比較文学とか比較文化というのは舐められている。だいたい、西洋の文学や文化の専門家が、まあ日本のことも日本人だから分かるだろうという軽い気持ちで比較文学者を名のったり比較文化論をやったりするのである。比較文化というのは平川先生とかがやっていたように実証的なものなのに、比較すればいいんだろうというのでインチキ日本文化論とかをやって比較文化でござい、とやったりするのである。こういうのはちゃんと抑圧していかなければなるまいと思っている。

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米村みゆきさんからいただいた村上春樹論集に入っている米村さんの論文で、私が「村上春樹の小説をあえて実体化し」と書いている。この表現はどこかで見たが、米村さんが前に書いた論文にあったのかなと思ったら、ここにも、
http://ameblo.jp/motokichi26/entry-11946128908.html
小谷野敦は、『ノルウェイの森』の物語内容を露骨に実体化したあげく」
 とある。日付は昨日だが、これは前にどこかに出ていたはず。
 しかし、「小森陽一は『こゝろ』の登場人物を実体化し」とか「中村光夫は『暗夜行路』の物語内容を実体化し」なんてのは見たことがない。何ゆえ村上春樹だけ「実体化し」なければならないのか、謎である。