谷崎潤一郎詳細年譜(昭和38年まで)

jun-jun19652005-06-25

(写真は谷崎お気に入りの女優・有馬稲子)

1962(昭和37)年         77
 1月、座談会「明治の学生作家」久保田・戸板康二池田弥三郎・車谷弘『銀座百点』   8日、「わが小説−『夢の浮橋』」を『朝日新聞』に掲載。
   11日、千萬子より書簡、中公二月号の感想、宝ケ池の土地見に行く。道路の心配。 2月、春川ますみ東京新聞記者松谷浩之と結婚。
   2日、鮑宛書簡代筆、紫式部日記現代語訳発送した、源氏の和歌だけ集めた現代語訳はない。ストッキングのこと(千萬子にやるものか)、今後一ヵ月仕事で熱海ホテルに滞在。
   14日、鮑宛書簡代筆、ストッキングお礼、もっと欲しい。篆刻集等お礼。
   21日、吉田文五郎死去(93)
   24日、胡適死去(71)
 3月、日本文学全集『谷崎潤一郎集』を河出書房新社から刊行。伊吹和子注釈。
   2日、「野崎詣り(池崎忠孝回想)」筆記。千萬子より書簡、佐々木が歌の額を届けてくれたお礼、家計が大ピンチ。
   4日、山王ホテルより千萬子宛自筆、額は松子に隠れて書いた。千萬子に書くなら恵美子にもと言われるから。十日前後に鳴沢に引き上げる、土地は吉浜に決まりそう。
   7日、熱海ホテルより千萬子宛代筆、返事ないね。渡辺洋服店から生地見本。12日頃鳴沢に帰って建築を待つ。秋頃。四月中旬京都へ。千萬子より書簡、そちらへ行くのは山王ホテルの時がいい、離婚を考えていたか、家を飛び出してノコノコ伯父様の前で現れるわけにいかない。
   8日、千萬子宛、都合ついたら来てくれ、14日頃まで山王ホテルにいる。あなたとどんな関係になっても交際続ける、むしろ自由に交際ができる。同日千萬子より、つまらない手紙投函してくやんでいた。お気持ち有難い。
   10日過ぎ、雪後庵に戻る。
   14日、正宗得三郎死去(79)
   24日、千萬子より、楽しくやっている。挿絵は鈴木信太郎がいいのでは。
   26日、室生犀星死去(73)
   27日、武林無想庵死去(83)。その日電話が引けたというので夫人の息子の市川広康を呼び出して伝言を頼もうとしたら死去を知らされる。
   28日、「武林君を悼む」を『朝日新聞』に掲載。
   29日、兵庫県加古郡稲見町大村幸子宛、希望者多数大体決まったが京都へ行くのでお会いしたい。
 4月1日より、十一代目市川団十郎襲名披露公演。英男、助教授昇任。
   3日、福田家に喜代子が来訪。
   10日、「瘋癲老人日記」完結。
   13日、春日とよ死去(81)
   14日、古屋典子誕生。上洛。
   15日、大村幸子宛、日帰りで来られますか。
   28日、たをりの稽古を見せてもらう。松子重子千萬子と。
 5月7日、夜十時半からTBSラジオで谷崎出演の『瘋癲老人日記』放送。大阪では朝日放送だが、朝日の横田雄作(37)が谷崎家に通って録音した。(阪田寛夫「漕げや海尊」)
   11日、「四季 竹屋の渡し」を『朝日新聞PR版』に掲載。
   14日、ハーヴァード大学ヒベット宛代筆、手紙拝見、十数年前京都に住んでいた頃柊旅館滞在中のあなたから電話貰ったが病気中で会えなかった。来年来日の由楽しみ。盲目物語や蘆刈を訳すという勇気に感謝、瘋癲出来たら送る。ラジオ第二回。
   15日、谷崎秀雄宛書簡、得三の件、アパートへ入りたいというが許可しない、老人ホームに入るよう、熱海の老人ホームは二つとも一杯なので阪神間か垂水方面で。決まったら会いに行く。
