谷崎潤一郎詳細年譜(昭和20年まで)

1944(昭和19)年     59
 1月1日、熱海で松子、恵美子、清治、なつと元旦。岸沢家女将が安彦を連れて年賀、夕方夫婦で来宮神社に参拝、夜渡邊夫婦来る。(「疎開日記」)
   2日、明が屠蘇を持ってきてくれたので飲む。午後夫婦で泉未亡人方へ年賀、岡田八千代もいて一時間ほど話して帰宅、留守中菅楯彦から北陸の蟹。
   5日、午後菅のところへ、松子は清治と松井氏桃山別荘に、夕方から伊豆山相模屋の小料理屋大濱に案内され一時間程飲む、熱海駅まで行き菅は帰るが、来宮行まで一時間あるので更生車で来宮神社の近くまで来、歩いて帰る。明は一足先に帰宅。
   6日、松子、重子、清治、恵美子歌舞伎座見物に上京、熱海駅から電話あり切符を忘れたからナツに持って来させてくれ、重子が車で取りに来ると、それでは歌舞伎座着は二時頃になり半ばは終わっていると思う。(演目は道明寺、鏡獅子、「人情噺小判一両」)、重子以外は切符なしで入れてくれ、道明寺の中途から観られた。午後から『細雪』続稿、ガス会社来て使いすぎとて封をする、夜古事記読了、8時から吉右衛門の松浦の太鼓の放送を一人で聴く、源吾は海老蔵、其角は八世団蔵。
   7日、終日『細雪』執筆、午後7時松子より来電、都合あり帰宅は明日。高木定五郎、尿毒症の発作で急死。(「高血圧症」)
   8日、『細雪』執筆、午後3時、笹沼から電報で高木の死を知らされる。十時大野方から松子の電話、東京は積雪、恵美子熱を出して帰れず。
   9日、ナツ発熱、谷崎も風邪気味、鮎子から六日付け葉書、八時からエノケンロッパ五郎の放送を聴く。
   11日、朝、来宮発で上京、11時東京着、中央公論社に寄り昼食、嶋中と話す。午後1時から木場で高木の告別式、笹沼、江藤、木村錦花、草風、明に会う。江藤と偕楽園に行き、笹沼の孫登喜子を初めて見る。3時半辞去、東京駅へ。松子、恵美子と落ち合う、重子、明、清治も見送りに。三人で帰る。
   15日、松子と恵美子、西下。午後、重子帰京。
   19日、松子、鮎子から書簡。
  この間、重子が魚崎へ泊まりに来ている間に、明が買ってきた牡蠣をお清と二人で食べ、当たる。
   27日、熱海より鮎子宛速達、衣料切符落掌、百科事典送ってくれたそうで、代金を渡すのを忘れたから同封、偕楽園で百々子を連れてくる時は、前日に知らせてくれれば喜美子の子らも集めて見せ合えるので以後よろしく、佐藤春夫荷風読本が欲しいのだが見当たらず、長期間借りたいので春夫に訊いてくれ。
   28日、熱海より土屋宛葉書、華墨のお礼。同日、雑誌統合で『改造』休刊。
   29日、横浜事件で「中央公論」「改造」の編集者(畑中ら)検挙される。
   30日、終日執筆。
 2月7日、三上於菟吉死去(54)
   17日、午前六時来宮発、午後五時大阪着、クニが来ている、阪神で魚崎。
   18日、信子ちょっと来る。庄司乙吉の紹介で俥で甲南女学校、恵美子の転校につき表甚六校長と相談、受持ちの児嶋教師にも会う、夕刻『細雪』の大阪弁を見て貰うべく松子に見せると流産の箇所あり松子泣き伏す。
   21日、夕方神戸へ出て元町辺散歩、信子に支那料理買ってきてもらうが異臭あり一つも食べられず。明日は国民登録の日。
   23日、夕方松子と越石方に出かけた後、重子から電報にて、きよと明パラチフスで入院の由、直ちに越石方から電話するが重子不在、清治出て、明大分衰弱の旨。
   26日、高級興行物禁止、旅行制限、高級料理屋、待合の禁令、向後一年、三月より徐々に施行。
   27日、森田紀三郎(朝子三男)、松山高校入試のため西下したが大阪以西汽車不通にて立ち寄った、重子の手が罅割れているとの話に胸潰れる思い。
   28日、松子、恵美子、信子と熱海へ出発、7時到着、笹沼から24日付け手紙で、来月3日、犬丸徹三の音頭で孫の節句、来ないか。
 3月2日、竹田方へ荷風より書簡、明後日ご来駕の由待っている。
   3日、恵美子を伊東高女へ送り出してから二人で上京、品川下車、田所美治宅へ行き恵美子転校世話のお礼、省線で新橋、地下鉄で上野広小路、都電に乗ろうとするが大変な行列なので徒歩で帝大病院へ明を見舞う、まだパラチフスと確定せず、夕方重子来、看病の辛さを話す。清は荏原病院に入院中。それから笹沼の孫登喜子の初節句で帝国ホテルの宴に松子と出席、川島海軍中将夫妻、八田三喜夫妻、草風ら。本日戦果ありとの噂。木村錦花『守田勘弥』に寄せ書き。竹田方へ行き、荷風書簡を見る。鮎子は百々子の脚の治療のこと相談。戒厳令が出るとの噂で、出ぬ前に熱海へ移りたいと松子、鮎子ら言う。
   4日、朝十時頃鮎子と同道出発、渋谷で別れ、都電で荷風の偏奇館を初めて訪ねる、化物屋敷の如し、荷風全集および草稿の扱いについて相談、製本された日記を見、午後一時辞去、中央公論で嶋中に会い、松子が来ないので偕楽園、昨日の戦果はデマではないかと宗一郎と話す、戦局の話、東京駅に行くが中央公論へ行って偕楽園に電話、六時過ぎ駅に竹田一家、松子来る、皆で熱海へ帰る。
   同日、宝塚歌劇団が閉鎖、ファン殺到し軍人が抜刀して整理。
   5日、警視庁が高級料理店などを閉鎖させ、偕楽園も休業、そのまま廃業する。
   7日、熱海宛荷風より書簡、全集のことは将来においても望みなきものと思う、貴兄の監視なれば安心、その他草稿のことなど細々、なお死去の際宣伝の如く何々会など催すこと驚愕、鴎外に倣って一切取りやめ願う、老人の愚痴聞いてくれありがたし。
  渡邊明、パラチフスで入退院を繰り返す。
