谷崎潤一郎詳細年譜(昭和10年まで)

jun-jun19652005-06-11

1934(昭和9)年          49
 1月、佐藤の姪智恵子が三好達治と結婚する。
   5日、松子と重子上京、帝国ホテルに泊。
   9日頃、松子、急性肺炎で草人宅へ連れて行く。
   16日、岡田時彦死去(33)、谷崎、「香雪院雪瑛居士」の戒名を与える。嶋中宛、三月号分送った原稿料は谷崎鮎子へ頼む。ウェレー源氏落手、あの条件で引き受けてもよいか、吉井勇源氏物語情話」頼む。
   19日、岡田の葬儀で弔辞を読む。
   20日、『春琴抄』増刷出来。
   24日、嶋中宛書簡、続稿送った、「源氏物語」の件はもう少し詳しく聞かせてくれ。
 同月、新派大阪公演で来阪の花柳章太郎に『春琴抄』劇化の承諾を与える。題名が『鵙屋春琴』になることを断り、久保田万太郎に脚色を要請。
 2月、岡成志、金沢北国新聞主筆となる。
   4日、嶋中宛書簡、源氏の件は他日改めて考慮、文章読本本月中完了、「東京をおもふ」三月号で終了のこと承知。『文章読本』は日本評論社の依頼で書き前借もしていたが、同社の信用が悪いため中公へ移した。
   12日、嶋中宛、文章読本は間に合わせる。源氏は七千円保証してくれるか、与謝野訳はウェリーもよく言っていない由。
   15日、佐藤観次郎中央公論編集長。
   16日、嶋中宛書簡、源氏は五千円保証ならやる、大体の枚数を調べたく、與謝野訳購入して計算頼む、吉澤義則主幹「全訳王朝文学叢書」文献書院もありこちらは四冊持っているが全部出たかどうか不明、與謝野訳よりよし、全訳なら自信あり、発禁の恐れは断じてなし、そういう場所は原文と同程度に晦渋に訳してしまう、心配ならば「空蝉」などを先に訳して当局に見せてもよし。冊数と装幀を任せてほしい。
   24日、直木三十五死去(44)。
   27日、嶋中宛書簡、昨日吉澤の第五第六入手、與謝野訳も送ってくれ、明日より文章読本にかかり全速力で書いて少しずつ送る。
 3月1日、菅忠雄宛書簡、直木君は残念なこと、葬儀の知らせあるかと思っていたら終わってしまい、せめて追悼文は書かせて貰う、十日頃まで待ってくれ。(原)
   5日、直木追悼文脱稿。草人宛書簡、当方問題は着々解決(三田)。
   8日、草人の息子松五郎誕生、電報で谷崎に知らせる。
   11日、鮎子宛書簡、佐藤を待っているが来ないのはおめでたか、転居の知らせ、「水野方」で手紙くれ。張幸の近所。14日頃移るつもりなので、転居後なら佐藤を迎えに出るので電報でお知らせを。妹尾は別府へ旅行中、夫人に聞けば分かる云々。
   12日、松子から草人夫婦へ書簡、出産の喜び。この秋ごろには入籍の予定。
   14日、武庫郡精道村打出下宮塚一六番地(芦屋市宮川町十二番地)に転居、松子と同棲、末が探してくれたもの、富田砕花の兄の持ち家で、西隣りに砕花が住んでいたが、後々まで砕花は隣に谷崎がいることに気づかなかったという。清治(11)は父のところで恵美子(5)のみ引取った。
   19日、「追悼の辞に代へて(直木三十五追悼篇)」を『文藝春秋』4月号に掲載。草人宛書簡、そのうちまた上京、厄介になる(三田)
   22日、嶋中宛書簡、文章読本遅れてすまぬ、移転のため半月ほど休んだ、新学年の始めまでには間に合わせる、また転居で金がないので三百円送ってほしい。
   30日、嶋中宛書簡、文章読本続稿送った、来月中旬までには脱稿、雨宮に示してゲラ刷り頼む、金のこと快諾ありがたく、また四百円頼む。
 4月、松子離婚、根津姓から森田姓に復帰。画家・松葉清吾が間に立った(中河)。清太郎が判を捺さないので勝手に押したという。家の表札も「森田寓」に変わった。
   9日、嶋中宛、文章読本の進行、経済往来の方は別のものを書くことにて円満解決、上京して社長と相談する。
