谷崎潤一郎詳細年譜(昭和16年まで)

jun-jun19652005-06-14

1940(昭和15)年     55
 1月、南座で花柳主演『春琴抄』上演、続いて御園座で。
   6日、杉並区井荻の濱本浩宛書簡、改造社との関係も昨年円満解決、一度挨拶しようと思いつつ果たせず、月末か来月上旬上京するので、小島政二郎川口松太郎あたりと一緒に会食したい。
   13日、上諏訪町弁天町寺島医院濱本みね子宛書簡、返事がないので旅行中かと思っていたら二十年ぶりの年末旅行だったのですね、全快本復を祈っております。濱本が旅行中病を発して入院し、転送された書簡にみね子が返事を出したか。
   25日、上諏訪町布半旅館濱本浩宛葉書、回復捗らざる由心配私は二月十日過ぎ上京、早い帰京を願う。
   28日、同濱本宛葉書、味噌到着有り難し。
 2月10日頃上京か、左団次の東京劇場休演を聞く。
   20日、里見宅で志賀と会う。
   21日、偕楽園で左団次入院と聞く。
   22日、昼、久保田、花柳とAワンで食事、左団次重態と聞く。
   23日、二代目市川左団次死去(61)、朝刊で訃報を見て呆然とす。
 3月、「純粋に『日本的』な『鏡花世界』」を『図書』に掲載。
   9日、創元社新社屋を見る。
   10日、白浜温泉滞在中の創元社矢部良策宛書簡、創元社が株式会社になった由めでたし、過般琴石作の水差し和田君より受了礼状も差し上げず失礼、私も子供の学校が休みになったら南紀白浜に出掛けたし、旅館は白良荘よろしきか、昨日大阪で創元社新社屋見たが風呂屋の上にて奇妙これも時節柄か。
   18日、「旧友左団次を悼む」を『中央公論』4月号に掲載。
   23日、水上滝太郎死去(54)
   26日、吉江喬松死去(61)
  谷崎英男、東京府立第五中学校卒業。
 4月1日、池長孟、美術館を一般公開、先立つ披露宴に谷崎も招かれる。(細江)
  英男、水戸高等学校入学。清治(18)は日本大学入学か。
   5日、池長美術館を訪れ長崎童謡を揮毫。
 5月、帝国劇場で久保田万太郎脚色、花柳主演『芦刈』上演。
   6日、笹沼、与野市にライファン工業を設立。
   13日、五人(笹沼一家?)で濱作で夕食。
   14日、芝区玉家旅館より重子宛書簡、お返事ありがたし東京は事実上断水でひどい、米も六七分外米で閉口今度ばかりはつくづく東京が嫌になり地獄です、早く帰りたく16日の寝台とった。出立前電報します。
   15日、同旅館より佐藤方竹田あゆ子宛速達葉書、明日午前10時行くので風呂沸かしておいてくれ、朝食三人前(清ちゃんも遠足翌日で休み)米がなければパンか干うどんでよし。
 6月10日、イタリア、英仏に宣戦布告。
   14日、ドイツ軍、パリ入城。
 7月、萩原朔太郎「思想人としての谷崎潤一郎正宗白鳥」を『文藝日本』に掲載。
   23日、代々木本町の土屋宛書簡、手紙お礼、御無沙汰、源氏を夫人愛読とのこと、年内には完成しそう、味の素入用でないかとのお訊ね、沢山下さいまた米国製メリケン粉オイルお願いしたい。
   29日、土屋宛書留書簡、味の素二ダース、第一ホテルのゲッツ油到着、油代金封入後は言葉に甘え頂戴。
 8月7日、土屋宛葉書、味の素もう一ダースお願い。
   11日、杉並区和泉町北野克宛(国文学者、1904−)書簡、お手紙と東大寺風誦釈文ありがたく頂戴、源氏翻訳の仕事も山田先生のお蔭で完結に近づいたが完結後も修正に努める。
   21日、土屋宛書簡、本日味の素到着先日の手紙の後味の素製造中止と聞いて悲観していた少しずつ使う、九月上旬上京したら会ってお礼。
  30日、日本橋区数寄屋橋春秋社神田豊穂宛書簡、装丁について。
 9月、伊香保温泉千明仁泉亭で笹沼喜代子・喜美子と避暑、後ろの部屋に六代目菊五郎市村羽左衛門がいて、一緒に近所の女役者の芝居を観たという。(細江)
  土屋計左右、第一ホテル社長。
   16日、嶋中雄作の兄代議士雄三死去。森田家訪問、ヤッちゃんが腸カタルか何かで寝ていたが快方、朝子を帝国ホテルグリルへ誘うが辞退される、肇も腹をこわしている、次郎を誘い清治と三人で行き、邦楽座の『踊るニューヨーク』を見て技術が素晴らしく賛嘆(重子宛)
   17日、玉家旅館より重子宛速達書簡、昨日のこと、福山の事件がなかなか紛糾、19日夜の寝台をとったので三宮へ朝の七時頃着く。巧藝から送った品気に入ったか。清治は18日まで玉家から通学予定、岸と藤井啓之助に明日会う。