   12日、清治持参の重子宛書簡、明まだ悪い由、アドースという新薬を試すがよし、熱海へ来れば就職の件も相談、恵美子転校の件で小田原高女へ行ってきたが14日には伊東の女学校へ行きその上であなたに相談したい、魚崎ではあなたが留守番に来たら松子恵美子で出てくるという、15、6日頃明と二人で熱海へ来て相談の上結果を持って関西へ行ってくれるとよし、都合悪ければ知らせ願う、何なら自分で魚崎へ行ってもよし。
   17日、午前十時永見夫妻来訪、伊東高女に行き穂積校長福沢女史に面会恵美子のことを頼む、三時頃帰宅、清治は既に帰京、永見夫妻は孔雀風呂に入り夜来て七時頃まで話して帰る。
   18日、夕方清治来る。
   19日、夜中から雪、午前四時半起床、清治と恵美子を連れて魚崎へ。信子と吉村豊之助夫婦来ている。風邪をひく。
   20日、午前、一藤耳鼻科で鼻カタル治療、午後黒瀬夫人と令嬢来て話す。平和になったら京都に住みたいと松子言う。
   23日、住吉駅長を訪ね切符入手、鮎子より来簡、夕飯に和田有司(創元社)を招く。
   25日、大原検校菊原琴治死去(68)。百々子宛手紙、今度猫二匹と犬一匹来ました、猫は永見さんから、雄はペル蘭領パレンバンから来た純血のペルシャ系図あり、雌はペルとタヒチ生まれのペルシャの間に生まれた純白、イチといい皆が「お市の方」と言います、犬は大野さんのところの黒です。アンヨはどうですか早く小田原へ疎開しておいで。
   26日、朝菊原初子から電話で検校の死を知る。午後松子と疎開の挨拶。
   28日、午後吉村夫人、田中富美子来訪、富美子は宝塚閉鎖により退校して帰京のつもりが退校をなかなか認めないとの相談。ハイヤーで出かけ重信方に立ち寄る、五時芦屋川駅で北尾鐐之助(大毎写真部長)、内藤、和田、創元社の招待で吉兆主人湯木の私宅へ。
   30日、書物の整理、北尾来訪、吉村を招き、信子と同居してこの家の後を頼む。ナツ熱海から帰る。
 4月、小滝穆、中央公論社入社。
   6日、荷物をリヤカーで住吉駅へ、午後一時嶋川ら入隊で朝鮮へ出発、久保一枝来る、夕食後和辻春樹(54)宅に招かれる。
   8日、重信政英医師が昨夜急性肺炎で死去と知らせ、松子と告別式。
   10日、重子を迎えに大阪駅に行く、和田と同道大阪の大朝大毎に挨拶、大毎奥村社長と話す、坂野夫人から松子が聞いた重信医師の立派な最期に感服。
   12日、妹尾を訪れ君夫人の墓に詣でる。大朝夕刊に谷崎転居のこと出る。
   13日、午前河田幸太郎来訪、小松川の嫁から半年程実家に帰りたくその間父(万平)を預かってほしいと言ってきたと相談、夕刊を見て井上金太郎(映画監督)ら挨拶に来る。
   14日、近所へ挨拶回り。
   15日、住吉駅から省線大阪駅、汽車で出発、みな見送りに来て別れの涙を流す、6時54分熱海着。
   16日、荷解き、清治朝帰京。
   17日、荷解き、恵美子この日から登校。
   21日、吉井勇から手紙。
   22日、午後、松子、重子と銀座を散歩。
   23日、『細雪』の奥付組み方と扉案を大阪へ送る。
   24日、大阪の役者市川箱登羅死去(78)
   25日、松子、重子、恵美子上京。
   26日、精二宛書簡、今度新夫人慶事の兆ありとよそから聞いたが事実のようでめでたし、関西の家は松子の親戚に頼み一家で熱海へ移った、万平については不快あり、直接送金したくないので媒介頼む今月分同封。
   27日、東京から松子、笹沼喜代子来る。新聞で箱登羅の死を知る。
   28日、中里介山死去(60)
   29日、笹沼も来て、四人で銀座を散歩。
  渡邊明、ライファンを辞め、月給三百円以上で北海道の函館船渠会社の工場現場監督として赴任することにする。
 5月3日、『細雪』執筆再開。
   8日、重子宛書簡、清治から聞いたが明があなたを連れて北海道へ行くというならこちらは松子ともども不賛成、最初は時々あなたが北海道へ行くという話だった、もし無理強いされるなら逃げていらっしゃい。別れてしまえというのではなくそれくらい強硬に出たほうがいい。
   15日、『細雪』中巻三百枚まで脱稿、中央公論社に送る。
   17日、夕方清治来る。夜遅く、森田肇、呉海兵団入団の挨拶に来る。
   20日、森田肇出発、重子上京、夜、『蜻蛉日記』を読んでいると警戒警報。
   29日、荷風より書簡、どこも行くところなくやむなく机に向かい短編小説も二つ作りフロベールなど二度ずつ読んだ、浅草公園ではジャズも禁止、震災後の流行歌も消滅、歌舞伎豊後節もなくなり「不思議の世となり」「世の終りを見届けた」いとそれを楽しみに日暮らし、ヒュースケンは地下にて何と思うか。
 6月6日、創元社小林茂来訪。
   9日、嶋中雄作、取調べを受ける。15日まで。
   15日、米軍、サイパン島上陸。
   16日、明の叔母、松平浪子(徳川慶喜娘)来訪。
   17日、明相談に来るか、百々子を迎えに女中を遣るか。
   19日、マリアナ沖海戦。
   25日、嶋中、胃潰瘍のため築地の南胃腸病院に入院。
 7月2日、熱海より渋沢秀雄宛葉書、著書恵贈の礼。『皇軍慰問』(東宝書店)か。
   6日、上京、中央公論で松林、柚登美枝(42)に会い、病院へ嶋中を見舞い、アカを出したので社長を辞めると聞く、長谷川如是閑も来る。偕楽園に。重子に恵美子を連れてきて貰い二人で帰る。大阪から『細雪』上巻二冊送ってくる。
   (8日、明、単身函館へ行く。と「三つの場合」にあるが、「疎開日記」ではこの後も東京にいるから、8月の誤りか)
