(写真は谷崎お気に入りの能楽師・奥村富久子)
1946(昭和21)年 61
1月、『人間』に「永井荷風氏書翰」を掲載。
1日、明が北海道から来る。土産物多し。
6日、本田夫人が来て三味線を聴かせる。
11日、水嶋夫妻を招いて晩餐、パイプ煙草を水嶋に勧めたらちょっと脳貧血を起こす。
14日、明、重子とともに神戸へ帰る。
19日、嶋中宛書簡、病気快癒の由大慶、中央公論新年号が届かない、細雪上巻中巻いつでも刊行可、先日「国際公論」の記者なる者二名来て寄稿を請うがマ司令部の後援で出す雑誌とのこと、中公の了解を得たらよしと言ったが、嶋中の快諾を得たと電報あり、確かか。
20日、菅楯彦宛書簡、細雪箱入で出すと昨日来電、宜しく頼む。
31日、一枝と汽車で津山の闇市見物。
2月、鎌倉文庫より『蓼食ふ蟲』刊行。『新生』の文藝時評で正宗白鳥、『細雪』を論じる。
5日、「八月十五日」という一幕物の戯曲を書きはじめる。当時の田舎の人々の騒ぎを描いたものだが、中途で放り出す。小瀧穆から細雪中巻ゲラ送れと来電。
6日、新村出(70)より『四友部類』(禿氏祐祥著、京都、和紙研究会、一九四一)贈呈され礼状。久世町税務署へ申告発送。清友から内田巖(魯庵長男、洋画家、47)のスケッチを見せてもらう。
7日、布谷家結婚式。菅楯彦より細雪装幀画届く。
8日、新橋第一ホテル土屋宛葉書、約束の短冊先日届けたが行き違いで手紙拝見、短冊の会はあれでもよければ揮毫するが今やりかけの仕事あり、一二ヵ月待ってくれ、武者小路には重ねて催促する。
15日、モラトリアムの噂、一枝を菅の画稿訂正のため使いにやったのが帰ってくる。土屋宛書簡、短冊できた、近々使いの書生を東京へやるのでその者に持たせる、代金は彼に払ってくれ。
17日、金融緊急措置令、新円発行、旧円の預貯金は封鎖。
18日、毎日朝刊に吉井の「城南消息−谷崎潤一郎君へ」という三首の歌載る。富山を引き上げ山城男山付近に移ったらしい。小野女将の紹介の家を見に行くが気に入らず。 19日、土屋宛書簡、モラトリアムについて勘違いしていた、短冊届けるのは来月、新円で支払いなら結構、さもなくば振込、印税原稿料等はどうなるか、武者は住居不明だが謝礼先に払ってくれれば催促しやすい。
21日、国民学校の文藝会、生徒たちの演劇を松子、重子、恵美子と観に行く。松平から金用意できたと来電。
3月4日、内田ら来訪。内田が谷崎の肖像を描くことになる。夜、改造文庫『魯庵随筆集』上巻の内田執筆魯庵翁伝記を読む。
6日、内田、娘とともに来、夕方まで肖像描き。
8日、紅葉全集「八重襷」「冷熱」を読む。
10日、「色懺悔」「風雅娘」「巴波川」を読む。
11日、内田来訪、肖像。
12日、内田来訪、京都行きまでに間に合わせるつもり、夜、松子、重子、恵美子らを毛筆でスケッチ。
13日、肖像画完成。和辻春樹、京都市長に選ばれる。
16日、朝の汽車で出発、車中立錐の余地なく三宮まで立ち通し、7時喜志元に着く。
17日、南座見物、ひらかな盛衰記、源太勘当及び無間の鐘の場、源太は寿美蔵(三代寿海(61)、景時は翫雀(三代鴈治郎)、梅ケ枝は四代富十郎(39)、天の網島紙治内の場と大和屋の場、紙治翫雀、おさん富十郎、あと河内山あるが見残して帰る。(以上「越冬記」)
