(写真は岡本梅の谷の家)
1930(昭和5)年 45
1月、『婦人公論』の美人コンテストの選評で、不満を唱える。中央公論社のバートン版『千夜一夜』内容見本に推薦文。
同月から佐藤春夫、「心奢れる女」を『大阪朝日新聞』に連載。タミとの離婚の経緯。佐藤観次郎、中央公論社入社。
3日、草人は仙台着。
4日、松子、君、鮎子らの舞のおさらい会。帰宅していた治江が、丁未子、岡とともに訪ねると、都合が悪いというので三人が帰りかけた時、治江だけ裏口から入るよう言われたが断り、三人で神戸へ出て映画を観る。
6、7日頃、終平から治江宛詫びの手紙。
8日、嶋中宛書簡、昨年暮以来家庭内がごたごたして原稿が書けず、『改造』のほうも断った。ついては借りた金は返す。今回は佐藤にも話していない。末のことも含めてか。「その後私がその男の国元へ出向いて行つてお須恵の身柄を引き取つて来、子供が一人あつたのをも此方が養育することにして、これは京都の田舎の方へ預けたまゝ、月々仕送りをして今日に及んでゐた(「初昔」)、末は当座、根津家で預かってもらうことになったらしい。草人大阪着、「上山草人を迎ふ白井松次郎谷崎潤一郎」という立札が松竹座の前に出る。ペルシャ猫四匹を貰うが、うち二匹は大阪毎日の奥村信太郎(55)にあげる。奥村は北畑に住んでおり大正末年から谷崎と親しかった(細江)
10日、大阪中央公会堂で大毎主催歓迎会、その後草人と飲む。
11日、京都で草人歓迎会、出席し、帰ってくるとペルシャ猫が戻っている。
12日、神戸で草人歓迎会、出席。談話「猫−−マイペット」を『大阪毎日新聞』に掲載。
23日、嶋中宛、講演は大朝も大毎も断っている。家庭内ゴタゴタ続く。 月末、辻潤訪ねてくるか。
2月、岡成志、大阪で選挙に出馬するが惨敗、再び供託金を没収される。
この頃、和田六郎、東京から来て鮎子に麻雀を上げ、一泊して帰ってゆく(高木)
4日、精二宛書簡、万平のことは気の毒に思うが、こちらも大きな家を建てすぎて借金で困っており、佐藤から千円借りている、整理がついたら小さな家に引っ越す、万平によく話してくれ。
7日、渡辺温に、あと一月待ってくれと電報。
8日、渡辺、楢原茂二に、夜行で催促に行くと伝え、楢原谷崎を訪ねるが不在。
9日、渡辺、大阪につき、夙川の楢原の下宿に行き、十二時過ぎに二人で谷崎を訪ねる。明日の夕方までに何か書くと約束。渡辺、今夜は夙川に泊まると言って帰る。3時少し前に近所のS君が中書島の駿河屋のういろうを持って訪ねてくる。7−8時、谷崎、机に向かう。
10日、谷崎書けず、午前1時45分、タクシーが貨物列車と衝突し、楢原負傷、渡辺死す。朝6時半、谷崎報せを受ける。楢原は回生病院に入院し、谷崎は駆けつけて、清水俊二(25)を呼んで後を託す。
17日、水木京太(小山内の弟子)宛葉書、小山内の「国姓爺合戦」を参考にしたいのでゲラなりとも送れ。
18日頃、瀬戸内海の家島群島、室津へ取材旅行。家嶋で二泊。
20日、室の津から妹尾宛書簡、旅程、22か23日帰宅。
この月から8月まで、前年谷崎家の女中をしていた宮田絹枝宛、真剣に結婚を考えている旨の恋文八通を送る。
27日、嶋中宛、電報拝見、いくらか落ち着いた。卍が済んだらそちらにかかる。締切教えてくれ。
3月1日、嶋中宛、十日締切承知、しかし新聞から催促してきているので今回は無理かすまない。
18日から『乱菊物語』を東西『朝日新聞』に連載。挿絵は北野、谷崎初の大衆ものと謳われている。
19日、『中央公論』4月号で『卍』完結。
4月、「春寒(探偵小説のこと、渡辺温君のこと)」を『新青年』に掲載。
この頃、終平、京都の中学校を卒業。谷崎、精二、千代らと相談し、映画監督になりたいと希望。
2日、嶋中宛書簡、『乱菊物語』始まって落ちつかず、今後は毎月随筆を書く、「葛の葉」は読み返して感心しないので、童話に書き直して婦人・少年雑誌へ出すつもり、その後中公より単行本にしたい。
4月から6年10月まで、『谷崎潤一郎全集』全十二巻を改造社から刊行。3日(奥付)刊行の第11巻から。月報は佐藤、かの子、笹沼。
10日、「懶惰の説」脱稿。
18日、佐藤から鮎子宛手紙、秋雄から送ったもの気に入ったようで嬉しい。みよ子は27日に須田町の医師会館でおさらいの踊りをします。毎日夕方虫歯が痛くなって困ります。
19日、「懶惰の説」を『中央公論』5月号に掲載。
30日(推定)東京の笹沼のところへ行くと言って夜行で出掛ける。パジャマの上にインヴァネス姿で行くと、大阪駅で大阪女専の校長・平林治徳(42、国文学、のち大阪女子大学長)が東京で勅任官任命を受けるため礼服姿で卒業生に見送られているのに出会い、挨拶される。(平林追悼文集「学長余瀝」の平林年譜によると5月1日勅任官なので) 一週間ほど留守して帰ってき、治江に、インヴァネス姿のままだった詫びを、治江を遣わして平林に伝えると高木回想にある。
5月、福山秀賢入社、「婦人公論」編集主任となる。
