(写真は谷崎二番目の妻・古川丁未子)
1932(昭和7)年 47
1月4日、佐藤豊太郎宛年賀封書。
13日、大阪の神社で、後藤和夫の媒酌により、小林せい子、和嶋彬夫の結婚式。永井龍男(28)が招待状も送っていないのに出席したという。
19日、「私の見た大阪及び大阪人」を『中央公論』2月号に掲載。
25日、嶋中宛書簡、盲目物語出版楽しみ、誤字一つもない筈、中央公論原稿25枚送った原稿料お願い。
26日、雨宮宛書簡、吉野紙足りないとのこと、せのやから送らせる。
2月、『盲目物語』を中央公論社より刊行(奥付5日)、題字は根津松子、口絵の北野による茶々のモデルも松子。
4日、雨宮宛書簡、吉野紙もういいなら発送止める。
6日、兵庫県武庫郡魚崎町横谷川井五五〇に転居。「そして妹のお須恵も東京から戻つて来、娘の鮎子も当時少し健康を害して学業を休んでゐたのが保養のために帰つて来」(「初昔」)
10日、佐藤豊太郎宛書簡、作品三顆届いたお礼。鮎子は快方に向かう。中根宛書簡、神戸又新日報社主筆岡成志を紹介、同君が「女心風景」という原稿を持って出版の相談に行くはずよろしく。
3月、「倚松庵十首」を『古東多万』に、「倚松庵詠草」を『スバル』に発表。
同月はじめ、草人が三ヶ月前に結婚した三田直子(29)を連れてくる。松子とも会う(三田)。
同月、同町横谷西田五五四番地に転居、以前の家とは数十メートルも離れていない近所で、根津家も別荘を手離し、夫の放蕩生活のために別居することが多かった松子もこの折、隣り合わせに家を持ったので、両家は垣根越しによく往復した。清治は10歳,恵美子は4歳。
宇野千代(36)と東郷青児(36)が訪れ松子の地唄舞を見る。
この月(大谷)、左手首に瘤ができ、若いころの梅毒の後遺症たる動脈瘤ではないかと恐れ、一ヵ月ほどたって、阪大肺癆科部長の今村荒男(のち阪大総長)の私宅を訪ね、明日大学へ来るように言われて死の覚悟をするが、脂肪の塊で、帰宅して妻に話す。
25日、雨宮宛書簡、吉野紙請求書が友人宛来ている。
26日、妹尾夫妻宛書簡、金は根津に渡した故すぐにも樋口へ行ったがよかろうと思ったが同道したいと言われ自分は多忙で二、三日後でなければ出られず、東京から今日佐藤龍児来訪、辻潤発狂の由痛ましく、詳細は東京へ問い合わせ、佐藤夫妻は来月十日過ぎ下阪。
この春、道成寺、根来寺、観心寺、天野山等の桜を見て回る。
4月、中戸川「谷崎潤一郎氏に就いて」『文藝春秋』「私の見た大阪及び大阪人」への直木の反駁に対して谷崎を擁護。
14日、創元社和田有司宛書簡、本日から一晩か二晩泊まりで紀州へ花見旅行(佐藤夫妻と一緒か)、帰る時分には本できていると楽しみ。
15日(奥付)、『倚松庵随筆』を創元社から刊行。
17日、矢部、『倚松庵随筆』を持参。
18日、嶋中宛書簡、先日佐藤観より英文学翻訳物の依頼を受けたが多忙故断った、税務署から家財差し押さえられ困却、三百円前借り願う。過日上京の折りはまず千円を返してくれればとのこと故、何か書く云々。『武州公秘話』が単行本になれば売れる筈。
29日、中根宛書簡、先日は訪問云々、約束の原稿執筆中、題は「お栂」で明治末から現代に至る大阪の下町を舞台にした大切な材料、本日山本実彦来訪、政治は諦めて社のほうに出精とのこと。
