私にはドストエフスキーが概して苦手だが、『悪霊』はチンプンカンプンなものである。以前は、学生運動などをやった人が、自分らに重ね合わせて読んで感動しているのだろうと思っていたが、どうも学生運動をやっていない人も感動するらしい。私は組織に属して生きるということのできない人間なので、その辺の実感が分からないのではないか。
だがもう一つ、『悪霊』にはキリーロフという男が出てきて、どうやら人はこの男に深い関心を抱いているらしいのだが、これも私にはまったく分からない。
キリスト教的な部分を除いても、キリーロフには「自殺思想」とも言うべきものがある。西部邁のように、もっともすぐれた死に方は自殺であるという人もおり、西部はキリーロフに深い関心を持っているようだ。埴谷雄高も、ここのところには関心があるようだ。
だが、実は(ってこともないが)私は自殺というものにまったく関心がない。どうしてないのかと言われてもないのだから仕方がない。死ぬのは怖いから、誰か有名人が若くして死んで、自殺だったと知れるとほっとするほどだ。もちろん、病気に苦しんでの自殺とかいうのはまた別である。
キリスト教徒ではないから、自殺は罪だと思うわけではない。かといって三島のように、自殺が美しいと思うわけでもない。死にたい人は死ねばいいと思っているので、せめて飛び降りて下の人に衝突するとか、電車を遅らせるとかで人に迷惑をかけずにやってほしいと思うだけである。だから、自殺しようとしている人を止める気は全然ないし、仮に電車へ飛び込んで死ねなかった人とかを救い出す気もない。
だから、私を困らせようと思って「死んでやる」とか言ってもムダである。はい死んでください、である。死にたいというんだからいいんじゃないかと思うだけである。