   10日、情報局が中央公論社改造社に解散を指示。
   12日、上京、中央公論細雪原稿渡すか、第一ホテルに土屋を訪問、株売却の相談、偕楽園で夕食。竹田方へ行くと終平が来ている、鮎子に早く疎開することを勧める。鮎子一家はこの後小田原に疎開。この年中央公論の小瀧穆(30)と知る。
   13日、渡邊方、明もいて家を売る相談、熱海へ帰る。(「疎開日記」)
   14日、「東条総理ますます不人気にて敗戦の噂とりどりなり」(疎開
   18日、東条内閣総辞職サイパン島陥落の大本営発表
   19日、松子より菊原初子宛、悔やみと慰め。戦火の嘆きなど。
   20日、東条退陣、小磯へ大命降下をラジオで知る。
   21日、土屋宛葉書、20日葉書拝見、株券はなるべく早く売りたい。
   同日、米軍グアム島上陸。
   22日、小田原市十字町三好方鮎子宛葉書、24日月曜阿部ちゃんを藤沢へ見舞いに行き帰途夕刻そちらへ行って持参の弁当を頂く、ちえ子さん百々子によろしく。
   24日、鵠沼の阿部徳蔵(57)が命旦夕とて見舞い、魔術に関する蔵書を見せてもらうが、肺結核でありながら何の配慮もなく一緒に飯を食おうとするので、逃げ出す(「三つの場合」)、小田原の鮎子一家を訪う、帰宅、誕生日なので赤飯。
   25日、永見を訪問、永見来て菊原のレコード、長崎、琉球組、富崎春昇、繁太夫を聴かせる。
   28日、荷風より書簡、脚気気味だが秋になれば治るか、さて中央公論改造社など廃業の由版権紙型等どうなるかご存じないか、最近は青年時代に読んだ洋書を退屈凌ぎに読む。
  『細雪』上巻二四八部を限定自費出版して順次友人知己に配る。宇野浩二など。
   29日、重子宛書簡、細雪上巻ができたのでまっさきに差し上げる、明にも別途送った。これは自分の最長最高傑作、寄贈したい所があったら言ってくれ、創元社小林によるとこれ一冊二百円の価値あり、しかし目立たぬようまだ嶋中にも送っておらず文壇関係を避けて送るつもり、明病気ではないか、恵美子は明日来るが清治と行き違いにならないようしたいと言っている、来月5日には帰るので恵美子いるうちにおいで。一枝宛書簡、四月は見送りお礼、洋服は岐阜に預けてあるがもう着ないので車のお父さんに上げる。細雪上巻送る、これからあなたが活躍する。30日か5日くらいに信子が来る。
  荷風、土屋に「細雪」送る。
   31日、中央公論社改造社解散。中公は大東亜会館で別れの宴。
 8月2日、荷風より書簡、細雪お送りくださりありがたし、自分も書いたもの印行したいが儘ならず。
   3日、玉久旅館土屋へ電話するも不在。
   4日、土屋宛書簡、五冊入用とのことだがあれは大阪で刷ったのであちらにあり、こちらから五氏へ発送するのがよいか、また内山氏へはこちらから送るが上海の住所教えてほしい、株のこと。
   8日、土屋からの書簡、病中とのこと。
   9日、土屋宛葉書、病中心配、細雪はこちらで手配し名刺を挟んでおくが未知の方より実費は貰わぬことにしている、大阪三和信託本店から契約解除の委任状送って来、一刻も早く売却したい。
   10日、尼崎筒井あい方一枝宛書簡、手紙拝見、無事勤めているようだがムリをしないように。   
   11日、渋沢宛書簡、著書面白く読む、かねて日劇のファンで澄川久(歌手、腹話術師)は贔屓の芸能人、『細雪』上巻送るが吹聴なきよう。
   17日、宇野千代来訪(61)、米英軍南仏上陸と聞く。
   18日、川田順より葉書、今年は大文字焼かず、雪の大文字、米英軍パリに迫る。
   19日、谷崎善三郎来訪、夜清治関西より帰る、吉井より来書。
   20日鎌倉市材木座の一ノ木長顕宛葉書、お返事ありがたし、細雪上巻近日お送りする、ただ文壇関係にあまり吹聴せぬようお願い。
   22日、清治持参重子宛書簡、昨日和子さんが蜂須賀邸へ来て細雪所望、重子から貰ってくれと言ったがこれから箱根へ持っていって読むからおいうので清治に蜂須賀まで届けさせた、これは五冊の他にするが五冊は送りましょうかどうしましょう、夏の背広一着清治に託すなるべく早く笹沼へ届けてほしく、明また発熱の由心配。(明はまだ東京か)   24日、志賀宛葉書、細雪上巻別便で送った、文壇方面への吹聴ご無用。
   25日、連合軍パリ入城。阿部徳蔵死去。
   26日、土屋宛葉書、株はその後どうなっているか神戸の方の土地家屋の担保を抜きたくまた納税その他で金要る、細雪五冊発送、磯野という人から礼状来た。
  この後、土屋訪問か。
 『細雪』刊行は当局を刺激し、兵庫県警察の者が魚崎へ調べに来る。その時熱海にいて留守。結局始末書を書かされる。
31日、菊原初子宛、故検校新盆贈物お礼。当地へ義妹らも来る。
 9月1日、土屋宛書簡、金のことなかなか面倒、さて山王ホテル小泉氏に別荘を見せてもらい実に気に入り、是非貸してほしい、重子とその舅七十近い老人だが元気、夫は出征中、上京して拝顔相談したいがその前にちょっと関西へ行って土地家屋の件片づけたい、中旬頃には戻るので他へ貸すことないよう、小切手一千円封入。
   4日、鮎子より来書、東京の荷纏め片づかず、上京する重子に物資を預ける。
   6日、熱海を出発、岐阜で迎えの女性宅に休む。昔浅野屋に来た時の遊廓のように見えたが、女性は藝者だったと言う。7時過ぎ郡上八幡に着き水野宅、備前屋に泊まる。   8日、出発、魚崎へ帰る。信子とアサ出迎え。
