江藤淳の岳父

 『川端康成伝』(中央公論新社)を書いていて、江藤淳がかなり川端を嫌っていたことを知った。同じ鎌倉に住んでいて、江藤は先輩への礼儀として著書が出ると送っていたが、川端は筆まめな人だから、そのたびに礼状をよこしたが、江藤はいっぺんも返事などを書かなかったという。『犬と私』(一九六六)を送った際、やはり礼状が来て、川端も長く犬を飼っていたので、先日十七歳になる犬が死んで、川端家では三十七、八年ぶりに犬が一匹もいなくなったとあった。江藤は、『文學界』に載った川端追悼文で、その手紙は表装して飾ってあるが、それは川端の手紙だからではなく、犬が懐かしいからだとわざわざ書いている。それは川端追悼特集の巻頭に来た長めのものだが、そこで江藤は、川端批判をしているのである。江藤はそこで、川端の文学は高度大衆社会の文学で、谷崎や志賀、荷風の貴族的な文学とは違っていると書いている。
 一昨年死去した、川端研究の代表格だった羽鳥徹哉は、江藤から、もう川端研究などやめてしまったら、という葉書を貰ったことがあるという(「死の論理‐江藤淳川端康成」『國文學 解釈と教材の研究』二〇〇一年三月)。
 江藤が死んで十四年にもなろうとしているが、高澤秀次田中和生の「江藤淳論」は出ているが、未だ本格的な伝記は出ておらず、次第にその名や仕事は忘れられつつある。『全文藝時評』のあとがきには、「私が文藝時評を書きはじめた昭和三十年代の初頭には、永井荷風正宗白鳥谷崎潤一郎佐藤春夫、里見�嘖、久保田万太郎川端康成などという老大家たちは依然健在で、後世に残るような名作を書きつづけていた」とあり、川端も入っている。もっとも、荷風や白鳥、万太郎や春夫が、その頃後世に残るような名作を書いていたか、疑わしい。
 政治思想において、江藤の盟友であり、新潮文庫の『決定版 夏目漱石』の解説も書いている小堀桂一郎は、東大の教室で、川端研究者の鶴田欣也がいる前で、「川端などはエピゴーネンである」と激語を発したことがある。しかし、エピゴーネンというなら、『枯木灘』こそ、フォークナーのエピゴーネンではないか。私が属した比較文学研究室では、川端が好きな人や、これを研究する人はほとんどいなかった。
 江藤とともに戦後の文藝評論の双璧だった平野謙も反川端派で、川端が自殺した日の「毎日新聞」夕刊では、文藝時評をしていた当時、川端が仲間褒めをしていたと書いたのである。
 江藤は、『一族再会(第一部)』などという長編随筆で、祖父の海軍中将らを描いているが、妻の父である元関東州長官・三浦直彦(一八九八‐一九七二)については、何一つ書かなかったし、『妻と私』を見ても、妻の兄たちは、ちらりとしか出てこない。
 江藤、本名・江頭淳夫の妻・慶子は、慶大の同級生で、若くして結婚し、仲が良かったようだが、妻が六十六歳でがんで死んでしまい、そのことと脳梗塞の発病で、疲れ切って自殺した。その慶子の父のことだが、私は最近、『海』の編集長だった宮田毬栄の、埴谷の側から書かれた『追憶の作家たち』(文春新書)を読み、遅ればせながら、埴谷の「江藤淳のこと」(『文藝』一九七七年四月、『埴谷雄高全集』九、講談社)を読んで、しまった、重要な文献を見落としていたと思った。
 これは一九七六年に武田泰淳が死んだ時、江藤が開高健と、以前から『文學界』で断続的にやってきた対談(のち『文人狼疾ス』文藝春秋、一九八一)で、埴谷を物心両面で支えてきたのは武田だ、と江藤が言ったのに端を発している(一九七七年一月『文學界』)。
 埴谷雄高は、後年、江藤と政治的にも人物的にも対立関係にあった。この場合、江藤の側にいたのが、柄谷行人中上健次吉本隆明であり、一九八二年に、小田切秀雄中野孝次が「文学者の反核声明」を出した時に、これは米国を批判するためのソ連の陰謀だとして批判したのが、柄谷や中上、吉本らであった。もっとも九一年に、柄谷は湾岸戦争の反対署名をして、江藤はこれを批判するということになった。