8日、嶋中宛、「恋愛論」どうも書きにくく次号へ回してくれないか。 9日、荷風からの書簡、手紙お礼、先般市川杏花(左団次俳名)下阪の折り快談した由、今般は全集広告文の件、著述の広告に友人のお世辞を貰うことは私も気に入らぬ。最近元気なく、文壇を見れば自分などは懸隔甚だし。谷崎が広告文を断りその理由を述べる手紙を出したらしい。
19日、生田春月自殺、朔太郎衝撃を受ける。
21日、「大衆文学の流行について」記す。
28日、佐藤宛書簡、新聞で疲れ切っている。本日精二から手紙が来て、末の縁談があるとの話、ありがたく、写真を送る。ただ根津家へ奉公に出すことに決まったところで、ここで断ると二度は頼みにくくなる。見合いはどちらでするか。いま草人が大阪に女ができたらしく来ている。財政困難。
松子夫人、夫が重子に気がある、と訴えるようになる。重子はバーテンの彼氏がいるのに、など。
この5月から6月、石川達三(26)、ブラジルの日本人経営の上地旅館に滞在中、炊事仕事をしている伊勢が谷崎の妹だと教えられて驚く。伊勢は道子を連れて中西のもとを出、鉄道自殺しようとしたところを日伯新聞の記者に留められ、サンパウロで日伯新聞の炊事人となり、その後ここで働いていた。
5月末か、古川丁未子、『婦人サロン』の記者応募記事を見て希望し、同誌の永井から声を懸けられ、谷崎に紹介を頼む。
6月、全集2巻刊行、月報は佐藤、草人。谷崎の推薦により三宅周太郎『文楽の研究』が春陽堂より刊行される。
2日付で、『文藝春秋』編集長菅忠雄宛丁未子紹介状を書く。菊池自身には今まで何度も頼んでいるから菅を介したとある。(「秘本」)
3日、佐藤宛書簡、朔太郎を義弟に持つのは賛成。佐藤が末に斡旋しようとしたのは離婚後の朔太郎であった。ただしいま顔に疣ができて治療中なので写真は少し待ってくれ。都合つき次第朔太郎来阪願う。しかしこれはうまく行かず。
丁未子、上京し菊池らの面接を受け、入社決定。
10日、嶋中宛、これだけしかできなかった。
中旬、佐藤、タミと離婚、一万円近い手切れ金をとられる。帝国ホテルで大阪朝日の原稿を書きつつ、谷崎宛、そちらへ行くと手紙。
30日、絹枝宛書簡、今度会って決心したい、新聞に播州の事を書いているので、この間から時々姫路へ行く用がある。五六日うちに又行くので電報を打つ、姫路駅まで来てくれいないか、あなたの御老母様にも兄さんにも会いたい、近頃頭を丸く刈った、と写真を同封。
7月、「大衆文学の流行について」を『文藝春秋』臨時増刊オール読物号に掲載。短歌「秋、冬、春」を『スバル』に発表。草人著『素顔のハリウッド』刊行、そのはしがきを書く。
佐藤下阪して谷崎に会うと、千代を貰ってくれないかと言われる。谷崎宅へ行って、千代、終平を交えて相談、千代の決心がつかない。
翌日、佐藤、東京に帰る。
6日、佐藤、小林倉三郎に相談の手紙を書き、千代宛、決心するよう手紙を書く。
9日、倉三郎佐藤の手紙を受け取り、夜上京して相談。倉三郎、姉初子を訪ねて話し、千代に手紙を書く。
10日、倉三郎、佐藤を訪ねて千代宛手紙を見せ、賛成の意思を表明。千代から谷崎の伝言の手紙来て、もう一度下阪するよう言われる。嶋中宛書簡、今月も書けなくなった。新聞が終わるまで待ってくれまいか、佐藤の離婚にからんで問題発生、新聞も一回佐藤に代筆してもらった。いずれ上京してお詫びする。佐藤宛書簡、君のパッションが燃え上がれば。君の手紙で千代がぐらつくようなら夫婦でいる価値はない。嶋中に打ち明けるかもしれず。
11日、佐藤、夜行で西下。
12日、佐藤、谷崎、千代と話す。
13日、千代と谷崎から倉三郎宛手紙。
14日、絹枝宛書簡、鉛筆書き。差出人の名に書生の竹村英郎の名を使っている。家庭の問題も今月中にはきまりが付きさう、どこへもいかないで待っていてくれ、妻は多分佐藤春夫と結婚し、あゆ子もそちらへ行くことになる、円満に話がつきそう、佐藤は千代の昔の恋人。
15日、佐藤、新宮へ帰る。
16日、いったん鳥取へ帰省していた丁未子が大阪を経て東京へ出て文春へ初出社する。
19日、倉三郎,夜行で西下。
20日奥付、全集第五巻刊行、月報草人。朝倉三郎が来て夕方佐藤、一同で相談。毎夜ゆるゆると雑談のうちに話を進める。
23日、せい子が来て、倉三郎、千代、鮎子、終平、佐藤で神戸へ支那料理を食べに出掛ける。
24日、千代も承諾し、鮎子の意向を質したいと言う。夕食後、鮎子に言い渡す。(倉三郎)
27日、倉三郎、前橋へ帰る。
8月4日、大阪商船会社那智丸で千代を連れて佐藤の両親の了解を得に三人で紀州へ行く。同日妹尾宛那智丸から絵葉書
5日、谷崎は一泊して那智勝浦赤島温泉に泊まる。
7日、佐藤と千代が来る。勝浦で佐藤と撮った写真。佐藤豊太郎から倉三郎宛礼状。
丁未子、谷崎の勧めに従い髪を断髪にする。
14日、絹枝宛書簡、「おもひもかけぬ事がおこりました、私としてはいかにもお話しにくいので佐藤氏二人からきいて下さい。いづれ私も御伺ひしますけれども」。佐藤春夫が持参したらしい
15日、佐藤、千代、鮎子、出発、養老で三日過ごす。
17日、小出宛書簡、妻譲渡状を一日早く送達、あす十八日午後六、七時頃お待ちしております、と添え書き。