   15日、秦豊吉宛書簡、活躍望見、「象」ラジオ放送の件は先日久保田万太郎から電報あり快諾、「鶯姫」も役に立てば嬉しい。
   30日、大阪夕刊新聞に、谷崎「艶麗なマダムと同棲」の記事が出、清太郎が松子の妹二人と関係を持ったと誤認した上、上の妹を正子と書く。のち『細雪』に取り入れられる。
 5月、明治座で「永遠の偶像」上演。
   1日、丁未子より君宛書簡、あと一週間で会えるのは嬉しい、母は以前ほど金があれば恥を掻かせず啖呵を切ってやるのに悔しいと言っている。
   4日、嶋中宛、文章読本予定遅れプラン変更など苦労。経済往来は社長が来阪していずれ同社より単行本を出すことで解決。鮎子方へ送ってほしい。   6日、笹沼宛、新聞記事を同封して弁明の書簡、これまで隠しておいてすまぬ、今後も正式発表まで内密に、松子の子供のうち六歳の女児は引き取る、また丁未子は神経症から神経痛になり鳥取で静養中、六月頃来阪するまで正式な離婚発表を見合わせる。
   19日、「春琴抄後語」を『改造』6月号に掲載。志賀宛書簡、先日は久々に参上ご馳走になりました、さてその節は相客あって言えなかったが佐藤春夫近況、暫く郷里にて静養を勧めているが相談したく両三日中に電話し訪ねる。
 同月後半、帝国ホテル演藝場(第十回新劇座)で『春琴抄』上演予定が、万太郎の脚本が間に合わず、万太郎『雨空』を掛けるが、客が『春琴抄』目当てのため、その序幕だけ上演、春琴役の花柳には台詞もなかったため、一言「佐助」とだけ言う。
 6月、精二を主宰として第三期『早稲田文学』創刊、精二「谷崎潤一郎論−−二三の近作に就て」を掲載。
   1日、上京、佐藤の進退について千代を交えて相談したらしい。
   2日、丁未子より君宛書簡、熱が出ましたか、めだぬきが(松子のこと)、早く大阪へ出たい。
   5日、丁未子より君宛書簡、おやぢのことも悲しいあの狸、おやぢを恨み憎む、心臓が悪いので長生はできない、潤一郎のこと思い切っていない、小川に頼んで睦子などと名前を変えてもらう云々、長い恨み言。
   6日、丁未子より君宛書簡、廃家届を書いてもらったので、これに潤一郎の印を貰えば入籍できる。明後日三朝へ発つ。
   8日、帰阪。鳥取県東伯郡油屋旅館から丁未子の君宛葉書。
   9日、志賀宛書簡、佐藤の和歌山隠遁のこと、千代はその気だが当人が動かぬゆえ、上京の折りに進言してほしい、住田氏の件は左団次夫婦に会い承諾を得た。
 この頃、創元社の矢部、和田ほか一人を呼んで松子を披露、三宮の与兵衛鮨。
   12日、油屋丁未子より君宛書簡、朝日会館はいい、能はどうでした、潤一郎がこちらを敵視しなくなったのは司令長官のおかげ云々。
   14日、上京中の志賀が佐藤を訪問。
   15日頃、『文學界』7月号で「「春琴抄後話」の読後感」特集。
   17日、油屋丁未子より君宛書簡、潤一郎から手紙来た、「睦」がいいと。
   19日、『文藝』7月号に濱本浩「大谷崎の生立記」を寄稿。油屋丁未子より君宛書簡、籍のこと頼む、心地良き青年は十八日に出発、つばめなどと言いません、おむつさんに決まった。以後、「睦」と署名。
   22日、油屋丁未子より君宛書簡、後一週間で帰る。
   26日、佐藤より書簡、志賀のこと。油屋丁未子より君宛書簡、もう少し滞在して完治させる、美しい青年の一人帰ったがもう一人いる。
   28日、志賀宛書簡、佐藤の件お礼いずれ豊太郎上京の上相談、数日前創元社の者が寿岳氏のところで紙いろいろ貰ってきた手配お礼。
   29日、油屋丁未子より君宛書簡、籍のこと代書が分からないとのことどこが分からないのか。