   18日、千萬子より、色々苦しい思い。群像の合評読んだ、老人を死なすに忍びなかったので助言した。挿絵画家の候補。「四季 九代目団十郎の記憶」を『朝日新聞PR版』に寄稿。
   21日、ラジオ第三回。
  『瘋癲老人日記』(板画棟方)を中央公論社より刊行。
   23日、千萬子宛、たをりの都合考えて7月28日に延期、瘋癲できたので署名して送る、老人の最後君の助言に従って良かった。
   24日、千萬子より、画家の推薦。藝艸堂へ行って資料送った、美術家名鑑も。
   25日、喜代子宛、約束の文字と「喜」を送る。千萬子宛、「京舞」のゲラ。「四季 助六の下駄」を『朝日新聞PR版』に寄稿。
   28日、千萬子より、たをりの下手な舞も有名になるでしょう、「嫁」はやめてほしい、家長制度は崩壊した。30日東京から電話、6月改めて上京。
   30日、千萬子、上京か。
 6月1日、秀雄宛書簡松子代筆、手紙拝見、誓約書同封、もう一人の保証人は君に頼む、仕送りは一万二千円。いつ送ればいいか。神戸へ会いに行く。松子より書簡、週刊誌が煩いので続柄をどうしたらよいか。
   2日、「四季 歌舞伎の中の残酷味」を『朝日新聞PR版』に寄稿。
   4日、千萬子より、先日は途中下車したかった。Sさんが帰って困っているが14日に戻るというからその後熱海へ行くか。「瘋癲」お礼売れているようで喜ばし。たをりの習字同封。
   5日、この頃狭心症の発作と激しい目眩。
   6日、千萬子宛代筆、たをりの字について。
   7日、野村宛代筆、病気で仕事遅れるがやめはしない。
   9日、「四季 京舞 上」を『朝日新聞PR版』に寄稿。
   11日、千萬子より、やはり月末まで延ばす、いろいろ多忙、明日は美術館友の会で法隆寺当麻寺へ行く。当麻寺絵はがき。
   16日、「四季 京舞 下」を『朝日新聞PR版』に寄稿。
   18日、千萬子宛自筆、現金書留。
   20日、サイデン宛代筆、八月に帰米のこと小山いと子から聞いた。日本が嫌になったそうだが理由を今度聞かせてくれ。自分も嫌になっている。七月中旬頃待っている。
  月末、千萬子来る。
   27日、『読売新聞』夕刊に、「ノーベル賞候補作家を推薦」  
 7月2日、鈴木宛、篆刻はふと「瘋癲」「瘋癲老人」はどうかと思いついた。
   4日、千萬子宛自筆、無事到着、出発の折は来客多くてゆっくり話せず残念。海外旅行は君がついていってくれるなら安心。
   6日、鮑宛代筆、手紙拝見、ジャスミンお茶楽しみ、誰か瘋癲を篆刻してくれる人はないか。
   9日、終平宛葉書、28日熱海富士屋ホテル喜寿の会。出席有無を。谷崎家からはお前一人。
   13日、千萬子より、中元お礼、たをりは勉強やピアノ、八千代の所などで多忙。28日は第一こだまで。ナイトクラブ楽しみに。
   14日、ヒベット宛代筆、手紙拝見、瘋癲褒めてくれてお礼、放送はNHKではなく朝日放送でごく一部、テープ送らせる。
   17日、鮑宛代筆、手紙拝見、瘋癲作人に頼んでくれてお礼、香片茶郭旭さんから届いた。千萬子宛自筆、写真お礼、同封したのを引き延ばして、君の尾道のも。「千萬子百態」として君だけのアルバムを作りたい。
   18日、千萬子宛代筆、写真は返送願う。
   21日、千萬子宛自筆、この間人から君には誰かブレインがいるんじゃないかと言われたがそのブレインが一人の若き美女であると知ったら驚くでしょう。(全集)
