「現代文学論争」補遺

現代文学論争」のために書いたのだが、分量の関係で割愛したものである。未完。

 福田和也という謎

 福田和也(一九六〇− )は、江藤淳柄谷行人の衣鉢を継ぐ文藝評論家とされ、慶応義塾大学環境情報学部教授である。これまでいくつかの論争を行ってきたが、むしろ福田自身が、謎めいた人物、論争的な人物だと言っていいだろう。
 福田は慶大仏文科の大学院に在籍して、修士課程で追い出され、実家の仕事を手伝いながら、フランスが一九四〇年にドイツに降伏したあとの、ナチス協力作家たち(コラボラトゥール)を論じた『奇妙な廃墟』(国書刊行会、のちちくま学芸文庫)を一九八九年に刊行した。福田は、この本にはほとんど反響がなくがっかりしたと語っているが、実際には江藤淳がこれに目をつけ、翌九〇年七月号の『諸君!』に「遥かなる日本ルネサンス」を「大型新人登場」という見出しとともに載せ、論壇デビューした。これは隔月で四回連載され、同題で文藝春秋から刊行された。
 ただ奇妙なのはその時福田が「文藝評論家」と名乗っていたことで、これはのちに当人も語っているが、肩書がないため、文藝誌ではまだデビューしていないのにそうしたという。「遥かなる日本ルネサンス」は、当時流行していた、西洋はキリスト教という一神教の文化だが、日本は多神教の国であるという比較文化論を、日本にも一神教的なものは多分にあると論じるなど、従来の「保守」とはひと味違うものを感じさせ、知識が豊富なことも窺える評論だった。
 福田は翌年四月号『新潮』に「虚妄としての日本」を発表し、文藝誌デビューを果たし、『VOICE』には「『内なる近代』の超克」を連載、『新潮』にはそれから「日本の家郷」に至る三本の文藝評論を書いて、九三年にこれを併せて『日本の家郷』として新潮社から刊行し、同年の三島由紀夫賞を受賞、また『「内なる近代」の超克』をPHP研究所から刊行と、順調な滑り出しを見せた。『「内なる近代」の超克』は、日本人が西洋文学を研究することの悲哀から話が始まり、いくぶん平川祐弘らがやってきた仕事と似通ったところはあったが、それまで文藝評論家からはバカにされていた村上春樹を、初めて称揚したものである。だが、福田の奇妙さは『日本の家郷』から始まっている。それは日本の伝統文化を、ハイデッガーの概念で説明しようとしたものだが、いかにも、文藝評論を書くために文藝評論を書いたという、『遥かなる日本ルネサンス』『「内なる近代」の超克』に比べると、文脈のとりにくい非論理的な文章で書かれ、それが小林秀雄以来の日本の文藝評論の伝統藝とも言えるのだが、特に優れたものとは思えなかった。福田は以後もしばらくは、『甘美な人生』(新潮社、一九九五、のちちくま学芸文庫)『保田與重郎と昭和の御代』(文藝春秋、一九九六)『日本人の目玉』(新潮社、一九九八、のちちくま学芸文庫)『南部の慰安』(文藝春秋、一九九八)などの、意図的に非論理的に書かれたようなものを書き続けた。
 政治的に保守派の文藝評論家というのは、むろん、江藤、村松剛福田恆存など大勢いたが、福田の世代では珍しい。とはいえ、その後何人か登場することになったが、福田は当初、保田與重郎に学ぶと宣言し、九三年には早くも、若い保守の文藝評論家の登場に不快感を表明した加藤典洋と、「読売新聞」紙上で論争を行っている。さらに福田は鳴り物入りで、保田の精神に学ぶとした季刊文藝誌『イロニア』を創刊したが、これは十二号、三年でつぶれた。
 しかし当初から、福田が、たまたま江藤に声をかけられたから保守でやっているが、左翼でも良かった、と言ったなどと伝えられ、実際その批評を読んでも、本気で保守をやっているというより、演じているという趣が強かった。確かに、湾岸戦争の際の文学者の反戦署名を批判し、皇室について論じたり、九五年には『諸君!』で長編評論「地ひらく−石原莞爾と昭和の夢」の連載を始めるなど、いかにも保守の批評家然と振舞っていたが、九五年の確か六月、私は大阪で開かれた日本比較文学会の懇親会で、江藤に連れられてきていた福田と、後にも先にも一度だけ言葉を交わしたことがあり、その時福田が、浅田彰には大著を書こうとかいう野心がないから、話していて気持ちがいい、と言ったのを聞いて、共和主義者で天皇制反対の浅田と仲がいいことにやや意外の念を抱いたが、その翌年には、浅田と柄谷行人編集委員を務める『批評空間』の共同討議に福田は出席し、続いて連載も始めた。