18日、千代と離婚し佐藤に与えるという挨拶状を各新聞社その他の関係方面へ送る。キャナデアン・グラスの石版刷機による手刷り。刷ったのは終平。同日佐藤らは東京に戻る。この時か、佐藤、精二を訪ね、不在だったので翌日かに精二、小石川の佐藤を訪ねると笹沼もいて、いかに谷崎が千代に横暴だったかを佐藤が語る。
19日の各新聞は社会面トップでこれを取り上げ、妻君譲渡事件としてセンセーションを巻き起こす。「大阪毎日」と東西「朝日」に谷崎の談話。「東京日日新聞」に朔太郎の、佐藤と千代は同棲したこともある、という談話が出て、佐藤憤慨す。
20日、小石川区大塚窪町五、同潤会アパートメント四〇六、古川丁未子宛書簡、驚いて見舞い状をよこしたのに答えたもの、断髪したそうだがついでに歯も治したらいかが、今上陛下の歯医者長尾(一ツ橋)が友人なので紹介する。上京する時にこれを言うのを忘れた、新聞が一段落するまでは旅行に出られません。荷風、挨拶状を受け取り、「あまりに可笑し」いと「断腸亭日乗」に書き写す。新聞に武林無想庵の談話。
妻譲渡事件につき新聞客紙が各方面の意見を掲載、柳原白蓮、山田耕筰、池崎忠孝(赤木桁平)は賛成するが、矯風会会長・林歌子は激しく非難する。ほか里見、濱本浩、無想庵。
20−25日、堀江の盆踊りに、治江、君が谷崎を誘って出掛ける。
21日、大宅壮一「潤一郎、春夫両氏の離再婚批判、江戸末期的な古さと遊戯性」『読売新聞』。
この頃ある夜、灯を消して紫衣を捧げ持って皇居を遙拝しているのを治江目撃。朔太郎訪ねてくる。
24日、香櫨園池のそば小倉敬二宛書簡、事件以来落ちつかず、『乱菊物語』百四十回でいったん打ち切りとさせてもらいたい。すると火曜日(26日)で終わるから相談のため明日午後一二時頃社へ伺う。
25日、午後朝日新聞社か。結局あと八回書くことになったらしい。
27日、身辺の煩雑を避けるため、妹尾の案内で大阪浜寺の一力楼に隠れる。しかしほどなく新聞に「孤独の谷崎氏淋しい最初の旅」等と書かれる。
30日、浜寺から絹枝宛書簡、「一遍おきぬ様にこちらへ遊びに来て頂かうかと存じましたが当地へも新聞記者が毎日やって来ますのでそれも思ふやうに行きませぬ」。
9月5日、『乱菊物語』未完のまま中断。
佐藤ら来るが、上筒井のバー・アカデミーで痛飲した翌日、軽い脳出血で倒れる。
同月、岡成志、神戸又新日報に再入社。
9日、「大阪朝日」に「谷崎鮎子さん学校から追放さる」の記事と谷崎の談話。
12日、妹尾宛書簡、今日は奈良へ行くことにした、なお大丸で昨日話した健康ふんどしを買ってくれ。佐藤は快方に向かう。
佐藤、千代、鮎子とともに、静養のため南紀の下里へ行く。
全集第7巻、月報、後藤、斎藤昌三。
佐藤「僕等の結婚−−文字通り読めぬ人には恥あれ」を『婦人公論』10月号に掲載。 鮎子、根津、信子と宝塚歌劇に行き、住野さへ子と写真を撮る。丸尾長彰の世話。
28日、志賀宛書簡、只今は電話で失礼、飛んだ迷惑を掛けた、事情を聞けば先日の金は返却すべきながら既に一部費消、旅から帰ったら訪ねる、留守は佐藤夫妻に頼んであるので、厨子仏壇を取りにくるのが吉田氏以外の人なら紹介状持たせてほしい。
29日、北陸旅行に出発。途次、「盲目物語」のために北の庄城や一乗谷城を見たか。
10月、朔太郎、妹愛子とともに上京。土屋計左右、本店外国営業部長として帰国。東京劇場で『恐怖時代』上演、青山杉作演出、劇団新東京、田村秋子ら。
同月、今東光(33)浅草寺伝法院にて出家、以後三年間比叡山に籠もる。
1日、石川県片山津温泉矢田屋より妹尾夫妻宛絵葉書、方言研究参考までに裏面ご覧あれ。
3日、石川県山代くらやにて鮎子宛絵葉書、日付は1日、消印3日。同日、妹尾夫妻宛絵葉書、北陸方面猪肉払底早野勘平失望。
同日、ブラジルでバルガスが大統領選挙に破れた後クーデタを起こし、臨時大統領に就任。谷崎の伊勢への送金が「革命騒ぎで届かなかった」とはこの時のことか。
この後東京の偕楽園に寄って、前から好きだった女中が既に嫁入りしたと聞く(「幼少時代」)。
10日、偕楽園から志賀宛書簡、度々電報で騒がせて申し訳ない、今夜東京発一旦帰宅後訪ねて詳細言うが、あれは大磯の安田善次郎が先代追善のためお堂を建てそこの本尊にすべく安田靫彦が設計を頼まれたもの、それでよければ一万円くらい出すというのでよそへ話すのは待ってほしい。
11日、帰宅か。
12日、志賀訪問。
鮎子の東京への転校につき、関西での担任の女教師が成女女学校の出身ゆえ、同校の編入試験を受けるよう勧め、同校校長宮田修が早稲田出身で精二の先輩だったので、精二が宮田を訪問して頼む。
15日、精二宛書簡、鮎子のことお礼、しかし色々噂されていて本人もくさくさ、退学して一ヵ月になるので、いっそ来年3月にしたらどうか。先日ちょっと上京したが来月また上京する。宿は小石川。
19日、志賀直哉、画家新井完、小野為一郎、中村義夫の三人と吉野の桜花壇に宿泊。
小林倉三郎「お千代の兄より」を『婦人公論』11月号に掲載。
