ピンとこない英文学の話

 北村紗衣の『批評の教室』に、ブルワー=リットンの『ポール・クリフォード』の「暗い嵐の夜だった」という書き出しが、英文学史上最悪の書き出しとして有名だ、と書いてある。ただ私にはピンと来なかった。

 鴻巣友季子の『謎とき『風と共に去りぬ』』には、アーノルド・ベネットという年長作家が、最近の若い作家は「キャラクター」が描けていない、と言ったのに対して、ヴァージニア・ウルフが評論「ベネット氏とブラウン夫人」という評論で反駁し、そのためにベネットが表舞台から消えてしまったという話が紹介されており、「ベネットも新進の優秀な女性作家を相手にしたのが不運だったということですね」(大意)と書いてある。

 ウルフの評論は『ヴァージニア・ウルフ著作集 7 評論』(みすず書房)に入っているので読んでみた。「ブラウン夫人」というのは、作家はブラウン夫人というキャラクターを描写するのに苦労するという話なのだが、英文学の世界では、キャラクターを描き出すというのが作家の重要な仕事だと考えられているらしく、ディケンズは、ミコーバーなどのキャラクター描写がうまいとされており、ドストエフスキーはそれを模倣してマルメラードフを描いたとか言われるのだが、筋ではなくキャラクターという発想が私にはピンと来ない。

 ウルフは、ベネットを、ゴールズワージーH・G・ウェルズと並べて旧世代の作家として否定し、D・H・ロレンスなどを新時代の作家として称揚するのだが、ベネットに打撃を与えるほどの重要な議論がなされているとは思えない。ピンと来ないのである。これらは、英文学という世界では有名な例なのだろうが、日本で一般読者に紹介するとピンと来ない例であろう。