『en-taxi』が送られてきた。この雑誌は、創刊号から送られてきているのだが、一遍も原稿依頼はおろかアンケートすら依頼されたことがないという不思議な雑誌である。だから原稿料がいくらなのかも知らない。千円くらいなのかな。
 坪内祐三石原慎太郎にインタビューしていたのが面白かった。福田和也は何度も対談しているが坪内は初対面だそうで、石原から「あなたは何でもよく知っているねえ」と言われている。1968年4月に同人誌『風景』で、里見とんが、船山馨司会、有馬頼義野口冨士男井上靖のインタビューを受けている。当時里見80歳で、野口があまりに里見の過去の作品に詳しいので、「何でもよく知っているねえ」と言われていたのを思い出した。
 こないだの小島政二郎の『小説永井荷風』の紹介を見ても、坪内は文学史にはかなり詳しいのだから、川西政明なんか蹴散らして『新・日本文壇史』を書くべきだと思った。
 ところで石原が、1986年3月の『文學界』で、芥川賞百回記念の座談会をした時の話をして、吉行淳之介にからんで、なんで俺を藝術院に入れないんだと言ったら、「僕は君を必要としていない」と言われて喧嘩になったが、そこのところは削られたと言っていた。石原は、俺はともかく江藤淳開高健を入れればいいんだと言っていた。江藤はこの数年前に、『自由と禁忌』で、谷崎賞中上健次を落とす吉行を「文壇の人事担当常務」と罵っているのだが、この五年後に藝術院入りした。あとは池田満寿夫が途中からやってきたとある。
 現物を見ると、芥川賞を十年区切りで、昭和十年代を代表して芝木好子、二十年代から吉行、三十年代で石原、四十年代から大庭みな子、五十年代で池田、六十年代で池澤夏樹が出席しているが、石原は一貫して吉行にからみ続けている。
 何しろこの当時は「ニューアカ」ブームだから、この前年に柄谷行人中野孝次の罵りあいがあって荒れていたとも言えるし、この顔ぶれでは『文學界』も売れなかったろうと思う。『ノルウェイの森』や『サラダ記念日』がベストセラーになる前の年である。
 池田は酔っていたらしく、まあこの人は「朝まで生テレビ」でもおかしなことばかり言っていたが、芭蕉の訳が韓国と中国にないのはおかしいと言いだす。韓国はともかく、いったい芭蕉をどうやって漢語訳するのだ。漢詩にするのか。また誰も池田の言うのがおかしいとは言わない。池澤夏樹はおかしいと思っただろうが遠慮して言えなかったのか。後半、かなりおかしなことになる座談会である。
小谷野敦