   9日、魚崎より土屋宛速達、小切手受納されたか、あるいは既に熱海宛返事来たかも知れねどあと一週間こちらにいるのでこちらへもう一度返事ください。鮎子から来書、熱海へ疎開したい。夜下谷鈴本のラジオ、志ん生火焔太鼓、文楽船徳、円歌木炭車。
   12日、土屋魚崎宛手紙出したか。
   13日、土屋宛速達、住所が熱海になっているが魚崎からか。12日付手紙拝見、手続き完了、静岡銀行熱海支店へ残額振り込みください、病気快方ならばよし。
   14日、魚崎より永田町日本文学報国会中村武羅夫宛書簡、さて名誉理事の件名義のみならば引き受ける実務は御免、日々国家のため働く。
   15日、一枝の肋膜炎診察に付き添う、途中戦時保険を頼む、津田、信子と東亜楼で食事中二階から出火、消防車も来るが、まだ火が来ないと言って津田と谷崎、一枝は食事を済ませてから出ると、子供らから、呑気なおっさんやと言われる。土屋宛速達、早速のお返事ありがたし、熱海別荘はそちらの条件でよしこちらは西山に根拠があるのであまり荷物は運び込まず、株のこと、藤森氏へは細雪発送手続きした、金借りること、関西に雑用多くなかなか帰れず、24、5日まで滞在か。
   17日、台風で高潮。
   19日、阪急で十三、新京阪で嵐山へ行き各寺を回り、厭離庵では庵主に茶を入れてもらう、九時帰宅。
   20日、土屋宛速達、返事ありがたし、一段落、雑用ありまだ十日は滞在、残額870円を送金願う受け取り名義人は嶋川信一(信子夫)。
   21日、松子に絵葉書送る、再び京都行き、吉井宅を訪ねると昨日転居したという、川田順を訪ねると不在、岡崎の吉井宅へ行くと、今日は西本願寺で勤皇僧の供養、菊池寛の講演があるというので連れていかれる。新村出(69)、吉澤義則(69)、菊池らに会う。飛雲閣で座談会があるから出よと言われて固辞、帰ろうとすると荷物が既に飛雲閣にあるというので、ついでに内部を案内される。それから清水参詣、喜志元に寄り、帰宅。
   22日、魚崎より渋沢宛葉書、二度目の葉書本日拝見、会合25日以降に延期との由間に合うように帰るがお構いなく。
   25日、土屋宛絵葉書、昨日小切手落掌、フィリピン方面戦果国民の気分向上、和歌一首。
   29日、魚崎より渋沢宛速達、出発は早くても十月五日、お構いなく。
   30日、創元社矢部良策、内藤某を訪ねる。
 秋、母親が病気だというので、ナツ、帰省。
 10月1日、魚崎から矢部宛速達、昨日内藤から話のあった青谷の土地家屋売却だがいっそあの土地を売ったほうがいいと思い、最低八万円それ以下なら断ってくれ。
   2日、平安神宮
   3日、一枝宛書簡、重信夫人に頼んだので君一人で行って診察受けるよう、今度の小野という呼吸器専門の人にこちらから問い合わせる。    
   5日、土屋の手紙。
   8日、土屋宛葉書、鈴木さんへ細雪発送手配した、来る十日熱海へ帰り一両日静養の上上京。
   10日、熱海へ戻る。
   13日頃上京、土屋に会うか。
   17日、熱海より土屋宛書簡、手のかかるのには呆れた、先日の五千円はすぐ返却、どう送ればよいか、関東配電から別紙のもの届く、なお熱海家屋は東京海上火災に入り云々、家屋の番地は正式には熱海市熱海立石五九八。
   19日、渋沢宛葉書、十日ほど前帰宅、会合は既に終わりと思うが通知する。
   27日、熱海より土屋宛速達、清水町家屋はよし、嶋中に話してみるべくその前に一見したい、ただ六軒に住人あれば立ち退き等面倒か、小澤氏に会えば分かること、別荘は必要あればいつでも明ける住むのは重子と舅、貴下友人で熱海山王ホテルに別荘を持つ秋山氏令息と嶋中氏長女との婚約整ったがご存じか。
   28日、夜重箱で宴会に参加。徳川夢声ほか(夢声日記)
   29日、十時半頃、夢声、久米と軍服工場へ。久米と夢声が講演。小澤に案内され清水町家屋を見る。
   30日、熱海より土屋宛速達、保険契約書の条件に適合しておらず、再検分再契約願いたい、清水町の家は嶋中に問い合わせる暫くお待ちを、内山完造より礼状、上海で短冊の会をすること自分単独で他の作家を入れないなら承諾、何枚くらいがよいか。
 11月、河出書房が改造社から『文藝』を譲り受け続刊。
   1日、大阪大正区一枝宛書簡、先日福井の久保へ手紙出したら帰ってきた、もう出征したか。あなたが寝たり起きたりしているの心配、熱海へ転地してはどうか、久保君の留守にあなたを病気にしては申し訳ない、疲れない程度に葉書くれ、信子にでも行ってもらうか。    
   4日、土屋宛速達、金、保険のこと、上海の会は揮毫に掛かる、宜しく頼むがせめて一万円くらいは欲しい、また歌は同一のものがいくつあってもよいか、色紙短冊の手配頼む、清水町売家について嶋中から別紙返答あり。
   5日、土屋宛速達葉書、行き違いに手紙拝見、色紙の紙調達願う。
   10日、土屋宛書留、色紙十三枚および保険受取証落掌、保険料同封する、戦争保険というものはないか、空襲による焼失はどうなるか。
   13日、西巣鴨鈴木信太郎(仏文学、50)宛絵葉書、細雪中巻下巻は私家版でも刊行困難、紙型だけはある。         
   21日、女中のなつ帰国。
   22日、土屋宛書簡、新しい紙は紙質悪く古い紙は難ありうまく書けずまた悪筆を売り物にするのは初めてにてこの話は無期延期に願いたい。
   24日、B29約70機が東京を空襲、谷崎は防空壕に入りながらもその空中戦を見て、機体および戦争に「美」を感じる。以後空襲しばしばなり。同日、辻潤、淀橋のアパートで餓死(61)。