 江藤は若いころは左翼で、吉祥寺の埴谷宅へも出入りし、『作家は行動する』(一九五九)のあとがきに、埴谷への深謝と、石原慎太郎への感謝とが書かれている。だが六〇年安保闘争で埴谷の態度に疑念を感じて、近代文学派を離れて鎌倉組に近づいたという。もっともこの鎌倉組というのは もっぱら小林秀雄のことで、それまで小林に批判的だった江藤は、「私は小林秀雄氏に対して不公正な態度をとつているのではないかという疑いに、突然とりつかれた」(『小林秀雄』あとがき)として、大岡から資料を借りて『小林秀雄』(一九六一)を書き、新潮社文学賞を受賞するのである。
 だが、鎌倉組といっても、川端に対しては冷淡だったわけである。里見�嘖に対しては、その「極楽とんぼ」を称賛するなどのことがあった。大江健三郎と、『万延元年のフットボール』をめぐる対談を機に宿敵となってから、なぜ開高が連続対談の相手になったのかというのも気になるところだ。
 ところで埴谷の文章は、かつて世話になった江藤が、今ではそれを深い怨恨として埴谷に向けているという、心理解剖的な江藤批判になっていくのだが、そこに、吉祥寺の埴谷宅へ江藤が夫妻で訪れた時、夫人の父のことを聞いたという話が出て来るのだ。関東州長官だった三浦直彦は、日本が敗れると、ソ連軍が大連に入ってくる直前に、まず病院に患者として隠れ、そのままどこかに隠れてしまって出てこず、ほかの家族だけで帰国した。するとその後、何人もの男がいれかわりたちかわりやってきて、父のことを訊いていったが、それはソ連のスパイとして父を追及するためであった。そして父は、どこに隠れていたか分からないが、ある日突然帰ってきたというのである。
 埴谷はこういう話を聞いたのだという。そして、埴谷の文章はあちこちさまよい、ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』で、ゾシマ長老を訪れて、自分は殺人を犯したと告白した男が、その後もたびたび来て、最後に、二度目に行った時、殺人のことを知ってしまったゾシマを殺しに行ったのだと告白する、という話を引く。
 埴谷の文章は、独特の抽象化された言い回しがなされているが、今読んでみると、この、江藤の岳父のスパイ容疑というのが、江藤がしてしまった告白であり、いわば江藤は、そのことを聞かれてしまった埴谷を憎んでいるということが、埴谷は言いたかったのではないか、ということが、隠し絵のように浮かび上がるのである。高澤秀次は『江藤淳 神話からの覚醒』でこの件に触れているが、三浦直彦のことは書いていない。
 女優・竹下景子の父であった弁護士の竹下重人は、ソ連抑留後、一九四八年に帰国したが、ソ連のスパイと疑われたという。だが江藤の場合、あの論争好きの江藤が、埴谷のこれに対しては、反論しなかった。開高との対談は、それから四年ほどとだえ、一回だけやって単行本にしたが、そのあとがきで、埴谷の文章のような批判もあったが、私の考えは変わっていないと書いただけだった。恐らく、若き日の江藤は、岳父のスパイ疑惑について、さほどのこととは思っていなかったのだろう。尾崎秀実のような例もある。埴谷がこの文章を書いた年の一月から、江藤は『現代』で、連載対談「もう一つの戦後史」を始めていたが、そこから「落葉の掃き寄せ」「忘れたことと忘れさせられたこと」などの、戦後米軍の検閲や憲法の仕事へと、江藤はのめり込んでいき、本多秋五と「無条件降伏論争」を行う。
 田中和生は、『江藤淳』で、江藤のアイデンティティ・クライシスということを書いている。江藤は、自殺の際に、妻の後を追ったなどと美談風に報道されたりして、遺書に「脳梗塞を患って形骸となった」という趣旨のことがあったため、批判する声もあった。だが、私は存外、江藤は、妻を失って形骸となったと感じていたのではないかと思う。江藤がいかに妻の死を嘆いたかは、車谷長吉による江藤の追悼文などに書かれている。むしろ江藤にとって、結婚後のアイデンティティは、妻と犬たちからなる家族が支えていたのではないか。『アメリカと私』では、米国に着く早々、妻が激しい腹痛を起こすところから始まる。初めて読んだ時私は、もし一人であって腹痛を起こしたのならともかく、江藤がついていてのことに、うろたえ過ぎではないかと白けた思いを抱いたのだが、実に江藤にとっては、夫人は、重要な核だったのではあるまいか。
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