谷崎潤一郎詳細年譜(昭和24年まで)

jun-jun19652005-06-18

(写真は奥村富久子)

1948(昭和23)年        63
 1月、『中央公論』で荷風・辰野との「好日鼎談」。『新文学』で志賀との対談。栗本、中央公論社専務取締役。
   2日、第一ホテルから笹沼夫妻宛葉書、新年挨拶、長岡はやめて当地にあり一度おいで。
   3日、土屋宛葉書、当地にあり。
   8日、奥村富久子宛書簡、昨年末よりの顛末、藝のほうは如何、実は若い女性が藝道を志すこと如何かと思っていたがあなたならやり通すと思い直した大成を願う、砧(予定されていた)を観たく思う。花岡芳夫宛書簡。
   9日、左京区吉田牛ノ宮町春琴書店久保夫婦宛書簡、年賀と近況。   
   10日、久保田万太郎との対談「芸を語る」『月刊スクリーン・ステージ』第4号新春特別号。
   10日頃、土屋夫妻来訪、熱海上神町山王ホテル内の別荘の提供を申し出られる。   13日、土屋宛葉書、先日のお礼、両三日内に移る、銭の「松景濤聲」は額にしたいので表具屋へ回してくれ。
   15日、重子、恵美子、清治、夜到着。
   18日、笹沼、熱海へ。
   19日、笹沼帰宅。
  長谷川如是閑との対談「女性を描くことども 源氏物語細雪」『婦人朝日』2月号 
   20日山王ホテル内別荘六一号へ移る。家族を呼び寄せる。久保宛葉書、一度いろいろ持って来てくれ。
   22日、青山虎之助宛葉書、別荘を借りることができた。
   23日、伏見区下鳥羽長田町増田徳兵衛宛、年賀状ありがたし、近況、さて延宝以来の家業再興喜ばし、屋号について候補。
   24日、池田市綾羽町西田秀生宛葉書、近況、いずれ春陽堂から連絡。
   30日、土屋宛葉書、手紙と薬ありがたい、揮毫はもう少しお待ちを。
 2月、『小説新潮』で鼎談「藝を語る」菊五郎、三宅。『観照』で座談会「炉辺よもやま話」三津五郎、山城少掾菊五郎。『婦人朝日』で長谷川如是閑と対談「女性を描くことどもーー『源氏物語」と「細雪」」。
   1日、富久子宛書簡、お祖父様は如何、しかし祖父存生中に名をなすこと孝行、砧を舟弁慶に変更とのこと、私は能は門外漢なれどこれから気をつけて勉強する。
   3日、江藤喜美子宛葉書、母上如何、進駐軍のダイヤジンを使えば腫れ物は切開せずに治る、自分と六ちゃんの写真は小説新潮の正月(二月号の誤り)に出るもうすぐ発売。   
   7日、久保宛葉書、一枝が来る時呉春を持ってくるよう重子に伝言したが呉春に劣らぬものが手に入ることが分かった。女中の梅が癲癇の発作を起こし、京都から報せてくる。   
   17日、喜美子宛書簡、腫れ物そろそろ全快と思う、お出でにつき自分か清治を迎えにやる、来月三日は夫婦で原ちゑ(原智恵子、34)音楽会で小舟町に泊まるのでその日迎えに行ってもよし、喜代子さんは返事を中々書かないので喜美子さんに出す、小説新潮写真は不出来。久保宛葉書、封筒催促、最近東京新聞が来ない。同日奥村富久子祖父六平死去。
   20日、久保宛葉書、京都宅の風呂が壊れたそうなので修繕依頼頼む。
   23日、富久子宛書簡、祖父17日長逝来月帰洛お悔やみにゆく。
   25日、久保宛葉書、全国書房の金子は来たか等。
 3月、歌集『都わすれの記』を創元社より刊行。「谷崎潤一郎映画を語る」(古川緑波記)『映画グラフ』第4号 