23日、吉野「桜花壇」に投宿して『吉野葛』を執筆。奥村喜一郎に吉野案内を頼み、飯貝の尾上六治郎(26)に世話になり、辰巳長楽(59)に話を聞く。妹尾夫妻宛絵葉書、葉書ありがとう、観艦式までに帰る、静かで落ちついた気分(22日とあるが日付の間違いと大谷)。奈良の志賀直哉宛絵葉書。先日は失礼、25日には観艦式に帰るが27日にはここへ戻る、例の写真督促願う。精二宛、佐藤の都合で鮎子は今すぐには東京へは出られない。11月からにもせよ、一人で東京へ出さねばならない。来月中旬にはもう一度上京して佐藤夫婦、鮎子とも相談するし、学校当局に事情を述べる。もし今年が無理なら来年からでもよい。
25日、岡本へ帰る。
26日、神戸港で観艦式。
30日、岡本から妹尾宛書簡、留守中来たようだが今度は会わずまた山へ行き十日頃戻る。実印は終平が大阪へ持って行ったので小切手に印を押せず、金だけくれまいか。
31日、桜花壇へ戻る。(千葉)
11月1日、北山、奥村方泊まり。
2日、奈良県柏木川上ホテルから妹尾宛絵葉書、とうとう奥吉野まで行った。自動車(フォード)の危険恐るべし、四時間生きた心地せず。辰巳宛絵葉書、河野宮墓長録元年の文字見える。尾上宛絵葉書、柏木不動之窟付近にも妹背山あり、奥村氏にはお世話になった。
3日、桜花壇へ戻る。
4日、吉野中千本から妹尾宛絵葉書、吉野川上流にもう一つ妹山背山あり、土地の人はこちらが元祖だと言う。吉野郡上北山村奥村喜一郎宛書簡、過般は突然の参上にもかかわらずご馳走ご案内お礼、送られた三冊の書は早速通覧、今日まで北山宮を尊秀王と思っており啓蒙さる、水月和尚伝も面白く、白雲庵主は面識ないが家の隣家黄檗宗宝積寺の和尚から度々聞いている、いずれ再会したい。
15日、妹尾宛書簡、原稿落手、樋口さんによろしく、鉛筆で失礼。
中旬、上京、丁未子に会い損ねる。
全集第8巻、月報、長田秀雄、後藤。
22、23日頃、帰宅。
23日、『山陽新報』に「谷崎夫人離婚の裏に咲く」として宮田絹枝との関係が書かれる。(ただし「岩田」と誤っている)
25日、午前7時20分、東京で強い地震。谷崎「アブナイ所でした」。
この間丁未子から手紙、地震を知らずに寝ていたとあったらしい。
28日、佐藤一家、静養のため勝浦へ船で行く。天保山で谷崎と妹尾夫妻見送り、三人は寄席へ行き、谷崎宅で深夜まで話す。同日鮎子より妹尾夫妻宛絵葉書、今那智丸で和歌浦へ着いた。
29日、丁未子宛書簡、お手紙拝見、御無沙汰、坊主になったなどあらぬ噂を立てられていますが取材のため吉野を旅していました、写真ありがとう、書斎の額にして室内の光彩を添えようかと思ったが物議を醸してもと差控え、今後も撮影の度に送ってくれ、先だって上京したが会えずに残念、断髪を見たかった。地震知らずに寝ていたとは爪の垢でも煎じて飲みたい、お正月の休みにでもいらっしゃい、宝塚のダンスホールへ案内します、(龍田)静枝嬢、白髭さんにもよろしく、『卍』が贅沢本になったら送ります。同日、下里町の佐藤・千代から妹尾宛書簡、何やら寂しい。
30日、下里佐藤夫妻より妹尾夫妻宛書簡、正月には谷崎と同道お出でを。千代、鮎子と佐藤と三人で紀州で越年。佐藤の仲人は志賀直哉。
同月から12月まで「大阪毎日」に横光利一の「寝園」連載、挿絵のモデルが丁未子、絵は佐野繁次郎。
12月4日、妹尾宛書簡、昨日は末がお世話、例の女医電話の首尾は如何。今夜十時過ぎ西宮か上筒井へ一杯飲みに出ますが如何。
5日、妹尾宛書簡、原稿渡すので訂正の上お返し願う、その時分からいよいよ取りかかる、医者の返事来たらお知らせ願う。同日、下里佐藤より妹尾夫妻宛葉書。鮎子から君宛書簡。
10日、嶋中宛書簡、七十枚まで原稿送ったが、新年号は61枚目の印のところまでで分載にしてくれ、あとは二月号。
14日、文藝春秋の田中直樹宛書簡、デ・クインシーの評論を翻訳掲載したい旨。
15日、嶋中宛書簡、「吉野葛」2月号にお願いしたい、支払いが滞り困っている、「吉野葛」と来年『改造』に書く小説とを一つにして単行本に願いたい。来年は『改造』よりそちらへ多く書く。同日上京、日本橋区亀嶋町一の二八東洋ホテルに宿泊、嶋中に会い、朔太郎の妹愛子(27)と見合い、三日ほど付き合うがなしになる。恐らく丁未子に会って求婚。妹尾君は止めようとする。
18日、帰宅、新聞記者から質問責めに会い、それに答えて新夫人の条件を出す。
19日、「大阪毎日」に、夕刊に谷崎の新夫人募集広告が出る。「吉野葛」上を『中央公論』1月号に掲載。
20日、岸田劉生急死(39)。全集第10巻、月報、小林秀雄、橋爪健。
21日、佐藤より妹尾宛書簡、犬の話と、小出の入院を谷崎から聞いたこと。
24日、妹尾君宛書簡、たけ持参、昨日はご主人来訪ありがとう、病気は如何、今夜夕食後に伺う、ご主人に相談したいことあり、アカデミーの電話番号を教えてくれ、英語の原書も貸してくれ。
25日、新聞の夫人の条件を見た治江はこれは丁未子だと思い、打電し、速達で応募を勧める。三越で妹尾夫人に会うと、丁未子では泣きを見るだけだと説かれる。昨夜谷崎の意向を聞いていたか。
29日、森川宛書簡、全集第五巻はそちらにないか、こちらにも手元にないので改造社から来春取り寄せて差し上げる。
31日、帝国ホテルでダンスパーティー、丁未子、早川雪洲と踊る。