 一応『批評空間』側の体裁としては、いわゆる「右翼」思想をも研究の対象にするということではあったが、福田がいかにも「ヌエ的」論客であることは次第に明らかになっていき、『中央公論』九七年七月号に載った大塚英志(一九五八− )との対談「愛国心について」では、最後に大塚が、福田が演技として右翼をやっているのを本気にする人もいて、友人として心配です、と口にし、また同年三月号『正論』の連載時評で福田は、文藝評論家として東浩紀佐飛通俊、大杉重夫、高橋勇夫などが中原に駒を進め、ヒール(悪役)として頼もしく思う、と書いた。さらに大塚は『アステイオン』の連載インタビューの解説文で「福田和也は本当は左翼」などと書き、福田が否定するなどという茶番劇もあった。
 福田は九三年十一月号の『新潮』に「柄谷行人氏と日本の批評」を書き、柄谷の「外部」というマジックワードに、人はいつまで幻惑されるのか、とかなり回りくどい表現で書いたが(『甘美な人生』所収)、見て分かる通りこの当時の福田は、文藝雑誌では異例な「氏」づけの文章を書いており、九六年二月号には「江藤淳氏と文学の悪」を書いて、江藤には「悪」が欠落しているのではないか、というようなことを、さらに回りくどく、西洋の作家の文章を、誰のものとも明示せずに引用したりして論じた(『江藤淳という人』新潮社、二〇〇〇所収)。これは江藤の承認の下で書かれたものである。しかし九七年二月号『諸君!』には、「蓮實重彦 どうしてそんなにエライのか?」という、短い戯文を書き、柄谷、江藤と来て次は蓮實ですねと言われるが、蓮實はわざわざ批判する値打ちもないと漫罵し、自分の対談集に『饗宴』という、プラトンのそれと同じ題名をつけることを罵った。
 何といっても、中上健次が九二年に死去していたことは、福田の跳梁には都合がよく、当時、宮台真司が人気があって、しばしば「戦略」という語を用いたが、福田にどういう戦略があったのかは分からない。蓮實は当時、東大総長(一九九七−二〇〇一)で、批評家としては休業状態だったから、総長を退任して戻ってきたら福田とのバトルになるのかと思ったが、それは起きなかった。しかしこの頃、概要が発表された、保守派の結集と見られる「新しい歴史教科書をつくる会」には、江藤や桶谷秀昭も、また比較文学会の芳賀徹平川祐弘も賛同していたが、福田は、それまで保守と見られていた宮崎哲弥(一九六二− )とともに、これには加わらなかった。今となっては信じがたいことだが、それまで宮崎がもっぱら対談、共同作業の相手としていた法学者の八木秀次(一九六二− )は、『サピオ』誌上で宮崎と、この会を批判する対談をしていたが、これが宮崎と八木の最後の対談となった。要するに「つくる会」は、西部邁が言うような「真正保守」とは別の意味で、「ほんものの保守」かどうかの試金石になった趣があった。
 一九九七年十月、ジョン・ラーベが書いた『南京の真実』(平野卿子訳、講談社)が話題となった。いわゆる「南京大虐殺」を証言したものだが、内容には疑問符がつけられた。福田は同年十一月号『諸君!』に「ジョン・ラーベの日記『南京大虐殺』をどう読むか--あの60年前の「惨劇」が今我々に突きつけるものは何か?4カ国同時期発売の問題の書を読み解く」を寄稿し、その内容を事実に近いと認めた上で「加害者としての誇りを持つ」と書いた。ラーベ著の内容を疑わしいとしていた小林よしのりはこれに怒り、小林と福田の論争に発展した(なお私はかつてこれをアイリス・チャンの『レイプ・オブ・ナンキン』と間違えたことがあり、福田氏にお詫びする)。
 西部邁(一九三九− )は、学生時代、ブントに属する活動家で、柄谷の親友だったが、当時、小林、福田の双方に目をかけており、この対立を憂慮して、九九年六月刊行の『国家と戦争 徹底討議』(飛鳥新社)で、この二人に佐伯啓思を加えて議論を行い、二人を和解させようとしたが、福田は同年十二月刊行の宮崎との対談本『愛と幻想の日本主義』(春秋社)で、やっぱり南京の犠牲者はかわいそうなんですよと前言を繰り返したため、再度小林の批判を受け、西部の努力は水泡に帰した。この場合は、小林が具体的に、ラーベ著のどこがおかしい、と指摘しているのを福田が一切無視したので、明らかに福田が悪い。