  戯曲研究会三月会結成され、メンバーは上林吾郎、木下順二植草圭之助水木洋子、谷崎終平(41)。
   2日、熱海の大観荘で横山大観(81)、和田三造(65)と鼎談。九里四郎死去。
   3日、松子と上京、原智恵子演奏会。久保宛書簡みき持参、税金の相談その他。
   6日、菊池寛死去(61)。
   10日、小船町創元社より久保宛葉書、一度来てくれ。   
   12日、菊池告別式に参列。熱海へ帰る。
   13日、久保宛葉書、帰洛は二十日過ぎか。
   24日、帰洛。
 この頃明、羽毛会社を辞め、京都の北郊植物園内の米軍将校クラブにマネージャーとして勤務。
 英男、東京帝大独文科卒。大学院進学。
   25日、真山青果死去(71)。
 4月、帝劇で、新派谷崎潤一郎名作公演、「愛すればこそ」高田保演出、「お国と五平」久保田演出、「春琴抄」川口演出、いずれも花柳主演。『文藝』で座談会谷崎潤一郎、辰野、伊藤整平野謙、武田。同月、谷崎を顧問に『邦楽と舞踊』創刊。文潮選書『悪魔』刊行、解説・宇野浩二
   4日、五所平之助『面影』封切、これより先か、五所と対談させられ、『面影』の悪口を言ってしまい、以後沈黙を続けたという。
   9日、明の勤務先のウィリアム・ヴォーン少佐夫妻を桃山美術館洛南荘に招く、松子恵美子、渡辺夫妻。祇園の藝者ら、初子と久しぶりに会う。保坂宛葉書。
   11日、ウェイリーから聞いたと言って英国「オブザーヴァー」のミス・オナー・トレーシー来訪、明に通訳を頼む。午後金剛能楽堂に、トレーシーを伴い、奥村富久子の舟弁慶を観る、新村も来る。
   13日、トレーシーを招き、全国書房の田中主催で祇園西垣にて座談会、明も出たが、阿部知二来てよく語る。細雪ウェイリーに贈るべくトレーシーに託す。
   16日、松子が梅を阪大病院に連れて行く。布施に胆石の予後を見てもらう。
   17日、松子から初子宛、五日行けずすまない、来月五日吉田へは行く。昨日阪大へ行ったが神経過労と言われ。  
   22日、嶋中宛書簡、手紙拝見、そういう訳なら細雪増刷は完成まで待つ、熱海に住む予定の由自分も年内に又出掛けるつもり、いつ頃からかお知らせを、青春物語、文藝春秋新社では諦めてくれたので着手願う、装幀題簽等変えたい。細雪稿料こう安くてはとんだ約束をしたと後悔。
 5月、高峰秀子との対談「映画についての雑談」を『オール読物』に、志賀・吉井との鼎談「京の春を語る」を『苦楽』に掲載。
   2日、吉井宛葉書、9月9日和辻の会、吉田山の東伏見邸にて。
   3日、吉井宛葉書、念のため返事を。
   7日、土屋宛葉書、細雪現在浄書中、双葉会趣意書も執筆中、下旬頃上京予定。
   8日、栗本和夫ら荷風を訪ね、中公社内紛擾で小瀧退社のことを告げる。
   21日、土屋宛葉書、24日頃熱海行きそれから上京。
   24日頃、熱海か。
   26日、与野笹沼邸へ。
   27日、宗一郎、千代子と浅草の常盤座・ロック座見物。常盤座は『浅草紅団』とデカメロンショウ「覗かれた女線」ヘレン滝、メリー松原出演。
   28日、「細雪」を脱稿。笹沼方より松子宛書簡、30日終平の雑誌の座談会、31日笹沼夫妻と熱海、二三日で帰洛。東京へ帰る。福田家泊。
   29日、新橋演舞場京舞公演を観る。千代子、喜代子と。四世井上八千代(44)ら出演。