この年、大佛次郎『赤穂浪士』を読むか。
査士元「一個少年的恐怖」『日本現代名家小説集』(上海、中華書局)、同『悪魔』(上海、華通書局)刊行。
1931(昭和6)年 46
1月1日、『読売新聞』に談話「独身生活をして」が載る。お茶の水の文化アパートメント、サバルワル宛年賀状。
正月は東京の笹沼家で過ごす。
1月12または15日、上京、東洋ホテルに投宿。文春の丁未子を呼び出し、求婚(日にち曖昧)。
19日、「吉野葛」下を『中央公論』2月号に掲載。
20日、丁未子宛、熱烈な恋文を速達で出す。全集第6巻、月報、橋爪。
丁未子と婚約、あちこち一緒に遊びにゆく(高木推測)。父の承諾を得るべく手紙を出す。父は危ぶむ手紙をよこす。
23日、東洋ホテルから妹尾宛英文書簡、丁未子には一目惚れ(モリツブサレタ)、ラブリー、美、知性を見れば如何にせん、今父の承諾を待っているところ、二、三日中に帰ってノロケを聞かせる。同夜、記者に語る。
24日、丁未子との婚約を東西『朝日新聞』『東京日日新聞』『報知新聞』が報道。「寝園」の挿絵のモデルとする。
25日、『因伯時報』に記事。古川憲の談話も載る。
一月末までには、父から、任せるという返事が来たという。
『婦人画報』2月号に、丁未子談話「奥様見習の語る−−谷崎氏と私のとの関係」が載る。岡の斡旋で決まったとある。
28日、下里より佐藤の妹尾宛書簡。来ないのか。
29日、文春で送別会をしてもらい、夜行で二人、岡本へ帰る。
30日、朝岡本に帰宅、夜草人が訪ねてくるが門前払い。岡成志に仲人を頼む。
31日、朝、記者たちをまいて自動車で大阪へ行くと見せかけて神崎駅(現尼崎駅)から9時32分発の大社行きに乗る。午後6時半鳥取駅着。丁未子の姉、義兄、妹迎えに来、鳥取温泉へ案内され、7時半、タクシーで西町の自宅へ、父古川憲に挨拶。
2月、精二、教授となる。宮本信太郎、中央公論社入社。
1日午前0時半、上り寝台車で帰る(「鳥取まで」)。この日帰宅後、二人は初めて結ばれた(高木)。
10日、終平が佐藤を訪ね結婚の報告。
12日、深夜、楢重宅へ丁未子を披露に行き、長州風呂に二人で入ってみせる。
13日、小出楢重死去(45)。妹尾宛書簡、訃報に驚き、すぐに行くべきだが執筆中、通夜には出る。
新宮で静養中の佐藤を、丁未子、妹尾夫妻と見舞いかたがた結婚の報告に行くが、千代と鮎子は転校準備に上京中で会えず。鮎子の転入について、校長宮田が谷崎の風聞を気にし、鮎子の心理試験をすると言いだす。
19日、精二宛書簡、今になって校長がそんなことを言いだすのは困る。寄宿舎にするか精二宅にするか、相談中だが寄宿舎の費用も知りたい。
全集第1巻、月報、駿台岳人。
『婦人サロン』3月号は「谷崎潤一郎氏と本誌記者古川丁未子との結婚」を特集、丁未子「われ朗らかに世に生きん」谷崎「鳥取行き」精二「兄の結婚と私」岡十津雁(成志)「谷崎潤一郎氏とチョマ子」を掲載。精二「兄の再婚」『婦人公論』3月号に掲載。
3月から6月まで、デ・クインジー翻訳「藝術の一種として見たる殺人に就いて」を『犯罪科学』に連載。
3月3日、下里の佐藤から妹尾夫妻宛書簡、学校のこと世話になった、谷崎からは満足ゆく返事なし。
5日、嶋中宛書簡、恋愛論十二枚送る、どうも別のことができないので少し待ってくれ。
15日、精二宛書簡、在学証明書と成績証明書を送る。入学試験があるなら期日、科目を知りたい。佐藤一家が18、9日でなければ郷里をたてないが、その時は終平をつけてやる。聖心の担任にも裏で運動してもらった。
18日、西大寺へ旅行中、志賀一行に会う。佐藤夫妻を大阪港へ迎えに行く。(志賀日記)
24日、精二宛書簡、終平が先日そちらへ行ったはず、当人、早稲田か法政の希望だが早稲田のほうが良かろう。鮎子無試験入学決定ありがたし、小牧教頭へ礼状を書き、来月上京の折り挨拶に行く。伊勢の件は気の毒だが今金がなく、家が売れればいいがそちらで何とかできないか。
28日、千代との離婚届提出。
29日、佐藤と奈良に志賀を訪ね仲人を頼む。「婦人公論」の佐藤記者が訪ねると谷崎夫婦、佐藤夫婦が岡本の家にいる。
30日、佐藤夫婦上京。
4月から6月まで「恋愛及び色情」を『婦人公論』に連載。
4月、『卍』を改造社より刊行。
同月、東京劇場で「お国と五平」公演、お国は中村福助(六世歌右衛門)だが不評だったらしい。
1日頃、佐藤夫妻帰京。
2日、菊原検校と妹尾がいるところへ志賀夫妻来訪。検校の地唄を聴く。志賀と丁未子と大阪へ出て伊勢半で食事。志賀ら帰る。
6日、谷崎の愛犬イチ、佐藤宅へ着。
7日、小石川の佐藤から手紙。妹尾宛手紙にイチのことあり。
8日、鮎子上京。
9日、佐藤から電報。朔太郎から結婚を祝い、自分も早く再婚したいと手紙あり。
