた、と言って、生原稿を読み始めたのだが、それが、まだ刊行されていない『忠臣蔵とは何か』だった。しかし丸谷のは、原稿を見ながら即興で話すというのではなく、ただ淡々と読むだけで、しかも聞き取りづらく、いかにもやる気がなかったので、次第に聴衆は減って行った。だが成績をつけなければならないから、未邦訳の英文小説九冊くらいをあげて、一冊を選んで読んで感想を書くレポートが課され、私はアントニーバージェスの『ドクター・イズ・シック』を選んだが、実は英語の長編小説を一冊読むのはそれが初めてで、難儀したがよく分からず、点数はBだった。
 それは余談として、『忠臣蔵とは何か』は翌年刊行され、野間文藝賞を受賞した。これは、浄瑠璃の『仮名手本忠臣蔵』というより、赤穂事件を扱ったもので、あとがきには、民俗学の論文ではなくて文藝評論だと書いてある。丸谷は赤穂事件を、憤死した浅野内匠頭の怨霊である「御霊」を鎮めるための儀式的性格を持ち、のみならず、生類憐れみの令を出して庶民を苦しめた将軍綱吉を「悪王」とする王殺しの性格も持っていたと、フレイザーの『金枝篇』(黄金の枝)を援用して論じていた。
 翌年になって、初めてちゃんとこの本を読んだ私は、その論証の杜撰なのに驚いた。もし、浄瑠璃ー歌舞伎の『忠臣蔵』の背後に、御霊鎮めの意味がある、というのなら、まだまともな学説になったといえたろうが、『仮名手本忠臣蔵』は、事件から五十年もたっての成立だし、それだけでは面白くないと思ったのか、王殺しの主題まで入れたために、だいぶおかしなものになっていた。私はそれ以前に、梅原猛の『水底の歌』を読んで感心していたが、これは益田勝実の一言によって半ば崩壊していたし、小西甚一などは、推理小説以下、と切り捨てていた(『日本文藝史5』講談社)。しかし、梅原はそれなりの力を注いで論証をしようとして、それでも見落としがあったのだ。丸谷の場合、元学者だというのが信じられないほどの穴だらけの論証ぶりで、いくら東大の学生とはいえ、二十三歳の若者に分かってしまうようではまずいだろう、と思った。
 だが、それだけに、表立って批判したのは、諏訪春雄(一九三四− )だけだった。諏訪は東大大学院で近世国文学を学んだ学習院大学教授で、もともとの専攻は民俗学だったが、近世演劇が専門だった。諏訪は「御霊信仰判官びいき--丸谷才一氏『忠臣蔵とは何か』への疑問」(『新劇』一九八五年三月号)で疑問を表明したが、丸谷は珍しくいきりたち、「お軽と勘平のために--諏訪春雄に答へる」(『群像』五月号)でけっこう口汚く反論したのは、諏訪が「丸谷氏」などと書いて、妙にへりくだった書き方をしたのが、慇懃無礼に見えたからでもあろう。しかし諏訪は落ち着いて「忠臣蔵のために--丸谷才一氏に問う」(『群像』六月号)で再反論、丸谷は「文学の研究とは何か」(同七月号)で答えたが、丸谷の分は『鳥の歌』(福武書店、一九八七)、諏訪の分は『聖と俗のドラマツルギー 御霊・供犠・異界』(学藝書林、一九八八)に入っている。
 しかし論争の内容は、学問的には完全に丸谷の負けである。だから丸谷は二度目の反論に当たっては、諏訪は学問にこだわって、自分で面白がって考えようとしていない、などと言っていたが、そうなると丸谷は、学問を否定しているわけで、これでは論争にならない。もっとも残念だったのは「文藝評論である」と言われて野間文藝賞を与えた側が何も言わなかったことで、いったい文藝評論というのは、学問的に成り立たないことを言ってもいいのか、という議論が起きてしかるべきだった。ずっと後、東大教授・松浦寿輝の『折口信夫論』が三島由紀夫賞を受賞した時、選考委員の石原慎太郎は、候補作だった茂田真理子の『タルホ・未来派』と比べて、やはり学術書と文藝評論は違うと言い、松浦のそれは学問ではなくて文藝評論だから授賞したと述べたが、『折口信夫論』は、徹頭徹尾何を言っているのか分からない本だった(のちちくま学芸文庫)。
 学問的に間違っていたり、論理的に読めなかったりするものが文藝評論なのか、ということは、もう少し多くの人に考えてほしいと私は以前から言っているのだが、それはどうやら文壇のタブーらしく、谷沢永一以後、まともに取り組んだ者はない。
 丸谷は、和歌については本格的に勉強しているからおかしなことは言わないのだが、歌舞伎については、若いころから親しんでいたわけではないらしく、かつ不勉強が目立つ。『忠臣蔵とは何か』が評価されたので、以後歌舞伎についていろいろと思いつきを述べ始めることになるのだが、『男もの女もの』(文藝春秋、一九九八)で、歌舞伎はイエズス会劇から影響を受けたのではないかという「新説」を唱えたが、これと類似した説はドイツ人の学生が既に唱えていて、河竹登志夫の『歌舞伎美論』(東京大学出版会、一九八九)に紹介されていたのである。しかし丸谷は、演劇学者の山崎正和や、歌舞伎学者の渡辺保も認めてくれた、すごいすごいと自画自賛していたから、私が手紙を出した。