5月8日、志賀宛書簡、4月中に春夫と一緒に伺うつもりが、千代つわりのため延期、あと一ヵ月もたてば旅行はできるそうなので6月中には佐藤夫妻来阪か、その節は伺う、九里も東京へ帰り関西の仲間が減って寂しい、例の厨子家の管理人が不在で鍵を借りられず延引、近日妹尾から送るがそちらの絵図を紛失したので、絵図と住所を知らせよ。
9日夜、妹尾を訪ねる。
10日、妹尾宛書簡、昨夜佐藤夫妻来阪6月と言ったが鮎子への手紙には今月十日過ぎとあり聞き間違い、すると信楽行きもとりやめ、できれば佐藤とともに志賀を訪ね志摩の草人別荘へ回りたく、同道できれば嬉しい。
11日、妹尾宛書簡、昨夜小石川より来書、佐藤来阪は本月二十日過ぎの由それなら信楽も行けるが二十日迄の急ぎの仕事あり、やはり延引。
13日、チャップリンを神戸港へ出迎えるために西下した草人が葉巻の吹かしすぎで吐血、神戸オリエンタルホテルで静養、谷崎が行って直子を電話で呼び寄せる。城戸四郎にも手紙。この手紙を小津安二郎が貰って表装しておいた。
14日、チャップリン来日、草人神戸港へ出迎える。
15日、精二宛書簡、末の子供はこちらで引き取ることになったが、籍は入っていないので末の私生児として届ければいいのではと弁護士の意見、その後小松川へ養子にすればよし、自分の子とすると男子がないので後々面倒か。手続き頼む。末は自分の籍に入れてあるから子供も一旦は自分の家へ入れることになる。家庭の方はその後如何、伊勢のことも年内には運ぶと思う。
草人倒れ、オリエンタルホテルで静養、谷崎見舞い、直子を呼ぶ。
19日、正宗白鳥「谷崎潤一郎と佐藤春夫」を『中央公論』6月号に掲載。
20日過ぎ、佐藤夫妻来阪。
27日、中根宛書簡、手紙見た、この前の手紙で全部大阪弁は困るとのこと、それはよいけれど今度は題名を変えよとのこと、そう度々注文をつけられると困る、「お栂」は『日の出』には高級すぎるので、通俗的短編を送る、29日には脱稿できるから、「お栂」は返送願う。(これで送ったのが「二老人」らしい)。
31日から三日間、帝国ホテル演藝場(第八回新劇座)で「愛すればこそ」上演。第一幕だけ、里見紝演出。
6月1日、精二宛書簡、末の籍のこと、自分の家のあととりにされては困る。
この頃、谷崎が情人と心中したと流言、新聞記者が訪れ、横浜のバーのママの口から千代・精二にも聞こえる。
14日、妹尾夫妻が来訪か。
15日、妹尾夫妻宛葉書、歌一首、昨夜はとんだ余興が入り失礼。
18日、同、先日の歌は不出来につき近日短冊にして送る、四首。佐藤春夫・御一同様宛同じ葉書。
19日、「正宗白鳥氏の批評を読んで」を『改造』7月号に掲載。
21日、中根宛書簡、「二老人」を『新潮』に載せるのはやめてほしい、「お栂」の件では干渉されて嫌気がさした。「二老人」はあまり上出来ではないから『日の出』ならともかく『新潮』は困る、何なら『新潮』に連載評論を書いてもいい、『日の出』に「お栂」を載せてもいいがこれはもう少し待ってくれ。『日の出』の編集者の意図が分からない。
雨宮庸蔵、出版部長に転じる。「中央公論」編集部長は荒川竹志。
30日、千代から妹尾君宛書簡、谷崎自殺の虚報に驚いた。
7月、『新潮』に武者小路実篤「谷崎潤一郎論」。根津一家は西青木の茅屋へ移転。ゴルフ場のそば。
28日、嶋中宛書簡、承知、創作は書けないが随筆を書かせて貰う云々。
8月、『国語と國文學』に、近藤忠義「『蓼食ふ虫』−−一般に作品の評価の基準についての断想」および湯地孝「谷崎潤一郎氏の藝術を思ふ」。初の学術論文。
