『比較文學研究』100号に、長く東大比較の助手ー助教をしてきて今は九大にいる飯嶋裕治氏の論文「大正改元期における和辻哲郎と田中王堂」という論文が載っている。この雑誌は昔は査読なしだったが今は査読誌のはず。
その結語が、こんな風になっている。
いわゆる「日本文化論」が、主にその方法的厳密性の欠落ゆえに学問としては無意味・無価値だという批判は、今日では当たり前のものとなった。ただしそうした批判だけでは、人々がそれでもなおそれ(傍点)に興味を持ち、そこ(傍点)に何らかの回答を求めようとしている、という素朴な事実を見過ごすことになるだろう。また他方で、学問的基盤が不確かな日本文化論は、当初の切実な実践的動機が薄まり見失われることによって、容易く好事家的な「文化産物の単なる鑑賞」になってしまいかねない。今現在のわれわれが問うべき切実な問題は何であり、それに対して「日本文化論」的視覚からどんなアプローチが可能なのか、ーー大正改元期の和辻の歩みを辿り直すことを通じて、逆に「われわれ」に問い返されてくるのはそのような問題なのだと考える。
これは論文の「あとがき」のようなものなのだろうが、どうも意味がとれない。まず第一文だが、これに「注」がない。「当たり前のものとなった」というのは果たして客観的事実なのか。次に第二文だが、学問というのは正しいか正しくないか、を問われるものであって、「人々が『日本文化論』に興味をもっている」という「素朴な事実」があるとしたらーーといってもこれが事実なら第一文と軽く矛盾するが、学者の間では「当たり前」だが一般読者の間ではそうではないという意味なのだろうが、それは説明が必要であるーーそれはそれで別個に研究すればいいだけのことであって(もっとも凡庸な結論しか出てこないだろうが)、「見過ごす」というのはお門違いである。
さらに第三文も変で、先に飯嶋氏が「学問ではない」と言った以上、好事家的なものにはすでになっているのであり、「なってしまいかねない」はおかしい。第四文だが、学問というのは「われわれが問うべき切実な問題」になぞ取り組むべきものではない。これではまるで新聞の論説である。
よってこの結語は、学術論文の結語として不適切である。
(小谷野敦)