   23日、千萬子より、泰三挿絵について。最近また自己嫌悪自信喪失で、一人になりたいなどと言っている。今誰かを好きになったらどうなるか、バカなこと言ってごめんなさい。
   26日、野村宛代筆、原稿送る。某映画会社から申し出あり、そちらへもゲラ送りたいのでもう一部。
   28日、熱海富士屋ホテル喜寿の祝い。富山清琴の「都わすれの歌」「茶音頭」、栄夫の仕舞、たをりの京舞「松づくし」。笹沼宗一郎、喜代子、千代子、江藤夫婦、鹿島次郎夫婦、恵美子、桂男、清治夫婦、終平、竹田鮎子、長男、有多子、高橋百々子、小富美、嶋中夫妻、清琴夫妻。
 8月、『新刊ニュース』15日号で淡路恵子と対談「瘋癲老人日記余話」。
   7日、昔からの女中たちを招いて仲田の北京飯店で会。久保夫妻、ナツと子供二人、その姉と梅、子供二人。「定」と子供二人、トキ夫妻、キク夫妻、藤巻夫妻。
   8日、柳田国男死去(88)
   10日、千萬子宛、夏は12日まで名古屋、それから北白川へ行くそう。この頃君に頼りすぎかも。千萬子より、昨夜は清治と栄夫の「ぼんち」を観てきた。帰りに横山さんを見舞い。おばあちゃんたちには内緒。
   11日、「お化粧室(安田輝子さんを推薦する)」を『朝日新聞PR版』に寄稿。輝子は安川加寿子の紹介で七年ほど前恵美子にピアノを教えた。奥山はつ子に似ていると書いたら、父の音楽評論家野村光一(68)と挨拶に来る。
   12日、千萬子より、七日の会は遠慮。千萬子宛、「台所太平記」ゲラ送る、東宝東京映画からオファーあり、意見聞きたい。
   15日、千萬子より、京都は美人が多い。映画化へのアドバイス、磊吉を狂言回しに、「モンローのよう」という表現は自殺したので変えては。モンローかわいそう、家の近くに朝鮮の中学校が建つので逃げ出す。
   17日、千萬子宛、京女というのは二代も三代も前からの伊吹さんのようなので、あなたのようにあんな靴を履きこなせる人はいない、もう一度ゆっくり足を拝ませて。モンローの代わりの表現はないか、シナリオは松山に頼んでみる。磊吉狂言回しやってみる(全集)
   23日、千萬子宛、内緒で小遣い。あなたを詠んだ歌を棟方が版画にした下書き同封、額にしては。
   25日、志賀高原ホテルから千萬子の絵はがき。
   29日、千萬子より、瘋癲のシナリオを見ての意見いろいろ、モンローの代わり提案。
   30日、千萬子より、札幌の土地のこと。
 9月、サイデンステッカー、スタンフォード大学に着任。サイデンステッカー・佐伯訳「谷崎潤一郎」『自由』、『文学』9月号「座談会・近代日本文学史谷崎潤一郎について」伊藤・寺田・勝本・猪野謙二、初期作品「狆の葬式」「うろおぼえ」と、勝本の解説掲載。
  八代目坂東三津五郎、七代目簑助、五代目八十助襲名。
   1日、千萬子宛、送金と棟方版画色付き。
   2日、千萬子宛、木村恵吾のシナリオはダメで、言っても分からないので君の手紙を見せてやろうか、笹沼宗一郎がモデルというのはその通り、パールはあれでいいか、九月末か十月初来るの楽しみ、靴を勝ってあげる。
   3日、千萬子宛代筆、大映松山英夫から同封の手紙、配役は希望入れられず、シナリオもダメなので手を引く。
   4日、千萬子より、シナリオ伯父様と同意見なので付け上がる、老人と颯子の関係はもっと浄化されたもの云々。追って、手紙見て悪い予感が当たった。楽しい話をしましょう。服のことなど。土地のこと、土曜に清治が広島から直行する予定。
   7日、吉川英治死去(71)
   8日(土)清治来るか。