   30日、草人宅より松子宛書簡、出発の際のことお礼、非凡閣から八百円とる、また全集を出す計画あり。さて草人の家暑く、偕楽園の塩原別荘を借りることになり明日から四五日行く、中公の社員が来て二人で泊まる、住所は「栃木県塩原温泉塩釜」東京から汽車で三時間半、松子が行きたいと言っていたところへ先に来るのは申し訳なし、何しろもっとお側にいたく今度帰ったら家にいて源氏や新聞をやりたいと思う。和気宛書簡、明日から四五日塩原で仕事、新聞の腹案をかためる。
 7月1日より塩原笹沼別荘。
   3日、油屋丁未子より君宛書簡、書留お礼、芦屋の友達帰ってしまって寂しい、潤一郎ちっとも手紙よこさない。
   4日、塩原より松子宛書簡、今朝航空便いただく、ここは東京から二時間半の誤り、東京の味噌は辛く関西の白味噌が懐かし、お側にいたく思う云々。
   4、5日、油屋丁未子より君宛書簡、しょんぼり、書類届いた。
   7日、塩原より松子宛書簡、前便見たと思う、文章読本あと二十枚ほど、十日頃上京、11、2日頃帰る、鳥取の書類につき昨日妹尾へ督促状出した、本夕は当地七夕祭り。上京したら上山宅、電報打つ。
   8日、塩原より松子宛書簡、電報で松子が自分も行きたいと告げたか、上京次第佐野繁次郎に会い東日記者と相談、その後直ちに大阪大毎へ出頭、気がセカセカしとても松子を案内したり箱根熱海へ連れてゆくこともできない、どうぞお待ちください。
   10日、『改造』記者が来て泊り込みで原稿催促、文春の記者も来る。
   11日、東京から松子宛書簡、昨日電報拝見、何でしょうか上山の家で見る、東京日日から電話二度も掛かり新聞小説の題名を知らせるよう言われ、改造記者にも居場所を発見され、文春記者も来たので大変だが文章読本230枚書いてなお終わらず、明晩か明後日朝は上山方へ行く、戸籍の手続きも手間取ったらどうするか、文章読本は日頃の御寮人様からの注意によるもの。塩原から雨宮宛書簡、こちらへ来てから文章読本捗る。
   12日、帰宅か。
   18日、丁未子との婚姻届を提出。これは丁未子側の懇望で、谷崎の妻であったという証明が欲しいという、谷崎は「普通なら入籍しないほうがいいと言うところ」と怒っていたという(「秘本」)、同日油屋丁未子より君宛葉書、潤一は塩原で仕事らしい。
   23日、草人宅から和気宛書簡、「文章読本」校正中。
   24−27日、「大阪毎日新聞」に「ジンベエ物語」連載。 
   30日、鳥取から丁未子より妹尾夫妻宛書簡、歯の治療の金谷崎から頼む潤一には気の毒ですが。
 8月、『評論』で「谷崎潤一郎研究」特集。
   3日、丁未子より君宛書簡、岡本へ帰りたい。
   4日から、「夏菊」を「大毎東日」に連載、挿絵佐野繁次郎。丁未子は読んでいた。根津家をモデルとしたもののため、根津清太郎から苦情あり、9月4日で中絶。
   7日、丁未子から君宛書簡、歯のこと、松さんが金借りに歩いているのは根津さんのためか潤一郎のためか自分のためか潤一郎のためとは思われない。
 同月上旬、『文章読本』脱稿。
   23日、丁未子から君宛書簡、歯の手術後悪くて熱、首にぐりぐり、夏菊は蒲田で映画になるそう、清太郎さん使ってもらってスターになれば。ナマナマしい気持ちで読んでいる。
   28日、丁未子から君宛書簡、夏菊よく読むと小説の書き方の勉強になる、挿絵も魚崎時代を思い出す、大分ヒステリー、九月までには帰りたい、潤一約束の守れない人。
 同月、新選大衆小説全集第一八巻『盲目物語・春琴抄』を非凡閣から刊行。
 9月、『文章読本』校正刷を読んで不満を覚える。濱本浩、短編集『十二階下の少年達』を刊行、認められる。
   4日、「夏菊」休載の言い訳に、本日医師に脚気の診断を受けたと書いているが、脚気は本当らしい。
   8日、丁未子から君宛書簡、ぐずぐずしていると出戻り娘の評判がたつので早く大阪へ出たい、潤一郎は私からお金のこと言うと怒る。