以後住居探しに当たる。
28日、新潮社楢崎宛、『盲目物語』のこと承知。
春、ナツが勝山へ来る。
4月1日、金融第二次措置、さらに厳しくなる。
3日、熱海から重子宛書簡(八木)
6日、この日までに上京、新生社を訪ね、青山虎之助と昼食。与野に泊まる。
この時か、鎌倉文庫へ行くと「現代文学選」の『雪国』を川端から貰い、初めて読む。 8日、帝劇夜の部で菊吉の「息子」「大寺学校」「保名」を笹沼・千代子と観る。 10日、大塚常吉の招待で食事、与野に泊まる。同日、婦人参政初選挙。
11日、ライファンのトラックで東京へ、青山、宇野浩二、東郷青児(50)と会食、それから熱海へ。
23日、青山虎之助宛書簡
27日、喜志元を引き払い、銀閣寺終点付近戸嶋方の二階を借りる。
5月3日、極東国際軍事裁判始まる。
6日、左京区浄土寺西田町十二、戸嶋孚夫方から日本橋白木屋二階鎌倉文庫川端康成宛速達、花の頃に入洛の由当方熱海あたりをうろついていて会えず失礼、現在住居は二間のみにて早々に移る、蓼食ふ蟲の印税貰いたく親戚の青年を使いにやる、貴社の現代文学選は拙速に過ぎないか、雑誌『人間』の好評に比べ、蓼食ふ蟲も心細い。
11日、尼崎の一枝宛葉書、この間は足労お礼、布谷へ行こうと思っているが信子がいるらしいので遠慮している。信子はいつ出立か。
13日、多佳女一周忌(15日)に、歩いて花を届けにゆき、又一郎に書簡を渡す、先日は留守中お出で思い出のものありがたし、これは多佳女の俳句の短冊(細江)
16日、一枝宛書簡、20日移転するので19日手伝いに来てくれ。
18日、明、勝山へ行く。
20日、上京区寺町今出川上ル五丁目鶴山町三番地ノ一中塚せい方の二階に仮住まい。一枝宛書簡(手伝いには来なかったらしい)石鹸その他送ってくれ、近日北海道から明が来る。
22日、第一次吉田茂内閣成立。
24日、明が、松子重子恵美子を連れて入洛。ナツも一緒か。
25日、松本さだ女から多佳女一周忌の後の追善演藝会の知らせを受け、松子恵美子渡辺夫婦と出席。又一郎に初めて会う。午後一時より知恩院内源光院、金子竹次郎と三十数年ぶりに再会、坂東三津五郎(七代)、簑助(八代三津五郎)、山村わかなど。このまま家族も京都に止まるか。
29日、松子重子と大江能楽堂へ、明後から来る、梅若六之丞(のち六郎)の江口、茂山千五郎の三人片輪を観る。一人で大友の跡を見に行く。
31日、川端宛書簡、返事ありがたし6月5日頃使いの青年根津清治、日大の学生を遣る、貴下不在の折は岡沢常務を訪ねるよう言ってある、転居で金なく、一万円ほど都合してくれないか。
同月、今東光『稚児』(23年2月刊)の序を書く。同月、瓢亭のそばで上田秋成の墓を発見。
6月2日、土屋宛葉書、転居通知、短冊遅れ詫び。
12日、新潮社楢崎宛書簡、盲目物語は昭和六年に中公へ版権渡したこと判明、しかし双方それを忘れて創元社新潮社から出ている。今度中公から再刊することになった、中公と話してくれ。春琴抄は創元社に版権があるも同然ゆえ許しくれ。
15日、松子から水島芳子宛、世話になったお礼。谷崎も一度訪ねたいと言っている。
18日、新町の志賀宛葉書、転居通知、戦後二度上京の度電話したが通ぜず。