   25日頃、嶋中来訪、山王ホテルに滞在し、清水町の家を見たいというが小澤が毎日都合悪いと言い虚しく帰る。
   27日、土屋宛二枚葉書、嶋中と小澤の件、面目損じ、そちらから嶋中氏へ一言願う、住所は小石川原町、清方氏へ細雪贈呈の件了解。
   29日、東京初の夜間空襲。
   30日、土屋宛葉書、火災保険証券三万円追加分届くが先般の二万円分はどうなっているか。
 12月、舟橋聖一、愛人伊藤香代とともに熱海来宮下に疎開。親しく行き来する。「細雪」自ら出向いて渡す。
   2日、所々方々で東京の被害甚大なるを耳にする。
   3日、嶋中、鮎子より手紙、東京火災なるが鎮火したと聞く。
   4日、公用(徴兵)のため下里へ帰ると龍児より電報。
   6日、土屋宛速達、先日のものは仮受取証と契約証で、これで五万円の証券になっているかどうか同封するので確認願う。
   7日、東海大地震東海道線不通となる。
   8日、龍児鮎子来る、百々子は百日咳。
   9日、嶋中夫婦令嬢来る。
   10日、汽車開通しないが、龍児出発。鮎子泣く。
   11日、夕飯時に恵美子ショパンノクターンを掛け、松子が懐旧で泣く。
   13日、空襲で一家防空壕に入るなか、細雪執筆を続ける。
   14日、日本女子大学家政学科出身の小嶋啓子、以前貰った短冊を表具、箱書きを貰うために訪問、『猫と庄造』を署名して与える。龍児から、明日輪島に行くと電報。
   15日、小嶋嬢帰る。龍児入隊。
   17日、夜ラジオで松鶴の餅つきを聴き感心。
   22日、『細雪』中巻脱稿、松林に送るが、既に軍当局により印刷頒布を禁じられていた。銀座を散歩し、横井金男『古今伝授沿革史論』を購入。
   23日、荷風より長文の書簡(22日付)、湯屋へ行く様子、洋書購入の様子など「大窪だより」のようなものを試み、返信無用とある。荷風の孤独が察せられる。
   25日、横井著読了。
   27日、土屋宛速達、目下山王ホテルに嶋中滞在中、正月にはおいでください、また重子も来春疎開してくる、別荘を二月頃から貸してほしい。
   30日、文治の「芝浦の皮財布」を聴いて感心せず。嶋中来訪、夜夢声宮本武蔵聴く。     
   31日、精二、世田谷の広津和郎宅に疎開
 この年、精二の次男昭男出生。

1945(昭和20)年        60
 1月6日、荷風宛書簡届く。(断腸亭)
   7日、土屋宛葉書、別荘のこと2月より借り受けるゆえ小泉氏によろしく。大阪の創元社金子達夫宛書簡、細雪中巻までのゲラのこと。
   9日、米軍ルソン島上陸。『細雪』下巻の筆始め。
   15日、松子から菊原初子宛、夢を見た。空襲、郷愁、返せない楽譜のこと。
   24日、土屋宛葉書、武者小路のこと承知。
   28日、笹沼家で千代子、鮎子に会い、六月出産予定と聞く。
 同月、太宰治新釈諸国噺』生活社より刊行、送ってきたので読んで感心する。
 2月2日、土屋宛書簡、先般の爆撃で味の素ビルもやられたのではないか、山王ホテル内別邸拝借につき近々見にゆく、子供は決して入れない、さて印税原稿料月々千円程度は入るが出征者もあり、魚崎の家を売りたいが現在の居住者を追い立てるわけに行かず、熱海の家を抵当に借金願いたい。「戦争もここ一二年」
   4日、ルーズヴェルトチャーチルスターリンヤルタ会談開始。八十五機が神戸埠頭を空襲。
   7日、雪。
   8日、土屋宛書簡、別荘の件承諾ありがたし早速明日にでも荷物運び入れる、武者小路は東京と大仁を行き来していること判明、東京宛依頼状出した、嶋中には三万二千円の借金あり、せめて三万出してくれ、内山夫人死去の報既に知る。
   14日、土屋宛書簡、生活上の忠告ありがたし、嶋中は上京中、18、9日にこちらへ来る、別荘は先日下見、今月中に重子入居予定。
   16日、機動部隊、東京を初空襲。
   17日、土屋宛書簡、武者からは秋になれば柿の絵描くと返事。
   19日、米軍硫黄島に上陸。吉井から来書、富山県疎開したと。
   21日、津島寿一、小磯内閣の大蔵大臣拝命。
   22日、大雪。
   26日、橋本関雪死去(63)
 3月1日、土屋宛書簡、昨日嶋中来て相談今日は既に上京、なるべく質素に暮らす。日本橋三越で愛国百人一首の歌と絵の展覧会あり、大伴旅人の歌の絵を安田靫彦、自分が歌を書かされた。
   2日、嶋中宛書簡、細雪を岩波へ譲渡の件、大体五万円で譲渡、うち三万数千円をこちら残りをそちら、その他。
   3日、岡宛葉書、津山疎開につきその土地について意見聞きたい。
   4日、B29百五十機が東京空襲。
   8日、土屋宛葉書、返事なきゆえ被害ありかと懸念。荷風筑摩書房社長古田晃に会い、『来訪舎』原稿を渡す(断腸亭)
   10日、東京大空襲。その報を聞く、午後伊東女学校へ行き校長に面談。荷風の偏奇館も焼亡。
   11日、東京の被害甚大なるを聞き、土屋、中央公論、先に送った原稿など心配ゆえ上京を決意、松子同行すると言うのを一応止めたが「死なば諸共」。
   12日、午後2時半頃の汽車で上京、来宮フォームで偕楽園焼失を知る、田園調布で犬丸を訪ね、笹沼夫婦はホテルに避難と聞く、夕暮れ時渋谷着、松平邸へ行きあちこち電話、土屋には掛かる、笹沼と電話で話す。
   13日、東京を見て回り笹沼に会う、与野に疎開予定と言う、柚来て近々創元社を辞め大和へ帰ると言う。味の素で土屋に会い、二千円を借りる。嶋中宅へ行き、森田宅へ帰ると、朝子と松子再会の涙、貰い泣き。夜早々に帰宅。