   30日、小瀧穆、荷風を訪ね、谷崎が銀座万年堂で待っていると伝える。共に万年堂に行き、万年堂の案内でカフェーと舞踏場を観る。
   31日、笹沼夫妻、登代子と熱海へ。
 6月4日、笹沼ら帰宅。
   帰洛。
   13日、太宰治自殺(40)
   15日、西田宛葉書、先日は不在で失礼、中国の友人で奈良漬の好きな人入洛滞在中ゆえ分けてくれぬか。
 7月、「追憶」を『文藝春秋別冊』に、「越冬記−−疎開中の日記より」を『小説界』に掲載。「追憶」は菊池寛追悼で、丁未子の離婚後、菊池が再婚に尽力したことを感謝。「客ぎらひ」執筆。   13日、荷風の紹介状を持って扶桑書房清水嘉蔵来訪。
   16日、野村順三宛書簡、父上逝去につき。
   23日、京都大雲院茶席で川田、新村と鼎談。 
   26日、土屋宛葉書、月末熱海にそれから上京。
   30日、与野笹沼邸へ、夕食。
 8・10月、「所謂痴呆の藝術について」を『新文学』に分載。
 8月、「雪」執筆。大坪砂男(45)の「天狗」、佐藤の推薦で『宝石』に発表され、乱歩に絶賛される。佐藤春夫吉井勇辰野隆藝術院会員となる。         
   2日、吉井勇、八幡町から上京区油小路誓願寺町に転居。
   3日、藤田圭雄、中公に復社して出版部長。 
   9日、熱海山王ホテルより西田宛葉書、校正手紙拝見、春陽堂へは校正返した、なお熱海にいることは秘密、月末帰洛。
   11日、京都大学教授中川与之助、川田順と恋仲になった妻俊子(41)を離縁。同日付、吉井より書簡、川田の様子を見に行って話したが、太宰のようにはなるまい、少々自分勝手な所もあり。
   12日、明激しい腹痛を訴え勤務先から送還。日曜ゆえ近所の外科医に来てもらうと胆石らしいと言うが実は胃癌。
   13日、土屋宛葉書、お願いの硯が届いたらついでの折に持参願う。
   16日、一枝宛書簡、婦人公論見つからず、あったら送ってくれ。その他。 
   17日、熱海市稲村大洞台野口別荘方志賀宛葉書、京都が暑いので逃げてきた、嶋中が会いたいというので同道如何。
   25日、新潮文庫より『蘆刈』刊行、解説・本多顕彰
   28日、土屋宛葉書、巻物と硯ありがとう、そろそろ帰洛、その前に上京するかしないか不明。                 
   29日、志賀宛葉書、三日嶋中同伴参上、都合悪ければ嶋中までお知らせを。
 9月、『読物時事』に渋沢秀雄小島政二郎高田保との座談会「谷崎潤一郎をかこむ座談会 観る話・食べる話」掲載。春陽堂文庫『卍』刊行、解説・辰野隆
   3日、嶋中と志賀を訪ねるか。
   4日、熱海より富久子宛書簡、涼しいので長逗留している、皆様で冬にでもお出でを、七日に帰洛。同日、嶋中宛封書、使者持参、領収書、月曜(6日)は上京、ついでに画帳持参するが不在でも結構。
   6日、上京か。
   7日、帰洛か。
   13日(推定)ウェイリーより毎日新聞の工藤信一良(43)より『細雪』貰ったお礼の手紙。かつて『猫と庄造』を貰ったことなど。
   15日、嶋中鵬二、社長秘書として中公入社。
   16日、新村を介して助手を求め、京大国文科院生榎克朗(25)来訪、助手の仕事をする。まず「世継物語」の、大納言国綱の妻を時平が奪った話、今昔物語では国経とあるがこれに子供はいたか調べるよう。
