谷崎潤一郎詳細年譜(昭和14年まで)

jun-jun19652005-06-13

1938(昭和13)年       53
 1月3日、岡田嘉子樺太国境を越えて杉本良吉とソ連亡命。
   15日、土屋宛書簡、もう支那から帰国か、約束の短冊、歌が前にあげたものと同じでは面白くないので新しく作る、もう少しお待ちください。
   18日、森田朝子より手紙?(細雪
   19日、「源氏物語の現代語訳について」を『中央公論』2月号に掲載、中央公論で二つのゲラを作って一方は山田へ渡し、山田が朱を入れて谷崎に送るが、谷崎はひとまず下訳をどんどん先へ進め、ようやく宇治十帖の半ばに達したので、四月には下訳ができるであろう。 
 2月9日、佐藤豊太郎宛書簡、先般相談の件ゆるゆるとお進め下さい、夏樹君取り込みの由。
   19日、『中央公論』3月号に石川達三「生きてゐる兵隊」掲載、発禁となる。
   25日、西成区南木芳太郎宛書簡、山村のお師匠さんは無断欠席、遅刻などが多く、これでは人に紹介もできず困るから言って欲しい。
    28日、嶋中宛書簡、先日三輪の池田氏からそうめん貰う、お礼言ってください、源氏もあと僅か、三月下旬上京するがその後山の温泉にでも籠もって一気に片付けようかと思う、脱稿した以上は雑誌でも発表したい、さて歯の治療でまた金かかり、八百円ほど要る、半分でもポケットマネーから貸してもらえまいか。
 3月1日、雨宮、編集長を辞任、佐藤観休職。佐藤観宛書簡、昨日荷風の色紙二枚頂戴、驚喜、漢詩は久しぶりにて、近日上京してお目にかかる。
   3日、見合いのため重子帰ってくる。
8日、小森田一中央公論編集部長。
   11日、佐藤観次郎応召。
   15日、重子の見合い?(細雪
 下旬、上京か。
 4月1日、国家総動員法公布。
  根津清治(15)が赤穂中学へ入ったのはこの年か。寮に入る。
   2日、改造社が芝の三緑亭で創立二十周年祝賀会。司会は馬場恒吾。蘇峰、雪嶺、芳沢謙吉、荒木貞夫菊池寛と演説が続き閉口する。他に佐佐木信綱(67)、如是観、白鳥、里見。散会後、白鳥、里見と芝の山内をぶらつく。(「当世鹿もどき」)
   11日、松子重子信子恵美子と中国旅行、錦帯橋、宮島。
 同月、35年ぶりでモルガンお雪(58)、ニースから帰国、マルセイユ発の靖国丸での旅の様子が日々新聞に報道され、谷崎感慨を催す(「初昔」)。
   24日、お雪、朝長崎着、下関へ行き春帆楼で食事、午後十一時発の列車で東上。
   25日、夕刊に、お雪が今朝三宮駅に下車し、オリエンタルホテルで昼食を摂り午後一時二分初省線で京都に向かい、二時六分七条駅で兄姉に迎えられるのを読み谷崎涙に咽ぶ。 
   26日、朝刊にお雪帰郷の報あり安堵す。
   27日、雨宮宛書簡、手紙拝見貴下の立場に同情、かつ潔いのに感銘、健康を祈る。   30日、雨宮、中央公論社辞職。
 同月、萩原朔太郎、大谷美津子(27)と再婚。
 5月10日、十日会、信子が「雪」を舞い、山村らく(二代目)が「鉄輪」を舞う。
   24日、淀橋区諏訪町の志賀宛書簡、先だっては祝詞お礼、ちょうど『婦人公論』の対話を見て、自分のように一人の娘に苦労させる親もあれば、とご両所の心がけに感心いたし特に里見君の家庭などは面倒なのに大勢の子女を丹精され私などの及ばぬところ、今度のことも佐藤の父の計らいにて、お宅も早く良縁ありますよう、源氏は七八月中に完成それからは毎月上京可、東京でお目にかかります。鮎子、龍児の婚約発表についてか。
 夏ごろから松子、子を授かるよう枕元の観音像を拝んでいたという(「初昔」)
 6月、前進座の映画、河原崎長十郎主演、大佛次郎原作『逢魔の辻 江戸の巻』を観たか(「きのふけふ」)