   14日、大阪大空襲、中座、角座、文楽座焼失。「細雪」中巻の組み版も焼け、校正刷りのみ残る。岡本橘仙(78)死去。
15日、松子より菊子へ安否案じる手紙。
   20日、笹沼夫婦、江藤夫婦与野に移る。硫黄島陥落。
   23日、荷風葉書、草稿烏有に帰すが体は無事。岡成志熱海へ訪ねてくる。小林茂に津山疎開のことを頼んだため。心臓脚気で窶れている。
   24日、岡熱心に津山行きを勧め、松平邸に長くいられないなら妻の故郷の月田へ来るよう勧める。
   25日、岡帰京。
   30日、明、重子を連れてゆくために熱海へ来る。
   31日、明、康春、重子来訪。
 同月、嶋中、奈良に転居。
 4月1日、米軍沖縄本島上陸。
   2日、岡成志、月田へ帰る。
   4日、払暁からB29編隊が関東一円を覆う。
   6日、明、重子を連れるのは諦めて一人で帰る。重子松子、熱海駅まで見送る。
   7日、小磯内閣総辞職鈴木貫太郎内閣成立。戦艦大和撃沈さる。
   9日、土屋宛書簡、お尋ね恐縮、抵当権解除につき役所の証明書必要だがまだ降りない、云々。
   12日、ルーズヴェルト急死、トルーマン昇格。
   13日、土屋に会い二千円借りる。東京第二回夜間大空襲。
   14日、土屋宛書簡、熱海の家は松平子爵が買い上げてくれる故先般よりの話はなし、津山へ疎開の件、借りた金返済の話。
   15日、荷物十六個津山へ発送。
   21日、荷風葉書、千駄ヶ谷より東中野へ移転。
   22、23日頃、鮎子、百々子ら長野県佐久に疎開。   
   23日、笹沼夫婦来訪、泊まる。土屋宛書簡、土屋の別荘の件等。
   27日、ムッソリーニコモ湖畔でパルチザンに逮捕される。
   28日、ムッソリーニ銃殺。最後の荷物十五個津山へ発送。佐藤春夫夫妻、佐久着。   30日、ヒトラー、ベルリンの地下壕で自殺。
 5月1日、この家を譲る感慨、松子「都わすれ」の弾きおさめ。ベルリン陥落、ムッソリーニ逮捕の報あり。
   2日、ムッソリーニ銃殺の報。
   3日、ヒットラー逝去の報新聞に出る、後任はデーニッツ提督の由。疎開のため泉、宇野、岸沢、久保田、舟橋などへ挨拶。
   5日、西下の切符なかなか入手できず。佐藤から岩国海軍病院の龍児宛書簡。
   6日、切符ようやく揃うが朝は無理、田岡典夫(38)挨拶に来る。午後九時過ぎの最終準急夜行に乗る。松子、恵美子、重子、さほど混んでいないが、足を捻挫したのが痛みだす。名古屋で皆腰掛けられるが、名古屋は焼け野原。同日市村羽左衛門死去(72)
   7日、朝八時大阪駅着、魚崎に戻る。勝山に疎開の岡より書簡。同日、独軍無条件降伏。
   8日、七ヵ月ぶりに一枝に会う。同日、トルーマン、日本に無条件降伏勧告。
   9日、森田詮三来訪。
   10日、神戸を散歩、絵本、大東亜戦争記録画集を、山口氏明の見舞いに買う。
   11日、空襲、防空壕に入る。魚崎小学校へ負傷者を松子と見に行き、かなり危なかったことを知って今更恐怖。
   14日、四人で西下、姫路の北川氏方泊。名古屋空襲、名古屋城焼ける。
   15日、翌日出発の予定が変更、11時半姫新線に乗り、2時津山着、岡山県津山市小田中八子の松平別邸「愛山宕々庵」に疎開、この邸宅は渡邊明の兄松平康春が相続していたもので、それを一時借り受けた。得能静男(松平の旧臣)の世話になる。同日、磯田多佳女死去(67)。
   16日、得能の案内を受ける。北川来る。
   17日、松子と月田の岡を訪ねると、病気で瀕死の状態であるのを知り驚き失望、夫人は生長の家信者ゆえ医薬を信用せず、言うこととりとめなし。帰宅。
   18日、松子と市内沼の妹尾を訪ねる。
   22日、おみき魚崎に帰る、午後岡夫人より逝去の報せ。尼崎の実家の一枝宛絵はがき、こちらへ来ている。おみきさんもいる。今度は尼崎がやられるでしょう。住所変わったらお知らせを。
   23日、岡の葬儀に列席。
   24日、空襲で松平邸も焼尽。明は北海道から上京中で中上川にあり。
   25日、東京空襲で歌舞伎座新橋演舞場焼失。
   26日、得能方から武庫荘矢部良策宛書簡、疎開の件、細雪上巻の処置につき、いっそのこと頒布したほうが無事か。土屋宛葉書、疎開の件。
   31日、明から重子宛書簡、津山へ行くかもしれず。
 6月1日、志賀宛書簡、三女万亀子結婚の祝い。
   2日、信子来る、ついで明も来る。殿様の令弟だというので津山市教学戸籍課長黒田慶次挨拶に来る。
   3日、谷崎、明を伴って東照宮と霊廟に参詣、松平旧臣報恩会会長山本直廉を訪ねる。明は重子を連れていきたく、谷崎らもそう勧めるが、重子が渋る、明は北海道は一番安全ゆえみなで来るよう言う。信子は板挟みになって苦しげ。岡未亡人より勝山に貸家あると来書。同日、荷風明石に疎開。夜、重子、ここに残る決心をし明も了解した模様。
   4日、松子と小野はる方貸家を見にゆき気に入ってすぐ手金打つ。帰宅すると明は重子を置いていくと決している。再度山本方で歓迎の宴。
   5日、阪神間大空襲と聞き魚崎の家を懸念。
   6日、明、単身帰ってゆく。
   13日、荷風、岡山ホテルに至る。布谷章子来る。
   14日、一枝宛書簡、信子や章ちゃん、平松のおばさんみな来た。
   16日、松子重子信子と散歩、留守中荷風からの伝言で、岡山に滞在中と聞く。
   17日、木村毅(52)宛書簡、岡山の新聞で谷崎疎開を知った木村が、岡山出身なので助力を申し出たのに答えたもの、紹介の名刺などもらいたい。