10日、嶋中宛書簡、27枚送ったあと五十枚くらいでケリをつける、十月号一括掲載願う。至急原稿料頼む。幹彦と京都で遊んだあたりまで書きたいが続編として書かせてもらえるか。「青春物語」当初は短く収める予定だったらしい。
この間、下阪した嶋中に会ったらしい。
14日、御影から松子に手紙。
15日、松子宛書簡、昨日あれから帰宅して丁未子に打ち明けたら了解してくれ、自分はとうてい松子に叶わないが、今後も兄妹のようにしてくれとのこと、泣かされた、松子に会うのは感情が静まるまで待って、来月東京へ行って白髭と一緒に暮らすとのこと、では明日16日伺う。(「湘竹居」)。
16日、松子を訪れる。
17日、じいやに松子宛手紙を託す。
19日、「青春物語」を『中央公論』9月号に掲載。松子宛書簡、丁未子は元気だが時々涙ぐんでいる、どうか鷹揚に構えていてくれ、明日は昼丁未子がダンスに行くので夜伺う(「湘竹居」)。
20日、嶋中宛書簡、「青春物語」は続編を「若き日のことども」として欲しい、また丁未子の友人は白髭ふき子といい近日名刺を持たせますのでよろしく。
25日、博文館・水谷準宛書簡、原稿十七枚に添えて、「武州公秘話」は後三、四回書かせてもらい、一旦打ち切りで続編を書かせてもらえまいか。
28日、木場夫人宛書簡、娘の縁談のこと、昨夜根津夫人に会って相談、あちらの調査をもう少し続け、会ってみる。森田家では先日赤ちゃん誕生。
30日、嶋中宛、これから京阪遊蕩時代に入るがそちらを「改造」へ回せないか。また岡成志の原稿送ったのでよろしく頼む。
9月2日、松子宛恋文、先日帰り道に松子と重子に会ったが急いでいたので話す暇なし、自分を主人の娘と思えとのお言葉、私はそう思っております、一生あなた様にお仕え申します、『盲目物語』のモデルはあなた様、五日か六日の午後には伺います、今日から御主人様と呼ばせていただきます。嶋中宛、確かにその通り、しかし「改造」記者が催促に来たので苦し紛れに。
8日、嶋中宛、「改造」へは別の短編を考える。単行本は分量が足りない。岡氏のことよろしく。
11日、佐藤豊太郎宛書簡、今朝皆様無事安着、保子様わざわざ鮎子をお送り下されありがたく、昨日小石川より手紙、貴殿上京の節同伴下される旨、本来当方より迎えに参る筈、鮎子もすっかり丈夫そうにて。
13日、松子、鮎子と一緒に映画を観、食事か。
14日、精二宛書簡、末の始末について(精二注)佐藤からも書面到来、こちらへは出先から丁未子宛絵葉書来る。伊勢から病状の知らせあるか、相変わらず貧乏、来月千代初産。松子宛書簡、昨夜のこと、親子してご主人様のお供をしているような気分、歯が腫れ上がっているが写真を見ると痛みも忘れる。
15日、吉井勇宛、『スバル』への随筆「い松庵詠草」を書留で送る。
16日、松子宛書簡、ようやく雨があがった。歯科医で二箇所切ってもらってすっきり。18日日曜昼間伺い相談する。同日西村、妹尾、丁未子は神戸の船のダンスに行くとか(八木書店)
18日、松子を訪ね相談か。
19日、「若き日のことども」と改題して、『中央公論』十月号から翌年三月号まで連載。
23日、丁未子家出、妹尾宅に行き、電話来たらしく、妹尾夫人宛書簡で挨拶。本日鮎子より電報、佐藤がまたワイアヘアの仔を欲しがっているが如何。
同月、恵美子が木津家養女となる。
10月6日、松子から、心がぐらついていると叱責されたらしい。
