純文学について

 『小説トリッパー』に載っていた松浦寿輝川上弘美の対談を読んでいて、いよいよ純文学も胸突き八丁へ来たなあと思った。川上の新聞連載であるファンタジー『七夜物語』と、松浦のネズミ物語『川の光』をめぐるものだが、これはどちらもファンタジー、あるいは児童文学の類であり、一般的な純文学ではない。芥川賞作家二人が、そのことの言い訳のように、デュマやバルザックディケンズも通俗性があったと言いあっているのだが、これは使い古されたレトリックで、久米正雄はだから、ゾラもトルストイドストエフスキーも高級な通俗小説だと言ったのである。それなら三田誠広のように、純文学を書いても生計が成り立たないからファンタジーを書くのだと正直に言ったほうがいい。
 デュマは今でも古典的通俗作家と見なされるが、まあバルザックなどの手法は、松本清張山崎豊子高村薫などに受け継がれているわけで、だったら川上が選考委員をしている芥川賞とか三島賞というのは、なんで直木賞や山周賞と別個にあるのか、という問いに答えなければならないし、朝日新聞の文藝時評をしている松浦は、なんで「文藝雑誌」に載ったものばかり対象にするのか、という問いに答えなければなるまい。
 たとえば村上龍の『半島を出よ』は、純文学の最高峰である野間文芸賞をとったが、ああいう近未来小説というのはジャンルとして成立していて、それらと比べてどうか、ということが問題にされなければなるまい。島田雅彦が最近書いている通俗小説も、そうである。それが「純文学作家」の作だからというので関税障壁みたいのがかかっていたら、それはまずいだろう。 
 アマゾンレビューなど見ていると、娯楽小説の場合、読者は割と言いたいことを言っているが、津島佑子とか黒井千次とか多和田葉子とかの場合は、玄人しかレビューを書いておらず、彼らはだいたい、文藝誌や新聞雑誌の書評に影響され、こわごわ書いているのが分かる。ただ芥川賞受賞作だけは、大勢が読むし、批評家も批判することが多いから、賛否両論にぎやかである。
 かくして、純文学は護送船団方式で、文藝五誌を中心に、半年に一度の芥川賞という港で補給しながら航行を続けているわけだ。だが、それがなかったら、純文学は商業的に成立しない。
 じゃあ外国ではどうなんだ、と思う人がいるだろうが、米国あたりは、やはり「高級な通俗小説」路線が主で、ジョン・アーヴィングなんかその最たるものだ。それに、いったん名声を確立してしまえば、英語で書いてあるから、世界中に読者がいる。私小説なんて売れないものは日本だけ、ではないが、言うならば詩人と同じで、海外の詩人はたいてい大学教授なんかやっているのだ。つまり「純文学余技説」そのものである。
 だが、売れない純文学を、大手出版社が出してくれる間はまだいい。あと五年内外で、それもなくなっていくだろうし、文藝雑誌もいつまで赤字を抱えてやっていけるか。