   27日、荷風より書簡(25日付)、熱海へ三度手紙を出したが返事なきゆえ何処かへ移転と思っていたが偶然岡山にいると知る。
   28日、荷風空襲で焼け出される。
 7月1日、久保一枝宛書簡、先日は久しぶりに元気な姿を見た、大正天皇から拝領のものは差し上げる、魚崎の家は久保川氏が留守してくれる、久保さんが凱旋してきたら秘書にしてたっぷり給料を上げたいと夢のようなことを考えている。
   2日、小野はる方より岡山市上石井大正町最相楠市方荷風宛葉書、先般空襲前日に手紙を出したが無事なるや、より田舎へ移るよう勧める。埼玉県北足立郡与野町笹沼方江藤喜美子宛書簡、羽左衛門ブロマイド付き、羽左衛門も寂しい死に方をした、これからは老いた菊吉の時代か、表記に疎開、そちらの様子知らせてくれ。
   3日、夜半空襲、経験のない町民が慌て、松子も早く移りたいと言う。越中八尾疎開中の吉井から雑誌『高志』を送ってき、中に「谷崎潤一郎君へ」という歌十二首が載っている。
   6日、馬力を呼んで五十個の荷物を勝山へ送る。
   7日、午後四時過ぎ、松子、恵美子と真庭郡勝山町新町小野はる方に疎開。その後重子も来る。
   10日、朝の汽車で重子を迎えに行く。
   11日、荷風から来簡(9日付)菅原明朗と郊外に立ち退く、そちらに貸間などあるか、葉書もなかなか入手困難。
   12日、一枝宛絵葉書四枚、祇園舞妓藝妓。信子、布谷、宗像で荷物を運ぶことにし信子は魚崎に、空襲激化宝塚も危ないので注意、津山には布谷の章がいる、こっちへ休養に来てはどうか。岡山市巖井三門町武南功方荷風宛書簡、来簡にて無事を知る、こちらへ来てはいかが、菅原氏と一緒でなくてはまずいか、老人一人くらいなら何とでもする。
   16日、荷風書簡(日付)、心配ありがたく、菅原夫婦と一緒でなくてはならぬ義理はないが女手なくては困りまた中野以来の誼あり、一人は心細いが、切符入手次第そちらを訪ねる。
   19日、国民学校教員野崎益子来訪、『細雪』中巻分のコピーを頼む。
   21日、荷風宛書簡、移転のこと来簡にて知る、文房具等小包にて送る。
   22日、荷風書簡(消印)、三度の食事を菅原夫人が作ってくれるゆえ旅館で賄あるならありがたい、間借りを探すにも高齢者を嫌う所あり、老幼収容所へ入れられる恐れあり。
   26日、ポツダム宣言発表。重子と津山へ行く。多佳女養子又一郎から死去の通知届く。香華料を添えて返事すると、又一郎からの返書で大友の家が強制疎開で取り壊されたことを知る。
   28日、荷風書簡(消印)、様々ありがたく、そちらへ行きたいが切符手に入らず荏苒日を過ごす。
   31日、荷風宛書簡、荷物安着の由いずれこちらから案内の者派遣。
 この年、和田六郎一家、佐藤春夫を頼って長野県佐久に疎開、六郎は佐藤に師事する。 8月5日、荷風より来簡(2日付)、三日ほど前から下痢で臥床、周囲に同病人多し、全快次第通知、荷中の草稿荷厄介にて預かる所なきか、なお自分の草稿所有の者は木戸正一、相磯勝弥、身元引受人は従弟大島一雄(杵屋五叟)。
   6日、魚崎の自宅が空襲で罹災。荷風宛書簡、疫痢は当方でも流行自分はようやく回復、草稿については福谷という部落の百姓家に自分も預けてある、大和の嶋中へ荷風近況知らせたら別紙の如く、富山県八尾町疎開中の吉井勇荷風のことを心配。長野県軽井沢の川口松太郎宛書簡、来簡に接し欣喜、疎開のこと、大阪の妻の親類の焼け出されたのが逃げてきたり、細雪は下巻百枚ほどで放置、今月中旬あたり再開す、正宗内田によろしく、花柳君はいずれに、先だって津山の劇場に翫雀(二世鴈治郎)来演、今度勝山の劇場のこけら落としには不二洋子が来る、貴君の嫌いな荷風先生とは先般より文通。同日広島原爆投下。
   8日、広島に新型爆弾の報を聞く。同日、ソ連対日宣戦。
   9日、信子病状よからず。同日、長崎に原爆投下。
   12日、明来訪。
   13日、荷風より来書(11日付)、全快につき早速明日明後日訪ねると。荷風は早暁起床して切符入手、谷崎を訪ねる。語り暮らし、荷風は「ひとりごと(のち「問はず語り」)「踊り子」「来訪者」などの原稿を託す。
   14日、朝荷風と町を散歩、荷風は勝山にいたいと言うが食料入手困難と話す。吉井勇へ寄せ書きの葉書書く。
   15日、敗戦。荷風11時26分帰る。玉音放送を聴いて意味よく分からぬが、三時の放送で無条件降伏を知。夕刻妹尾来る。阿南自刃の報。(以上「疎開日記」)
   17日、東久邇内閣成立、津島寿一大蔵大臣拝命。
   19日、午後明帰る。
   20日、嶋中、次男鵬二の電報により上京。 
   21日、魚崎の酒井安太郎宛書簡、付近延焼とのこと帰りたいと思っていたが残念。嶋川信一帰還の際はこちらを教えてくれ。
   26日、中公清算事務所松林恒宛書簡、中公および西片町お宅は無事か、嶋中は未だ大和か、細雪続稿送ってよいか。
   27日、大日本言論報国会解散。
 9月3日、奈良法隆寺村の嶋中宛書簡、田舎人は政府新聞の言うことを真に受けていただけに憤慨し質問責めに遭う、東北では米国降伏と思っているそう、細雪続稿のこと、荷風の作品のこと、二編は面白くいずれ刊行の日を。同日荷風の絵葉書で、熱海の大島方へ移転。同日、笹沼夫婦宛書簡、田舎人の話、米国が降伏したと思っている者さえあり。
   6日、土屋宛書簡、田舎人の話同じく、空襲の危険なくなると田舎は侘しくしかし魚崎宅焼け、借家三軒残ったのを立ち退かせようかと考えるが田舎は物資豊富ご意見を、武者に重ねて催促すべきか、和歌三首。木村毅宛書簡。