   10日、『中央公論』11月号(九百号記念)に「私と中央公論」を寄稿。
   13日、千萬子より、このところ電話も手紙もないので心配、Mさんは無事勤めているかしら。
   14日、スタンフォードのサイデン宛、無事帰国の由、『自由』拝読、悪魔主義と言われるのが嫌だった、「異端者の悲しみ」は嫌いな作品なので嬉しい。和歌一首「ふるさとは田舎侍に荒されて」
   15日、千萬子宛、ミネさんは全く役にたたずユミさん以下で、裏千家で使ってもらうことにしたがあなたの意見を聞かなかったのが悪い、松子があなたに無断で持ちかけ私も黙認していた、万事あなたの意見は的中するので、今後は遠慮なく高飛車に言ってくれ、十月中旬以後京都へ。瘋癲は11月新派で花柳・八重子がやる。
   17日、千萬子より、Mさんは三年間使っていたからダメなのは最初から分かっていた、当人にも反対した、たをりは「あしながおじさん」を読んだ。
   20日、上京してこの日帰宅か。
   21日、千萬子より、家は一つ雨の日に見てみる、Mさんは家へ帰るのが一番なので言ってくれ。
   22日、千萬子宛、椅子のカヴァーのこと。
  この間、発作か。
   27日、千萬子より、発作のこと聞いて手紙書こうかと思ったが私の手紙で発作が起きてはと思い、1日こだまで行く。タマが七匹仔を産んだ。
 10月、『池崎忠孝』(池崎追悼録刊行会編)に「野崎詣り(池崎忠孝回想)」を寄稿。   1日、千萬子来るか。鈴木宛松子代筆、手紙と印譜拝受。
   5日、千萬子より、お世話に、私は変わった母親かも、伯父様は男性的。英文手紙翻訳同封、新聞切り抜き。
   7日、千萬子宛、切抜の脚ちっともきれいでない。君のほうがずっときれい。
   11日、千萬子宛、庭歩けるようになった、たね満に時計直せないなら返すよう、家のことで清治に相談あるから来るように、行けるとしても二十日過ぎ。
   12日、千萬子より、サンデーに出て色々言われたが人前に出るのに慣れてきた、時計は悪くないそう、熱海の暖房、京都の家変わりたいこと、二十日午後の便でたち翌日山口の式に出て飛んで帰る。
   15日、千萬子より、暖房は換気が大切、留守番は重子がすればいい、夫婦の襖隔てた隣室に寝るなんて変、気に障ったら御免、京都へ来られなくて残念、新潮社と中公の世界文学全集がほしい。
   16日、鈴木宛松子代筆、印顆高畠正明から受け取る。千萬子宛,今朝は電話で。東京行き旅費送る。    
   17日、千萬子より、お礼、切符はもうとった。会いたい。
   17−19日、『朝日新聞』に三島「谷崎潤一郎論」。
   19日、元女中だった大村幸子宛手紙、君の声が聞けないのは寂しい、戻ってきてくれないか。京都で会いたい。人は知らずものいふ時はおのづから声玉をなす大村幸子。
  「台所太平記」を『サンデー毎日』28日号から連載開始(38年3月10日号で完結)
   20日、千萬子飛行機で上京、熱海へ寄るか。大映『瘋癲老人日記』封切、木村恵吾脚本監督、山村聡若尾文子川崎敬三。松子から大村幸子宛、御両親さえ良かったら戻ってくれと先生も。
   25日、千萬子より、寄って良かった。百々子(22)ちゃんにあんなことを言わないで。
   28日、正宗白鳥死去(84)
   30日、千萬子より、奈良へ行ってきた。
 11月2−26日、新橋演舞場昼の部で新派公演「瘋癲老人日記」、花柳と八重子。筋書に「今度は是非見に行く」を寄稿。
   3日、喜代子が福田家に来訪。
