ふと気付いたのだが、西部邁が東大を辞めてからかわいがった人物は、東大出身者がきわめて少ない。というかかわいがったのはみな東大ではない。中沢新一や昔からの弟子の佐伯啓思や松原隆一郎、友人の柄谷行人は別として、宮崎哲弥、福田和也は慶応、小林よしのりは福岡、中島岳志も大阪外大と京大、井尻千男は立教、糸圭秀実は学習院中退、『発言者』寄稿者の顔ぶれを見ても、明大の中沢けい、早大の八木秀次、名大の飯田経夫、富岡幸一郎、高澤秀次、宮本光晴と、非東大がとても多い。
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私は、父を憎んでいる。かつて神経症がひどかった頃、大阪から実家に帰るとそれが悪化した。自分では気づかなかったが、父親が定年になって毎日家にいたからだ、ということに気づいたのは、母が病気になってからである。私は、母には会いたいが父には会いたくないという状況で病んでいたのである。その詳細は小説にしたが、たとえ自費出版ででも出すつもりである。
07年暮れに母が死んでからは、私はひたすら、実家へ帰るのが嫌だった。それでも、母の法事があって私が施主になるから(父は喪主すら務められなかったのだ)、いやいや帰っていたが、父は弱っていき、私は市役所に相談に行くと、包括支援センターというところへ話が行って、NPOの人が見に行ってくれることになった。昨年五月、父が転んで頭を打ち病院へ担ぎ込まれたというので、妻にメールしておいて出かけた。その時は軽傷で済んだが、その後たびたび、転んでいると連絡が入るようになった。市役所から要介護認定をしてもらったが、父が見栄っ張りで、「それくらいできますよ」などとへらへら笑いながら言ったりして、要支援になった。
父には姉や妹や兄がいるが、みな見放しているらしいし、弟は関西にいる。それでことあるごとに私が呼び出される。時には私に内緒で妻が行ったこともあった。私はある日、NPOの人に、自分は父を嫌っているのだ、と告げた。その後、たびたび転んでいるから、もう老人ホームへいれなければならないと言ってきたから、本人の意思はどうなんですと訊いたら、分からないという。
実にこの、人と意思の疎通がまともにできないというのが父の最大の困ったところで、高校生の頃から、私と話すのには母が通訳していた。耳が遠くても補聴器はつけたがらないし、実に面倒なのである。私はNPOの人に、本人が嫌だというのに入れることはできないでしょう、と言った。すると「でも放っておけないでしょう」と言うのだ。それでは話が堂々巡りである。
私は仕方なく行って、「老人ホームへ入るか」と訊いたら、聴こえないふりをする。それで、もういっぺん、有無を言わさず訊ねたら「さあ、どうだか」と言う。
私は市役所へ行き、老人介護課の人に、本人の同意なくして老人ホームへ入れることはできない、ということを確認し、NPOの人に言ってくれるよう頼んだ。
それからしばらく、NPOの人は鳴りを潜めていたが、先日、妻に電話があって、具合が悪いから行ってみてくれという。私は、ちょうど宅急便を送ったところだったので、それが着く二日後なら行くと言ったのだが、妻が翌日行ってしまった。
それで、いよいよ弱っていて立って歩けないから、老健へ入れることも考えるという話になり、NPOの人に私が電話して、状況を聞いてから、なんで妻に電話するのか、と訊いた。その人は、もう蒸し返すのはやめましょうと言うから、何を蒸し返すんですかと言うと、ご自分で考えてみてくださいと言う。私は、何も覚えがない、と頑張ると、「お父様のことが怖いとか、嫌いだとかおっしゃいましたでしょう」と言い、「お話にならないところがある」と言うので、何がお話にならないんですか、とやや声を荒げると、「市役所の担当の方に電話してください」と言うから、私は電話を切って市役所に電話したが、別に何もないとのことであった。
自分で言わないから、私は推測するしかないのだが、恐らくこのNPOの中年女性にとっては、自分の親を嫌いだと言うことは、信じがたいことなのだろう。しかし、嫌いだとか怖いとか、言葉が足りなかった。「憎んでいる」とはっきり今度は言ってやろうと思った。
(小谷野敦)