   9日、小石川の重子宛書簡、朝子退院とのことお喜び、当方、恵美子は夜十二時すぎに鼻血が出るので今日耳鼻咽喉科へ連れて行ったら鼻腔が爛れているとのこと、松子の喘息は大したことないが疲れて肩を凝らしている、甲南の校長が自転車はいけないと言った由、しかし危険のない場所は構わないだろう、子猫は二匹とも元気、マアちゃんとヤアちゃんと名付けた、橋の下の犬の子は一匹だけヒクヒク生きている、空襲の恐れがあるのか大阪神戸市内は夜間街灯を消す、ポーちゃんは山村舞の「鉄輪」「雪」が得意、信子は毎日ミシン、源氏は先月末で三千枚突破、あと三百枚ほど、七月末八月上旬に片づくので上京する、東京はこの頃地震が多いようだがどうか、清治は十八日土曜に来る、鮎子もそのうち来る。
 この間上京か。帰阪の際、東海道線に事故でもあったか、新宿駅から乗り、翌日中央線で名古屋へ出て延着の鴎に乗って帰った。
   22日、ルミー嬢誕生会。重子が来ていて夕方神戸へ行く。
   23日、恵美子を重信医院へ脚気の注射に連れて行く。
 7月5日、関西地方が風水害に教われ、住吉川が氾濫する被害を受けた。朝恵美子が登校しようとするのをとめた(甲南小学校)。谷崎邸は無事。信子のいる魚崎根津邸は午後五時頃までに激流に隔てられて消息不明となり、夕刻、泥水の中をおみつどんと谷崎が迎えに行き信子を連れてくる。清太郎は大阪。深夜一時、北川の息子が危険を冒して大阪から食料持って来、同夜は泊まる。
   6日、嶋川と罹災の様子を見て回り、甲南小学校、信子が通っていた田中千代洋裁学校へも行く。
   7日、重子宛速達書留、水害の詳報、住吉川上流阪急より上は大変、内田さんの家もダメでしたが家族は無事で野上さんのお宅へ非難、無事だったのは橋詰健一(妻は松子幼少時代からの友達)、花岡、和嶋、張幸、浸水程度はハリウド、波多、妹尾、木場、宮下は行方不明、信子のこと、先だって東京出発の際はご心配を。鮎子はこんな時に来ても遊べないし信子もいるのでいつでもお出でを、しかし大阪からこっちは省線回復の見込みなく阪急阪神も同様、鮎子にも手紙出す。住吉川は干上がりここが川筋になったようで魚崎から青木へ行くにはこの濁流を渡らねばならず恵美子は重信医師のところへ行けず辰井さんで注射してもらう、学校は休校、根津は家を探して移転するそう。
   10日、嶋中宛書簡、今朝は失礼、八百円ではなくやはり千円お願いしたい、明後日十二日午前中に参上する。
   11日、張鼓峰事件、ソ連軍と衝突。
   12日、嶋中宛書簡、いつも三輪そうめんお礼、和歌二首。
 8月1日、土屋宛書簡、過日はお見舞いお礼、こちらは無事に済んだ、短冊の件承知、愛国婦人会のは銃後国民の義務としてやむをえず寄贈したが旧作を送ったまで、今月中に送るか九月上京の折り持参。
   6日、和田六郎は警察庁の上司の妻で、女児のいる徳子と結婚、この日、長男周生まれる。
   中旬、「手習」の巻にかかった頃、松子、恵美子、お春を連れて上京。その直前松子は義歯埋め込みをするがあとあと痛んでくる。(「初昔」)
   17日、「ハツアキノミニシムカゼヨアヅマナルワガオモフヒトノハニハシマザレ」と電報を打つ。
   21日、「綴方教室」封切、観る。
   30日、佐藤豊太郎宛書簡、昨日は梅干しお礼、昨夕春夫来て賑やかに会食、秋雄君大切に。
   月末、「手習」終わる。(「初昔」)
 9月、「夢浮橋」に掛かる。松子からは頻繁に手紙、歯の痛みを訴える。その後、悪阻があることを訴えて来、鶴岡医院で三ヵ月の妊娠であることを長い巻紙の手紙で喜びとともに伝えてくる。
   5日、雨宮庸蔵、禁固四ヶ月執行猶予四年の判決を受ける。
   7日、善三郎の長女富美子の結婚式。  
   9日、「夢浮橋」脱稿、『源氏物語』現代語訳(三三九一枚)初稿完成。中公へ打電。