   7日、千萬子宛、16日ニュージャパンの部屋とった、その日早めに行く、18日熱海、19日帰洛、映画には失望、新派は面白そう。
   8日、大村幸子宛、貴方が一番好きだったのに。結婚では仕方ないがいつ頃ですかお祝いを贈りたい、その前に一週間でも来てくれ。
   9日、千萬子より、16日第一富士、熱海には一分停車、伯父様とはどこでデート。   10日、千萬子宛、今朝電話で声を聞いて創作力沸いた、小遣いはそっとハンドバッグへでも入れておいて知らん顔するのがいい。
  この頃中国演劇代表団の団長朱光、千田是也とともに来訪。 
   16日、千萬子上京。
   18日、松子重子千萬子、千代子と新橋で「瘋癲」を観る。
   22日、千萬子より、次元の違ったような三日間でした、19日吉井先生の所へお参りに、朝鮮学校のこと書かれるなら美しい文章で「京を憂う」とか、新聞は毎日のほうがいいそうで。
   24日、千萬子より、ポリオ生ワクチンについて新聞記事、同封。
   25日、千萬子より、電話お礼、朝鮮学校の裏にあるのは松本文次郎氏邸。
   27日、千萬子より、「京都を想ふ」原稿の感想。 
   28日、千萬子より、電話お礼、修学旅行学生の苦情。
   29日、千萬子宛、メタルスキー買ったか、あなたはもっと美しくなってほしい、小切手。お礼は不要。ポリオの件あなたの予言は当たること証明された。
   30日、千萬子より、この前書き忘れたが佐々木が額を届けてきた、スキー教室に行きたいが大勢、ツテがあったら頼む。
 12月1日、千萬子より、毎日冷戦をしている。午後法然院へ。
   2日、平山巖死去。
   4日、千萬子宛、スキー教室のこと朝日に頼んでおいた。この年になってあなたのような女性に巡り会えたのは幸運、今年中にもう一度会えるのが嬉しい。
   5日、千萬子より、昨夜台所太平記ゲラ届いて読んだ、ラストのシーンはどうこう、スキー教室お礼、14、5日に行く。千萬子宛、末尾を女中たちの喜寿の会にして良かった、松子がいいと言ったのであなたの思いつきだと言ったら感心していた。鹿ケ谷のそばに家を建ててくれたら死後もそばにいられる。
   7日、千萬子より、末尾の所クレッシェンドにできないか。千萬子宛代筆、「京都を想ふ」は新年載せるつもりで遅れていたそうで、それでは困ると言ったから近日載る。松本さんのことは原稿を断ったばかりなので朝日に頼みにくい。法然院宛紹介の名刺。
   10日、千萬子宛、台所太平記末尾あなたの指摘、松子宛手紙にもあってどきりとした、単行本で何とかしたい、もう一つ君に叱られそうなことがある(全集)
   11日、千萬子宛、毎日は小野竹喬の挿絵を入れるので二十日までには出すそう。明日引っ越す、17日の下り特急買っておく。
  この間千萬子来るか。
   17日、千萬子より、引っかき回してすみません。
   19日、「京都を想ふ」を『毎日新聞』に掲載。北鮮学校ができ、今度は南鮮学校ができることなど京都近代化への苦言。

1963(昭和38)年         78
 1月、正月千萬子ら来るか。新橋演舞場昼の部で「少将滋幹の母」左団次、丑之助。
   3日、三島より年賀書簡、「美しい星」を読んでくださっていると嶋中氏より聞き恐縮、遠慮して送らずにいたので一冊送る。
   10日、千萬子宛、二人きりになる機会がなくて残念、一昨日の雪景色描写の手紙感嘆、婦人公論で発表させてくれ、志賀高原のはこないだのようなのを、あなたの手紙を集めて「千萬子の手紙」という単行本出したい。天に星地に千萬子の短歌(全集)前川康男宛葉書(高畠達四郎女婿)、昨年暮れ甲斐犬愛護協会から連絡ありいい子犬を手に入れた。お手伝いも暮れ福岡と尼崎から二人来て試験的に使っている。
