川端伝を書いていた時、芹沢光治良が川端の次にペンクラブの会長になったので、芹沢もノーベル賞候補であり、と書こうとして、調べてみたら芹沢の著作は英語など世界各国語に訳されていないのである。そこで書かずにおいたが、芹沢がノーベル賞候補だったという伝説は、どうも疑わしいということに気づいた。
野乃宮紀子『芹沢光治良 人と文学』(勉誠出版、2005)には、1957年に芹沢がノーベル賞候補にあげられたとある。どの典拠によったのか分からないが、これはその前年、芹沢の中編『巴里に死す』が森有正によって仏訳され、十万部売れたということがあり、日本でもこれが喧伝されたからでもあろうが、既にそれから五十年たち、スウェーデンのノーベル賞委員会は当時の資料を公開しているが、芹沢の名は出ていない。62年にノーベル賞委員会のマーティンソンが日本に来て、日本にもノーベル文学賞候補が三人いると発言し、当時のマスコミは、谷崎、川端は定番として、ほかに三島の名などをあげたが、三島ではなく西脇順三郎だったというのが定説である。
芹沢作品の外国語訳は、アジアはいざ知らず、西洋では、『巴里に死す』のあと、『サムライの末裔』と『巴里夫人』が仏訳されており、これは野乃宮著にも書いてあるが、それ以外には確認できない。日本人がパリを舞台として描いたものということで、エキゾティシズム的に出たということもあろう。諸国語への翻訳という点では、のちにノーベル賞候補と騒がれた井上靖や、井伏鱒二のほうがずっと多い。
もっともその62年時点で、既に芹沢の名は出ている。さらに芹沢が、68年に「ノーベル賞候補夫人」という私小説を書いている(『こころの波』所収)。もっともこれは、フランスで知った結核療養所の医師が、ノーベル平和賞候補として推薦してくれと言ったという話である。
その中で、芹沢が、ノーベル賞推薦委員になったということが書いてある。実はこの「ノーベル賞推薦委員」というのは、芹沢の経歴で大書されることがあるのだが、芹沢は65年に川端がペンクラブ会長を辞めて会長になっており、もともとペンクラブ会長は自国からノーベル賞作家を推薦することになっており、別に芹沢が特別に選ばれたというわけではないのだ。
あと芹沢はフランス政府から勲章をもらっているが、フランスというのは、文化省があるくらいで、自国文化に貢献した外国人には割と簡単に勲章を与えるのである。私の後輩の関口涼子さんも、日本の漫画などをたくさんフランス語訳していて、40歳そこそこで貰っている。
代表作『人間の運命』だって、外国語に訳されたという話は聞かないし、どうも芹沢がノーベル賞候補だったというのは、一種の都市伝説のようなものだろうと言うほかない。
(小谷野敦)