   7日、筑摩書房古田と中村光夫荷風を訪ね『来訪者』出版契約。
   8日、真庭郡勝山町中町水嶋喜八郎宛書簡、先夕はもてなしありがたく、お礼に細雪上巻送る、小野の女将から揮毫を頼まれたが唐紙なく、短冊三葉、一葉はあの日ピアノを弾いたお嬢様(中之庄谷美智子、24)に上げてくれ。
   11日付、川田の書簡、熱海にいると思っていたら美作よりの書状に接し驚き、申し越しの挙白集は持ち合わせず、自著「戦国時代和歌集」に抄録されているので送るが、一冊しかないのでいずれ返送願う。吉井は八尾で邪魔にされ困っている。
   12日、一枝宛書簡、支那にいる兵隊に、現状を書いて出すようラジオ放送をしている。久保さんの場合は福岡連隊区司令部気付で出せばよい。
   13日、一枝宛、手紙の書き方が変わったので新聞切り抜き同封。
   17日、台風中国地方を襲い停電。
   18日、勝山で出水
   21日、荷風葉書、挨拶。明、万難を排して来訪。
   24日、明、鳥取回りで京都へ出る道筋で帰る。(「三つの場合」)
   29日、嶋中宛書簡、今朝の大朝によると鳩山党に入る由、自分はここで細雪書いて越冬、また続稿は雑誌掲載か単行本か、また上巻には英国ロシヤ蒋介石の悪口あるゆえあの儘出版は困ること、来春あたり上京。同月、蝋山政道副社長として中央公論再建始まる。水嶋家を訪問、中之庄谷美智子のピアノを聴く。
 10月、『文藝春秋』復刊。
  1日、一枝宛絵葉書、先日矢部さんの留守中に君が取りに行ったとか。また行ってください。    
   6日、荷風宛書簡着(断腸亭)
   9日、嶋中宛書簡、電文意味不明なる所書面頂き氷解、細雪は紙型焼け、新しく作るが変更したい所あり、荷風三編は書留で送った、源氏は削除部分を復旧して出す、山田博士も在京ゆえ意見を聞く、束縛解けて創作力旺盛。
   15日、木下杢太郎死去(61)。
   19日、嶋中宛書簡、汽車全通しないが21日頃上京、笹沼方泊、細雪続稿は松林宛送った。
   21日、布谷伊光と共に尼崎へ。24日まで同家に泊まる。
   24日、大貫鈴子宛書簡、現在住処探索中、これからは藝術文化の世の中。
   25日、鳩山一郎を中心とする新政党名が日本自由党に決定。京都へ出、喜志元に泊。京都座で上演中の翫雀(二世鴈治郎)、我当(十三世仁左衛門)らの鎌倉三代記、九段目道行、藤十郎の恋を観る。
   26日、京都を発し熱海西山に至る。
   27日、敗戦後初めて上京、中央公論を訪ね、嶋中が病臥中ゆえ、新副社長・蝋山政道(51)らに会い、『細雪』その他の出版の打ち合わせをし、与野の笹沼方に泊まる。
   28日、気分悪く熱出る。
   29日、与野より一枝宛絵葉書、現況。    
   30日、長野草風来て泊まる。
 11月、『新潮』復刊。
   1日、草風と一緒に上京。中公を訪れ「細雪」装幀について相談。同日、青山虎之助『新生』創刊、十三万部売れる。
   2日、第一ホテルの土屋を訪ねる。
   3日、奥村寿子が結婚。
   4日、笹沼千代子と東宝エノケン一座どもり奇談・東海道中記を観に。一家も一緒か。
   5日、中公を訪れ、嶋中への見舞いとしてビタミンB,Cを持参。
 この間、川端康成(47)に会って鎌倉文庫からの『蓼食ふ蟲』刊行の話をするか。
   6日、熱海へ出発。
   7日、京都府綴喜郡八幡町の吉井勇からの絵葉書、ようやく落ち着き、二日前に淀川堤へ散歩「蘆刈」のあたりまでいずれ行ってみたい。下目黒の清治宅に泊まる。
   8日、東京を発、夜九時尼崎着。13日まで布谷方に滞在。
   9日、尼崎市玄番北町布谷方から、水島喜八郎宛絵葉書、留守中家族が世話になるはずお礼。また水島方中之庄屋(谷)宛絵葉書、恵美子がピアノの稽古でお世話と思う、(美智子のいた)横浜も見てきた。
   14日、久保一枝を伴って出発、夜十時勝山へ着く。
   15日、CIS、東京劇場で上演中の「寺子屋」反民主主義として中止命令。
   17日、荷風宛書簡。
   21日、荷風の返信、川端来訪、鎌倉文庫よりぼく東綺譚出版のこと、嶋中から「ひとりごと」返送、敗戦以後の風景など書き足すようとのことで完成。
   28日、杉並区神明町嶋中鵬二(23)夫妻宛、その後容態如何。鵬ニ夫人は蝋山政道の娘。
   30日、杢太郎夫人宛悔やみの書簡。勝山町城内の今屋旅館に移転。
  何かを送ってやったお礼のナツからの手紙(「台所太平記」)
 12月1日消印、妹尾宛書簡、先般訪問の折り旅中で失礼、二十日ほど留守、疲れてリュウマチの気、先夫人への香華料、懐かしく。
   2日、神経痛に苦しんでいると聞いて小野女将来て、昔大師様のおかげで治ったと話す(「越冬記」)
   9日、松子より嶋中夫妻宛書簡、見舞い。
   10日、夕食後、松子恵美子重子と水嶋家へ、女性の三味線を聴くため。清友夫人、中之庄谷美智子、その母も来る。
   12日、新生社員酒井来訪。
   13日、新生社から卍出版のため訂正を始める。
   14日、小林茂来訪、陰翳礼賛の印税半分受け取る。
   15日、小林とその従弟長谷川の案内で今田宅を見に行き、二階を借りる契約。
   16日、近衛文麿自殺。
   18日、中之庄谷美智子来訪、遊んで帰る。
   23日、嶋中全快し出社、栗本理事。 
   29日、岡山県真庭郡勝山町城内、今田ツネ方に転居。
   30日、今東光の紹介状を持って福本和夫(51)の息子(邦雄? 19)来訪、福本が雑誌を創刊するという。
   31日、明から来電、27日タツ、とある。