北村薫さんの「私」第二弾は『小説新潮』二月号の「女生徒」である。題名から分かる通り、太宰治の「女生徒」がネタである。友人に教えられて「女生徒」を読んだ「私」は、その元ネタが有明淑の日記であることを知り、旧知の教授から借り受けて対照しながら読む。相馬正一の解説つきである。
太宰の「女生徒」で、「裸足の少女」という映画を観に行くところがある。これは正しい邦題は「はだしの少女」で、チェコスロバキア映画、ヨゼフ・ロヴェンスキーが監督している。日本公開は1935年で、日記は1938年だから再映であったか。ところが有明日記では「黴」を観たい、ということが書いてある。太宰が変えたのだが、「はだしの少女」はその前に出てくる。
「私」は、てっきり、「黴」といえば徳田秋声の小説だから、それがこの頃映画化されたのだろうと思う。だが、ない。「私」はインターネットを使わないらしく、徳田秋声記念館に電話すると、藪田由梨さんが出て、というのは嘘でそれは末尾に記してある。「黴」の映画化はその当時ないと言われる。だがすぐまた電話がかかり、それは真船豊の「黴」を築地小劇場で上演していたからそれではないか、と言われる。
そのあと「私」は文藝春秋に行って、1939年の『文學界』の復刻版で「女生徒」の初出を見る。それは岡本かの子の追悼号で、遺作「生生流転」が載っている。かの子は、川端康成が世に出した作家である。そこに太宰作品を添えて、川端と太宰の四年前の確執を示唆する。実は太宰は「刺す」と書いた同じころ、川端らがやっていた『文學界』に「猿ヶ島」を載せている。
最後に、テレビでやっていた太宰の番組で、又吉直樹が、「女生徒」を褒めて、「キウリの青さから、夏が来る」というのを、キャッチコピーのようだ、と言っているのを聞く。それは、有明淑の日記にある言葉だ。だが又吉は、それを知らない。
『小説新潮』二月号の発売は一月二十日頃である。一月七日には『文學界』二月号で又吉の「火花」が出て大騒ぎになっていた。北村さんは、ここで、又吉はこれが太宰ではなく有明の言葉であることを知らない、と直截には言わない。誰もが太宰になるのだ、と書くが、又吉が読めばはっとする。鋭いのである。
そして最後の二行、「私」は、今回の文学探検の成果を話すため、鈴本演芸場でトリをとる落語家に会いにいこうと思う。
(小谷野敦)