26日、土屋宛葉書、「細雪」私家版は勝山にあり、令息二人の名を教えてくれ。勝山の一枝宛用事葉書。
29日、午後五時半、大友の跡地を訪ね、その寂れているのを悲しむ。
7月、中央公論社より『盲目物語』改訂版刊行。
5日、奈良日月亭で志賀と対談。
中旬、京都で志賀、吉井と会う、翌日舞の会でまた志賀と会う。
18日、尼崎の久保宛書簡、二三日見えないが具合でも悪いか。重子が勝山へたつので君が駄目なら一枝さん来てくれ。まんじ校正持参頼む。
23日、寺町通四条下ルの大雲堂茶室で、新村、川田と、雑誌『洛味』のために鼎談「新日本の黎明を語る」。
29日、土屋宛葉書、武者小路へのお礼について。
8・9月、「磯田多佳女のこと」を『新生』に分載。
8・12月、十返肇「谷崎潤一郎」『文学季刊』。
8月4日、土屋宛書簡、神戸の家を売って京都で買うつもりだが金融関係の情報ないか、明日より勝山。
5日、避暑を兼ねて「細雪」執筆のため単身、勝山町の今田方に滞在。
12日、尼崎の久保宛書簡、創元社の印税と預金封鎖について詳細。
14日、久保宛書簡、了解、トルピッシュ云々。夫婦で勝山へでもいらっしゃい。 17日、『細雪』上巻中央公論社より刊行。
22日、勝山今田方より本山村北畑多田嘉七宛書簡、28日の会には必ず出る、重子も入会希望。
25日頃、帰洛。
27、28日、左京区南禅寺下河原町五二番地の元陸軍中将吉田周蔵宅を十万円で買い取る。
28日、会に出席。
再び勝山へ。
9月、精二、早稲田大学文学部長に就任。『朝日評論』で志賀と「文芸放談」。
9日、今田方より土屋宛書簡、最近は往復生活、武者小路の住所。
13,4日頃、帰洛。
この秋、東光の紹介で、摩訶止観について学ぶべく、江州坂本の比叡山専修学院の教師・山口光円(56)と知る。
21日、今出川より土屋宛書簡、11月中には上京。清治宛書簡、さる18日皆で勝山を引き揚げた(?)、おじさん在京と思うが便りがない、来月最初の土曜に茸狩りに泊まりがけで来ないか、鎌倉文庫へ原稿料と印税を取りに行ってくれ。木村徳三。
25日、小島威彦(45)の紹介で京都の俵屋で原智恵子(34)に会う。松子、重子同道で、重子のピアノのレッスンを頼む。(小島はその翌日谷崎邸を訪ねたかのごとく書いているが、その描写は潺湲亭のようで、時期はもっとあとか。小島「百年目にあけた玉手箱」五巻)
9月末、明は函館を引き上げてきて中塚方に住まい、日本羽毛株式会社の通訳として勤める。
10月、「熱海・魚崎・東京(疎開日記)」を『人間』に、「奉天時代の杢太郎氏」を『藝林間歩』に掲載。新村・川田との鼎談「日本の黎明を語る」を『洛味』に掲載。「同窓の人々」執筆。
1日、西宮市北昭和町北尾瞭之助宛葉書、創刊号できたら日記分の関係者へ贈呈したく五冊程頂戴したい。
2日、土屋宛書簡、銭痩鉄来日中なら、篆刻と潺湲亭の揮毫を頼みたい。折り返し、喜んでする、篆刻は後になるが二十日前後に入洛すると。
23日、栗本、中央公論取締役、宮本、理事。
末、西福寺の秋成の墓に詣でる。
29日、伊豆大仁ホテルから志賀、里見、万太郎連名の葉書。
11月、『玉藻』に高浜虚子が谷崎宛文章を掲載。磯田多佳と浅井の関係について。「「潺湲亭」のことその他」執筆。創元社百花文庫より『幇間』刊行。
