http://www.nichibun.ac.jp/~sadami/what's%20new/2011/koyano516.pdf[
 鈴木氏の「民衆文学」という語についての説明は、混乱しきっている。
1.西鶴芭蕉近松を「民衆文学」とする。そして「自然発生的で為政者の弾圧に耐え」などと称揚する。
2.日本文学史は、その「民衆文学」が入っているからユニークだとする。
3.西洋におけるpopular literatureは、「大衆文学」でなく「民衆文学」と訳すべきだとする。
4.では西洋の「民衆文学」は、「1」のような性質を持っているのか。感傷小説、センセーション・ノヴェル、ウジェーヌ・シューなどは、そういうものなのか。
5.違うとするなら、わざわざ双方を「民衆文学」と呼ぶのはおかしい。むしろ西洋のpopular literatureは、鈴木氏の「1」の用法に従うなら、「大衆文学」とすべきである。
6.では「1」のような民衆文学は、西洋にあるのかないのか。
7.「ない」のであれば、「2」がおかしい。ないものが入れられるはずはないからだ。
8.「ある」のであれば、それは具体的に何か。

 要するに、この点について、日本と西洋を「比較」しても意味がなく、西鶴芭蕉近松を「民衆文学」と呼び、それが入っているのがユニークだなどとは言えないのである。なお私は、藝術性が高いから町衆のものであるはずがないなどと馬鹿なことは考えてはいない。また私は、西鶴近松をさして評価していない。浄瑠璃としての構成は、近松以後の作家のほうが優れているという、内山美樹子先生に賛同する。だが、並木宗輔や近松半二について、一冊の研究書もない。
 なお近世文学の専門家は、「町人文藝」とは言うが、あまり「民衆文学」という語を使うのは、最近では知らない。もちろん1950‐60年代の広末保とか松田修とか森山重雄とかいう人は言ったかもしれないが、今では、西鶴の俳文のみならず、八文字屋本、歌舞伎にしても、ブルジョワ文藝であることが分かっているから、あまり言わないように思うので、誰か今の近世文学の人で、西鶴芭蕉近松を「民衆文学」と呼んでいる人がいたら、教えてもらいたい。
 私が前から問題にしているのは、鈴木氏の「成立」の冒頭の文章である。あの文章を見れば、誰だって「現時点」少なくとも1980年ころの「文学史」のことを言っていると思うだろう。もし鈴木氏が、1890年ころの文学史成立について言っているのだというなら、あの文章は「書き間違い」である。
 なお、日本の文学史は大衆作家も記述しているが西洋では全然ないと鈴木氏は言うが、そうでもない。最新のものというわけではなくて、戦前の英文学史でも、コナン・ドイルは出てくる。アメリカ文学史には、ジェイムズ・フェニモア・クーパーが出てくる。フランス文学史でも、ウジェーヌ・シューやアレクサンドル・デュマは出てくる。つまりエポックメイキングなものは記述するということで、日本文学史でも、後の方まで細かに書くわけではない。
 ところで前に、漢文を白文で書いたと鈴木氏は言っていたが、阿呆らしいので放っておいた。いったいどこに、漢文を書くのに返り点を打ちながら書くなどということがあろうか。白文に決まっている。しかしてそれを訓読するのである。朝鮮にはそういうものがない。漢文文学が微妙な位置にくるのは当然である。カネッティが英国に住んでいたってドイツ語で書けばドイツ文学、オンダーチエがスリランカに住んでいたって英語で書けば英語文学である。日本の漢文文藝は、訓読が出来るから日本文学なのであって、訓読がなかったら漢文文学である。それでもそれが日本文学史に入っていたら、その時初めて「ユニーク」と言えるのである。
 さらに言えば、日本人の書いた漢詩は、菅原道真などは前から研究されていたが、近世漢詩人については、1966年に冨士川英郎が『江戸後期の詩人たち』を出したあたりから、研究や評論が盛んになったものだ。そもそも明治期の文人には、自ら漢詩を読む者が多く、のち帝国藝術院が出来た際には国分青崖が会員となっている。
 漢文など知識人であれば読めたから、シナの漢文の研究者はあったが、日本人の漢文の研究者などというのは特になかった。その点、幸田露伴の「運命」は、近ごろ、ただ訓読しただけではないかと高島俊男が言っており、谷崎ほどの人がそれでも絶賛したのが不思議である。
 その後、戦後になっても、日本人の漢文・漢詩は、吉川幸次郎漱石漢詩を注釈し、また近年鴎外の漢詩を、台湾へ留学した古田島洋介がやり、齋藤希史が日本人の漢文をやるなど、半ばは依然として漢文学者がやっている。近世漢詩でも、近世文学専攻の人と、漢文学の人と半々くらいである。国文出身で近世漢詩をやったのは川口久雄、徳田武らで、あと福島理子とか、堀川貴司など若い人はやっている。