   17日、十五夜南禅寺境内金地院内上田龍之助邸で月見の宴。二代茂山千作(85)が「弱法師」、千五郎(三代千作、53)が「福の神」を特別に舞う。その他七五三(四代千作)、千之丞(十二代千五郎、30)、上田一家、山内達三一家が揃う(「月と狂言師」)。
   24日、目黒区下目黒高岡瀧三方根津清治宛葉書、すぐ嶋中か栗本に会い、京都へ送金したかどうか、まだならすぐするよう伝言願う。
 10月、「雪」を『新潮』に、「客ぎらひ」を『文学の世界』に掲載。『洛味』に、川田、新村との鼎談「新日本の黎明を語る」掲載。
   6日、嵐の中、与野笹沼邸へ。泊。
   8日、日比谷音楽堂でクロイツァー、ベートーヴェンソナタ四曲を、宗一郎、千代子と聴く。
   11日、岡本一平死去(63)。
   15日、清治宛書簡、来る25日中公へ行って社長か栗本から金受け取り帝国銀行当座預金に送ってくれ。 
   16日、安倍能成(66)宛書簡、『心』寄稿の件、戯曲は無理だが来年春ごろまでには何とかする、同人諸氏によろしく。清治宛書簡(八木)
   22日、土屋宛書簡、帝国銀行預金のこと、入洛の際相談したいがいつか。入洛次第熱海へ行くつもり。
   24日、喜美子宛葉書、菊五郎は具合悪い様子、来る一日ラジオで自作地唄の演奏あり。
 11月、「『細雪』その他(『細雪』回顧)」を『作品』に掲載。扶桑書房より『永遠の偶像』刊行。折口信夫『古代感哀集』が藝術院賞を受賞、谷崎も一票を投じるが、『古代研究』の続編だと思っていたと池田弥三郎にのち告白(池田ら「芸術院をめぐって」『俳句研究』66年2月)
   1日、ラジオの放送藝能祭で谷崎作詞地唄を富崎春昇(69)演奏。
   19日、奥村富久子、観世流師範を許され、京都金剛能楽堂で菊慈童と葵上を演ずる。
   21日、嶋中宛葉書、25、6日熱海に行く金受け取りに27日頃訪ねる、連載物は武州公続編はやめて別のものを執筆中。
   26日、熱海へ。
   30日、熱海より喜美子宛葉書、東京劇場(新橋の間違い)春雨傘上演、暁雨は海老蔵(40)か幸四郎(七代、80)か、海老蔵なら観たい、一緒に観て帰りに熱海へ来ないか、喜代子に、一度来遊と伝言を、君か千代子さん一緒、赤ん坊連れでもよし。同日、川田順、恋の苦悩から谷崎、吉井、新村、砕花らに遺書、歌稿を送り家出、左京区岡崎真如堂に身を隠し自殺の機を窺うが、養子周雄に発見されて連れ戻される。
 12月1日、熱海より富久子宛書簡、出立の際はいつも慌ただしく、一度あなたをここへ案内したい、先日の披露は華々し。しかし敵も多いようで悪口を言う者ありと聞く、無用に敵を作らぬよう、私は崇拝者味方。松子へ稽古よろしく。同日、土屋宛書簡、銭氏書画会案内届いた当日は多忙で行けぬ、新田支配人のおかげで修繕済んだ、吉井勇への贈呈品あれだけでは足りぬと思いウィスキー追加した。
   3日、川田の自殺未遂、新聞種となりホテルで談話。川田に「月中頃帰る、勇気あれ」と打電。
   4日、東西「朝日新聞」に川田記事、谷崎談話。
   5日、岩波文庫より『蓼食ふ蟲』刊行、解説・平野謙
   6日、熱海より土屋宛葉書、ウィスキーのこと。
   8日、「細雪」により朝日文化賞受賞。
   9日、千代子・登美子・登喜子熱海へ。
   10日、『細雪』下巻を中央公論社から刊行。