 それも、九八年に刊行された小林の『新ゴーマニズム宣言スペシャル 戦争論』(幻冬舎)を宮崎が厳しく批判し、小林と死闘のような論争を展開しているという背景があった。宮崎は、西部に見出され、「十年に一人の逸材」という推薦文つきで最初の著書『正義の見方』(洋泉社、一九九六、のち新潮OH!文庫)を上梓し、西部の『発言者』に連載もしたびたび登場していたが、この頃西部と対立し、突如連載を打ち切られ、西部が小林と連携するということで、どうも男同士の三角関係めいたところがあった。
 その一方福田は、『SPA!』などの若者向け雑誌で、罵詈雑言を売り物とする連載を多くこなし、これらは『罰あたりパラダイス』『乃木坂血風録』などにまとめられたが、いかにもパフォーマンス臭が強く、しかも石原慎太郎の文学をのちのちまで絶賛するなど、まじめにやっているとは見えなかった。
 また九八年三月刊行の島田雅彦との対談『世紀末新マンザイ』(文藝春秋)で福田は「天皇なしのナショナリズム」と言い、九九年一月号『諸君!』で大塚英志と対談「『天皇抜き』のナショナリズムについて」を行った(先の対談とともに『最後の対話−ナショナリズム戦後民主主義』福田・大塚、PHP、二〇〇二所収)。とはいえ「もちろん、天皇陛下はいらっしゃっていただかないと困るし、皇統が続いていくことを信じています」と言っている。ただ、いま見ると、法的規定を外して存在させるという意味にもとれる。さらに九九年七月、『リトルモア』という新雑誌で連載対談をしていた福田は、柄谷を対談相手とし、これが「禅譲!?」と題されて、周囲を驚かせた(『スーパーダイアローグ』リトル・モア、二〇〇四所収)。これが出た直後の七月一二日に江藤が自殺していることを思うと、江藤には何がしか、福田に裏切られたという思いがあったのではないか。江藤は、八〇年代に、芳賀徹山崎正和らを敵に回し、保守陣営でも孤立していた。だからこそ福田に目をかけて、慶大の助教授にし、自身も慶応大学に移り、弟子を育てようとした。しかし村上春樹を評価する福田の文学上の方向性は、江藤とは違っていたし、江藤没後、江藤が高く評価していた中上健次を批判するようにもなる。
 江藤没後、西部は福田と、『論語』を読むという対談の連載を『文學界』で始めたが、その途中、福田が『作家の値うち』(二〇〇〇年四月、飛鳥新社)という、現代作家の作品を百点満点で評価する本を出して、賛否両論を呼んだが、批判する方は日野啓三をこき下ろすなど当たっているとも思えたが、石原慎太郎の『わが人生の時の時』に96点をつけるなど、あからさまにおかしい。いま見れば、要するに「お笑い」のネタでしかないのだが、当時はさすがに私を含めて、本気で怒る者も多く、西部も当の対談で、文学に点数をつけるのはどうか、と疑念を呈し、連載対談はいつの間にか終了していた。西部は、江藤淳の唯一の長編小説『海は甦える』の文庫版の解説を書いて、もちろん褒めていたのだが、私は口頭で「あんな下らないもの」と言っていたのを聞いている。いずれにせよ、石原に96点というあたりに、西部も嫌気がさしたのだろう。(もっとも『わが人生の時の時』自体は、悪いものではない)
 もっともヌエ的といえば糸圭秀実もそうで、柄谷から、「優秀な批評家」と言われつつ、西部の『発言者』にも登場していたが、二〇〇〇年一月『文學界』で、福田の『喧嘩の火だね』を書評して、福田は社交を取り戻そうとしているのだと論じた。要するに虚々実々の駆け引きということなのだが、こういう福田のあり方には、やはり怒る人がいて、二〇〇〇年四月号の『噂の真相』に、浅田彰田中康夫中森明夫の鼎談「90年代の論壇・文壇状況の検証!!“身の程を知らない文化人”を斬る!」は、宮台真司批判で知られるが、同時に田中が浅田に、なぜ福田を批判しないのか、と詰め寄った場でもあった。田中は、あなた方はシャレのつもりでも、福田が『諸君!』とかに書く保守的評論を本気で読んでいる人だっているんだ、と言ったが、田中にしては珍しく正しいことを言う、と思ったものだが、浅田は福田の審美眼を讃えるだけで、明快には答えられなかった。柄谷も、福田は小説が読める、と言っていたが、石原慎太郎を絶賛したりするのは、読めても本当のことを言わない、ということになるだろうか。