   12日、丁未子より君宛書簡、鳥取の人々は私が別れて帰ったのだという噂を信じてしまう、もし潤一郎さんが九月のお金をよこさないなら一寸考え直さなければ、如何な形勢か。
   17日、妹尾夫妻が奈良に志賀を訪ねる。
   18日、丁未子より君宛書簡、お金できてから出掛ける、太ってしまって、ガミガミは治らない。
   19日、「『文章読本』発売遅延に就いて」を『中央公論』十月号に掲載。
   20日角筈のセノウで辻潤君全快祝う会の発起人。佐藤、朔太郎、新居格、無想庵、草人。
   21日、室戸台風
   25日、ブラジルの林伊勢、シンタロウ出産。雨宮宛、台風見舞いお礼。
   27日、佐藤豊太郎宛書簡、台風被害の見舞いお礼、今夏は鮎子長々世話になり、脚気も快方に、龍児帰省の途次立ち寄るのを楽しみに。
   29日、丁未子より君宛書簡、金のこと。
 10月3日、丁未子より君宛書簡、参謀本部よりの帰還命令早速引き上げの準備。
   5日前後より、大阪市天王寺区上本町五丁目の正念寺に籠もり『文章読本』改稿。同日、正念寺より松子宛詫び状、育ちが違うので松子のように何があっても泰然と構えるわけにいかず、静かでないと仕事ができないというのは松子への感激が薄らいだわけではない、重子信子にも宜しく、嶋川の事件の時にああ言ったのは信子をとやかく言ったのではなく根津から問われたのでああ答えた気に障っていたら弁明願います、恵美子が一番私の忠義を分かってくれる、仕事が済んだら甲子園へお供する。
   6日、松子宛書簡、文章読本は五万部売れるは確実とのこと、8日に中央公論から五十円ほど貰える筈それを持って一旦帰るが8日はサカロフだろうから夕飯を済ませて行く、文楽座は木場とも相談、9日がよく、それなら一晩泊めていただき十日に帰るが多忙ゆえお嬢様方を誘ってもよろしいかと。
   8日、松子、サカロフ夫妻関西舞踊公演に行くか(旧関西学院講堂?)
   12日、鮎子宛書簡、いまここで執筆中、完成したら二十日頃これを持って上京ゆえ遠足はやめては如何、上京後話す、(香魚子殿とある)和歌一首
   13日、松子宛書簡使者持参、おふささん派遣ありがたし、後三、四日で仕事終わる、二人とも経過良好と聞きよろし。鮎子に書いた和歌一首。
   14日、丁未子より君宛書簡、お金届かないと立てないが十八日には。
   16日、丁未子より妹尾夫妻宛書簡、18日行くので梅田駅へお春どん頼む。
   20日、上京、横浜鶴見の上山方滞在か。
   21日、笹沼に招かれ、鮎子とともに歌舞伎座見物。午後三時開演、「豊臣三代記」、片岡市蔵襲名披露口上、「色彩間苅豆」「菊畑」「お夏狂乱」長谷川伸作「雪の渡り鳥」。羽左衛門菊五郎に大阪の魁車。
   23日、草人方より松子宛書簡、為替届いたと思う、土産物鮎子終平の分送った、25日か遅くとも6日までには帰る、歌舞伎座行った、松子の真似をするわけではないが魁車は嫌いだったが大阪の俳優を見ると懐かしく、「三代記」で国松役の子役「たか志」(後の七世市川門之助)が且元に「じい、じい」というのを聞いて恵美子を思い出した。
 11月、『文章読本』を中央公論社から刊行。題字は菅虎雄、忠雄を通じて依頼したもの。但し初版に菅の名を入れるのを忘れ、再版で入れたという。
 同月、佐藤春夫法政大学講師を辞職。
   15日、辻吉朗監督『お艶殺し』(日活・京都撮影所)、日本劇場で封切り。主演は黒田記代・尾上菊太郎。
 12月、『新版春琴抄』を創元社から刊行。
   1日、丹那トンネル開通式、草人と二人で通過する。
 「大毎東日」に「聞書抄作者の言葉」を掲載、「夏菊」を再開せず新作を出すことわり、挿絵菅楯彦。
   4日、雨宮庸蔵から山田孝雄宛、校閲を頼む書簡。