7日、松子宛詫び状、わがままを言うだけ育ちの良さがよく分かりますます気高く見えますどうぞ茶坊主のように思っていじめてください。ただ暇を出されるのは恐ろしいです。
9日、松子宛詫び状、もうご機嫌は直りましたでしょうか、お写真を見ているとまだ叱っていらっしゃるようで、ご立派な御気風に合うよう努めます云々(「太陽」)
14−16日、遠足。
17日、妹尾を訪ね、丁未子との離婚、松子との結婚について相談の様子。
18日、妹尾夫妻宛書簡、松子と結婚するにしても当面は結婚の形をとらず、また丁未子にも確定として話さないほうがよいか、清太郎の心中もまだ不明、森田家で承諾するやも不明、丁未子へはどう話したらよいか、しかし丁未子との離婚が大前提(丁未子に話したことは妹尾には言っていなかったか)。鮎子宛書簡、明日東上、調べもののため江州に一、二泊して22日までには東京へ行く。
19日、上京に当たって途中まで松子とともに行く話になり、松子が清太郎に相談すると、二人は困るので重子を連れていってくれと言うので、松子、重子とともに大阪駅を普通急行で発ち、彦根駅で降りて宿をとり、深夜松子と同衾していると、臨検にあう。「蘆刈」を『改造』11月号に発表、12月号と分載、挿絵は北野。
20日、姉妹は引き返し、谷崎は上京、千代の出産を待つ。松子宛書簡
23日、草人留守宅(斜楓荘)に一泊。松子宛書簡、
24日、佐藤春夫方から妹尾宛書簡、これから輝青年のことにつき蒲田を訪問の予定、丁未子には出処進退を潔くしてもらいたく、尊敬に値しない人間になってほしくない、せい子などに相談して愛を取り戻そうとするのは悲しむべし、彦根旅行中臨検に会うなど珍談あり。追って書き、今輝青年が来ている。松子宛書簡、草人留守宅で書いている、まだ怒っているかびくびくしている、蒲田スタジオに寄ってから小石川へ行く。
26日、夜行で帰宅。丁未子の君宛書簡、電話と手紙お礼、明後日行く、明日夜草人と帰ってくるそう、いま加藤夫人と岡帰宅、後藤と和島夫妻で歓談。
27日、佐藤と千代の長男・方哉誕生。草人を伴い帰宅。
11月、「武州公秘話」完結。『社会及国家』に「むかしばなし」寄稿。
3日、志賀宛書簡、方哉誕生のこと、通知遅れた詫び、東京で笹沼一家と九里の所へ試食に行ったがあまり料理感心せず。今年は伺えない。
4日、嶋中宛、続き送る。なお最後の部分を勝手に組み入れたようで、今後は原作者の承諾なくそういうことはしないでくれ。
8日、松子宛恋文、先日丁未子がお目にかかったそうで、『蘆刈』のヒロインは御寮人さまを念頭に、挿絵は樋口に頼んで御寮人さまに似せてもらいたく、いずれ豪華本にして表紙にお着物の一部をお借りしたく、いずれ何年以後の作品は御寮人様の息が掛かっていると発表したく。
大阪付近陸軍特別大演習。
10日、松子宛恋文、先日は末が頂戴ものをありがたく、京都のおばあさんは毎日子供に馴染んでおり、森田詮三様立ち寄り下さいましたのに朝で寝ておりまして失礼を、いずれ森田様へ参上してお姉様に面会したくその節はご同道ください、帰りにまた心斎橋でも散歩したく、恋愛事件が起こっても筆が捗るのは不思議、丁未子は二十日頃からしばらく東京、あと二、三日でお目にかかれます。大演習早く終わってほしい。
15日、佐藤宛書簡、方哉誕生を祝って『古事記』正哉吾勝勝速日天之忍穂耳命誕生の一節、ならびに和歌二首。