10日、佐藤宛書簡、犬のイチは佐藤が引き取ることになったこと、返事がなかったので問い合わせたが、妹尾のほうへ返事あったとのこと、前田とせい子の離婚が立花良介(帝国キネマ専務)邸で成立、手切れ金をやることになった、せい子は前田が帝国キネマにいるので辞職し自宅へ引き取ったが、立花夫人は東亜キネマへ紹介しようかと言う、当人は瀬川つる子(女優、33)の所にでも寄宿したいと行っている、朔太郎は貰ってくれないだろうか、自分の移転は20日頃、「お国と五平」には行けそうもないが、切符を送るから18、9日に君らで行ってはどうか、末の件は僕の上京が遅れるなら偕楽園へ手紙を出す、木山先生は帰宅、風邪全快したから明晩でも訪ねる(白石)。鮎子から妹尾君宛、安着の手紙。
13日、改造社日本地理大系編集部濱本宛、花岡芳夫は帰国して現在大阪府立貿易館館長ゆえインドの経済事情説明には適任と思う、『改造』には原稿延引、編集者によろしく伝言願う。
15日、古川憲来る。国鉄住吉駅に丁未子出迎え、岡と四人で須磨へ遊びに出る。
17日、草人主演、『愛よ人類と共にあれ』前後篇封切。
19日、小林秀雄(30)「谷崎潤一郎」を『中央公論』5月号に掲載。
全集第4巻、月報駿台。
24日、岡成志夫妻の媒酌で丁未子と自宅で結婚式。
25日、丁未子と車で神戸の大丸。君に会う。岡を誘って三星堂、第一楼、バーアカデミー、岡宅へ寄って夫人にお礼、丁未子のダンスの先生がドイツへ発つので餞別。
26日、妹尾夫妻、樋口夫妻、中川修造と夫婦で保久良神社。
27日、夜妹尾夫妻と四人でおでん屋「たぬきや」、バーアカデミー。犬の黒行方不明。
28日、黒帰ってくる。再び頭を丸刈りにする。(丁未子「四月の日記の中から」) 29日、森川喜助宛書簡、過日斉藤君と来訪の折り不在で失礼、今度は電報を打ってから来てくれ。
下旬、新婚旅行をかねて、佐藤夫妻、妹尾夫妻、松子の七人で室生寺から道成寺へ旅行するが、室生寺の一夜、谷崎と松子が、夜半抜け出して抱擁と接吻を交わす(秘本)。清治は9歳、恵美子は3歳。
5月7日、嶋中宛、盲目物語最初の12枚送る、9日朝に二百円必要なので送ってくれないか、婦人公論あんなもので良ければ続ける。
14日、佐藤の妹尾宛書簡、イチは元気、谷崎のミイもこちらで引き取ることになった、Happy は少し大きいので家では養いかねる。イチの伜と娘も引き取りたい。
15日、池長孟(はじめ)宛書簡、先夜は突然参上迷惑なことをお願いしたが了承ありがたく、一昨日柏井に託し荷物届けた、二、三日うちに旅行に出るので明日新妻と訪問、妻もお邸を見たがっており、代金もその節頂戴できれば。池長は富豪の息子で、神戸上筒井のバ−・アカデミーで知り合い、この時は支那製の寝台を買い取って貰ったらしい。(細江)
16日、サバルワル宛片仮名書簡。嶋中宛、詫び、以後の単行本印税で借金を返したい、盲目続き送る。本来「改造」へ渡すものだが。
17日、志賀宛葉書、仏像のことあれから三度手紙を出したのに返事がない。近日高野山へ上るので行って詳しく話す。これ以前から持っていた大きな弘仁仏を高野山入りに当たって志賀に譲っている(「初昔」)
18日、精二宛書簡、高野山入りのこと、近日、末上京して詳しいことを話す、末は暫く笹沼方に預かって貰いたく、笹沼宛書簡を末に持たせる。終平の病、痛心ながら、学業を廃させて三味線でもさせるか。伊勢のことまで手が回らず。今明日内に出発。この日夜遅く志賀邸に着き泊まる。
19日、十一時から三時まで志賀邸、四時ころの電車、志賀、若山為三、加納和弘が見送る。夜八時過ぎに親王院に着く。
20日、五時起き、妻を伴い高野山龍泉院内の泰雲院に。これからここに滞在し、親王院の水原堯栄師から密教を講じられる。当時谷崎は約二万三千円の借金があり、昭和4、5年度の所得税も滞納、家を売るほかなかった。終平、この頃上京か。
21日、妹尾夫妻宛葉書、こちらはまだ寒い、毎朝6時起床、ぜひ一度いらっしゃい。
22日、『盲目物語』執筆開始。同日、妹尾夫妻宛書簡、電気会社等の請求は追々払うのでその順番は末に聞いてくれ、一度おいで。丁未子は「ピコン」以外にやることなく退屈の様子。
23日、丁未子より妹尾夫妻宛書簡、刺激剤がないと寂しい。
24日、嶋中宛書簡、近況報告の上、一昨日から原稿書きはじめ、6月には脱稿予定、一月延ばしてくれると安心、分載は「吉野葛」で懲り懲り。
この間、妹尾来るか。
26日、精二宅から終平の妹尾宛書簡(秦)
28日、高野山より精二宛書簡、伊勢危篤との電報痛心、借金多くどうもできず。これは中西から早稲田気付で精二に「イセキトクカネオクレ」と打電してきたもので、精二は雑誌社から百円前借りし、兄に手紙を出したもの(精二)
29日、妹尾宛葉書、先日は愛想もなく失礼、預けた書物の中に「日野町誌」全三巻あり、上巻だけ送ってくれ。
谷崎書簡を見て精二、「あなたの方が収入が多いはずだ、それでも長男か、首をくくって死ね」と手紙を書くがその文句を消し、また書き入れ、結局書いたままかどうか分からず出す(精二)
6月1日、丁未子より妹尾夫婦宛書簡。
2日、笹沼から手紙、末を預かるのは迷惑らしい。
3日、精二宛書簡、精二の手紙の剣幕に恐れたか(精二)、昨日末宛の手紙に伊勢への見舞い金五十円入れた、僕はこれまで弟妹の面倒をずいぶん見てきた。伊勢も中西と別れろと言ったのに聞かなかった、元来僕は係累が嫌いだ、金で解決したい、末や終平はまだ片づいていないから面倒を見る。お前は伊勢のことばかり言う。しかし電報為替は手数料二十円かかるから、正味三十円しか送れなかった(精二)。
