「急逝」の使い方

 「癌だましい」で文學界新人賞を受賞した山内令南が、5月19日に52歳で死去した。新人賞史上、こうした例は聞いたことがない。末期の食道がんであることを描いた小説(タイトルは河合隼雄のもじり?)なのだから、早晩起こりうることだった。
 朝日新聞の文藝時評で斎藤美奈子はこれを「作者自身の体験を描いた広義の闘病小説」と書いているのだが、すると「狭義の闘病小説」とは何なのだろう。むしろこれが「狭義」ではないかと思う。
 ところで斎藤は、山内が「急逝した」と書いているのだが、見ての通り末期がんなので「急逝」でもない。しかしここは「死んだ」ではいかにも酷薄だし、かといって「死去した」だと、冷徹に作品を批評し、作者の現状は見て見ぬふりをするテクスト論以後の文藝批評にふさわしくない、というので、「急逝」になったのだろう。近頃、こういう「急逝」の使い方が多いような気がする。
(付記)確認したら、中納直子の受賞作とあわせて「どちらも…広義の闘病小説」とあったが、これだと山内のほうも「広義の闘病小説」になるからまずい。何も「闘病小説」という語を使わず、その後も「病気をめぐる小説の評価は難しい」としておけば良かっただろう。

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比較文学研究』の最新号が届いた。中に張競氏による、呉鋭峰による張氏の著書『「情」の文化史』への反論が載っていた。張氏は呉が、「事実誤認」と指摘した五点について、すべて言いがかりであるとして怒っている。内容については立ち入らないが、最後に気になったのは、『比較文学研究』というのは半年に一度の刊行だから、こうして反論するにしても半年、間違いが放置されることになる、だから書評は倫理をもってやってほしい、とあったことである。
 しかしそもそも、藤原書店とか週刊金曜日のように、反論を拒否する雑誌もあるわけで、それを考えたら、学者、文筆家を問わず、すべからくブログを持つべきであると思う。そうすればすぐに反論できるわけで、どうも見ていると、老人は仕方ないとして、「ネットというのは薄汚い世界」だとばかり、まったくネット活動をしない学者というのがかなりいる。これはよくないと思う。

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ところで巻頭言は、新田義之(1933− )名誉教授で、近頃「駒場学派」などとレッテルを貼り、エクスプリカシオンなどというのは時代遅れだと嘲笑して、それを駒場学派の衰退と結び付けようとする評論家がいるなどとあるのだが、そりゃ私のことであるか。
 私でないなら、誰であるか、書かなければいけない。第一に、「駒場学派」というのは私が言い出したのではない。第二に私は、エクスプリカシオンというのは意味が分からないと書いたのであって、時代遅れだなどとは書いていない。おそらく新田は、伝聞でそんなことを書いたのであろう。
(付記)その後新田先生に手紙を出したところ、私のことではまったくないとのことで、『東大駒場学派物語』も送り、新田先生は、これでは自分のことだと思うのも無理はないといういくらか和んだやりとりをした。