   6日、鶴見草人方より重子宛書簡、松子安着。田所さんは快諾してくれ甲南学校へすぐ書類出すとのこと。13,4日頃同道して帰る(八木書店
   14日、「東京朝日新聞」に里見紝が『文章読本』の書評を書く。
   19日、「大阪の藝人」を『改造』、「職業として見た文学について」(未完中絶)を『文藝春秋』、「私の貧乏物語」を『中央公論』のそれぞれ新年号に掲載。
 南座の顔見世で中村鴈治郎倒れ、阪大病院に入院する。大阪毎日新聞山口広一が談話を取りにくる。
   24日、南禅寺瓢亭で西村五雲、菊原琴治と鼎談。
   26日、『国民新聞』に「大谷崎の愛欲情史--孔雀夫人譲受け・・・またも無軌道逃避行」の記事。丁未子と離婚後入籍の奇怪を指摘。恵美子は同居、清治は根津方。
 この年、『神與人之間』(李漱泉訳=田漢の筆名)、上海の中華書局から刊行。谷崎評伝、年譜、表題作と「前科犯」「麒麟」「人面瘡」「御国与五平」収録。

1935(昭和10)年           50
 1月5日から6月15日まで、「聞書抄(第二盲目物語)」を「大毎東日」に連載。5日「大毎」には五雲・琴治との「トリオ鼎談」。
 1月、「東京にて」を『文藝通信』に掲載。
 同月、『婦人公論』新年号別冊付録として「女性文章読本−附、新しい女子手紙文範」が出る。芥川、直木賞制定、佐藤、芥川賞銓衡委員となる。
   8日、菅忠雄宛書簡、題字の件、また倚松庵の座敷の掛け軸と額の虎雄による揮毫を願う。「松樹万年緑」「松無古今色」。二十日までにと言うのは結婚式に間に合わせるつもりか(原)
   18日、古川憲より代筆にて妹尾宛骨折りのお礼。
   21日、丁未子との離婚届提出。
   22日、松子、妹尾夫妻、後藤真太郎と大阪松坂屋。志賀夫妻と母、創元社和田に会う。嶋中宛書簡、新年になって新聞に追われているが、来月中旬には片づくと思う、そしたら上京、雨宮と一緒に仙台の山田博士を訪ねる、なおこれは内密に願うが近々松子と内祝言、漏れると写真班などが押しかける、佐藤にもまだ日どりを知らせていない、七百円借用願うその代わりいずれ結婚について書くときが来たらそちらに書く。
   28日、自宅で松子と結婚式を挙げる。媒酌人は松子の友人木場悦熊・貞子夫妻。詮三出席せず、朝子のみ来る。重子、信子、恵美子、謎の老爺。列席者七名。この日嶋中が下阪するがために会えず。清治12歳、恵美子7歳。
 2月1日、雨宮宛書簡、文章読本の残り印税は東京で清元梅吉の弟子になっている終平に渡してくれ。初代中村鴈治郎死去(76)。上山草人ソ連へ渡る。
   2日、大毎東日の「わるぐち懺悔」で、鴈治郎の悪口を書いたのを懺悔。
 同月、松子と上京、銀座で丁未子と君にばったり会う(大谷)
   18日、雨宮宛、新聞に追われて随筆遅れすまぬ、武州公のことは湯川君に聞いてくれ、来月あたり仙台ゆき。
   30日、神代種亮死去(50)。
 3月、重子を迎えに行き、連れてくる。「M子と私が式を挙げた頃、清太郎氏は横屋の家にもゐられなくなつて、青木の海岸のゴルフ練習場の傍の、ボロボロに崩れかゝつた二階建ての荒屋に移つてゐた。・・・一時はそこにM子も二人の妹たちも、まだ生きてゐた清太郎氏の老母も、共に暮らしてゐた・・・家の経済はN子が握つてゐた・・・「S子さんをあのまゝにして置くわけには行きませんね」打出の家で式を挙げてから二三日後であつたと思ふ、私は何よりもあの状態を捨てて置けない気がしたのでM子に云つた。・・・(二階の老母はその少し前に逝去してをり、それが私たちの結婚に一つの機会を与へてくれた)」(「雪後庵夜話」)
 この頃豊田三郎(29)来訪するか。
  土屋計左右、三栄不動産常務理事。
