谷崎潤一郎詳細年譜(昭和40年まで)

jun-jun19652005-06-26

(写真は谷崎お気に入りの女優・淡路恵子)

1964(昭和39)年        79

 1月5日、『京都新聞』で「初釜清談」谷川徹三、佐伯米子、入江、千宗興、三島。
   15日、吉川幸次郎中村歌右衛門ら、藝術院会員。
   20日渋沢秀雄宛代筆書簡、先日は久しぶりに、その際頼んだ本(渋沢敬三『瞬間の累積』)届いた、渋沢篤二(敬三の父)には会ったことがないのでよろしく。
   24日、サンケイホールで『日本の文学』刊行記念文藝講演会で演壇から挨拶。大岡、有吉佐和子小林秀雄大宅壮一ら。
   25日、日本の文学『谷崎潤一郎集(一)』を中央公論社から刊行。
 2月10日、葉山の三井クラブに滞在中、松子が出血。
   11日、重子が付き添って都内の病院へ検査に行く。谷崎は伊吹を呼んで、癌ではないかと懸念する。
   時々心臓の発作を起こし、一時赤坂の心臓血管研究所へ入院。
   25日、心臓研究所より鮑宛代筆、来日嬉しいが病気で会うことできないかもしれず、研究所へ電話下さい。
   28日、辰野隆死去(76)。
 3月1−25日、歌舞伎座で『源氏物語』上演。
   21日、鹿ケ谷法然院千萬子宛、現金書留。
   23日、鮑宛代筆、見舞いお礼、会えずに残念、数日前退院し表記のアパート、今月中に西山に帰る。

 4月、全米藝術院・米国文学藝術アカデミー名誉会員に推薦される。
   『國文學』特集・荷風と潤一郎。
   しばらく入院。
   5日、三好達治死去(64)
   『心』に談話「若き日の辰野隆
   中旬、熱海へ帰る。
   27日、松子より長尾宛書簡、都踊り招待券。
 5月3日、長尾より松子宛書簡、これから修学旅行。
   6日、佐藤春夫、ラジオの録音中に急逝(73)、長田幹彦死去(78)。
   「佐藤春夫のことなど」を『朝日新聞』、「佐藤春夫芥川龍之介」を『毎日新聞』に掲載。
   10日、青山斎場で佐藤葬儀。
   30日、鮑宛代筆、宣統帝自伝お礼、漢文読みにくいがぼつぼつ読むつもり。
 6月、「路さんのこと」を『マドモワゼル』に寄稿。
   15日、サイデンステッカー『現代日本作家論』新潮社より刊行。
   17日、米国大使公邸で名誉会員証贈呈式、松子、伊藤、安倍、三島、武者小路、森戸辰男、山田耕筰橋本明治、市川寿海今日出海、林武、キーン、サイデン。
   21日、武智鉄二の第三プロダクション『白日夢』封切、路加奈子、石浜朗
   30日、警視庁が『白日夢』映倫にカットを要請。
 7月、『シナリオ』に「白日夢」のシナリオが掲載され、「『白日夢』の映画化に寄せて」を寄稿。橘弘一郎編『谷崎潤一郎先生著書総目録』第一巻、ギャラリー吾八より刊行。
   11日、神奈川県湯河原町吉浜字蓬ケ平一八九五−一○四に湘碧山房を新築転居。
   『週刊朝日』24日号で荒垣秀雄と対談。   
   15日、鮑宛葉書、「金石篆刻研究」お送りお礼、広東犬の雄の黒いの欲しい。
   19日、鮑宛代筆、書生本色水晶印の件、日本にはいい鉄筆家がいないので、むしろ私から中国の人に頼みたい。
   25日、大映『卍』監督増村保造封切、脚本新藤兼人若尾文子岸田今日子
 8月、現代文学大系『谷崎潤一郎集(一)』を筑摩書房から刊行。
   10日、ヒベット宛代筆、六月の祝賀会の際の祝電お礼、サイデン宛代筆、祝賀会のお礼、週刊朝日荒垣対談は書き方が悪く細雪について真意伝わらず、一度拙宅へ。
   12日、第三プロ『紅閨夢』封切、茂山千之丞、川口秀子。
 9月、大阪高島屋「浪速御民菅楯彦展」パンフレットに「菅楯彦氏の思ひ出」を寄稿。『婦人公論』で「卍のコンビ女の秘密を語る」岸田今日子、若尾との座談会。
   4日、鮑宛代筆、書生本色お送りお礼、中村光夫佐藤春夫論」は早速送る。
同月始め、サイデンスティッカー、ヒベット、キーンが谷崎邸訪問。
   27日、朝九時五分からNHKラジオ第一放送「日曜訪問」で高峰秀子と対談。
   28日?『週刊文春』10月5日号にグラビア「湘碧山房でくつろぐ谷崎潤一郎氏」、「『紅閨夢』のようなばかばかしいものは見ません」。
   30日、東販のパンフレットのために和装研究家の石川あきと対談。
 10月、棟方志功『板極道』に序を寄せる。「新々訳源氏物語序」筆記。
   10日、東京オリンピック開幕。
   26日、河盛好蔵(63)来訪、対談。 
   29日、源氏第一巻月報のために福田家でヒベットと対談。
 11月、佐藤春夫編『詩文四季』(雪華社)に「四季」収録。
    4日、大佛次郎文化勲章受章。花柳章太郎文化功労者
   『新刊ニュース』15日号、石川あき対談「秋日閑談」。
   8日、松子より大村幸子宛、贈物お礼、結婚は潮時を見てしたほうがいい、など。
   18日、新宿の伊勢丹デパートで「谷崎源氏を着る会−−原稿、装画、装釘展」開かれる。
   『小説現代』1月号で河盛と対談。    
   25日、展覧会最終日、松子が代理で署名をしていた頃、前立腺肥大による尿閉を起こす。『谷崎潤一郎新々訳源氏物語』(全十巻別巻一)を刊行開始(40年10月完結)安田靫彦題簽、中扉、装幀。
    湯河原の医師井出隆夫の診察を仰ぐ、また熱海国立病院の泌尿器科戸沢孝にも。戸沢の紹介で、中旬、東京医科歯科大学教授落合京一郎の来診。
 12月31日、腎盂炎で四十度の熱。
 円地文子「小町変相」を読む。

