私が27歳の1990年6月、最初の著書『八犬伝綺想』を出す前に、スミエ・ジョーンズに呼ばれて、池袋辺の居酒屋で渡辺憲司(立教大)、小森陽一(成城大)らと会ったのは前にも書いた。
その時、私が『八犬伝』についての本を出すと言うと、渡辺憲司が、今度岩波から『学海日録』が出る、ということを熱心に言うのである。依田学海(1834-1909)は明治の漢詩人で、歌舞伎の脚本も書き、鴎外や露伴とも関係があるらしく、馬琴についても議論があるというが、私は当時はよく知らなかった。そしてそれから92年まで、全6巻別巻1の『学海日録』は出た。しかし世間は依田学海のことなど知らないから、大して話題にもならなかった。
白石良夫の『最後の江戸留守居役』(ちくま新書、1996)は、維新前の、佐倉藩の江戸留守居役だった時の学海のことを書いているので、読んでみた。著者は、明治以後の漢詩人や劇作家としての学海はよく知られているが、幕末期のことは知られていないので書いた、としていたが、「よく知られている」のところに私は疑問を抱いた。そして読んでいくと、どうも幕末のめまぐるしい政治情勢の記述が主で、当然ながら学海が何か特段な働きをしているわけではない。
調べてみると、そもそも依田学海については、吉川弘文館の人物叢書にも、ミネルヴァ書房の日本評伝選にも、どこかの新書にも選書にも、概説書がない。永井荷風の『断腸亭日乗』は、普通は荷風の小説をいくつか読んでから読み始めるものだろうが、学海については、どういうわけか、概説書すらない状態で、いきなり大部の『学海日録』が出て、関係者だけがすごいすごいと言っているのが現状なのである。
どうもここのところは、おかしいとしか言いようがない。
(小谷野敦)