『ちくま』九月号に廣野由美子の「批評とは何か」という文章が載っている。ちくま新書の新刊、北村紗衣の『批評の教室』の宣伝文である。廣野は京大人間環境学の教授で19世紀英国小説が専門だ。冒頭、廣野が修士課程を終える時に定年退官した指導教授のM先生というのが出て来る。廣野は京大独文科卒だが、大学院は神戸大で英文学を学んだから、これは神戸大教授だった宮崎芳三(1926- )で、もしかするとまだご存命ではないか。
99年に宮崎先生から著書『太平洋戦争と英文学者』を寄贈されて、「朝日新聞」の「ウォッチ文芸」で紹介したことがある(なおこれは三人で担当する欄だったが、私の前に担当していたのが鴻巣友季子だった)。当時宮崎先生は、阪大助教授であった私をもっと年かさの人だと思っていたらしいということを人づてに聞いた。
ところで廣野は、宮崎先生から、論文からは「私」を消せと言われ、「私」は「筆者」に変えるように言われたという。これはちょっと形式的だが、『太平洋戦争と英文学者』では宮崎先生もそういう軌範から自らを解き放って、「私は」と盛んに書いていた。
廣野さんは、宮崎先生のそういう姿勢と対照的なのが北村の態度だと論を進める。私はまだ図書館から回ってこないので北村著を見ていないが、アマゾンレビューから推測するに、ここでは「批評」を学問としてではなく「文藝」としてやっていると思う。
宮崎先生は科学的で客観的な「学問」を目ざしたのだろうが、文学研究で学問といえるのは、作家の伝記研究、またその環境の研究、作品については語注や注釈くらいで、作品を読んでどうとらえるかという「批評」は客観的ではありえない。フロイトの精神分析にしてからが科学でも客観的でもないのである。
これに対して異論のある人もいるだろうが、あるならあるでちゃんと議論すればいいのだが、やると具合が悪いか喧嘩になるからやらないようで、匿名でごちょごちょ言うくらいしかできないようである。
(小谷野敦)