1日、銭入洛と聞き麸屋旅館に訪ね二十年ぶりの再会、篆刻と揮毫を依頼。
2日、故橋本関雪白沙邨荘で銭に会い揮毫をしてもらう。これ以前か、朝日新聞支局の紹介で関雪の息節哉に紹介され、ついでその妹妙子、その夫高折隆一を知る。
4日、松子から勝山の水嶋芳子宛書簡。
11日、土屋宛葉書、銭に面会、揮毫頼んだ。
24日、南禅寺の邸に移る(前の潺湲亭)。
26日、志賀宛葉書、転居通知。
27日、和辻春樹、公職追放で市長辞職。
28日、清治宛書簡、今度表記のところに転居、洋間もあって住吉の時のようです、名刺を持って中公へ行き小瀧から金貰って送ってくれ、小瀧でなければ君の顔を知らないから不在なら会えるまで何度でも行ってくれ明おじさんに頼んではいけない。(八木)
12月、「同窓の人々」を『新潮』に掲載。全国書房より『聞書抄』、生活社より『痴人の愛』、刊行。
1日、新生社より『卍』刊行、東郷青児装幀。
初旬、祇園の料亭で和田三造を招待、品川清臣も来て、完全木版作り「都わすれの記」の企画が出る。
3日、大貫鈴子宛書簡、父上(叔父喜久三)死去の報に驚く。
10日、松子より水嶋芳子宛書簡。重子恵美子が先日はお世話に。
11日、喜美子宛葉書、南座顔見世菊五郎の吉田屋二回観た、月末また六ちゃんと行く。
17日、志賀より葉書「細雪」の礼、「革文函」と「豊年虫」できたら送る。
21日、笹沼、京都へ。大塚、谷崎と会う。
この年、創元社百花文庫より『三人法師』刊行。 鮎子、長男長男出産。
1947(昭和22)年 62
1月、「『潺湲亭』のことその他」を『中央公論』に、「都わすれの記」を『女性』(新生社)1月号と2・3月合併号に分載。末永泉(26)を秘書とする。その姉が国際女性社にいた関係。
7日、松子より兵庫県川辺郡菊原初子宛、旧臘はお手紙、ラジオでお声に接し。
9日、高浜虚子(74)宛書簡、昨年の『玉藻』の文章について誤解を解き、明治末年京都で水落露石が幹彦と谷崎を訪ねてきた時の思い出。
19日、志賀宛書簡、先日は著書二冊座右宝社員よりお届けお礼、春には上京可能か。
22日、清治宛書簡、久保をやるが東京は不案内なので地理を教えてくれ、最初の晩は君のところ、それからは創元社に泊めてくれ、米と千円を持たせるが足りなければ創元社小林に。帰る時君も来たらどうか。(八木)
2月、「西山日記」(「疎開日記」)を『新文学』(全国書房)に掲載、『まんじ』を新生社から刊行。
初旬、文潮社嘱託の水上勉(29)、宇野浩二の紹介状を持って訪れる。『名作現代文学』に「愛すればこそ」を貰うため。末永と共に「蘭」へ行き近衛秀麿(50)に会う。
8日、立川曙町の山中美智子宛葉書、いちいちお礼に及ばず、皆様病気とか。四五月には上京。
15日、『まんじ』について、『東京新聞』に、完本伏字なしと広告にあったが伏字部分が復活していないと、杉並区の近藤良貞より声欄に投書、谷崎はこれに答え、読者を誤る広告であった、と答える。
18日、松子から初子宛、月一度泊りがけで教えに来てほしいと谷崎が。
20日、志賀より書簡、『世界』に創作を書いて欲しい。
3月から23年10月まで「細雪・下巻」を『婦人公論』に連載。
