凍雲篩雪

凍雲篩雪(83)勝手に怯えてろ

一、数か月前の本欄で、「鳥潟博士事件」というのに触れて、菊池寛の『結婚街道』のモデルになったと近松秋江が書いていた、としたが、これは別の事件のことで、昭和七年十月、免疫コクチゲンの発見者としてノーベル賞候補にも擬せられた鳥潟隆三(一八七七ー一九五二)の長女静子(二十五歳)が、京都帝大医学部卒の長岡浩(二十八歳)と一年の交際ののち華燭の典を挙げたが、その夜の長岡からかつて性病に罹っていたことを告白され、静子が結婚を破棄し、性病はもう治ってはいたが、それを隠していたことが問題だとして、父隆三と媒酌の京大教授・市川清の連名で結婚破棄の声明を出したことでマスコミの騒ぎになり、『サンデー毎日』十二月十一日号では「結婚解消問題 裁かるゝ男性」として七ページにわたる特集を組み、谷崎潤一郎武者小路実篤小林一三倉田百三、夏川静江、柳原白蓮長谷川時雨ら各界著名人のコメントが載っている。
 したがって、『結婚街道』は、大正年間の鳥潟右一の娘の夫が鈴弁殺しの犯人だというのとは関係ないのだが、短い期間に「鳥潟博士の令嬢事件」が二つもあったことになる。
 大したことのないような事件がこんな話題になったのは、その当時「男の貞操」が問題になっていたからで、それまで女の貞操ばかりが問題にされてきたが、男の放蕩はいいのか、というわけで、遊蕩文学の攻撃で筆頭にあげられた近松秋江ですら、男の貞操は問題にすべきだなどと書いていた。だが、当時の週刊誌や婦人雑誌の読者層はアッパーミドルクラスで、ごく一部の人にしか認識されていない問題だったことは確認すべきであろう。
 先般本欄で批判した中島一夫氏から早速の回答がブログにあったが、もともと同氏の論は精神分析を用いたもので、私は精神分析を科学として認めていないので、話はかみあわない。中島氏は江藤淳天皇制消滅の危機に「怯え」ていたと言うが、「勝手に怯えてろ」としか言いようがない。
二、ロシヤ文学ではトルストイドストエフスキーが二大巨頭扱いだが、私はドストが好きではないし、トルストイも三大長編は好みでなく、「クロイツェル・ソナタ」や「イワン・イリッチの死」のような中編がいいと思う。もっともドストエフスキーも、後期のロシヤ正教原理主義に傾いたものでない、『死の家の記録』などは好きだし、先日初めて『虐げられた人びと』を読んだら、ちょっと変だが面白かった。ここでわき役なのに、ドストがロリコンだといった説の根拠をなしたのが孤児ネリーなのだが、昔はもっと有名だったようで、太宰治川端康成に宛てた手紙にも出てくる。
 ほかにトゥルゲーネフも『煙』『その前夜』などが好きだが、これらは解説ではたいてい当時のロシヤにおける革新派の青年たちとの関連で説明されている。だが私はむしろ恋愛小説として、そこに描かれるヒロイン像に興味が深い。
 私はいったいしかし、ロシヤ文学では誰が好きなのだろうと考えて、ゴンチャロフだ、とへそ曲がりなことを思いついたのだが、私が大学生のころ、ニキータ・ミハルコフの「オブローモフの生涯より」を映画館で観て感銘を受け、原作の『オブローモフ』を岩波文庫の全三冊で読んだがこれも面白かった。主役は働く必要のない貴族の息子だが、そのだらしなさとか、女に振られてしまうさまが、大学生だった私自身を思わせたからだ。
 だがさすがに、ゴンチャロフの他の作品、といっても『フレガート・パルラダ』つまり『日本航海記』は別として、小説はその当時品切れだったし、長らく読むことはなかった。だが三十年ほどして、初期作『平凡物語』をやはり岩波文庫で読んだらこれも面白かった。主人公の青年アレクサンドルは、文学者になる志望を抱いて首都ペテルブルグの伯父ピョートルのもとに寄宿するのだが、伯父は、そんな志望はやめて役人になれと言う。アレクサンドルは聞く耳持たず、恋愛に熱をあげるが、ごたくさしたあげくに振られる。この女と言い合う場面が、二葉亭四迷の『浮雲』にそっくりなので、二葉亭は『平凡物語』を参考にしたな、とすぐ分かる。数年後、アレクサンドルは文学者などあきらめて平々凡々たる官吏の道を歩んでいる。しかし妙なことに、小説はそれをいいこととも悪いことともしていない。判断は読者任せなのであろうか。
 ところがここに、ゴンチャロフといえば『断崖』という大長編がある。しかも二葉亭は『浮雲』を書くのにこの作品を参考にした、と書いている。岩波文庫で全五冊の翻訳がある(なお私は、全五巻というのは文庫本の場合不適切で、五冊のほうがいいのではないかと思って五冊と書いている)。一九四九年から五二年にかけて井上満が訳したものだ。二〇〇九年の一月、古本で三万五千円の値段がついている全五冊本を私は購入したが、あまりに汚くて読む気にもならずにいたら、二〇一〇年十月から改版が復刊したから、参った。古本のほうは書庫のどこかにあるが、今回仕方ないから復刊のほうを第一巻から二冊目まで読んで、一向に話が進展しない退屈さに参った。ゴンチャロフはどうやらここでは「退屈」を描こうとしたようだが、ライスキーという青年をめぐって、田舎の人々の描写が延々と続いており、これであと三冊あるのだ。小林実という立教大学の院生だった人の「二葉亭四迷浮雲』の創作におけるゴンチャロフ『断崖』からの模倣とドブロリューボフオブローモフ主義とは何か』の解釈に関する検証の報告」(立教大学日本文学、一九九九)と「二葉亭四迷浮雲』創作の目的論的契機とモデル作品-グリボエードフ『知恵の悲しみ』及びゴンチャロフ『断崖』からの借用形態について-」(『日本近代文学』二〇〇一年)という論文がある。『智慧の悲しみ』も岩波文庫に小川亮作(一九一〇ー五一)の翻訳があってこれも読んだ。小川はペルシャに派遣された外交官で、オマル・ハイヤームの『ルバイヤート』の岩波文庫版訳者でもあり、『智慧の悲しみ』のグリボエードフ(一七九五ー一八二六)と似た運命をたどって、若くして死んでいる。グリボエードフはデカブリストの共鳴者だったことから、懲罰的にペルシャ派遣の外交官とされ、トルコマンチャーイ条約を結ぶことに成功したが、この条約をペルシャにとって屈辱的だと感じたペルシャ人がジハードを起こして公使館を襲撃し、グリボエードフは三十一歳で死んだ。十六歳の妻が妊娠していたという。その死体がモスクワへ帰る途中、南へ向かうプーシキンに遭遇したという。
 しかし、二葉亭は本当にこのだだ長い『断崖』を読んだのだろうか。私には『浮雲』と関連するのは『平凡物語』のほうで、『断崖』は二葉亭が何かの見栄で書いただけではないかという気がする。
 だだ長いといえば、アーダルベルト・シュティフターの『晩夏』をいま読んでいるが、これはそう長いわけではないが、退屈なことで知られ、読み通した者にはペルシャの王冠を授けるなどと言われたようだが、今のところ、私はそう退屈はしていない。藤村宏の翻訳もいい。