   9日、嶋中宛書簡、再度のお手紙、お返事遅れて申し訳なし、文章読本売れ行きよし喜ばし、源氏の件で一遍上京、十五日から二十日頃には新聞の仕事を持っても行く、なお印税750円早急に電送頼む。欄外に、女性文章読本について、自分の切り抜きの如きもので、前もって相談あってしかるべし、読者と原著者を誤るもの、と苦情。なおこの年、鵜塚寿夫編著『現代文章読本』(有宏社)が出ている。
   26日、与謝野寛死去(63)
   29日、東京日日高原四郎宛書簡、これをゲラにして上山方へ送ってくれ、滞京のことは訪客を避けるため秘密。
   30日、一日机に向かうが書けず。 
 4月、「映画への感想−−『春琴抄』映画化に際して」を『サンデー毎日春の映画号』に掲載。六車修から話を持ちかけられ、島津保次郎の脚本も送ってきたが読んでいない、主役は岡田嘉子だと思っていた、あまり映画には期待しておらず今はほとんど観ていない。
   1日、一日机に向かうが書けず。
   2日、高原宛書簡、書けないので両三日内には帰る。
   4,5日頃、帰阪か。
   6日、雨宮宛書簡、『摂陽随筆』の「ジンベエものがたり」は、大阪の人から注意されたので「半袖ものがたり」にしてくれ。
   11日、佐藤豊太郎宛書簡、お手紙拝見、病中早速の配慮恐縮、お示しの印影のうち二顆お願いしたい、と図示。
   15日、豊太郎宛書簡、入れ違いに葉書頂戴、招待に与り御令息をひきとめておりましたが繰り合わせがつかず、ご令息は書掛けの原稿をとりに五六日前東京へ戻りましたがいずれそちらへ行くと思うので本日の手紙は小石川へ回送する、御令息の家庭の破局残念、本日も東京より来簡寂しがっている様子、紀州に行くか当地で静養か、よき縁談もあれば世話する。春夫帰省の際はお知らせ願う。
   16日、丁未子より妹尾夫妻宛書簡、福知山まで行ったら雨、潤一郎さんに会ったらよろしく。
   19日、『中央公論』5月号、生田長江が「谷崎氏の現在及び将来−−小説を捨てたか、小説が捨てたか」で『盲目物語』の技法を難じる。
   22日、丁未子より君宛書簡、来月上旬潤一郎よりお金・・・。
 この頃、恵美子宛片仮名の手紙、お手紙ありがとう、おじいはもうすぐ帰ります、東京よりもっと遠い所へ行ってきました、桜がまだ咲いていました、みなさまに、カナリアにもよろしく。
   30(27?)日、草人が帰国、神戸へ出迎え。
 5月、『摂陽随筆』を中央公論社から刊行。大阪歌舞伎座で五代目菊五郎三十三回忌追善興行、六代目が「羽根の禿」を初演、「浮かれ坊主」つき。『細雪』の妙子が観に通っているから、信子が行き谷崎も行ったか。
 同月、栗本和夫、村松友吾、中央公論社入社。
   3日、本籍を大阪市西区靱上通1−31、創元社の番地に移す。同日、荷風宛書簡、先日は『冬の蠅』ありがたし、先般『中央公論』の「残冬雑記」は近来の傑作、再三拝読感嘆、今回熟読の機を得、若い頃批評いただきながら爾来碌々なす所なく汗顔の至り。
  草人が谷崎と妻の関係を疑う。
   22日頃、上京、上山宅。改造社から出した全集が売れていないところへ、非凡閣が全集を計画したため紛糾、これを纏めるため。
   25日、星ケ岡茶寮で『経済往来』の座談会、谷崎、辰野、茅野蕭々、後藤、末弘巌太郎、市河三喜、司会室伏高信、鈴木利貞。席上末弘から露伴に会ってみたいと提案。
   26日、室伏が露伴を訪ね快諾を得る。
   27日、雨宮とともに、仙台の山田孝雄を訪ね、『源氏物語』の校閲を請う。帰路雨宮と松島に遊ぶ。木下杢太郎、小宮豊隆を呼び料亭「春日」に遊ぶ。
   29日、草人宅より濱本宛書簡、改造社との関係で相談したく、明日か明後日時間をとってくれ、一日まで滞京の予定。
   30,31日頃、濱本に会う。
   31日、星ヶ岡茶寮で露伴を囲んでの座談会。秋声、和辻、末弘、辰野、鈴木、室伏。
 6月、『経済往来』の「私小説論」の第二回で、小林秀雄生田長江に反論。