   10日、上京、中公へ原稿持参。(「八十年」) 
   11日、夜行で上京。東京朝日、東日に源氏完成の記事。従軍作家部隊支那へ出発、久米、丹羽、岸田、林芙美子、菊池、佐藤春夫吉屋信子西条八十ら。
   12日、東京駅から森田宅へ行き松子に会う。関西の掛かりつけ医師の診断を仰ぎたいが汽車に乗るのを禁じられているというので困惑、ゆっくりと行くことにする。渋谷の宿へ三宅正太郎が来る。
   17日、嶋中が山田と谷崎を星ケ丘茶寮に招き祝賀。
  一高同窓生の柳光亭での宴など。この間松子は単身嶋中を訪ねて相談し、嶋中は、どちらの気持ちも分かる、産みなさい私が責任を持つと言った(「雪後庵」)
   22日、鶴岡医師を訪ねて揺れを感じない薬を貰い、揺れの少ない列車を教えてもらう。
   23日、午後八時何分かの寝台で出発。
   25日から防空演習で灯火管制。午後、A(徳岡?)医師の診察を受けると、健康上産むことは勧められないと言われる。
 B医師は更に強く中絶を勧める。
 10月、土屋計左右、第一ホテル副社長。
  1日、入院の準備をし、谷崎とお春がついて芦屋の内野病院へ行き、午後一時頃から予備の処置、松子は「騙された」と嘆く。
  2日、午前二時頃、松子発熱するが朝には収まっている。九時頃重子見舞いに来る。昼頃妊娠中絶、重子も泊まる。
   3日、退院、帰宅。
   5日、灯火管制終わり。
   8日、東京から鮎子来る。重子の見合いあり、実家の代理で出席するが途中松子の出血があって困惑。
   27日、大貫鈴子宛書簡、十一月は晶川二十七回忌と聞いたが法事はいつか、来月中旬は上京するので、遅れても墓参またはお宅へ、和辻後藤など誘って行く。
   31日、鈴子、法事が二日である旨手紙を出す。
 11月2日、大貫晶川二十七回忌。
  3日、鈴子の手紙谷崎に届くが既に遅し。
   7日、大貫喜久三(晶川の弟)宛書簡、手紙届くの遅れ法事に間に合わず、鈴子の身の上についての心労察する、重子も三十を越して一人、戦争中は男子払底、上京は多分今度の土曜十二日、なるべく二十日頃参上する、目下大変多忙。
   12日、上京か。
   13日、伊豆畑毛温泉栄家旅館より本郷区西片町和辻宛書簡、いつぞや改造社の会で会ったとき話したと思うが晶川二十七回忌、後藤、木村と四人で墓参、大貫家へ寄って弟夫妻や娘に会い晩に東京へ帰って飯でも食おう、私は二三日中に上京、二十日の日曜過ぎまで滞京、君と後藤で相談して集合場所等決めてくれないか。返事は偕楽園気付けで。後藤にも同旨の手紙を出した。
 この間上京、和辻、後藤、木村と大貫邸を訪ねる(写真あり)。
   24日、朔太郎宛書簡、新しい夫人とうまく行かず別れたと噂を聞いたが本当か、吉井も結婚に失敗したが今度新妻を迎えて京都に家を持ったそう。佐藤惣之助夫人によろしく。朔太郎夫人美津子は、翌年七月頃家族と不和のため家を出て、朔太郎が訪ねていったりしている。
   27,8日、京都へ紅葉狩り
 12月4日、森川宛書簡
   中旬、上京。この時松子と尾張町三越へ行った際、赤ん坊用品を見て松子が涙を流す(「初昔」)
   18日、「源氏物語序」を『中央公論』新年号に掲載。
 この頃か、京大国文学研究室から、東大同窓のフランス文学教授落合太郎を通じて講演を頼んでくるが、座談ならいいと言って、京都東山真葛ケ原のにしん屋で会席。横田俊一が司会,この時院生の玉上琢弥(25)もいた。
   28日、帰宅。大貫喜久三から十九日付けの手紙、品物、写真届いている。
   29日、喜久三宛書簡でお礼。
   31日、信越線の中で舟橋聖一と乗り合わせ、読売新聞に上司小剣が舟橋の「楊柳」を評しているのを手渡し、初めて舟橋と知るか。

1939(昭和14)年        54
 1月、創元選書『春琴抄』を創元社から刊行。