23日、改造社佐藤績宛書簡、先日はわざわざ光来ありがたく、『新青年』はその後半年くらい休載にし、まず「お栂」を十八枚別便で送りましたが、『日の出』へ代わりの原稿をやるまではご内聞に、十八枚分原稿料前借りしたく早急にお送りください。
30日、妹尾宛書簡、全部そばの話。北野恒富宛書簡、『蘆刈』単行本の口絵や挿絵は、松子に似せて書いてくれ、と指示。
この頃までに鮎子と龍児の婚約の話出、佐藤豊太郎の発案とみる(「初昔」)
12月始め、魚崎町の家を払って、武庫郡本山村北畑に移転、妹尾家のそばか。
6日、嶋中宛書簡、「若き日のことども」正月号分郵送した、これはあと二回、三百五十円借用致したし、また『改造』へ約束の長編を書く前に現代の上方を舞台にしたフランス風心理小説「波紋」百枚くらいを書いてみたい。妹尾宛書簡、時計は取り戻してくれ、箱書は乾いてから持参する。
10日、留守中丁未子、七面鳥を和島夫婦に振る舞い、谷崎帰宅すると皆酩酊。七面鳥は半分妹尾に分ける筈だった。
11日、妹尾宛書簡、井上正雄『大阪府全志』、第二巻しか持っておらず奥付がない、学校の蔵書で調べてくれ、封入三十円、岡本の家の手金、昨夜の七面鳥のこと。今朝寝ているうちに丁未子大毎社へ行って帰宅時間不明。
12日、嶋中宛書簡、病中にも関わらずご配慮ありがたく、さて稿料云々、今度は印税からの差し引きをなしにして貰いたく、現在創作力充実。
25日、嶋中宛書簡、「波紋」原稿十枚分、佐藤方鮎子に送ってくれ、鮎子はその金で年末終平とともに来阪の予定。
1933(昭和8)年 48
1月11日、岡田時彦の長女鞠子生まれる(後に谷崎が岡田茉莉子の芸名を与える)。
19日、千代より君宛書簡、谷崎家のこと、上京したせい子から聞いて心配している、詳しいこと教えてほしい。
26日、改造社佐藤績宛書簡、「お栂」を『改造』へ回す件で、原稿同封。(細江推定)
同月、佐藤春夫、父豊太郎の古稀の賀にその著『懐旧』を編み出版する。
2月2日、嶋中宛書簡、「蘆刈」の生原稿製本して送った、「若き日のことども」二十五枚送った、あと十枚以上あるが、これで借金返済ながら、六日までに払わないと差し押さえにあう借金あり三百五十円至急頼む、「波紋」で返す。吉井勇に短歌五六首作ってもらって「若き日」の末尾につけられないか。
9−11日、「大阪朝日新聞」に「新聞小説を書いた経験」を連載。
12日、大阪朝日新聞に小倉敬二が書いた「人形浄瑠璃の血まみれ修業」に感心、「春琴抄」に取り入れる。
19日、「『藝』について(改題「藝談」)」を『改造』3月号に掲載、4月号と分載。辰野隆「旧友潤一郎」を『文藝春秋』3月号に掲載。
23日、池長宛書簡、池長が所蔵美術品図録として刊行した『宝彩蛮華大宝鑑』全二巻の寄贈のお礼と称賛、いずれ『蘆刈』を送る。
3月3日、木津ツネ死去。
4日、嶋中宛書簡、返事が遅れたのは「波紋」が失敗したため、その代わりの短編を十日までには出す(「春琴抄」)、随筆も書く。また「若き日のことども」は「藝について」その他を加えて単行本にして欲しく、創元社の約束を断ってそちらへ渡すので、印税は八分でいいから前借りしたく、諾なら至急お送りを。
13日、岡本から嶋中宛書簡、随筆の方を先にとのことだが小説今油が乗っている。この手紙に始めて「倚松庵」と出る。
23日、嶋中宛書簡、「春琴抄」原稿十三枚送った、明後日は土曜なので明日電送願う、なお今後筆書き生原稿は返してもらうことにした。