 福田に対して本気で怒ったのは大杉重男だろう。大杉の福田批判は、「知の不良債権−批評閉塞の現状」(『早稲田文学』二〇〇一年一月)が有名だが、端的なものとして、『新潮』二〇〇〇年六月号の見開き随筆「中上健次に始まり、福田和也に終わる……」がある。「最近福田和也は『右翼の浅田彰』というコンセプトで売りたがっているように見える」「『構造と力』と『日本の家郷』はそのスカスカ感においてよく似ている」「福田の唯一の真面目な本である『奇妙な廃墟』」はもともと『批評空間』に投稿したもので(『季刊思潮』のことか)、『作家の値うち』でも、石原への大甘な評価とか、横森理香の『ぼぎちん』が傑作なら、中上の『軽蔑』もいいではないか、保坂和志がそんなに偉いのか、また古井由吉の持ち上げ方も変だ、と、本気の議論を展開しているが、福田の本拠地である『新潮』でそんなことを書いたせいか、大杉はその後都立大学の専任教員になり、文壇からは離れて行った。
 実際古井の『仮往生伝試文』を福田は絶賛している。しかし古井の、朦朧体めいた小説は、『槿』の時に江藤が「退屈の美学」として批判したもので、江藤が死ぬとたちまち、江藤とは違う評価を作家たちに下し始め、比較文学会も辞めてしまった。
 『批評空間』グループは、柄谷が「NAM」の活動を始めて、二〇〇二年、編集者一人の死によってたちまち破綻するとともに解体したが、福田はこの頃から、坪内祐三(一九五七− )と組むようになる。坪内は早大英文科でアメリカ文学を専攻し、『東京人』(都市出版)の編集者をへて文筆家になり、九九年一月に初の書き下ろし長編評論『靖国』(新潮社、のち文庫)を刊行して、靖国神社はもともとテーマパークのような遊び場だったと論じたが、川村湊がこれを批判し、『論座』誌上で川村との論争になった。この過程で、どうやら坪内は「保守」らしいということになり、ほどなく『SPA!』誌上で福田と連載対談を始めた。さらに二〇〇三年三月には、その版元の扶桑社から、福田、坪内、柳美里リリー・フランキー編集委員とする季刊文藝誌『en-taxi』が創刊され、今日に至っている。なお柳については、九八年十一月に、書き下ろし長編『ゴールドラッシュ』を新潮社から上梓した際、福田は『新潮』連載の「見張り塔から、ずっと」でこれを批判し(『喧嘩の火だね』新潮社、一九九九所収)、九九年四月号で柳は「見張り塔から、見張られて」を書いて激しい反論を行った(『世界のひびわれと魂の空白を』新潮社、二〇〇一所収)。だがその翌年、柳が長編私小説『命』を出すと福田は絶賛したが、単に柳と和解するためだったとしか思えなかった。
 二〇〇一年六月で、「地ひらく」の連載が終わり、一書に纏められると山本七平賞を受賞した。しかし福田はその後は『諸君!』には、乃木希典山下奉文山本五十六などの伝記を連載するだけになっていき、『正論』には、「炎と疾風の記憶の中で--戦争の世紀とその指導者たち」、続いて「悪と、徳と−岸信介と未完の日本」を連載し、これも二〇〇九年、『諸君!』は廃刊となり、『正論』の連載も終わった。
 二〇〇二年、大塚英志東浩紀が始めた雑誌『新現実』の二号(二〇〇三年三月)に福田は「天皇抜きのナショナリズム」を発表して、もともとナショナリズムフランス革命に発するもので、共和制的なものだと論じた。もっとも福田はこの評論は単著には入れず二〇〇五年には『美智子皇后と雅子妃』(文春新書)や、中西輝政との対談本『皇室の本義』(PHP研究所)を出しているのは、論壇遊泳術だろうが、さすがに保守の側でも、こんな「ニセ右翼」に激怒する者がいて、筑波大学教授だった中川八洋(一九四五− )は、二〇〇五年に『福田和也と≪魔の思想≫』(清流出版)を上梓し、福田は保守を装って日本の伝統を破壊しようとするポストモダニストだと論じた。
 なお私は、いつ頃だったか、二〇〇〇年頃ではないか、どこからかも忘れたが、福田和也との対談の話があって、その当時は本気で福田に怒っていたので断ってしまった。惜しいことをしたと思う。その後私の『谷崎潤一郎伝』(二〇〇六)を褒めてくれた時にはお礼のはがきも書いたのだが、それっきりだった。
 また二〇〇三年、島田雅彦の「無限カノン」三部作が現れた際、福田は『新潮』十一月号に「ゆかしいあやまち」を書いてこれを批判したが、島田は翌月号に「福田君と私」を書いて、交遊ぶりを示しつつ反論したが、二〇〇四年五月号で対談して「手打ち」してしまった。