水谷昭夫の『山本周五郎の生涯』(人文書院、1984)を見ていたら、横光利一が純粋小説論を唱えた時、「所詮はむつかしく書かれた通俗小説にすぎないではないかと」久米正雄が「くってかかった」と書いてあった。久米にとって「純文学とは、ただむつかしい小説にすぎず、通俗小説は、やさしく書かれた小説だという、つきつめたものがあった。世にいう純粋小説をめぐる論争がおこる」。
なんでこういい加減なことを書くのであろうか。久米は、トルストイやドストエフスキーも所詮は高級な通俗小説にすぎず、私小説こそ純文学だと言ったのであり、横光と論戦などかわしていないし、横光はむしろ、純粋小説は「文学」ではなく、私小説、随筆などが「文学」だと言ったのである。