 だいたい、「純文学/大衆文学」の区別をなくせと言うなら、まっさきに言うべきことは、芥川賞直木賞をなくせ、ということだ。なぜ鈴木氏はそう言わないのか。なくして「久米正雄賞」にでもして、どっちも対象にする、とかにしろ、と言えばいいのだ。
 『成立』の冒頭の文章で、鈴木氏は、日本文学は世界的にユニークだ、と書いている。私はそれには反対していない。ところが「民衆文学が入っている」などとおかしなことが書いてある。しかも、それが読み進んでいくと、漢文やら民衆文学のところは、明治期の文学史編成の話でしかない。ところがそのあとで、今度は昭和戦後のことにまで触れて「三分法」だなどと言うが、先に触れたとおり、「雑誌の制度」で「中間小説誌」「大衆小説誌」の二分割などされていなかったのは明らかだ。これに鈴木氏がうまく答えられていないのは見る人にも自明だろう。当時、挿絵の入った小説を書いたら純文学と認めないと臼井吉見が言ったとされているが、『小説新潮』も『小説公園』も挿絵入りである。紅野敏郎の子である謙介氏のほうが、雑誌についてはむろん私よりよほど詳しいはずだ。
 鈴木氏が「実証的研究」をしているのは認めるが、それをまとめる時に「大言壮語」になる、と紅野氏は言っているのである。もし言うなら「近代になって日本文学史が編成される過程で、漢文や「民衆文学」をめぐってさまざまな議論があった」「純文学/大衆文学についても、あまり知られていないこうした議論があった」とだけ言えばいいのである。それを「日本文学(史?)は世界的にもユニークだ」とか「純文学/大衆文学の区分が成立したのは1961年」などと、鬼面人を驚かすようなことを書くから、おかしなことになるのである。
 なお中村真一郎が言ったのは、黄表紙、洒落本、滑稽本のことであって、もちろん西鶴近松らのことではない。鈴木氏は、これら草双紙が文学史に入っている理由について、何も言っていない。ないしは、「民衆文学」に入れてしまっているかのいずれかだ。
 私があげた改造社の円本は、単にどのような顔ぶれがあるかを示すためだったから、作家名がないものは除いた。ただ15日に指摘する人があったので、誤解を避けるために入れておいた。鈴木氏は、ここには君のいう通俗小説も入っている、というが、これは冗談か、誤解のどちらかだ。鈴木氏が恐れているように、私は明治、近世までさかのぼって、純文学/大衆文学があるなどと言っているわけではない。それと、私が順番に並べたのは、最後のほうに大仏次郎が来るあたり、賀川でも何でもいいが、1980年代の「昭和文学全集」でも、18巻が「大仏次郎山本周五郎松本清張司馬遼太郎」で、26巻に五木博之や井上ひさしが入っているのと同じであることを示すためである。
 あと私が通俗と大衆を混同しているなどというのは、鈴木氏のは勤務先へ『久米正雄伝』が届いているだろうから、それを見れば、ありえないことであることは分かる。
 『水底の歌』の一番の問題点は、人麻呂が刑死したということ、佐留と同一人物だというのが間違いだということにあって、死んだ場所については二次的な問題に過ぎない。「軽々しく言うものではない」という言には、いかにも鈴木氏の組織人としての一面が表れている。
(付記)
 なお「防人歌」を本当に防人が歌っていたと思っていた人もいるくらいなので、少し説明しておく。私はかつて鈴木氏の研究会で、シェイクスピアは民衆文学ではないのかと言って、観客は貴族層だと反論された。のち、民衆演劇とする小田島先生に対して福田恒存が批判していたのを知った。これは実際鈴木氏が正しいようだ。
 また西鶴以前に、談林などの俳諧があるが、西鶴の文章は『好色一代男』がきわめて難解、そのあとはいくらか易しくなるが、概して俳諧などをやっている富裕層のインテリ町人、および文藝好きの武士が享受者である。近松も、大坂ー京の富裕でかつ知識層の町人、武士である。かつて1970年前後に言われていた「民衆文藝」というのは今では間違いだと分かっている。歌舞伎にしても、裕福な町人および武士が観客である。馬琴となると、武家の女性がかなり読んでいた。
 現代において想像するような「庶民」は、その享受層に入っていないというのが、現在の近世文学研究の常識である。
 なお江戸時代には、富裕層の町人・農民による革命は起きなかった。これはまさに橋本治が言ったとおり、日本史の特徴である。これは前にも小林よしのりとの論争で言ったことだが、近世の日本人で、こういった古典的文藝に触れていたのは、全体から見るとごく僅かである。