   11日、熱海より富久子宛書簡、正月の会のことありがたく、しかし松子と年内に熱海へ戻る予定、三四月の会なら出席可、17、8日頃帰洛。
   12日、熱海より土屋宛葉書、十四日頃上京三日ほど滞在、帰洛の後25、6日に熱海へ戻る。
  「月と狂言師」を『中央公論』新年号に発表。
   15日、藤田圭雄、取締役理事。
   17日、上京、新橋演舞場で侠客春雨傘、暁雨は海老蔵男女蔵の釣鐘に食われたようであまり満足せず。
 この頃銀座に保坂幸治を訪ね、孫の(田中)康子に初めて会うか。
   19日、帰洛。
   20日、川田を見舞う。嶋中、この日より病臥。
   23日、東条英機広田弘毅ら絞首刑。
 この年、清流社から『鶯姫−戯曲、他三編』、雪月花書房より『青春物語』、文藝春秋選書の一として『小さな王国』、春陽堂文庫より『卍』刊行。

1949(昭和24)年        64
 1月、折口信夫「『細雪』の女」を『人間』に掲載。
   3日、嶋中、娘とともに年賀に来る。
   7日、松子と志賀を訪問。ペンクラブの水島治男、舟橋夫妻、谷川徹三ら来る。
   16日、朝日賞授賞式で上京。
   17日、新橋演舞場菊五郎を楽屋訪問、五斗兵衛の出来もよし、海老蔵助六には失望。嶋中雄作死去(63)。
   18日、嶋中鵬二、社長就任。
   20日築地本願寺の嶋中葬儀で弔辞。
   22日、志賀、吉井夫妻と熱海で会う。
   23日、山王ホテルから西田宛葉書、細雪愛蔵本は番号打ってなくそれでいいか。
   24日、与野の江藤喜美子宛書簡、三月一杯はここにいる。近況。土屋宛葉書、帰宅後調べたが三つ星は来ておらず五つ星どちらでもよい、銭氏に、ゴルフは支那語で何というか聞いてくれ、前田青邨返事待つ。
   25日、富久子宛書簡、「月と狂言師」に無断で名前などを出し怒っていないか掲載誌を送るどうか怒らずにお詫び、許しが得られればあなたの小伝を書きたい。
   26日、土屋宛葉書、梅原龍三郎が別荘を探していると志賀から頼まれたが君の吉浜の宅はまだ決まっていないか。
   27日、七世松本幸四郎死去(81)。
 2月1日、土屋宛、画家のこと、鏑木は平安朝女性描写に適さず、堂本印象、伊東深水は嫌い、安田に相談してみる。
   3日、大磯の安田靫彦宛書簡、昨年来山内氏を通じてありがたし、しかし青邨もダメ、一度会って誰か推薦願いたい。
   5日、富久子宛書簡、手紙で立腹でないことが分かり安心、(台本として)何か書いてくれとのこと五六行でいいのか。伝記許可お礼あなたには京都の伝統美が一身に集まっている、なお私の手紙に対し一々返事無用。
   6日、長野草風、横浜で死去(65)。
   「嶋中君と私」を『中央公論』3月号に掲載。
   14日、一枝宛書簡、16日の汽車に乗ってくれ。
   17日、熱海駅で松子重子恵美子と一枝を迎えそのまま上京か。 
   下旬、毎日新聞社書籍部野村尚吾、「少将滋幹の母」単行本化の件で訪れる。 
   28日、大洞台野口別荘志賀宛葉書、富崎春昇の会は三月七日か八日、今日高井さんの座敷見て気に入り、十日ほど借りる。
 3月、『文学界』で折口、川端と「細雪をめぐって」。「京舞を語る」井上八千代・井上佐多(司会)武智鉄二『邦楽と舞踊』創刊号(谷崎・菊五郎顧問)
   7か8日、春昇の会か。