   13日、三島より書簡、署名入りご高著お礼、昨日は寿海の石切梶原に感心。しかし芝居の幕内のごたごたには閉口。毎日芸術大賞祝い。
   18日、『瘋癲老人日記』により毎日藝術賞を受賞。当日、水谷八重子と対談、松子同席。
   23日、千萬子宛、あなたの手紙は誰から誰へか分からないようにして出すことにした。毎日の賞を貰ったので賞金分ける。台所太平記の配役言ってきたが、どうか。
  『サンデー毎日』2月3日号で水谷八重子と対談「芸術大賞作家大いに語る」
   27日、千萬子宛、写真在中、これでも美人でないかと言ってお見せなさい。
   28日、ヒベット宛代筆、手紙拝見、パリでエリセエフに会った由懐かしく、「私」をThief に「青い花」をAguri に変更よろしい、そのうち日本へ。
   29日、千萬子宛、歌をペンで短冊に書いてくれ、短歌修正、ペル近日返す。
 2月、『わたしの吉川英治』に「吉川英治君のこと」寄稿。
   1日、千萬子宛、ミンクのこと妻にばれそうで二十万出せない、手紙や電話では言えない事情がある。川田順三好達治鈴木信太郎、藝術院会員に選ばれる。
   4日、喜代子、喜美子、登代子が熱海に来訪。
   6日、千萬子宛、15日は着いたら熱海ホテルへ、そこで話そう、夕方から山王ホテルで皆と、泊まりは山王。
   10日、喜代子、千代子来訪。
   15日、千萬子来て熱海ホテルで話すか。
   25日、「『撫山翁しのぶ草』の末尾に」原稿笹沼家に届く。
 2−3月、「四季」を『朝日新聞PR版』に掲載。
 3月7日、千萬子宛、短歌二首。『婦人公論』4月号に「千萬子からの雪だより」掲載。
   17日、千萬子宛、婦人公論から原稿料送ってきたがそちらにも行ったか、講談社はどうか、30日待っている。
   30日、千萬子来るか。
 Gerard Renondeau訳La confession impudique, Gallimardより刊行。
 4月、『台所太平記』(装幀装画横山泰三)を中央公論社から、日本現代文学全集『谷崎潤一郎集(二)』を講談社から刊行、月報は東光、大江、武田、千萬子「伯父様のこと」、市川崑
   3日、志賀から葉書、菜の花漬けお礼。
   7日、千萬子宛代筆、無事帰宅の由、「鍵」のフランス語訳できたので送る。
   13日、志賀より葉書、「台所太平記」お礼。
   23日、鮑宛代筆、中国名人印譜度々お礼、広東犬二匹欲しい。台所太平記周の分と二冊送る。
   24日、鮑宛代筆、荷風の日記は岩波の全集に入るはずで、出たら送る。
  伊豆山の後の雪後庵を処分して熱海市西山町六一四番地の吉川英治別荘に転居。
 5月、笹沼源之助三周忌に『撫山翁しのぶ草』を編集、「『撫山翁しのぶ草』の末尾に」を寄稿。
 新橋演舞場夜の部で、喜多村緑郎追悼『台所太平記』上演、川口、榎本滋民脚色。花柳、水谷、京塚昌子勘三郎森雅之
   1日、千萬子より、奈良行きの時の歌二首。
   3日より歌舞伎座で初代市川猿翁、三代目猿之助襲名披露。
   5日、猿翁父子に和歌を詠む。
   6日、久保田万太郎死去(74)。鮑宛代筆、広東犬のこと、なるべく仔犬がいい。   8日、松子より長尾宛書簡、移転挨拶、中旬過ぎでなければ京都へ行けない、娘のお産も迫っておりこれから上京。
   9日、築地本願寺で久保田葬儀、松子参列。