4月、自筆本『蘆刈』(五百部限定)を創元社から刊行。口絵、挿絵は北野。杉田直樹「処女読本」、婦人公論四月号付録。中央公論編集は松本篤造と佐藤観の二人。
3日、嶋中宛書簡、「春琴抄」十四枚送った、すぐ電送願う。
7日、岡本より精二宛書簡、伊勢のことは気にかかるが既に末の子供も引き取っており金がなく帰国の旅費も今は送れない、まず末の縁談のほうを片づけたい。嶋中宛、若き日のことどもは定価一円五十銭で、最近訪客多く仕事捗らず寺院の一室を借りて春琴抄を書くつもり。
11日、嶋中宛書簡、「春琴抄」十五枚送った稿料至急お送りを、「若き日のことども」はいろいろ写真を入れたい。
17日、嶋中宛書簡、「春琴抄」十九枚送った稿料至急、出来に自信あり。
18日、磯田多佳女より書簡、谷崎が、多佳女、金子竹次郎、岡本橘仙の写真の借用を申し入れたものへの返書、正月の『中央公論』で昔のこと書いたのを懐かしく拝読、私も55歳、返事遅れてすまぬ、三条の店は金子に譲られて、昨日ようやく金子から写真届いたので今日送った、岡本、私のも古いものだが送った、作中に「河東」とあるのは一中節の間違い。中村寿夫様時々来訪。(細江)
松子の紹介で京都高尾の神護寺にある地蔵院(森田安松が友人長田恭介と建立したもの)で「春琴抄」を執筆。
20日、地蔵院より松子宛書簡、無事ご帰館と思う、先日夙川の姓名判断の小川という人に見てもらったら、関西にいるのがよいと言われた、他、根津家のご威光の賛美。
22日、京都嵯峨より妹尾宛絵葉書、落柿舎を再訪した。
23日、京都嵯峨より妹尾夫妻宛書簡、25日ちょっと大阪へ帰って大阪言葉を見てもらう、その夜拝顔26日原稿送る、丁未子にもお知らせ願う。同日嶋中宛書簡、「春琴抄」26枚送る至急稿料、あと五十枚くらいでケリ。
5月、媒酌人(岡夫妻)および友人立ち会いの上、丁未子と事実上の協議離婚が成立し、証書を取り交わす、谷崎は以後自立のメドが立つまで毎月丁未子に百五十円ずつ送る約束、これは妹尾が預かって貯金する。同月、岡は神戸又新を退社。
5日、精二宛書簡、終平のことは東京で苦学してもよし、こちらへ転校して谷崎宅から通えば食費の心配はなし、将来音曲や映画をやらせてもよし、今月中旬上京するからその際三人で話し合おう。
この間、草人とともに吉井勇を相聞居に訪ねる。
15日、吉井勇より速達、電報昨夜拝見、今後も高座郡南林間都市にある。どうぞお出でを(の意、細江)
16日、丁未子は阪神沿線の御影郡家百八番地に一戸を借りて妹ひで子と住むが、新聞記者に発見される。
19日、「春琴抄」を『中央公論』6月号に発表、挿絵北野。
24日、仙台の木下杢太郎宛書簡、『青春物語』の装幀を頼む。
28日、多佳女より書簡、写真返却お礼、来月は北陸のほうへ行く。
6月、「装幀漫談(改題「装釘漫談」)」を『読売新聞』に掲載。
3日、末、京染悉皆屋「張幸」主人河田光太郎と結婚、武庫郡精道村打出宮川に住む。「古くから家に出入りをしてゐた或る商人の近頃つれあひと別れたのと急に縁が纏り、打出の方に店を持つてゐるその人の所へ貰はれて行つた」(「初昔」)
12日、長田幹彦宛書簡、今度『若き日のことども』に写真貸してくれお礼、色々書いているが心安だてと思ってほしい、母堂、令兄によろしく。
17日、岡本から西青木木津ツネ方松子宛詫び状、先日の失礼はお許しください、召使になりきっておりませんで、一日も早くお帰りを、電話待っております。20日までには短編書き上げます。
19日、『中央公論』7月号で正宗白鳥が『春琴抄』を絶賛。