   12日、「細雪」完成を記念して中公社員一同熱海第一ホテルに一泊の招待。
   14日、安田宛書簡、もし青邨が引き受けてくれるならよし、会うつもりでいたが三日以内に帰洛するゆえ細雪下巻別便で送る。草風死去痛ましいが故人とは晩年十年ほど疎隔、香華は送ったが葬儀には行かず。
   16日、志賀宛葉書、昨日河出の者来て座談会司会者片岡と聞き面識ないので面識ある人をと言ったが志賀推薦の人ならよし、谷川徹三など如何、明日帰洛。
   17日頃、帰洛か。
   19日、富久子宛、能の会プログラム用文章原稿、後援会趣意書は材料欲しく明朝参上。
   20日、富久子を訪ねるか。
   27日、中塚の娘が結婚するので明夫婦は部屋を明け渡し、下鴨三井別荘の離れ家を借りる。谷崎、渡辺夫婦で、下鴨泉川の別墅を見に行き、谷崎と明は気に入る。
   28日、富久子、金剛能楽堂で「小袖曽我」母、舞囃子桜川。
   30日、上京、笹沼宅。
   31日、藝術院会員藝能関係者とともに、天皇の招待で会食。宮内府長官田島から司会をするよう言われる。菊五郎吉右衛門三津五郎喜多村緑郎、山城少掾、吉住小三郎、稀音家浄観、富崎春昇、宮城道雄、近衛秀麿、安藤こう、信時潔。笹沼宅へ帰る。
 4月、談話「『細雪』瑣談」を『週刊朝日』春季増刊号に掲載。『主婦の友』に「文豪谷崎潤一郎先生と石坂洋次郎先生の春宵対談」掲載。
   1日、中央公論社へ。後藤、和辻と鼎談。
  大阪歌舞伎座で、田中千禾夫演出「お国と五平」上演、四世富十郎、我当(十三世仁左衛門)、簑助。
  宇野浩二広津和郎、藝術院会員となる。
   3日、熱海から(?)中央公論宮本信太郎宛書簡、在京中世話に、細雪売れ行きよいようで同慶、二十日までに印税三十万円帝銀京都支店へ振込願う。また栗本氏へ伝言、甥谷崎英男入社の件、思想が左傾しておるやもしれずこちらは責任を負わぬそちらで調べてくれ。
   6日、帰洛。
 切符を手配されたので「お国と五平」を観に行くが失望して帰ろうとすると呼び止められ、社長室で白井信太郎、田中澄江らに会い、それから朝日会館で民芸の「山脈」を観る。
   9日、宮本、栗本和夫宛書簡、全国書房社員末永上京につき検印六万届ける。宮中へ献上の本の箱は如何、盲目物語も創元社のより中公のがよいのでこれを献上、装幀願う。
   12日、宮本宛速達、箱は別に自分用を頼む、前田に伝えてくれ。
   17日、宮本宛速達葉書、送金確認、上製本検印捺印中。
   18日、土屋宛葉書、先般上京の折はご病気で会えず残念。熱海の家留守、自由に使ってくれ。
   23日、土屋宛葉書、熱海特に大事なものはなし、留守居近々遣わす、今度京都で移転、来月三四日に熱海へ。
   28日、金剛能楽堂で富久子後援会・猶久会第一回。舞囃子忠度、富士太鼓ツレ、プログラムに谷崎筆「奥村富久子さんについて」。「再婚の意志を断つて」とあるのは、まだ南条を受け入れまいと決心していた時に頼んだものだが、この時点では気持ちが傾いていた。
   29日、宮本宛書簡、移転のこと、検印一万二千末永氏に託す。箱急いでほしい。左京区下鴨泉川町五番地(後の潺湲亭)に転居。南禅寺の家には渡辺夫婦が入る。
