音楽には物語がある(49)「veni,vidi,vici」とベルリオーズ 「中央公論」1月号

 先日から塩野七生の『ローマ人の物語』を読んでいて、今アウグストゥス歿後のところまで来た。これは一九九二年に刊行が始まったものだが、私は読もうと思いつつ、どうも古代ローマというのは興味がわかず放っておいた。古代ギリシアの悲劇や神話やホメロスは好きなのだが、ローマはオヴィディウスとかホラティウスとか、ホメロスのようには面白くない。このシリーズは女性読者に人気があるようで、どうも古代ローマ現代日本では女性向けのようだ。

 塩野はカエサルにずいぶん肩入れしているが、私はやっぱりカエサルが偉いとは思えず、カエサルを殺したキャシアスやブルータスのほうが偉い人だと思ってしまった。クレオパトラについても、何だか昼メロみたいな人だと思った。

 するうち、カエサルの「veni, vidi,vici(来た、見た、勝った)」という言葉が、ポントス王との戦いの時の言葉だと知って、存外マイナーな場面でのものだったのだな、と思っていたら、確かオペラの合唱曲で、この「veni.vidi.vici」が入っているのがあったのを思い出した。メロディは歌うことができるので、YouTubeでオペラの有名な合唱曲をあれこれ聴いたが、見つからない。これは確か、一九八一年の秋、予備校へ通っていた時に秋葉原石丸電気三号館で買ったレコード「オペラ合唱曲集」に入っていたはずで、そのレコードは書庫にしてある近くのマンションにあるのだが、いくら探しても見つからないことにいらだった私は、夜十一時過ぎに自転車で五分くらいの書庫へ駆けつけて、そのレコードを探し出したら、ベルリオーズの「ファウストの劫罰」の中の、兵士と学生の合唱だった。どうも、あまり有名な合唱曲ではないらしいので、ベルリオーズびいきの私はちょっとがっかりした。

 ところでこの「ヴェニ、ヴィディ、ヴィチ」は、日本でへたな日本人に言うと、間違いなく「ウェーニー、ウィーディー、ウィーキー」と訂正されるだろう。「ヴェルギリウス」とか「オヴィディウス」とか書くと、神経質に「ウェルギリウス」「オウィディウス」と訂正し、ダンテの『新生』を「ヴィタ・ヌオーヴァ」と発音すると、「ウィタ・ヌオーウァ」と訂正するのが、日本のラテン語知りの弊害なのである。しかし西洋人はそんなことは気にしないで「オヴィッド」「ヴァージル」とやっているし、塩野七生も気にしないで「オクタヴィアヌス」と書いている。

 ところでイタリアといえばオペラの本場で、モーツァルトの『フィガロの結婚』もダ=ポンテ脚本によるイタリア語オペラで、ロッシーニプッチーニもおり、私はプッチーニの「マノン・レスコー」や「トゥーランドット」が好きだが、イタリア文学となると、どうもダンテの『神曲』とか『新生』がそれほどのものとは思えない。のみならず十九世紀のマンゾーニ『いいなずけ』も大味で面白くないし、二十世紀のアルベルト・モラヴィアもどうもいいと思わない。イタロ・カルヴィーノなど『まっぷたつの子爵』とか『木のぼり男爵』とか、読んでみると題名通りのことが描かれているし、最近有名になったブッツァーティもそれほどでもない。ルネッサンス期のボッカッチョなども、西洋人はなんでこう「寝取られ話」が好きなんだろうと思う。映画でも、ヴィスコンティは「家族の肖像」とか、デ=シーカの「自転車泥棒」とか好きなのはあるのだが、フェリーニがそれほど偉大だという気がしない。

 塩野著を読んで分かったのは、古代ローマ人は学問はギリシア人に任せていたということで、文学もやはりギリシアのほうが優れていて、ローマ人というのは政治とか実業とかをやる、今でいう実務家的な人たちで、それが現代まで続いているのではないかという気がした。音楽や美術はそうでもないが、古代ローマといえば彫像が多いが、当時彫刻というのは奴隷の仕事で、だからギリシアのように有名な彫刻家はいないそうである。