   10日、「雪後庵夜話」を『中央公論』6月号から連載、9月号まで。
   16日、千萬子宛、19日会えるの楽しみ、返歌一首。
   18日、モルガン雪死去(82)
   20日毎日新聞大阪本社の山口広一から、中座で渋谷天外一座が台所太平記をやっていて、藤山寛美のお初が大受けなので観てやってくれと言われたので、中座を観てから入洛。
   26日、京都より信綱宛代筆、移転、娘の出産、関西の知人の仲人等で返事遅れた、短歌批評をせよとのことだが恐れ多いので二三選んだ。3日西山へ帰り23日静養の上挨拶に。
   29日、奥山はつ子の「奥山」で、山口、編集局長枝松茂之、薄田桂(泣菫息)、松子で小宴。藝妓らの舞を堪能す。子花も、舞妓だった四十年前の話などする。
   30日、松子重子はかず子の所で舞の稽古。
  恵美子、長女袙を出産。
 6月、大阪新歌舞伎座夜の部で「瘋癲老人日記」再演。
   2日、『週刊明星』に「団令子と文豪谷崎先生の熱海デート」。『台所太平記』の撮影で熱海に来た団と、雨の日にデートしたというもの。
   3日、熱海へ帰るか。
   12日、市川猿翁死去(76)
   16日、豊田四郎監督『台所太平記』封切、森繁、淡島千景、団、乙羽信子淡路恵子池内淳子京塚昌子水谷良重、森光子、フランキー堺三木のり平小沢昭一飯田蝶子
   19日、鮑宛代筆、犬羽田に着いた。
   21日、千萬子より、ワグナーの切符取れた。楽しいことがちっともない。
   22日、千萬子宛、夏は一週間くらい行けるがその前に来て刺激を与えて欲しい、靴の刺激でも可。
   23日、鮑宛代筆、広東犬とりあえず広と東と名付けた。
 7月、赤坂の心臓研究所で十日ほど検査。
 Howard Hibbett訳Seven Japanese Tales,Knopf から刊行。
   6日、左京区銀閣寺寺前町高折方千萬子より、東京は如何?多分8月1日の切符とる。お金がなくて遊び相手がいない。秘書のこと、井上悦子さんは遊んでいるらしい。
   7日、「京羽二重」を『新潮』に掲載。
   8日、高折方千萬子宛、小包お気に召しましたか。
   10日、千萬子より、昨日藤川から疲れて帰ったらお手紙、この辺も昔の風情がなくなった。ドイツオペラは11月1日。
   17日、中央公論社創業七十周年記念出版『日本の文学』全八十巻の編集委員会にキーンが出席。他の川端、伊藤、高見、大岡、三島の五人でこれまで続けてきた。
   18日、千萬子宛代筆、ヒベット訳短編集が出たので送る。
   20日水上勉(45)『越前竹人形中央公論社より刊行。
   24日、千萬子より、英訳読んでいる、貝塚茂樹の「史記」を読んで中国行きたくなった、一緒に行きましょうよ。1日第一富士で行く。
   28日、宗一郎、千代子、東一見舞いに来る。
   30日、『日本の文学』の編集委員として最後の編集会議に出席、谷崎のために熱海で開催の予定だったが、入院のため福田家で開かれる。
 8月1日、千萬子来るか。梅園ホテルで二日間千萬子と話し、仏足石を貰う。
   7日、『文藝』でサイデン・円地と鼎談「作家の態度」。   
   10日、「雪後庵夜話」完結。
   17日、福田屋で『日本の文学』編集会議。
   21日、千萬子宛、先日の感激。24日待っている。
   24日、千萬子来るか。
   27日、千萬子宛、日本の文学の作家作品リスト、ご意見を。
   28日、千萬子宛代筆、私の作品は三巻分これだけ。十返肇死去(50)