 すると翌年の『思考のレッスン』(文藝春秋、一九九九)では、読者の方に教えられて河竹著を読んでみた、とあって、まあ河竹先生も特に何も言わず、穏便に済んだのだが、どうも危なっかしい。
 丸谷は、ある種の文学者から憎まれていて、金井美恵子は一九八五年の『文章教室』の装丁を丸谷の『文章読本』に似せて揶揄し、八七年の福武文庫版の解説は、蓮實重彦と金井の対談で、蓮實がそのことを確認し、さらに、丸谷がいい映画としてあげたものを列挙して、これを見ると丸谷先生が馬鹿であることが分かりますね、などと言った。
 その頃、中上健次は何度も谷崎潤一郎賞の候補にあがりながら落とされており、八九年には『奇蹟』で五回目の候補になったが、この年、丹羽文雄遠藤周作が選考委員を辞任したため、丸谷、大江、吉行淳之介の三人で専攻をし、受賞作なしと決まったが、丸谷が一人で選評を書いて、わざわざ中上の文章を引用して、日本語がおかしいと指摘した(『『中央公論』十一月号)。
 金井はこの件をとりあげて、中上がこれに反論すると、まるで自分が受賞する資格があるように主張しているかのようなので、選評で候補作をあれこれするのはおかしいのではないかと書いた(『重箱のすみ』中央公論社、一九九八)。ために、のち谷崎賞は、受賞作以外の候補作に選評で触れないようになった。
 九三年に丸谷は、十一年ぶりの長編『女ざかり』を刊行してまた話題となった。これは女性の新聞記者を主人公にした、まあ例によって陰謀ものの通俗小説で、丸谷は、私小説を敵視するようなことを言ったから、柄谷行人が、私小説なんてもう存在しないのに、と批判するということもあり、富岡幸一郎は、『群像』から書評を頼まれて、批判的なものを書いたら書き直させられ、褒め殺しをした、と発言した。
 さらに一九九三年に、東大の比較文学の院生だった張競(一九五三− )の最初の本『恋の中国文明史』(筑摩書房、のち文庫)が出ると、丸谷が絶賛し、翌年の読売文学賞を受賞した。これは、シナ文学は恋愛に対して冷淡だが、それは漢民族の特性で、異民族は恋愛に寛容だったという趣旨のもので、シナ文学の専門家からは認められていない。しかるに丸谷はこれでいきなり日中比較文学論を思いついたらしく、『群像』九五年二月号に評論「恋と日本文学と本居宣長」を書き、日本には恋の文学の伝統があるから、近代になると恋愛文学がたちまち復活する、としたのだが、当時、恋愛の比較文学史を研究していた私からすると児戯に等しく、「復活」したというからには、徳川時代の日本文藝がどうだったか記述しなければいけないのに、それがないに等しいのである。さらに九六年二月号『群像』に「女の救われ」を書いて、日本には女人救済の文藝があるが、シナにはないと書き、張競さんに、なぜないんでしょうと尋ねたら、それは話が逆で、なぜ日本にはあるんでしょう、と返事があり、なるほどと丸谷は感心したというのだが、なんだかさっぱり分からない、読者をバカにした文章である。この二つを併せて『恋と女の日本文学』として講談社から刊行された。
 さて、九六年一月三十日の「毎日新聞」文藝時評で川村湊がこれをとりあげ、シナの女人往生としては目蓮戯という民間演劇があると批判した。すると張競が『群像』四月号に「目連戯は女人往生の演劇なのか」を載せてこれに答えた。目連戯というのは、釈迦十大弟子の一人目連が、地獄に落ちていた母を救うという話で、民間で演じられており、「目連救母」として知られており、張も演劇自体を観たことはないが、子供の頃絵本で読み、母親からも聞かされたという。しかしこれは女人往生ではなく、孝行の徳を讃える劇であり、宋、元、明、清の多くの戯曲には女人往生を描いたものはなく、しかも女人往生という語はシナ語にはない、また一つの学説を批判するのに個別の一例だけを挙げるのはアンフェアである、とした。
 川村は同誌六月号「竜女成仏と目連説話--張競氏に答える」で、教えられるところは多かったが、そもそも丸谷は「女人往生」と「女人成仏」を同じ意味で使っており、「女人成仏」なら、サンスクリット語から訳された『妙法蓮華経』に「龍女成仏」があるのだから、ないとは言えまいし、『忠臣蔵とは何か』で丸谷は通説をひっくり返したのだから、女人往生はないという通説を改めて再検討してもいいのではないか、とした。