3月、「西行東行」(「疎開日記」)を『新潮』に、「飛行機雲」(「疎開日記」)を『花』(新生社)に、「熱海ゆき」(「疎開日記」)を『新世間』(世間社)に掲載、『お国と五平他二編』を国際女性社から刊行、表紙は樋口。多田、武智、安宅英一、林秀雄、北岸祐吉、沼艸雨、大西重孝、渋谷武雄と座談会「“吉田屋”検討」を『観照』(観照社)に掲載。
8日、松子から嶋中宛書簡、健康を回復したことは喜ばしいが、西山の家を失ったことや失意についての慰め。長男晨也死去のことか。
24日、荷風より書簡、過日熱海よりの手紙全国書房主人持参、留守にて小西氏代わりに映画台本の件は断ってくれた、今後も断りを願う、細雪完成と小瀧から聞いた喜ばし。
26日、『細雪』中巻を中央公論社から刊行。松子から初子へ速達葉書、嬉しく会場で会いたい、封書では検閲にかかるので葉書。
4月から6月まで、談話「幼年の記憶」を『新文学』に連載。
この頃、久保夫妻、吉田牛ノ宮に古書店「春琴書店」を開く。
菊原初子が来る。
6日、一家で発熱。
7日、松子より初子宛、会えて嬉しかった。毎日泊まる人があって大変。
12日、松子熱が下がる、明と三人で金剛能楽堂、六之丞の八島、宝生重英の杜若、茂山忠三郎の朝日奈、六郎の道成寺、途中松子帰る。恵美子は尼崎に泊。(「京洛その折々」)
13日、十三詣り。平安神宮、粟田口大塚で休憩、知恩院前から円山、清治と恵美子帰宅、信子も来る。
15日、嶋中宛、細雪原稿、使いの青年(末永?)に持たせる、完成の折は上京。松子重子清治で若王子から疎水の桜見、銀閣寺へ、高折家訪問。
16日、午前祇園グランドで「アメリカン・ラプソディー」の試写会、途中で帰る。 17日、和辻夫妻に招かれて醍醐三宝院、茶を立ててもらう、その後清流亭。
19日、山口、庄司夫人、松子と御室広沢の池を経て渡月橋へドライブ、帰宅すると東宝の豊田・八住・田中ら『細雪』映画化のことで来る。上映料六万四千円、先の面々に明夫婦、恵美子清治と平安神宮。
21日、国井夫人(市田やえ、38)、高折妙子を飛雲へ招待、四条木屋町の萩原正吟宅で繁太夫の鳥辺山など聴く。
23日、重子松子恵美子で御室、北野、四条烏丸、ちょっと映画、一枝来る。
24日、松子より初子宛、同行の方と一緒でないといけないのでしょうね、こちらへ来てもらいたいが。 25日、創作集原稿を新生社に送る。版画院の品川、和田三造(65)の使いで来、お琴と佐助の絵持参。
26日、松子と市原の栗林氏方へ、一枝いる。帰ると妹尾、泊。
28日、奥村武雄、ついで菊原初子来訪、古曲を弾く。奥村富久子(27)も来る。富久子は昭和二十年、男児を残して夫と死別、能楽師を志し、梅若猶義に入門して修業していた。谷崎は謡を、松子は仕舞を習った。
29日、天長節。初子を囲んで地唄琴など聴く、樋口富麻呂、富久子来る。渡辺夫妻結婚記念日。
30日、国井やえを訪ねて恋愛のことなど自白を聞く。奥村を招く。
5月、「三月十三日の記録−−昭和二十年春の日記より」を『読物時事』(時事通信社)に掲載。全国書房より『私−短篇集』刊行。
1日、市田氏庭園を見に行く。夜先斗町鴨川踊り、見るに耐えず。
2日、金剛能楽堂で落合太郎三高校長就任祝賀能、落合とは数十年ぶり。千五郎、桜間金太郎ら。
3日、第一ホテル土屋宛書簡、お手紙拝読、半月ほど流感で臥床返事遅れた、銭氏はまだ在京か京都へ来てほしい、住所知らせてくれ。