6日、丁未子から妹尾夫妻宛書簡、琴の稽古、ご夫妻が来てから刺激剤になり痩せた。
10日、小松川から末の妹尾宛礼状。(秦)
11日、たけが来る。
12日、丁未子より妹尾夫妻宛書簡、今日は誕生日。
13日、妹尾宛書簡、丁未子代筆、十日頃下山と言ったが頭の具合悪く進まず、妹危篤の報もあって金が要る、おいおい送る、文楽座の加賀見山観たいので大阪へ出るつもり、家については竹を呼び戻すのはどうか。能率が上がらないのはぴこんのせいではない、丁未子はアンプロンプチュは嫌いで、ペエジェントの要求に応ぜず、室内でも昼間は嫌がるので困る。
15日、精二宛書簡、伊勢快方とのこと嬉しい。帰国旅費は工面したいが余裕なし、同封の金は末に渡してくれ、大塚同潤会アパートへ入るのがよい、なお末の手紙に終平が金に困っているとあったが、毎月改造社から八十円ずつ貰っているはずで、一体いくら欲しいのか聞いてくれ。田漢および内山完造宛書簡、田漢の亡命への援助希望に答え、現在状況が苦しく難しい。雨宮庸蔵宛書簡、「盲目物語」原稿送付の件。「お須恵と云ふ出戻りの妹がゐたのを東京の或るアパートへ預けることにして」(「初昔」)。
17日、妹尾宛書簡、丁未子より別便たてたが、文楽はいつまでか電報で知らせ願う、19、20日に行くかもしれず。
全集第9巻、月報駿台。
21日、雨宮宛書簡、生活激変し頭の具合悪く進捗悪いとの言い訳。あなたの名は寅ですか庸ですか。
26日、雨宮宛書簡。
29日、妹尾夫妻宛書簡、手紙ありがとう、当地にも上等な牛肉を売っている店を発見、寺男に聞いた飲み物の作り方。
31日、佐藤宛、「覚海上人天狗になる事」の原稿を送る。
7月3日、丁未子から君宛書簡。
4日、妹尾夫妻宛書簡、本日夫人からの手紙拝読、前田から手切れ金の催促受け、立花に迷惑掛けては申し訳ないので送ったが、これでは金のために通俗ものを書くしかない(『武州公秘話』)、仕事は中旬までに片づき、15、6日にはそちらへ残金送れます。15−20日に一度来られないか。
5日、雨宮宛書簡、序文はやめにして後記を書く。
8日、せい子が来、一泊して帰る。
9日、森川来るか。丁未子より妹尾君宛書簡。雨宮宛書簡、原稿送付。
10日、妹尾宛書簡、昨日森川ゴワス先生来、本日下山。税務署が全集の版権差し押さえに掛かっており、改造社員が飛んできて版権を改造社名義にすることにした、もし税務署員がそちらへ行ったら、和服は一切売り払ったと言ってほしい。丁未子から妹尾夫妻宛書簡、今日は森川氏来、『女人藝術』『ナップ』送ってくれ。
16日、丁未子から妹尾夫妻宛葉書。
18日、雨宮宛書簡、挿絵同封。
20日、鮎子から妹尾美津子(君の連れ子)宛書簡、月末か来月始め高野へ行く。
21日、丁未子から妹尾夫妻宛書翰、夫人が来られないのは残念、22日以後妹尾様が来るのを楽しみに。
24日、大阪天王寺区惣塚ぬひ方妹尾宛書簡、夫人病気の由、この気候のせいでは、税務署の件、詳しく。老母病気の由。
25日、丁未子から妹尾君宛書簡、「きみ不快」の電報を貰って心配。
30日、丁未子から妹尾君宛書簡、快癒と聞いて嬉しい。赤ん坊生まれたという噂は文藝春秋の冗談、フランス式バースコントロールをしている。雨宮宛書簡、枚数増えてすまない。
8月、『改造』に直木三十五「足利尊氏」連載、翌年4月号まで、読む。
2日、丁未子から妹尾宛葉書、岡本へ帰ったと思う、中公の仕事終わった。雨宮宛書簡、これで完結。
5日、嶋中宛書簡、『盲目物語』ようやく脱稿、これと「吉野葛」と「覚海上人天狗になる事」を併せて単行本にしたく、売れないだろうから豪華本にして装幀も任せてほしい、また「離婚と再婚の経験」といった懺悔ものを『中央公論』に書きたい。
6日、丁未子から妹尾夫妻宛書簡、今日来ると楽しみにしていたら根津夫人からの電報でがっかり、でも谷崎は十日締め切りで改造の原稿を書かねばならず都合良かった、十日以後根津夫人と来てほしい。
8日、嶋中宛書簡、返事ありがとう、『改造』の9月か十月に短いのを載せるのでそれも加えて欲しい、「離婚と再婚」近日中に送る。
10日、嶋中宛書簡、「をぐり」を計画中でいずれ熊野へ行って調べて書く、なお先の四編の出版権を中央公論名義にしておいて欲しい、税務署と戦っているから。
同月中旬には終平が東京から鮎子を伴って入山。妹尾夫妻も来るがすぐ帰る。龍児、佐藤智恵子も来る。大毎の城南健三がこの様子を取材、記事になる。
17日、丁未子から妹尾夫妻宛葉書、二人が帰って寂しい。
19日、「盲目物語」を『中央公論』に、「紀伊ノ 国ノ 狐憑ク 漆掻キニ語」を『改造』いずれも9月号に発表。
全集第3巻、月報駿台。
21日、高野山の鮎子から美津子宛葉書、二人が帰って寂しい。今日は九度山へ行った。
22日、丁未子から妹尾君宛書簡、夫と仲悪いのはなぜか。
9月、「覚海上人天狗になる事」を佐藤がこの月日夏耿之介らと創刊した『古東多万』に発表。
2日、丁未子から妹尾君宛書簡、四人をれい宝館へやった。
