門田泰明は、バイオレンス小説の作家として知られるが、若い頃は純文学を目ざし、芥川賞作家の多田裕計に師事していた。門田の出身大学は不明だが、多田の示唆によって、生計のたつ通俗小説に転向したという。『黒豹作家のフットワーク』(光文社文庫)は、門田の若い頃の純文学小説や評論を収めた面白い本である。ところが、仏文学者で文藝評論家の中条省平が、門田の文章を批判している。『小説家になる!2 芥川賞・直木賞だって狙える12章』(メタローグ、二〇〇一)の中でなのだが、何を批判しているかというと、門田の文章が「文学的」だということを批判しているのである。
今回は、「文学」をしてはいけないということを話します。ここで言う、いわばカッコ付きの「文学」とは、いたずらに抒情的な描写に凝ってみたり、月並みな比喩を使ってみたり、アクションですんなりと書かずに、奇妙な心理描写、不必要な分析的記述で物語を停滞させてみたりする傾向を指します。本当の文学は違います。常に厳しく核心を突かなければいけない。
そこで引用された文章は、たとえば「どの村々にも、潮風と戯れるようにして、紋白蝶が乱舞している。それは、心優しき島の人々を守ろうとする、神々の使者なのであろうか」(『黒豹ダブルダウン』)
なるほど中条の言う通りで、中条はここで門田を反面教師にせよと言っている。ただし、これらの著作の中で中条が、他の作家、つまり中条がいくらか遠慮しなければならない純文学作家に対して同じ基準で臨んでいるかは知らない。
ところが中条は、『群像』二〇一四年十月号の「創作合評」で、吉増剛造、長野まゆみとともに、あの文学的な文章で書かれた小野正嗣の『九年前の祈り』を褒めあげているのである。そういえば先の門田のそれも小野のこれも、九州が舞台である。「僕も、すごくよくできている上質な小説だと思いました」「小野さんの場合は、まったく読みにくさを感じません」などベタ褒めである。しかるに同月の『文學界』の「新人小説月評」で福永信は、「九年前の祈り」から引用して、「その声は発せられるや、一羽の小鳥となって空高く舞い上がった」とあるのを、「致命的に恥ずかしいフレーズ」と呼んでいる。ほかにも、小野の文章は余計な装飾が以前から多い。そして先の中条の言に従わなかったために芥川賞がとれたというわけである。
三十年の間に中条の文章観が変わったのか、ボケたのか、あるいは通俗作家である門田に対してはずけずけものが言えるが、純文学作家に対しては遠慮してしまって言えないのか、ないしはフランス文学界の俊英でパリ大学で博士号を収めた後輩とか、掲載誌『群像』への配慮であるか、東大表象文化論へのあいさつか、いずれにせよ門田に謝るのが筋ではあるまいか。
なぜ中条が、いわゆる純文学の名作を用いて小説作法を解説する本で、門田泰明など持ち出したのかと私は疑念を持ったが、それは要するに純文学大家たちに遠慮したからにほかなるまい。装飾的で「文学している」文章など、三島由紀夫はたくさん書いている。だが三島を批判はできないから、門田などわざわざ持ち出してきてけなして見せたのである。こういうのを卑怯と言う。