   18日、岸巖と藤井に会うか。
   19日、夜行で出発か。
   20日、帰宅か。
   27日、日独伊三国同盟締結。
 10月12日、大政翼賛会発会式。
   17日、小村雪岱死去(54)
   19日、岸田國士大政翼賛会文化部長に就任。
 11月10日、紀元二千六百年記念式典。
16日、中央公論社出版部長・藤田圭雄中央公論編集部長・松下英麿
   28日、大磯町山手安田靫彦宛書簡、友人で神戸画廊の主人大塚銀次郎が画廊何周年とかの記念展を開くにつき貴下に揮毫を頼んでほしいとのこと、迷惑なら無視してくれ、ただ意向のみ伝える。
 12月22日、上京(細雪
   26日、帰宅。
   27日、明石郡垂水町和田実宛葉書、不在中の来簡面白く拝見母上が北村家時代の自分を知るとのこと当時は何という方だったか、方言研究などこちらは門外漢ご教示願いたく、また旅行で不在。
   31日、和田実、手紙を出す。
 この年、胡適『四十自述』、豐子凱『緑縁堂随筆』(ともに吉川幸次郎訳)、周作人『瓜豆集』(松枝茂夫訳)が創元社創元支那叢書として刊行、また林語堂『北京の日』全二巻が鶴田知也訳で今日の問題社から刊行され、いずれも読む。
この年、精二の長女恭子、上山敬三と結婚。竹田龍児は慶応大教師となる。

1941(昭和16)年       56
 1月、柚登美枝、中央公論社入社。
13日になってようやく和田の手紙到着。
   14日、和田宛書簡、延着による遅延の詫び、母上の名は加藤よし、それならよく知っている、なつかしく昔の話もしたく一度おいでを、今月は二十日より上京。今春聴『易学史』(三月刊)の序文に東光との交遊歴を書いて送る。
 2月、風邪で寝込む。
 3月、信子、神戸の生田神社で嶋川信一と挙式。青木に所帯を持ち、嶋川はゴルフ教習所を開く。
   5日、『新塹春琴抄』、創元社より刊行、樋口装丁。
   23日(細雪)上京、二時半頃宿を出て、日暮里渡邊町の先般死去した吉田白嶺宅で線香をあげ、長野草風を訪ねると不在、嶋中の招きで鶯谷の料亭志保原へ。荷風、松下。荷風の色つやのいいのと、洋服に足袋に下駄という姿が変でないのに感心する(「きのふけふ」)。
   25日、重子と渡辺明の結納(細雪
 4月、東亜文化協力会議で周作人(57)来日、京都で同席する。吉川幸次郎(38)在り。
   4日、『今氏・易学史』刊行記念会、午後五時半から日比谷・山水楼。嶋中とともに発起人。佐藤夫妻、田村松魚、鈴木彦次郎、竹田敏彦ら。
   8日、住吉へ東光がお礼に来訪。
   10日、東光が来訪。水野柳人への紹介状を貰うか。
   13日、日ソ中立条約調印。
   26日、松子、重子と上京。
   29日、作州津山十万石の藩主の子孫子爵松平康民の三男・渡辺明(45)と森田重子(35)が帝国ホテルで結婚。横浜、京都、奈良、神戸に新婚旅行、以後上目黒、祐天寺駅そばに、清治、女中のお清とともに住む。明は酒癖が悪く、酔って清治を殴りつけたりした。
 5月、精二『ポオ小説全集』全六巻および別巻『詩論、宇宙論』を訳了、春陽堂より刊行。
   15日、上京、精二の娘の結婚式(青野日記)。玉家旅館から重子宛書簡、お二人無事着京と思う、さまざま詰めて荷物で預けておくから受け取り願う、偕楽園への渡辺氏名義のお祝いのこと、22日にはお目にかかる。(八木書店
   22日、笹沼の次女・喜美子が江藤哲夫と結婚。
   29日、目黒区上目黒の渡邊重子宛書簡、松子は昨日より扁桃腺で寝ているので代筆、写真本日到着あとも楽しみにしている、来月は上京お目にかかる。明ヲヂさんによろしく。
 6月22日、ドイツ軍ソ連に侵攻(バルバロッサ作戦)
 7月、藤村・白鳥・志賀・山本有三・白秋ら帝国藝術院会員となる。
 同月、『潤一郎訳源氏物語』全二十六巻の刊行が完了。「奥書」に、刊行予定が遅れたこと、しかしそのため修正を加ええたこと、最終二十六巻の系図、年立、梗概等の編纂は相澤正に任せる。
   24日?天神祭の日に第一回日仏交換教授から木下杢太郎が仏印から神戸港へ帰国、大道弘雄と谷崎宅へ。杢太郎が松の絵を描き谷崎が「津の国の」の歌を添え、大道がもらう。
29日、佐藤観次郎再応召。
 8月2日、京都の吉井勇から大道弘雄宛、谷崎宅の場所を尋ねている。