 この年、中根駒十郎死去(83)
 G. Renondeau訳Quatre Souers, Gallimardより刊行。

1965(昭和40)年          80

 1月5日、千萬子宛代筆、たをりは無事着いた。お手伝いさんをやったのは一日も早くたをりに会いたかったからなのに留守をさせて年始回りをしていたそうで。喜代子、登代子、喜美子、湯河原へ見舞いに来る。安倍能成夫婦来訪(安倍)
   6日、花柳章太郎死去(72)。
   8日、舟橋の車で、井出に付き添われて東京医科歯科大学附属病院に入院。内科の宍戸英雄が様子を見る。
   9日、上田来診。
   10日、松子より井出宛お礼の書簡。
   12日、大坪砂男死去(62)。
   22日、松子より井出宛書簡、先日はお見舞いお礼、谷崎は湯河原で井出に診てもらって余生を送りたかったと涙ぐんでいる。
 2月、丹羽文雄、藝術院会員。
   3日、千代子の見舞い。
   5日、腹壁に穴をあけ、そこへカテーテルを差し込む手術。
   19日、宗一郎が見舞い。
 3月2日、喜代子が見舞い。
   7日、『群像』4月号に円地文子「あられもない言葉」読む。
   9日、退院、観世家で静養。
   24日、鮑宛代筆、二三日前退院、「広東印人印譜」と「書生本色」拝受お礼。
   28日、鮑宛代筆、同趣旨?
   「円地文子さんのこと」『円地文子文庫』講談社内容見本に寄せる。
   津島寿一『谷崎潤一郎君のこと−−芳塘随想第十三集』芳塘刊行会より刊行。
   31日、後藤宛代筆葉書、入院中見舞いお礼、四月には京都へ行き月末帰ってくる。
 4月、上旬湯河原に帰る。観世一家は赤坂の高畠家の隣の新築の家に移る。
   7日、中国作家代表団団長老舎(66)、副団長劉白羽、副団長劉延州、日中文化交流協会会長白土吾夫、佐藤純子、湯河原を訪れる。
   10日、高畠夫妻、朝吹三吉夫妻を招いて小宴。
   谷崎潤一郎賞制定され、伊藤、円地、舟橋、武田、大岡、三島、丹羽が選考委員となる。
   20日、『新々訳源氏』五巻刊行。
   27日、松子より大村幸子宛、結婚決まってめでたい、一度おいでを。
 5月、花柳章太郎『舞台の衣装』に追悼文を寄せる。ドナルド・キーン『BUNRAKU』講談社インターナショナルのために「浄瑠璃人形の思ひ出」を寄せ、英訳さる。
   3日、中勘助死去(81)
   7日、谷崎松子「『源氏』と谷崎潤一郎と私」『婦人公論』6月号に掲載。
   9日、喜代子、喜美子、千代子がメロンを持って見舞い。
   京都に遊ぶ。初めて飛行機に乗る(高峰)。法然院の渡辺宅に滞在。帰宅後、千萬子との交流を一切断つと松子に告げる(伊吹)
   22日、鈴木宛代筆、先日は久しぶり、ヴィヨン全詩集届いた。
27日、嵐山吉兆で津島夫婦と会食(「芦辺の夢」)
 6月6日、喜代子と寄席に出掛ける。
 Howord Hibbett訳Diary of a Mad Old Man, Knopf より刊行。
   12日、鮑宛代筆葉書、只今東京、月末に湯河原へ帰る。
   16日、警視庁、武智鉄二監督の映画『黒い雪』を猥褻罪容疑で押収。  
   19日、福田家で浪花千栄子、松子と座談会「谷崎潤一郎先生を訪ねて」。
 7月5日、池袋ヒベット宛代筆、十日ばかり京都旅行先日帰宅、昨日クノップから瘋癲の英訳届いた。お礼。
   上旬、「七十九歳の春」筆記、かつて東大上田内科に入院していた時、前立腺を除去してくれれば良かった、と書く。
   13日、井出医師から松子に、当時谷崎の心臓は弱っていて手術はできなかったと話す。
   14日、谷崎、松子からそのことを聞き、追記。
   日本現代文学全集『谷崎潤一郎集(二)』講談社より刊行。
   23日、久保宛葉書、「実存主義辞典」。
   24日、七十九歳の誕生日を祝う。桂男を迎えて上機嫌。
   25日、朝薄い血尿を見、夜悪寒を覚える。
   26日、腎臓に痛み、井出の来診。
   27日、腎不全とされる。
   28日、落合、竹内来診。江戸川乱歩死去(72)。
   29日、上田来診。土屋から、熱海まで来たが寄れない、と見舞い。
   30日、朝方、井出が来診し、帰るのを見送った後、心臓発作。井出戻って来るが心電図は停止、心臓マッサージを施すが、午前7時半、腎不全から心不全を併発して湘碧山房で死去。熱海の人々が集まり、大乗寺の住職が枕経をあげる。紅沢葉子が一晩遺骸の番。    

