それまでの否定

もう7年くらい前になろうか、私が何度めかの、中井英夫の「虚無への供物」はわけが分からないというのを書いた時に、斎藤慎爾が、安藤礼二の『光の曼荼羅』で論じられていると言っていたので、それを読んでみたら、安藤は、これまでの論者は「虚無への供物」をちゃんと読めていなかったと言っている。私は不思議に思ったのだが、世間の人がわあわあ言うから、私はわざわざわけが分からないと言っているのに、安藤のように言ったら、今までの人たちはみな間違いながら騒いでいたことになる。まあ、間違いながらもすごい魅力のある作品だと言いたいんだろうが、それが私にはちっとも感じられないのだから、私には意味不明な言辞となる。

 批評には時どきこういうことがあって、これまでの「××」解釈はみな間違いだった、と大上段に振りかぶられると、でもこれまでもその「××」は名作だとされてきたんで、じゃあみんな間違いながら名作扱いしてきたってことですか、と訊きたくなるのだが、どういうもんであろうか。