 5月、「『お国と五平』所感」を『観照』に掲載。武智鉄二宛書簡の形式で、上演に不満だったが、『幕間』に俳優三人と田中が座談会をやって自讃しているのを見て言いたくなった。『塔』で後藤の司会で和辻と「春宵対談」。今東光によるインタビュー「熱海夜話、歴史小説など」『歴史小説』。『源氏物語』新訳の準備に、旧訳で削除された箇所を調べるよう榎に頼む。臼井書房から『友田と松永の話』刊行。
  大阪歌舞伎座で新派『春琴抄』再演、花柳。
   5日、長田秀雄死去(66)。
   7日、富久子は南条との別れを告げるがこの日付で南条からの散々に乱れた手紙あり。
   13日、中村武羅夫死去(64)。
   20日、宮本宛書簡、下旬上京の予定が移転のゴタゴタで多忙、延期。箱のこと、藤田と山田博士を訪ねる件、来月上旬なら可、細雪は売れ行き止まったようだが廉価版はいつ頃か、その他金のこと。
   27日、松子重子恵美子に高杉妙子でヤサカグランドに行く。留守の谷崎と明の夕食中、明が大酔したので連れ出して祇園吉初、小豆と小富美を呼ぶ。
 6月、谷川徹三司会の志賀との対談「回顧」を『文藝』に掲載。
   宇治山田に中央公論社藤田圭雄(45)、榎とともに山田孝雄を訪ね、新訳の校閲を頼む。
   3日、佐藤紅緑死去(77)。
   11日、朝、明血を吐く。
   18日、土屋宛葉書、それならお使いください。婚儀祝いのこと。
   23日、安田宛書簡、挿絵のこと前田に執拗に食い下がったが逃げられ残念、提案の二人のうち中村は気に入らず小倉遊亀(54)に頼みたい。毎日社員それで行くかもしれず。     
   28日、松子恵美子と熱海へ。重子は明のため残る。
   29日、熱海より安田宛葉書、急に十日ほどの予定でこちらへ、小倉さん面会希望の由、三日ほど上京するのでその後、尊宅で会えればよし。夕食後三人で熱海劇場へ『フランチェスカの鐘』を観に行き帰ると重子から「アキライガンアスレントゲン」の電報、驚愕する。
   30日、松子より重子に、夜八時電話すると電報、谷崎は上京して中公、土屋を訪ねその息子の結婚祝い。明胃癌の疑いは晴れたが肝臓癌かも知れず、谷崎帰洛を待って布施の診察を受けると。
 7月、『月と狂言師』(300部限定)を梅田書房より、現代小説大系第二十巻「新浪漫主義5荷風・谷崎」を河出書房から刊行。
   1日、東京創元社で松子と落ち合い、同社小林の招待で下谷の博雅で支那料理、松子は森田家、谷崎は笹沼に泊。宗一郎長男東一を初めて見る。
   3日、小倉遊亀に会い挿絵のこと頼む。
   4日、弁護士会会長奥山八郎、喜代子、江藤哲夫、喜美子と銀座に出て、思い立って、毎日新聞山口の案内で築地の菊五郎を見舞う。市川三升(68)もいる。熱海より宮本宛書簡、金の分配について、笹沼に預ける分、土屋に預ける分、手紙は清治持参か。同日、土屋宛書簡、八日に宮本が金持っていくはず。追って葉書、名義は谷崎松子に。
   5日、与野の喜美子宛葉書、菊五郎を見舞う、血色悪し、阪大布施博士上京を待って診てもらうはず。夜清治より明のことで話ありと電報、急遽一人夜行で出発。
   6日、帰洛、南禅寺渡辺方へ。山口医師に来診を乞うと、レントゲンを撮り、胃癌もあるが肝臓へ広がっていると、8日布施に会いに行くことにし重子には秘密。
   7日、安田宛書簡、その後小倉に会い引受てくれた、病気は如何いずれお見舞い。   8日、阪大布施を訪ねるが、レントゲン写真だけでは分からないと言われる。笹沼、宮本を訪ね、宮本、土屋を訪ねる(?)