   2日、各紙に『源氏』の広告。
   7日、鏡花より源氏完成の祝電「ムラサキノハナマヅヒラク ゴホンクハイサコソオイハヒマウシアグ」。返電「ムサシノノクサヲユカリノカゴトニテイマムラサキノハナモハヅカシ」。
   8日、東京の志賀宛絵葉書、暮にも東京にいたが訪ねられず、20日頃上京するのでその折り。豊田正子『続綴方教室』中央公論社から刊行。
   20日頃上京か。
   23日、星が岡茶寮で、森田たまら女流作家との座談会。豊田正子話題となる。『潤一郎訳源氏物語』第一、二巻を中央公論社から刊行、装幀は長野草風、題簽、扉の文字は尾上柴舟。最初から十七、八万部が売れる。
   24日、日比谷公会堂の「源氏物語」刊行記念文藝講演会。「開会の辞」牧野武夫「源氏以来」横光利一、「日本文化と源氏物語」池田亀鑑、「文学の姿と泉」吉川英治、「源氏物語と私」今井邦子、「題未定」三木清、菅原明朗作曲・坂東簑助による「若紫」の朗読、「源氏物語刊行に当りて」嶋中、「源氏物語を訳し終りて」谷崎、「源氏物語鑑賞」小島政二郎、「題未定」山田。
 2月、「えびらくさんのこと」を『上方−郷土研究』に掲載。同誌は昭和6年、南木芳太郎主催の上方郷土研究会により創元社より創刊された。えびらくさんは山村らく。前年の死去により偲んだもの。
   2日、嶋中雄作、宮中に参内、『源氏物語』を天皇、皇后、皇太后に献呈。宮本信太郎、山脇亀夫、山本英吉が同行。
   6日、大阪の新聞に『源氏物語』の広告出、安田靫彦幸田露伴の推薦文を見出す。
   7日、安田宛礼状。露伴宛礼状。
  『文芸春秋』3月号「春宵あれこれ座談会」志賀、里見、梅原龍三郎観世喜之、富本健吉、宮城道雄。『婦人公論』3月号「谷崎潤一郎を囲んで一流女性作家懇談会」宇野、茅野雅子、森田たま(46)、吉野信子、今井邦子、嶋中。
   12日、嶋中宛書簡、回送の西村氏手紙おもしろく、いずれゆっくり見る、売れているようで喜ばし、23日の講演会は今日大毎紙上に広告が出たが人前に顔を出すのは最後にしてもらいたい、当日は一家総出でお迎えする義妹が舞を見せる。
   18日、岡本かの子死去(51)。
21日、山村らく追善山村流舞の会、高麗橋三越にて。
   23日、大阪軍人会館で源氏物語刊行記念大講演会。講師として舟橋、森田たま、島木健作(37)、谷川徹三(45)、小島政二郎(46)。川田順(58)も最高世話人として参加。島木がプロレタリア文学の演説を一時間にわたって行う。その後川田を含めて曽根崎の茶屋。西川小幸の舞。舟橋と親しく話す。(舟橋「谷崎潤一郎」)
  この前後、嶋中を迎えて宴、重子の舞か。
   25日、大貫喜久三より書簡、源氏刊行の祝詞、これ以前に上京。
 3月、『文学界』に舟橋「谷崎源氏を読みて」。
   4日、大陸開拓文藝懇話会発会式、芹沢光治良田村泰次郎岸田國士、徳永直、高見順ら。
   6日、帰宅。
   7日、大貫宛書簡、お礼、かの子逝去のこと、鈴子さん如何。
 4月、「偶感」を『上方』に掲載。大阪歌舞伎座で六代目菊五郎京鹿子娘道成寺」を踊る。
   13日、岡本かの子「ある時代の青年作家」『文藝』5月号に掲載。
   20日前後、松子を入籍。これを機に丸に蔦の家紋を改めて松子の丸に唐花の紋にする。鮎子の結婚を前に森田家側から強請された結果。
   24日、午後六時から丸の内東京会館にて、泉鏡花夫妻の媒酌で、鮎子(24)と竹田龍児(31)結婚。来賓総代として戸川秋骨が万歳を唱える。出席者は久保田万太郎、與謝野晶子、菊池、戸川秋骨、嶋中、山本実彦、西村伊作、中根、里見、志賀夫妻、笹沼、高木定五郎など。鏡花は始めての媒酌だが、新聞に答えて、「御当人達が既に相愛の間柄であることを承知しているから」と答えた。新夫婦は下落合のグリーンコートスタジオアパートに入居。龍児はまもなく華北交通に就職、北京に単身赴任。
