『文藝春秋』八月号に発表された川端の手紙だが、あれは新発見というより、今まで隠していたというのが正しい。
 あと川端香男里が、康成が昭和二十六年に伊藤初代の死んだのを知ったのは昭和四十年と書いているがこれは疑わしい。「水郷」で、初代が死んでいると川端が公表したのが昭和四十一年だが、川端は初代の妹マキの次女・紀子からの手紙でこれを知った。紀子は女優になりたい希望もあって有名作家に手紙を書いたというので、昭和四十年ということはないと思うが、証拠となる手紙があるのだろうか。どうも、まだ何か隠されているという気がする記事だった。 

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その文藝春秋を図書館で見ていたら、塩野七生の連載随筆で、粕谷一希追悼文があったので読んでいたら、若いころ粕谷、山崎正和高坂正堯らのグループにいて、山崎から、「君の書くものはどの賞からも少しずつずれているんだよねえ」と言われ、塩野は、「それなら審査委員がもう少し幅を広げたらたくさん賞が貰えるんじゃないですか」と言い返すことを思いついたが言わなかった、とあった。
 しかし塩野と山崎は三つしか違わないのである。それに塩野って賞は多いんじゃないかと思って調べてみたら、33歳で毎日出版文化賞、42歳でサントリー学芸賞、43歳でなんと菊池寛賞、51歳で女流文学賞をとっていて、全然不遇じゃないのである。しかも著作数はそんなに多くないので(一点あたりの分量は多いが)受賞率も高い。