  『サンデー毎日』6月10日夏季特別号に「身辺雑事」掲載。
   2日、夜七時半からJOBKで岡田嘉子・樋口富麻呂・和気律次郎・矢田みよとの座談会放送。
   6日、精道から濱本宛書簡、山本氏に会ってくれたとのこと、私はもとから貴下ほど山本に親愛も感じておらず人物も買っていないが今回は和解の努力する、また上京の節は会う。
   12日、志賀宛書簡、胆石は苦痛なものなそうで、不快の由創元社より聞いて一度お見舞いに参上と思いつつ失礼、左程でもなき様子何より。
   15日、島津保次郎脚本・監督『春琴抄 お琴と佐助』(松竹キネマ・蒲田撮影所)帝国館で封切。主演は田中絹代高田浩吉。春松検校役で草人出演、大ヒット。
   19日、「厠のいろ〜〜」を『文藝春秋』7月号に掲載。
   29日、牧逸馬急死(36)。
 7月、「蠣殻町と茅場町」を『季刊日本橋』第二号に掲載。この年、琴浦女学校を卒業した車一枝(17)、女中として谷崎家に来る。『経済往来』に座談会掲載。
   1日、上京。
 雨宮の案内で「武州公」跋文を頼みに洗足の白鳥宅を訪ねたのはこの頃か。
   2日、茗荷谷八七茗荷谷ハウス丁未子より妹尾夫妻宛書簡、昨日潤一郎上京まだ会わない、潤一昨日電話で上京かもと言っていたそれならほんとにうれしい、どうして三千円が三年もかかるのか、文章読本売れているのに、潤一郎に会ったらただ聞いている、父は上京するなと言ったが。心臓が弱くなって三年たたず死ぬかも。
   4日、銀座で西洋文学通の古い友人(辰野隆?)に会い、日本の作家は歳をとると歴史ものを書いて現代ものが書けなくなるが、台所経済を把握してそれを書くがよい、西洋にはそういう作があるが、日本には労働者や工場を扱った小説はあるが、下男下女丁稚を描いたものは一つもない、君は今買い出しに出掛けるそうだがもってこいの境遇なのでそれを書けと言われる。同日松子宛書簡、牧急死のため嶋中も主婦之友重役もそちらへ行ってなかなか会えず弱った、明日中公と会って返事するが、まず源氏をやってそれから主婦之友ということになろう、今日は二百円だけ草人の貯金を借りて送る、十日頃帰る。(湘竹居)
   5日、上山方から松子宛書簡、宮川氾濫のこと電報で知り心痛、床上まで浸水したか、定めし夜中は大騒ぎ、今日午後中央公論と用談ありなるべく早く帰るが被害の様子知らせよ。嶋中と会い契約を取り交わす。
   6日、上山方から松子宛書簡、行き違いに手紙貰い水が引いたこと分かり安心、松子のことが気になって仕事が手に付かず、これからはなるべく二三日で帰るようにする、さて昨日中公と相談の結果、金のこと契約書、あまり金を借り過ぎないようにとのことだが、源氏は三万は売れるとの見込みで、二万円くらい前貸ししてもいいつもり、松子と中公の契約とし自分はお遣い役、一昨日友人と会ってかくかくのことを言われ、いずれ「○○家の台所」というようなものを書くつもり、(主婦之友のほうは取り消しか延期、嶋中は私と松子の関係を察知している様子、菊五郎の芝居へも三人でお出かけ遊ばせ、誰か大阪の文士で私と松子のことを小説にして主婦之友に売り込んだようで、拒絶したらしい。今夜は東京は灯火管制で真っ暗)。木津エミ子宛書簡。
   11日、松子上京。その夜静岡にて地震
   12日、精道村重子宛書簡、昨夜の地震より早く御寮人様はツバメより一汽車早く安着、余震のある地方を避け、明日より一泊か二泊で塩原温泉へお供いたし一旦東京へ帰りその夜の汽車で十五、六日頃お帰りと存じます、お金は明日電送いたします。
   25日、嶋中宛書簡、どこかへ避暑をして仕事したい、三五〇〇円到着を待つ。
   29日、丁未子より妹尾夫妻宛書簡、体悪いそうで。