   10日、六代目尾上菊五郎死去(65)。
   15日、『乱菊物語』を創藝社より刊行、挿絵北野恒富、装幀北野以悦。
   16日、布施南禅寺へ来診、至急手術の要あり。松子ら熱海から帰る。
   18日、重子に明の病名を告げる。
   20日、阪大より寝台自動車来て、明出発、重子清治、女中しづ、山口医師がついていく。松平康春来て泊まる。
   22日、康春と阪大へ。手術。今年一杯の命と言われる。重子泣きつづける。
   31日、重子京都へ帰って二泊休息。
 8月、『小説界』で白鳥、無想庵と「青春回顧」。
   2日、重子大阪へ。
   8日、明の姉首藤照子の息信成来る。
   11日、明退院、南禅寺に戻る。
   23日、阪大から吉岡医師来診、送っていって聞くと、後三四ヵ月と言われる。
   30日、熱海へ。
 9月、「終戦日記(疎開日記)」を『婦人公論』に、「京洛その折々」を『旅』に掲載。『映画ファン』で京マチ子と対談。四条の公楽会館でマチ子に初めて会った?。
   1日、安田宛葉書、小倉是非一度京都へ来てほしい。土屋宛葉書、十日ほど滞在、四日上京、五日に訪ねる予定。
   2日、熱海で志賀に会う。(志賀の川田宛書簡)
   4日、上京か。
   5日、土屋訪問か。
   10日頃、帰洛。
   23日、新薬があると聞いて高折医院を訪ねる。
   26日、熱海志賀宛葉書、明のことお尋ねお礼、十月末には難しかろうというので我等も覚悟、出版社が色々言って失礼、「月と狂言師」は中公より出版の予定。
   29日、森田朝子、明見舞いと森田家母三回忌で入洛。
   30日、百万遍で森田亡母法要。富久子来訪、松風を舞う。重子頻りに泣いてやまず、転倒して顔を傷つける。
 この秋、南座の歌舞伎を昼夜続けて観て帰ってきて、一時的記憶喪失に陥る。
 秋、茂山千作が東京で千五郎と「月見座頭」を演じ、皇太子明仁ら来る。谷崎も安倍能成に招かれて行き皇太子らに会う。
 10月、「藤壺−「賢木」の巻補遺」を『中央公論』文藝特集第一号に掲載。削除した部分。
   5日、松子と熱海へ。
   10日、帰洛。
   11日、明を見舞う。
   12日、午後十時過ぎ明危篤と電話、松子恵美子と行く。信子も来る。
   13日、松平康春、市島隆子、妹の松平鶴子来る。
   14日、松平一家を辻留でもてなす。九時南禅寺より電話、松子朝子と駆けつける。紀三郎も来る。
   15日、午前三時三十分、渡辺明死去(53)。
   16日、大映痴人の愛』、木村恵吾監督・京マチ子宇野重吉で封切。明通夜。
   18日、百万遍塔頭瑞林院で告別式。
 同月、藤井啓之助入洛し再会。
   26日、土屋宛書簡、五十万必要なので振込願う。来月は上京。
   28日、谷崎の媒酌で奥村富久子、能楽師南条秀雄と結婚。双方の師匠から破門される中、富久子の母から頼まれた。谷崎はそれまで南条を知らず。武智も出席。
   29日、松子、新夫婦宅へ「部屋見舞」。
   31日、下鴨から土屋宛葉書、三日文化勲章授与式で上京。濱本、毎日の藤田らと吉初に遊ぶ(濱本)
 11月、『観照』で「六代目菊五郎の死をめぐって」山城少掾、吉井、林秀雄、北岸、多田、沼、武智。
   1日、上京。
   3日、志賀直哉らと共に第八回文化勲章受章。笹沼一家と福田家で夕飯。
   15日、下鴨より津島宛書簡、受章の祝詞お礼、同室会を京都でやっては如何。国府津川田順宛葉書、祝詞お礼、冬は熱海で拝顔か。
   16日から翌年2月9日まで「少将滋幹の母」を『毎日新聞』に連載、担当は山口広一。当初朝日新聞に予定されていたが、新字新かなに固執したため変更。
 12月、『細雪 全』を中央公論社から刊行。高田瑞穂『谷崎潤一郎』(市ヶ谷出版社)刊行。
   7日、「都新聞」に富久子の結婚と破門の記事。
   10日、下鴨より嶋中鵬二宛葉書、「月と狂言師」校正届いたが元原稿も送ってくれ、菅の絵面白くできた送る。池崎忠孝(赤木桁平)死去(59)。
   12日、嶋中宛書簡、代筆、菅の絵送る、原稿早く送れ、先日黄蜂社の寺田が細雪再掲載したいと言ってきたので断りたかったがそちらへ回したが承諾したと言うが本当か今後はあまり許可しないでくれ。熱海へ行って二十日から25日の間に上京。
   14日、森田草平死去(69)。
 その後熱海へ。車中で露伴の「幻談」その他を再読、また阿部知二訳『白鯨』(筑摩書房、24−25刊)を夢中で読む。
 この年、愛翠書房から『お才と巳之介』刊行。