7月、「韮崎氏の口よりシュパイヘル・シュタインの飛び出す話」を『経済往来』臨時増刊新作三十三人集に発表。『新潮』の文藝時評で川端康成が『春琴抄』を称賛。
1日、雨宮宛書簡、「青春物語」についての指示。
12日、杢太郎宛書簡、お手紙拝見、ろざりよ経と鴎外ありがたくゆっくり拝読、春琴抄お褒めありがたし。
同月か? 草人留守宅に谷崎が泊まったとき、直子の蒲団の中で寝ていたという。
17日、森川喜助宛書簡、妹尾の言うとおり近頃多忙訪客は断っていますが近日一寸大阪へ出て立ち寄ります。
19日、『改造』8月号から戯曲「顔世」を十月までに連載、谷崎最後の戯曲。『中央公論』8月号に長田幹彦「京都時代の谷崎君−−『青春物語』を読んで」掲載。
20日、雨宮宛、やはり指示。
27日、嶋中宛、『青春物語』ここだけの話だが装幀が気に入らず、やはり他人に頼むものではない。送金頼む。
8月、『青春物語』を中央公論社から刊行、装幀木下杢太郎、巻頭に吉井勇の短歌。
4日、荷風より『蘆刈』美装本寄贈のお礼書簡。
7日、精二宛書簡、今度鮎子(18)と龍児の縁談が持ち上がり許嫁というところだがそうなると終平が自分の家督を継ぐことになる、今後は終平の面倒は見るが言うことを聞かねば放り出す、終平と相談中。伊勢の件もお前が狭い家へ移ってまでするならこちらも何とかする。「春夫の母に当るお婆さんが、龍児と鮎子との問題をはつきり取り決めるために紀州から出向いて来たのは、たしかそこへ移つてから間もない頃のことであつた」(「初昔」)
11日、和辻宛書簡、返信。立木俊夫自殺のこと始めて知る(恐らく)見舞金の発起人喜んで引き受ける、『青春物語』、鴨の件はやっと思い出した、ドリアングレイのことは鵠沼のお宅でそんな話が出たのは記憶しており、実は大兄の気持ちを測りかねてなるべく触れぬようにしていたが(木村の今の夫人からも苦情あり)、アンダライン云々の語がそんな影響を及ぼしたとは今まで気づかず、そのうち参上面晤。(若い頃和辻が『ドリアン・グレイの肖像』の原書を谷崎に貸したら、ところどころアンダーラインが引いてあった。返す時谷崎は、君が線を引いていないところが面白かったと言ったので、和辻は、自分に文学の才能がないと思い知った)
24日、松子の誕生日なので、青木まで迎えに行く。松子は気管支カタルで具合悪く、恵美子も不調、松子そばにいたいと思いつつ帰る(「湘竹居追想」)清治10歳、恵美子4歳。
同日、サンパウロの伊勢、平次郎の世話で林貞一と再婚。
25日、松子熱あり臥床、谷崎看病す。
9月6日、松子、鮎子、龍児と水無瀬宮へ遠足、新京阪の山崎で降りる。昼食の後車で宇治、平等院を見、船で宇治川に遊ぶ、京都に戻り、寺町の支那料理、愛宕ホテルに宿泊。
9日夜、翌日上京の予定だったが、佐藤のおばあさんが八時半の船で大阪からたつと聞いて急に夜行で上京。梅田駅で新聞記者に悩まされ、松子来なくて良かったと思う。松子は翌朝だと思っている。
10日早朝、松子阪急百貨店で土産を買い駅へ行くとおらず、電話で訊くと昨夜出たとのことで泣く。高島屋で重子と待ち合わせ松竹座でジョン・クロフォードの「雨」観る。谷崎は笹沼方へ泊まる。
11日、松子、信子、ゴルフ場の嶋川信一と海で泳ぐ。
13日、銀座の喫茶店キュペルで荷風を待つが会えず帰る(「断腸亭」)