 8月、「旅のいろ〜〜」を『経済往来』に掲載。第一劇場(第十二回新劇座)で、花柳章太郎主演『鵙屋春琴』上演(八日間)。岡成志、北国新聞を退社、東京に帰る。
   16日、嶋中、雨宮、佐藤観次郎宛書簡、先日は三輪素麺ありがたく、うまかった、中央公論五十周年とのこと歓び、ところで佐藤氏よりその記念号に執筆するよう佐藤氏より、出世作全集に参加するよう雨宮より言ってきたが断った、今は『改造』のものを除いては源氏に集中しておりそんな余裕のないことは承知のはず、また旧作の版権は改造社にあり、あの頑迷な山本社長と交渉する暇は今はなく、何より貴社で遠慮してほしい、武州公秘話ゲラ途中まで送った、正宗の跋文は訂正してもらいたい。
23日、佐藤春夫宛書簡、鮎子は帰ってきたか、「春琴抄」上演料入ったら借金返す。
 9月、『経済往来』に「幸田露伴先生を囲んで」掲載。『源氏物語』の現代語訳にとりかかる。
  東京劇場で、川口松太郎脚色、花柳主演『春琴抄』上演。万太郎の原作通りの渋いものではなく、大衆向きに脚色したいと谷崎に了解をとり、春琴の産んだ女の子が八、九歳になって入門して来、春琴も佐助も察して何も言わないという幕切れ。『演藝画報』十月号で渥美清太郎(43)が褒める。
 丁未子は文藝春秋社に復帰、『話』編集部に勤務する。
  7日、雨宮宛書簡、武州公漢文序文送る、その他。桐壺脱稿、帚木の中途。   
  15日、雨宮宛、装丁見本早く頼む、摂陽随筆の造本が杜撰だった、今度ああいう造本をしたら全部作り直させる。桐壺送るが原稿料は鮎子に。
  17日、里見の題字はいいが大きさに難。これは私の所有なので大事に保管頼む。里見の麹町の住所(愛人宅)教えてくれ。
  20日、雨宮宛、題字の件よし、営業部や出版部がコストがかかると文句を言っているようだが私は中央公論社を相手に仕事をしている。しかし出版部の人の名を教えてくれ。  27日、雨宮宛、嶋中来阪なら直接話す。
 10月2日、雨宮宛、武州公見本はなぜ遅れているのか。是非君が来てくれないと進行に支障。
   9日、夜紅とん楼で志賀、茶谷半次郎もか。
   16日、雨宮宛、夕顔一部送った、鮎子に稿料渡してくれ。武州公検印送った。
   20日、雨宮宛、武州公はまだ出ないか、月末上京するかも。
 『武州公秘話』を中央公論社から刊行。里見紝の「天下第一の奇書」の題辞をもつ。
   29日、『季刊日本橋』三号に笹沼の原稿掲載。(細江)
 11月1日、「明治一代女」(入江たか子)封切、観る。
   4日、読売新聞記者・三宅正太郎(29)来訪。
   21日、雨宮宛、組み方を決めてゲラを送らないと進められないと言っているのになぜ催促するか。
   29日、雨宮宛書簡、源氏の組み方まだ納得せず、印刷所が面倒がっていると言うがこれは十冊も出るので慎重に吟味する必要あり、もう一週間もしたら上京相談。
 12月初旬上京、草人宅。三宅正太郎が来て写真を撮った。    
12日、荷風、『武州公秘話』受け取る(「断腸亭」)
   19日、「猫と庄造と二人のをんな」前編を『改造』新年号に発表。
  21日、雨宮宛、夕顔続き送る。
   25日、下阪。
   26日、志賀宛書簡、暫く東京で返事遅れた、縁談のこと案じている、私の友人連も立派な娘を持ちながら注文多く婚期を逸する例あり、今度も偕楽園の娘の縁談の件で上京、うちの娘は決まっているので安心、今度『改造』へ猫の小説を書いたが妹尾家に預けてあったチュウが行方不明になり死骸で発見された、ナカは蓼食ふ蟲時代の犬で、小出が絵を描いてくれ、来年挿絵入り蓼食ふ蟲を出すのでナカも復活する。
   28日、志賀から瀧井孝作宛葉書、谷崎の改造の小説なかなかいい。
 暮から正月にかけて、アンドレ・モーロワ『魂を衝る男』(原百代訳、作品社)、『うつろひ』(朝倉季雄訳、芝書店、いずれもこの年刊)を読んであまり感心せず。