   25日、東京朝日新聞に「喜びの鮎子さん」として報じられる。
 5月、歌舞伎座菊五郎の「吃又」上演、一家で観るか。
   13日、『新潮』6月号に、座談会「谷崎潤一郎研究−−人及び作品について」、丹羽文雄、後藤、高見順、宇野、雅川滉、中村武羅夫
   23日から26日まで、『東京朝日新聞』で岡崎義恵が四回にわたって『谷崎訳源氏』を批判、老人の繰り言めいており、藤壺との密通場面を削除したことも批判。
   24日、嶋中宛書簡、笹沼が日本橋区の税務委員なので調べてもらったが計算すると今年入る金はなし、本年払われる筈の印税原稿料を今後二三年に受け取る形にするしか税を安くする方法はない、7月頃には相談に上京。
   31日、「樋口一葉」(山田五十鈴高峰秀子)封切、観る。 
 6月、創元選書『陰翳礼賛』刊行。
   14日、精二夫人郁子が近所の往来で倒れ、その儘運び込まれて急死、終平(32)が駆けつけて通夜の晩は遺体に傍らにあり、精二は別室で文学部長吉江喬松と碁を打っていた(終平)。
   これを新聞で知って「アイトオス、アスジョオキョオス」の電報を打ち葬儀に上京、六年間絶交状態にあった弟と和解なる。精二が吉江に話すと、「喧嘩は目上のほうから折れて出るものです」と言われた。
   21日、読売夕刊「展望台」に「谷崎夫人葬儀余聞」
 同月、佐藤春夫の母政代死去、鮎子は妊娠していたが駆けつけるためバスで峠越えをし流産。
 7月、新潮文庫より『盲目物語』刊行、解説・雅川滉。
   9日、戸川秋骨死去(70)。
   27日、重子の誕生日、羊の絵に和歌を書く。「いぬ年に生れたまへば溌剌と若やぎ給ふ君にこそあれ」
   30日、安田宛書簡、吉右衛門が『盲目物語』を演るとはよい思いつき、そちらにお任せします、波野なら柴田もできるだろうが盲人をやるところに面白みがあるので二役でもできるのではないか、本日上京、来月二日三日まで芝田村町玉家旅館に滞在。夜上京か。
   31日、玉家旅館に滞在か。(清治はここから錦城中学に通っていた・大谷)
 8月8日、安田宛書簡、脚色につき、久保田では小島政二郎と逆に線が細すぎないか、しかし久保田自身で知っていることだから注意するだろうが、もし久保田が承諾しなければ小島にしてはどうか(「では誰がよいか」と訊いてみよ)、三宅周太郎に相談しては、また原作お市の方が弥市の名を与えるが『日本盲人史』では官許がなければ「何市」は名乗れず当方無学の致すところ脚本ではこの件削ってほしい。建築服装等は任せる。
   23日、山田宛書簡、「藤裏葉」の「太政天皇に準ずる」は問題にならないか(西野)。モスクワで独ソ不可侵条約調印。
 9月1日、ドイツ軍、ポーランド侵攻第二次世界大戦始まる。
   4日、日本政府、欧州戦争不介入を宣言。
   7日、泉鏡花死去、67歳。
   10日、青松寺にて鏡花告別式、徳田秋聲の隣に列する。
   18日、「泉先生と私」を『文藝春秋』十月号に掲載。
 10月、金に困り森川喜助に太田垣蓮月尼の机を譲る。創元選書『吉野葛』刊行。
 11月、初旬、竹田龍児編、佐藤補筆の鏡花追悼「捐館記事」配られる。
   9日、竹田鮎子宛葉書、今東光が何と言ったか知らぬが名前など変えるに及ばず、夏樹西下の日が決まったら電報で知らせ願う、重子快方に向かう。
   24日、住吉村森川喜助宛書簡、令嬢の結婚祝い、先月譲った机相当の代価で戻してもらえないか。
   29日、森川宛書簡、手紙拝読、机のこと早速承諾有難し、月が変わったら伺う。
   末頃、儒丐訳「春琴抄」『満洲盛京時報』に掲載。
 12月5・6日、夜九時から『吉野葛』のラジオ放送、脚色・依田義賢、演出・溝口健二、作曲・宮城道雄。