同月、十日ほど下山し、松子の相談に乗る。その間、治江が高野山の丁未子を訪ねる。 5日、根津家の美術品売却の件で妹尾とともに池長を訪ねるが不在。池長宛置き手紙、今日高野山へ帰る、近日妹尾一人で伺うのでよろしく。同日、終平から妹尾宛、ホモっぽい手紙(秦)
9日、丁未子から妹尾夫妻宛書簡、下山のこと。
10日、丁未子から妹尾夫妻宛書簡、下山の後一旦お宅へ。
11日、丁未子から妹尾君宛葉書、数珠入れのこと。
14日、朝鮮銀行仁川支店岸巖宛書簡、根津家が朝鮮銀行大阪支店からの借金で困っており、せめて支店長の人柄でも知りたくお教えを請う。
16日、江田治江見舞いに来る。
17日、終平帰る。
19日、荷風、「つゆのあとさき」を『中央公論』10月号に発表。川端康成、「文藝時評 谷崎潤一郎の『盲目物語』と『紀伊ノ 国ノ 狐憑ク 漆掻キニ語』」を同誌に掲載。嶋中宛書簡、著作権譲登録願明細書送る。税務署が版権に眼をつけている。丁未子の妹尾君宛書簡、早く下山したい。雨宮宛書簡、結婚問題随筆は佐藤春夫に与える形式にした、一部送付。
22日、雨宮宛書簡、これまで中公では随筆でも一枚十円貰っていたが八円になったのはどういうことか。創作も貴社は改造より安い。
25日、龍泉院から丁未子の妹尾君宛書簡、27日生駒に落ちつく、その翌朝お宅へ行って荷物をまとめ、鷲尾の家をかたづけたい。
26日、谷崎から妹尾宛書簡、明日下山し、大阪で一休み、同日稲荷山へ行く。丁未子、高野局で博文館からの郵便為替を受け取るが二九〇円のはずが二百円しかない。
27日、下山。大阪府中河内郡孔舎衙(くさか)村池畑稲荷山の根津商店寮に移る。 終平、法政大学予科に入学、精二宅から通い、学費は谷崎が出す。(いつ?)
10月、「天狗の骨」を『犯罪公論』に掲載。
同月から翌年11月まで断続的に「武州公秘話」を『新青年』に連載。
10月1日、稲荷山から丁未子の妹尾君宛書簡、谷崎はまだ体の痛みとれず。
4日、丁未子から大阪毎日の城南健三宛、お礼と為替足りない件。
5日、丁未子より妹尾君宛書簡、扁桃腺はよくなったが脚の火傷がどくなった。
6日、雨宮宛、荷風「つゆのあとさき」を読んで評論書きたくなったのでこれを先にして改造へ載せる断り。
19日、「永井荷風の近業について(「『つゆのあとさき』を読む」)を『改造』11月号に掲載。「佐藤春夫に与えて過去反省を語る書」を『中央公論』に掲載。12月号と分載。
全集第12巻、月報は終平「高野山の生活」、完結。
22日、荷風より批評のお礼の来簡。
11月、西宮市外夙川の大社村森具字蓮毛の根津荘に転居。根津家が大阪市内の靫の本邸を売り払ったため、離れに根津家の母親が住んでいた。根津清太郎は、松子の妹の重子、信子を引き取り、いずれ信子と結婚するつもりで、谷崎のところへ松子が泊まりに行くのを黙認していた。
3日、雨宮宛書簡、今回は催促が早いようだが、家に金が五円しかない。単行本について相談したいので係りの人を教えてくれ。
6日、嶋中宛書簡、満鮮より帰った由雨宮から聞いた。盲目物語風のものはもう書かず、『吉野葛』短いけれど単行本にしたい。
11日、森川来訪。嶋中、自動車事故にあって入院。
13日、根津方から神戸熊内山手衛生病院サナトリウム内妹尾宛書簡、その後奥方病状如何、荷物全て日下村より到着、『吉野葛』は贅沢本はやめて『盲目物語』に付録的につけることになった、根津家は整理に清三氏が乗り出した。君は結核で入院か。
19日、『改造』12月号に丁未子の「高野山の生活」掲載。
21日、嶋中退院。
30日、田中直樹宛書簡。雨宮宛書簡、先日藤井武夫からの手紙に「社長不慮の災難」とあったが何か。
月末頃、夫婦で妹尾君を見舞うか。
12月、村嶋帰之『カフェー考現学』に谷崎へのインタビュー掲載。
1日、丁未子から城南健三宛。親王院からの報せでは山は氷が張った。『安城家の兄弟』遅くなってすまない。
2日、丁未子から神戸市中尾町衛生病院妹尾君宛書簡、見舞いの後風邪になった。毎日つまらないのが分かる。
13日、草人が志摩の渡鹿野島に行き別荘に谷崎揮毫の「草人漁荘」の額をかける。 14日、阿佐ヶ谷濱本宛書簡、鷲尾へ来たそうだが不在で失礼、武市も貴君を見かけた由、改造社を辞めることは志賀から聞いており事情も大体推察、今後文筆でやってゆくなら援助する。同日、松子を病床に訪問、九度近い熱だが時日を争うので話した。
15日、妹尾宛書簡、先夜はご馳走、ようやく目鼻つき、改めてのお礼、千代、末、鮎子17日下阪。電報が来たら一緒に梅田まで如何。
16日、雨宮宛、「私の見た大阪及び大阪人」といったものを書きたい。
17日、千代、末、鮎子下阪か。
年末、倚松庵主人を名乗る。梅ノ谷の家が、文箭郡次郎に売れる。
この年、武林無想庵訳、モーリス・デコブラ『首斬りセレナーデ』刊行、白鳥が褒めるが、谷崎感心せず。ピチグリリ『貞操帯』の和田顕太郎訳も刊行されるが「新聞記者の文章と云ふ感じがする」(「正宗白鳥氏の批評を読んで」)。ラディゲ『ドルジェル伯の舞踏会』(堀口大學訳)には感心。直木三十五『南国太平記』『関ヶ原』を読むか。