   22日、玉屋旅館より大森区新井宿江藤きみ子宛葉書、昨夜は失礼、明日23日(土曜)午後六時より松子、重子、恵美子、清治らと偕楽園で晩餐暇ならおいで。
   23日? 『源氏物語』完成の慰労に雨宮・長野らを偕楽園に招く。
   31日、伊香保温泉千明に滞在、田口の簗に行くが鮎はまだ小さく栗はまだ出ず。
 9月1日、伊香保千明よりきみ子宛絵葉書、今年も来た菊五郎(細江)は私らの来た日下山、去年と同じ座敷であの二階の障子を望み去年の君とお母さんの狂態を思い出す昨日のこと。
   16日、古市の油屋に泊まるか。
   20日、土屋宛葉書、先日味の素ありがたし別便で上海交遊記原稿と短冊送った、明治諸家原稿集は誰かに見てもらうまで待ってくれ。
30日、中央公論編集部長・畑中繁雄。
 10月、佐藤秋雄死去。
   12日、土屋宛葉書、礼状ありたがく、源氏和歌五枚のうち「むさしのの」の歌二枚は上の区書き誤ったので返送願う書き直して送る。
   18日、土屋宛葉書、返送の短冊落掌。東条英機首相就任。
  上京、鮎子の出産を待つ。
 11月3日、精二は富士子と再婚。「家柄のいい人と再婚」(終平)。
   5日、鮎子出産のため九段の木下産婦人科病院に入院。
  谷崎は芝口の旅館から毎日電話を掛けるが生まれる気配なし。
   9日、源氏完成を祝し中公社員一同を歌舞伎座へ招待。
   19日、熱海ホテルから、渡辺明・重子宛書簡、滞京中は世話になった、もう少し待機する。明の就職のことで宗一郎の勧めもあるので21日午前中に熱海へ来てくれ。(八木書店
   24日頃帰宅か。世田谷区多摩川電車弦巻付近志賀宛葉書、先日はお邪魔、鹿児島の女中で東京へ行ってもいいと言う者あり、給金は25円欲しいと言う、如何。
   28日、荷風宛書簡、先般佐藤観次郎を通じ頼んだ揮毫二葉ありがたく、お礼に断腸亭三文字を北京の金禹民に印章として彫ってもらったがあまり出来悪くまた佐藤君再度の応召ゆえ別便で送った。昨今感慨もあるだろうが私も言いたきことあり、また活動に適した時節も到来か。荷風の作風が戦時下に歓迎されないことの慰め。
 12月、谷崎家を辞した車一枝(23)、久保義治(31)と結婚。
  この年あたり、妹尾健太郎伊豆大島の美恵子と再婚か。
   1日、世田谷区新町志賀宛葉書、返事頂戴、新しい女中が鹿児島から来て古いのが明日帰国し東京へ行きたい者を募る必ずある筈、また妻の父が使っていたじいやで、本庄繁大将が伯父に当たるという者使いませんか、保証します。同日荷風、金印を受け取る。   3日、鮎子、初孫の女児を産む。
   4日、未明、龍児からの電話で出産を知る。
   7日、熱海へ行って熱海ホテルに泊まる。
   8日、ハワイの真珠湾攻撃により、大東亜戦争勃発。その報を聞いて東京へ向かう。汽車の中で嶋中に会いその話をする。東京に着き、恵美子に支那料理を持っていくため偕楽園に寄り、宣戦の詔勅と東条首相談話を聞く。久保田、笹沼、八田三喜と一緒。それから九段の木下産婦人科病院に行って女児の顔を見る。夜、高木定五郎と上野松坂屋向かいの蛇の目寿司。今にも米軍爆撃ありはしないかとびくびく。(「高血圧症」)
   10日、七夜、佐藤豊太郎の希望で谷崎が女児を命名、今東光に名の付け方を教わり百々子と名付ける。マレー沖海戦プリンス・オブ・ウェールズ、レパルス撃沈。
   14日、鮎子宛葉書、祝いの歌二首。
   15日、土屋宛速達書簡、一週間ほど不在にし返事延引、原稿本日書留で発送、芥川の原稿は腑に落ちぬところあり佐藤に鑑定してもらうとやはり他人に口授せしめたもの佐藤から返ってきたら返す。
   19日、土屋宛葉書、海苔到着ありがたし、孫は去る八日生まれ、母子ともに健康今日あたり退院。
   20日大森区新井宿小島政二郎宛書簡、百々子誕生の祝いに夫婦揃って来てくれた旨ありがたし、皇軍の戦捷も赫々たり今年はめでたし。先般私の糖尿病につき書面ありがたくしかし薬到着せずされど病軽症ゆえ放念されたし。
   24日、江藤喜美子宛書簡、手紙拝見お見舞いありがたし、予定より早く退院、鹿島姉上ご主人にもよろしく。君の染筆の手紙は国宝として保存す、カラスミ到着ありがたし。
   28日、土屋宛葉書、味の素到着お礼、原稿用紙十枚本日送るまたソーセージ送ってくれた由お礼。
 暮れ、笹沼経営の埼玉県与野市のライファン工業に渡邊明を入れる。
   30日、志賀よりの書簡遅れて届く。