4日、井上金太郎、松竹の日比来訪、大阪歌舞伎座のこと。
5日、大阪歌舞伎座で「無明と愛染」上演、寿三郎、富十郎、簑助。細雪訂正箇所を小瀧に通知、国井やえから着物を貰う、日銀京都支店長谷口孟、津島寿一手紙を持参、増田氏、綾村坦園の印刻「潺湲亭」持参。「この日一日の出来事は小説になるべし」。
6日、津島宛書簡、手紙懐かしく、そのうち上京する、谷口明後日上京と聞いたので手紙を託す、細雪上巻ともう一冊拙著を送る、細雪残りは書肆より直接。同日、世田谷区深沢の中之庄谷三次郎方山中美智子宛書簡、先般は結婚の写真ありがたくあなたが美しく撮れていると噂、短編集一冊送った、細雪中巻は特装版ができたら上巻と同じ番号のもの送る、近々勝山へ荷を取りにゆくそうだが途次寄ってほしい(寄らなかった)
8日、細雪上製本を富久子に届ける。左京区永観堂町富久子宛書簡、先日は着物姿拝見嬉し、細雪上巻を持たせる、中巻は特製版を印刷中、着物のことでいずれ松子行く。長田幹彦『祇園』の序文を書く。国井やえ誕生会で縄手の天ぷら屋、和辻夫妻、春日とよのところ。
9日、婦人公論五月号原稿、全国書房の「二月堂の夕」「母を恋ふる記」校正。
11日、これより先、松子が若い医師・山口を連れてきて血圧を計ると二百十以上あり、この日和辻春樹夫人、京大の辻医師を同道、診察を受け、投薬、安静を命じられ、「細雪」下巻の執筆も中断する。
12日、春日豊(とよ、小唄演奏家、67)来訪、春琴抄の小唄聴く、磯田又一郎来るので豊に紹介、橋本節哉、宇佐美佐藤を紹介、銭の使いなり、西田秀生来訪、来客多く静養どころでない。
13日、田中秀吉、川田順、和辻夫人来る。松子から水島芳子宛。塩の手配をする。美恵子は行きたいと言ったが汽車が不安で止めた。
14日、母の祥月命日、松子らに清水寺で回向して貰う。松子より水嶋芳子宛書簡、恵美子は勝山行きを楽しみにしていたが遠いのでとめた、贈り物のお礼、谷崎の高血圧のこと。
15日、信濃町長田幹彦宛、『祇園』(10月刊)の序を送る。
19日、富久子病気見舞い。「富久子さんの衣裳本日は平凡なり」。
20日、辻医師来る、血圧190まで下がる、なお安静。北野恒富死去(68)
21日、新聞で恒富死去を知る。
22日、吉井来る、松子は樋口、末永と北野方へ、苦しんで死んだこと、最後の作品のことなど。
25日、山口光円曼珠院門跡晋山式に出席。天台学僧で昨秋今東光に紹介された。
30日、林達夫(52)が中央公論の社長専制を批判する文章を配布。
6月、『観照』で「山城少掾を囲んで」林秀雄、沼、大西、多田、武智、北岸。全国書房より『刺青』刊行。
1日、初子の鐘が岬を聴く、富久子来訪、午後九時からラジオで「蘆刈」、3日から帝劇で三日間上演の久保田万太郎脚色の舞踊劇、吾妻徳穂夫妻、宮城道雄、富崎春昇作曲。
4日、林達夫、中央公論退社。
6日、明は進駐軍勤務が決まる。一家に富久子渡辺夫妻で宇治まで遠足。
9日、新村出・川田順・吉井勇と京都大宮御所で天皇と面会。入江相政侍従(42)、大金侍従長。その後、吉井と四条上ル春日で春日豊と会う。
同月、菊五郎が大阪歌舞伎座出演で西下、君太郎夫人、三津五郎、二世西川鯉三郎(39)らを交えて話す。道成寺を観る。
