井伏鱒二の代訳

 青木正美の『肉筆で読む作家の手紙』に、井伏鱒二が、「ドリトル先生」シリーズは石井桃子が訳したものだと書いている手紙が載っている。「代訳の人が訳したのを私が手を加へたもので心苦しい代物です」とある。調べてみたら別に隠していたわけではなく、『ドリトル先生アフリカゆき』のあとがきに、石井桃子が訳したのに井伏が手を入れて、さらに石井が直した、と書いてあり、石井の文章で、それはすっかり井伏のものになっていた、というのがある。川端康成の代作の場合も、たいてい代作者は、川端が手を入れると川端の文章になっていた、と言っていたものだ。
 ところが、尾崎真理子『ひみつの王国 評伝石井桃子』を見ると、そこのところが、妙な書き方になっている。井伏のところへ出入りした件では、太宰治が桃子を好きだったという話が出てくる。だが「ドリトル先生」については、「石井と井伏が熱心になって出した」とあり、石井が提案し、プロデュースして出した、としつつ、「井伏が訳した」とも書いてなければ、石井が代訳したとも書いていない。つまりは井伏に遠慮した結果としか思えないのである。
 ところで青木のこの本には、司馬遼太郎がテレビで、誰それの手紙は栗原敦が発見し、と言ったが、実は青木の発見だったとNHKから詫びの電話が掛かってくる場面がある。しかし、古書店主が発見者だ、ということになると、たいがいの新資料は古書店主が発見者になってしまって、「大坂城は大工さんが作った」になってしまうのではないか。
小谷野敦