14日、小梅町の笹沼別邸より松子宛書簡、昨夜電報拝受、座談会に招かれており、小石川から知らせてくるので夜遅くなり失礼。前便青木宛出したがまだ見ないか。経済往来社より文章読本の金を貰うはずだったが同社は最近信用悪く、明日は百円でも何とか都合して送る、終平の身柄も決めるがあと一両日かかる、今度来て東京の気候が悪いことに気づきまた御寮人様に会わないと不安で原稿が書けず、早く帰りたい。
この秋、星ケ岡茶寮で辰野隆と会う(「東京をおもふ」)
15日、『文學界』創刊、十月号。
16日、夜、東京をたつ。
17日、三宮着、松子、重子、恵美子迎える。
19日、「文房具漫談」を『文藝春秋』十月号に掲載。
同月、松子と城の崎、天の橋立へ旅行(「湘竹居」)さらに城崎温泉、松江、玉造温泉、小泉八雲旧居と見て回る。(「芦辺の夢」)
10月8日、萩原愛子、佐藤惣之助に嫁す。
19日、「直木君の歴史小説について」を『文藝春秋』11月号から翌年1月まで連載。この年、改造社から『直木三十五全集』が刊行され始め、書き下ろしとしてその第一、第二巻は「源九郎義経」の上、中巻で、ここまで読んで書き始めたが、それでようやく源三位頼政の討ち死に、中途で下巻が刊行されたが、鵯越えまで。「近頃中村直勝博士の『南朝の研究』が出た」とあるが、同書は昭和二年刊。また三田村鳶魚『大名生活の内秘』(大正十年、早稲田大学刊)に触れ、連載中鳶魚の新刊『大衆文藝評判記』を読んでいる(但し「大衆文學」と誤記)。改造社から『文藝』創刊、11月号刊行。
23日、中根宛書簡、単行本を出すについては、全集を出した際借金の担保に版権は改造社に譲ってあるからかけあってくれ。
11月、舟橋聖一「谷崎潤一郎−−文学と想像力について」を『行動』に発表。
7日、『文藝春秋』編集長菅忠雄宛書簡、前借り願い。
11日、精二宛書簡、この前に一往復の手紙あり、精二が非難したらしい。終平も末もお前の家に住むのを嫌がっている、末の嫁入り先を知らないから祝いようがないと言うが、結婚の際に不手際があり義絶して亭主だけ出入りを許している、お前は伊勢のことばかり言って終平を追い返すのはひどい(これは嫌がらせで、悪かったと精二は注釈している)、お前とは絶交する、今後手紙が来ても開けずに送り返す。なおここに記された末の住所は、武庫郡精道村内出宮川七 河田幸太郎方である。二人とも、伊勢の再婚を知らなかったらしい。
同月、横浜市鶴見町豊岡二八五の上山草人方に25日間滞在、松子も来て、四五日で二人で岡本へ帰る。
12月と1月、「陰翳礼賛」を『経済往来』に分載。終平は大学を辞め、佐藤と笹沼の世話で清元梅吉について三味線を習う。
1日、夜、大森の沢田屋で草人、丁未子と会食。弁護士をたてての慰謝料の相談で草人が立ち会い、丁未子は鳥取へ帰るが、これが新聞に見つかる。
以後草人宅に滞在、年明けまでいる。
3日、新聞が「丁未子夫人離婚」とスクープ。
7日、鮎子宛葉書、新年号で忙しいが一寸行くならそちらも
10日、『春琴抄』を創元社から刊行、たちまち売り切れる。
19日、「東京をおもふ」を『中央公論』1月号から4月号まで連載。「直木君の歴史小説について」最終回で、直木の健康を気づかう。佐藤春夫「最近の谷崎潤一郎を論ず−−春琴抄を中心として」を『文藝春秋』1月号に掲載。
23日、鳥取に丁未子を見舞う。小銭屋泊で年越し。
26日、小津安二郎が草人から谷崎の色紙をもらう。
30日、鳥取市西町四六より丁未子の妹尾夫婦宛葉書、荷物落手、熱は七度ほど。