土屋賢二のエッセイは、おもしろくない。もう十年くらい前に、おもしろいと評判を聞いて文庫版を買ったらおもしろくないのですぐに売った。当人はいかにも笑えるつもりで書いているようなのだが、全然おかしくないのである。
もっとも、若くてあまりものを知らない人にはおもしろいのかもしれない。実際、私は若い頃、野田秀樹や鴻上尚史のエッセイがすごくおもしろかったが、今読むとまるでダメである。
若くない人は、多くは、おもしろくないと思っている。しかしあまりそのことは言われない。なぜなら、土屋は誰も攻撃しないし、いい人のように思われているから、何となく言いにくいのである。米原万里と似ている。『週刊文春』で連載が続いているのも、いわば往年の朝日新聞の横山泰三の「社会戯評」のようなものだろう。
さて今週は、書店でなぜ便意を催すかという話である。一般には、インクの臭いが原因だと言われているが、と書いて、それはおかしいとして、霊のせいだとまたくだらないジョークを並べていて相変わらずおもしろくない。
土屋は、古書店や図書館では便意を催さない、という。普通はそこで、新しいインクのせいではないか、と進むところだが、それはまあいい。
私は、古書店でも便意を催すのだ。
なぜか。
さまざまに、買いたい本があって、しかし全部買うわけに行かないから、どれを選ぼうかという心理的重圧が便意につながるのだと、私は考えている。その証拠に、碌な本が置いていない小さな書店や古書店では、便意を催さない。大きな書店や古書店、特に、普段いきつけでないところへ行くと、激しく催す。
それはおかしい、ならば服を買いに行っても、どれを買おうか迷って便意を催すはずだと言う人がいるかもしれない。しかし、服はたいてい、一着買うものである。それに対して、本は、金がある限り何冊も買える。だが、買いたい本をすべて買ったら財政が破綻するし、置き場所もないし、何より、買って読んだらおもしろくなかったというリスクもある。そこで、ああこれにしようか、それともこちらか、ああ本当はこの著者のこれじゃなくてあれが欲しいんだけどこれも買っておこうかというさまざまな葛藤に人は襲われる。雑誌でも、ああこの人が載っているから買いたいが、この記事だけのために買うのはもったいない、などである。
だから、図書館では便意を催さない。
どれを買うかという重圧が、人に便意を催させるのである。ためしに、本好きの億万長者(古い言葉だなあ)に訊いてみるがいい。気になった本を片っ端から買い込んで書庫に収めている人物は、決して便意を催さないだろう。
しかしそうなると、競馬場でも便意を催すことになる。だが私は競馬場へ行ったことがないから知らない。