16日、中根宛書簡、病気とは知らず失礼、創刊号なら何か書きたいが、先日陛下に面談、その日の日記を修飾して載せようか。
7月、荷風、清水嘉蔵経営の扶桑書房から『問はずがたり』を刊行。里見、久保田、藝術院会員となる。
1日、『細雪』執筆再開。末永、秘書兼務で全国書房に勤める。
2日、志賀より書簡、田鶴子(三女)結婚お祝いの品お礼、昨日「細雪」中巻届くお礼。東京では落ち着かず伊東あたりにいい場所ないか云々。
3日、与野の江藤喜美子宛書簡、菊五郎にお灸を勧められて昨日からやっている、菊五郎と会った話、天皇拝謁の日記を発表しようかと思ったが陛下の記事で原稿料を稼ぐのは勿体ないと思いやめた。大塚(新生社長か)は「まんじ」の出端を挫かれてしょげている。
4日、井上金太郎、小津安二郎(45)来訪。
8日、富久子来訪、新しい面の漆にかぶれたと。面は富久子の顔に大きすぎる、祇園長刀鉾の稚児の話など。五所平之助『今ひとたびの』封切、観て愚劣だと思う。
9日、嶋中宛書簡、先般の林達夫事件で心痛ではないか、この二三ヵ月稿料収入絶無困惑、八月号に何か創作書く条件で五万円ほど拝借したい、持参の青年に。
11日、明、祐天寺の家を売る。
16日、昨日の東京新聞到着、吉井の谷崎宛書簡体劇評あり。
19日、富久子来訪、灸は効果ないのでやめる。
23日、富久子来訪、隅田川と砧少し聞かせる。「女人の謡曲をききしはこれが始めてなり」。
24日、誕生日、祝いは二日にわたる。(以上「京洛その折々」)
27日、嶋中宛書簡、その後また健康悪いと聞く、こちらも春から体調悪く、しかし今月始めから細雪は執筆再開、小瀧に送った。
30日、川田・吉井・新村と自宅で『小説新潮』のため天皇拝謁のことを語る企画あり。幸田露伴死去(81)。
8月1日、川田より書簡、谷崎が考えていた市原野別墅について。
9日、吉野の辰己長楽宛書簡、近況、一度再訪したい。
里見紝が来ていると聞いて会いに行く。掌療法をやってもらうか。
11日、代筆で鎌倉市雪の下小島政二郎(54)宛葉書、先日は和敬書店から問い合わせ恐縮、掌療法を試みたが血圧変わらず。
数日後、辰野隆が来ていると野村徳七別邸碧雲荘から使いが来て松子と出掛け、宴会、松本さだ、玉葉、屋壽栄など。ここで高島屋社長飯田直次郎と話し、阪大内科部長布施信良(59)の新治療法について聞く。
翌日、飯田が自動車で松子を阪大へ連れていき布施に紹介する。
15日、小瀧、荷風を訪ね、嶋中が戦犯ではない点についての嘆願書へ署名を求める。谷崎も加わったか。
19日、松子と汽車で大阪、上方舞の名人小幸こと藤原うめ経営の小幸旅館に休憩、のち阪大の布施を訪ねる。小幸へ帰って休んでから新京阪で帰る。以後たびたび布施の治療を受け五年ほどで快癒。(「高血圧症」)
9月、『磯田多佳女のこと』を全国書房から刊行。『小説新潮』で川田・吉井・新村と「天皇陛下の御前に文学を語る」。三宅周太郎との対談「歌舞伎と菊五郎」『新文学』
1日、土屋宛書簡、高血圧でこの夏は意気地なく、銭氏に潺湲亭の印を頼む印材は別便で送る、上京後嶋中が一席設ける。
7日、荷風より書簡、体調次第によし、細雪卒読昭和の代表的名作なり、吉井あたりから聞いたかと思うが小西方へ移ってから大島の娘十五歳が蔵書を売り飛ばす事件あり。
