田中和生氏と私

 変な題名をつけたが、これは「毎日新聞」の文藝時評で田中和生氏が私の小説を取り上げてくれたので、それに応答しようとしたのだが、「答える」というほどでもないので、困ってこうなったのである。
 これは昨日の夕刊なのだが、ウェブ毎日新聞には「編集部のおすすめ」しか載っていないのはともかく、ニフティの「新聞記事横断検索」で見たら、田中の文藝時評そのものが出てこない。非提供の場合も題名くらいは出るものだがそれもなく、これはニフティに苦情を言うべきではないかと思った。また個人ブログにも全然出てこない。だからいつの間にか田中文藝時評がなくなっていたのかとすら思った。
 いや実は批判されているのだが、「読売新聞」の待田晋哉とかいう記者のようにガン無視するよりはいいので、実に読売には毎度煮え湯を呑まされていて、電話でコメントして載っても掲載紙は送ってこないし、次の時に苦情を言ったら、今度は送りますと言ってまた送ってこなかった。
 さて田中は、近代文学の乗り越えとポストモダン文学の発展を期待するという立場に立っているのだが、そういう図式自体、成立しないものである。そもそもポストモダン文学というものが存在しない。これは、私がそう思うのではなくて、客観的事実としてそうなので、本当にそう思うなら文学の批評なぞやめるしかないのである。 
 それで私の「母子寮前」は感動的ではあるが、その感動は父親の排除によって成り立っている、それは「自国以外の人々や戦中の『鬼畜米英』を置いても成り立つ」と言うのだがもう意味分かりません。読んでいて鬼畜米英への憎悪を駆り立てられる文学作品なんて戦時下でもなかなか見つからないよ。まあ江戸川乱歩の「大いなる夢」くらいかなあ。
 田中は『文學界』の赤染晶子論でも、近代的リアリズムは男のものだと分かり、などと書いているのだが、まああの当時はそんな戯言を言う人もいたかもしれないが、本当にいたかな。じゃあ宮本百合子とかどうなるのよ。『伸子』の感動は多計代や佃の排除の上に成り立ち、それは鬼畜米英を置いても成り立つなんて言われたら、今はなき新日本文学会の人だって面食らうと思うよ。
 (小谷野敦