   29日、千萬子より、おばあちゃん元気で安心した。もうすぐここを発つ。
 9月、現代の文学『谷崎潤一郎集』を河出書房新社から刊行。「四季」を『朝日新聞PR版』に掲載。
   4日、千萬子より、八月の始めと終わりでは別人の感。今朝の電話の件、そばにいた人に訊いてみたら、岐阜名古屋宝塚などどうかと。東京のホテルだと女がノコノコ出ていくのは不自然だそう。菅楯彦死去(86)、毎日新聞夕刊に談話「画人・菅楯彦さんを悼む」。
   7日、千萬子宛、「『越前竹人形』を読む」ゲラ。
   10日、千萬子より、原稿読んだ。今日はポオを読んでいる。
   12−14日、「『越前竹人形』を読む」を『毎日新聞』に掲載。第一回を読んだ水上は、毎日新聞社へ行って浜田琉司から全文を読ませてもらう。
   14日、千萬子より、「K子の経験」色々手を入れている。19日行くつもりだったが22日たをりの運動会なので一週間延ばす。法然院の家は11月中完成の予定。
   21日、千萬子宛、雪後庵夜話は評判がいいのでやめなければ良かった、またあなたの予言が当たった。お母さんと喧嘩して八州子さんの方へ出ていった由、それで東京行に故障がなければいいが。
   22日、千萬子より、つまらないこと書いた、母はすぐ帰ってきた。続雪後庵夜話書いてはどうか。26日行く、元気だったら東京へと思っていたのに。
   26日、千萬子来るか。
 10月、中川三郎『国際的なダンスに強くなる本』に序を寄せる。
  初旬、伊吹に、「天児閼伽子」の小説について話す。
   11日、志賀宛代筆葉書、京都へ二人で出掛けたそうで羨ましい、冬の間山王ホテルに立てこもる。
   15日、千萬子宛、切符受け取った。「おしゃべり」の結末はあのまま、名案があったら教えて。婦人公論はあれでいいと。11月1日なるべく来て。移転完了。
   18日、千萬子宛代筆、渡辺楳雄宛拙著三冊発想する。三人で18日夜から21日まで東京。
   20日日本生命日比谷ビル内日生劇場柿落としベルリン・ドイツ・オペラ公演に招待され松子と行くか。フィッシャー=ディ−スカウ。
   22日、代筆大村幸子宛、先日久しぶりでおいで構えず失礼、いまお手伝い足りず一月でも二月でも来てくれないか。
   29日、千萬子宛代筆、眼鏡のサック受け取る。31日から上京、お母さんに仙洞御所の件お礼を。
   31日、上京。
 11月1日、千萬子とワグナーの予定だったはずだが、すっぽかしたか。
   3日、小林秀雄文化功労者
   9日、千萬子宛、故十返の家が観世の近くで迷っている。松子重子、宗一郎、千代子と上野の文化会館でイタリア歌劇団セビリアの理髪師」を聴く。
   18日、市川段四郎死去(56)
   22日、ヒベット宛代筆、手紙拝見、瘋癲を英訳しているとのことストラウスから聞いたお礼、卍もその内してくれるそうで。私は源氏の新訳を考えている。
   30日、日本の文学第一回配本谷崎集(一)の付録のため、福田家で円地文子と対談。新仮名づかいでの刊行を承諾した件など。
 この頃、観世夫妻の住む文京区関口台町目白アパート六階に仮寓。同じ階に瀬戸内晴美(40)も住む。
 12月2日、佐佐木信綱死去(92)。
   7日、「おしやべり」を『婦人公論』新年号に掲載。
   10日、「続雪後庵夜話−「義経千本桜」の思ひ出」を『中央公論』新年号に掲載。   12日、小津安二郎死去(61)
   30日、伊吹ら、東大助教秋山虔(40)の紹介で院生を頼み、新々訳源氏の準備に掛かる。