同月、恵美子(19)を谷崎家の次女として入籍。
25日、土門拳(44)が肖像撮影。
30日、木場悦熊宛書簡使者持参、恵美子入籍の手配のお礼。四代目柳家小さん急死(60)
10月、「幸田露伴追悼講演会に寄す」(朗読原稿)を『新文學』に掲載。辰野隆『谷崎潤一郎』、イヴニング・スター社より刊行。初の谷崎に関する単行本。
2日、宮本信太郎、中央公論社取締役。
16日、『新文學』のために志賀直哉と対談。
23日、嶋中宛書簡、先日長谷川君来訪、新聞を見ないので知らなかったが社内ごたごた貴殿の進退、健康に影響せぬよう願う、また溜まった稿料振込願う。
11月、「細雪妄評」荷風散人、『中央公論』に掲載。『細雪』により毎日出版文化賞を受賞。
同月、東京劇場での忠臣蔵の通しを久保田万太郎と隣席で観てから対談。
2日、大仁ホテル志賀より書簡、先日は大勢でおしかけ、四五日前から上司海雲とここに。
8日、熱海から与野の笹沼邸へ。
10日、市川の荷風宅を訪ねる。新潮文庫より『痴人の愛』刊行。解説・本多顕彰(50)。
11日、市川掬水で荷風、辰野と鼎談。
16日、多田嘉七と電話で話し、恐らく講演を断る。
17日、江戸川乱歩(55)が訪ねてくる。
18日、多田宛書簡、『観照』11月号見ると29日自分の講演広告に驚く、これなら29、30両日出席せぬ方がよくそれまでに周知、でなくとも次号で断り入れてほしい。この件で武智、謝罪に行く。
26日、嶋中長男晨也死去(26)。世田谷志賀から葉書、対談やめては編集できぬと電報貰い手を入れて渡す。散々話した後のものだから面白くない。奥様によろしく。
27日、乱歩より横溝正史宛書簡で、旅から戻った、谷崎に会ったとある。『週刊朝日』30日号で辰野の連載対談「忘れ得ぬことども」に出る。
28日、断絃会主催富崎春昇演奏会の稽古を聴きに行く。
30日、米国で山川浦路死去(63)。
12月1日、奥村富久子、室町の金剛能楽堂で初シテの羽衣を舞う。新村招かれて出席。 2日、荷風より書簡、先だっての感想はただの漫評いずれしっかり書く、昨今の若い評論家は小説を読んで嬉しむことを知らず嘆かわし。
3日、新村より先日の礼状。
9日、衣笠貞之助監督『女優』封切、観て土方与志の島村抱月に感心。
12日、新村出より、「瀬名の方」切り抜きおよび書簡、「築山殿のこと」。
14日、四条「ちもと」にて菊五郎に会う、20日の会に三宅周太郎を招いてほしいと言われる。
15日、多田宛葉書、三宅のこと頼む、住所。
16日、志賀宛書簡、新聞で直吉氏結婚のこと知った、いずれ伊豆方面へ避寒のつもり、新村手紙同封。
21日、神奈川県川崎市野村順三宛書簡、野村先生のことはよく覚えている戦争中熱海の町で会った、脳溢血軽症と聞いて喜ばし、年末より伊豆方面。
26日、京都を出発、伊豆長岡に来る。沼津で大和館の清水富久子(後ブリヂストン社長石橋夫人)が出迎える。
30日、横光利一死去(50)。
31日、長岡の気候が悪いので熱海の第一ホテルに投宿。
この年、文潮社の名作現代文学として『愛すればこそ』、新生社より『青い花−谷崎潤一郎短篇小説集』、全国書房より限定版『お艶殺し』、春陽堂文庫より『刺青−他六篇』刊行。