http://d.hatena.ne.jp/ykurihara/
栗原さんの文章を読んでいて雑感。
東京堂書店では、栗原さんのが上がる前には私のエッセイ集が上がっていたのだが、栗原さんと入れ替わりに消えた。
三木清の人間性については今日出海の「三木清における人間の研究」に詳しいはずで、これは読んだのだが私は三木清に興味がないから忘れた。ただ最近、三木清は疥癬で死んだと聞いて、へえそうかと思っていたら、戸坂潤も獄中で疥癬で死んだようで、ウィキペディアの三木清の項目に「中島健蔵によると疥癬で」とあったが典拠のタイトルは示してあるのにそれがどこにあるか書いていないので調べたら中島『回想の文学』にあって、吉野源三郎から聞いたらしく、「戸坂潤と同じ死因だ」と書いてあった。
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
- -
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
-
西部邁の『妻と僕』に、もう妻には名誉を与えてやることができない、と、あるあまり有名でない評論家に言うと、「俺の妻の立場はどうなるんだ!」と言われ、何を怒っているのか分からず、一晩寝てから、あの男は世俗的名誉のことを言っていたのだと気づいて驚愕するという場面がある。西部の言う名誉というのは、自分が世界と闘っている姿を見せることだ、と言うのである。
こういう文章を、私は非常に不快に思う。西部夫人が死病にとりつかれているというのに、「俺の妻」のことなど言い出すこの人物もどうかしているが、普通に考えれば、この男が世俗的名誉のことを言っていることくらい分かるはずで、本当に西部が分からなかったのか、分からなかったふりをしているのかは知らないが、人間一般が「名誉」といえば世俗的名誉のことを意味するもので、それを独自の語法を用い、それが分からないからといって相手を俗物のごとくに言う姿勢は、極めてロマン主義的で、保守的ではない。保守思想なるものがあるとして、その最もよき部分は、こうした人間の世俗的部分を認め、大らかに肯定する、中庸の態度にあると思う。
実際この種の、俺は世俗的名誉など要らぬ、世俗的欲望など持っていない、と言わんばかりの姿勢をとるのみか、わざと人を誤解せしめるような言葉遣いをして、あいつはそれが分からんのか、と人を馬鹿にしてみせる文章というのに時おり出くわすが、実に嫌なものである。
東大を辞めた時、西部は、「まあ、東大教授になって良かったのは、母が喜んだことくらいですねえ」と言っていたが、私はもう、母を喜ばすことはできないのだ。
さらに不誠実の上塗りとも言うべき中島岳志との対談本で、西部邁という人は、完全に終ったと見るほかないだろう。