 −−以後満年齢表記−−

   31日、午後一時納棺、三時出棺、小田原の火葬場で荼毘に付される。
 8月、『うえの』に「谷崎潤一郎先生を訪ねて」掲載。
   2日、午後6時から8時まで福田家を借り切って通夜。富山清琴の「残月」の演奏。夜、新坂町の観世の家にお骨と位牌を安置する。
   3日、青山葬儀所にて葬儀。葬儀委員長は嶋中鵬二、導師は今東光川口松太郎が進行。弔辞は日本芸術院高橋誠一郎日本文芸家協会理事長丹羽文雄日本ペンクラブ会長川端康成、友人代表津島寿一、後輩代表舟橋聖一高峰秀子献花。戒名は安楽寿院功誉文林徳潤居士。今東光は「文徳院殿居然潤朗大居士」の戒名をつけたが、寺が法然院なので採用せず。。
   5日、午後6時、福田家で初七日の供養が営まれ、観世銕之丞・栄夫によって「隅田川」が手向けられる。
   7日、『婦人公論』9月号に遺稿「にくまれ口」掲載。光源氏は好きになれない、とあって人々を驚かせる。三島「谷崎朝時代の終焉」を『サンデー毎日』15日号に掲載。
   谷崎潤一郎賞第一回受賞作は小島信夫抱擁家族』。
   10日、『中央公論』9月号に遺稿「七十九歳の春」掲載。
   『心』9月号、谷崎潤一郎追悼、武者小路、里見、川田、大佛、井上靖(59)、安倍能成
   17日、高見順死去(58)、『谷崎潤一郎(二)』月報のために、サイデンステッカーと松子の対談が湘碧山房で行われる。
   20日、『新々訳源氏』第九巻刊行。
   25日、モスクワへ行っていた佐藤観次郎(衆議院議員)、横浜のバイカル号上で谷崎の訃音に接す。
 9月2日、上野寛永寺で五七日忌と七七日忌の法要。清琴「残月」、八千代の京舞「花散里」、安倍能成、川端が挨拶。
   7日、『群像』谷崎潤一郎追悼、『文藝』谷崎・高見順追悼、澤田卓爾「谷崎潤一郎の思い出」精二「潤一郎追憶記」。高峰秀子「信じられない谷崎先生の死」『婦人公論』10月号。
   10日、『中央公論』10月谷崎追悼、伊藤「谷崎潤一郎の生涯と文学」、ヒベット「日本文学の国際性」、川口「文壇よもやま」、舟橋・三島対談「大谷崎の芸術」、井出「先生の後最期」、棟方「花深処」、十返千鶴子「花と鳥打帽」、丸尾「楽屋のおもかげ」、八千代「最初の『ほととぎす』」、精二「兄のメモなど」、円地「源氏物語に架けた橋」、東光の小説「師」。
   25日、京都市左京区鹿ケ谷法然院境内の墓所に葬られる。
 10月7日、松子「湘碧山房夏あらし」『婦人公論』11月号に掲載。
  『新々訳源氏物語』完結。
 11月3日、山本有三文化勲章受章。
    6日、東京都豊島区染井墓地慈眼寺の両親の墓に分骨。
    10日、十一代目市川団十郎死去(56)
    21日、新藤兼人監督『悪党』(「顔世」原作)封切。
 12月10日、松子「倚松庵の夢」『中央公論』新年号に掲載。同月より翌年12月まで、精二「遠い明治の日本橋」を『学鐙』に連載。
 この年、原書房より『春琴抄』ヒベット訳と日本語対照版刊行。ヴィルヘルム・シュテーケル、谷崎英男訳『性心理の分析』新流社より刊行。