樺俊雄の謎 

 佐藤春夫というのも、ちゃんとした伝記のない文学者だ。あまりに作品量が膨大で、『定本佐藤春夫全集』は36巻別巻2、おのおの450p以上ある。研究している人はいるが、まとまらない。
 で、佐藤の弟子だった竹内良男の『華麗なる生涯‐佐藤春夫とその周辺』(1970)を読んでみたが、予想以上にダメだった。もちろんざっと佐藤の生涯は描いてあるが、著者が直接知っていることが妙に多い。

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 山田昭全『文覚』(吉川弘文館人物叢書、2010)のまえがきを見たら、この執筆は人物叢書がスタートした頃に約束したものだとあった。人物叢書のスタートは1958年である。もしかしたら、新装版スタートの1985年のことかもしれないが、山田は1929年生なので、前者もありえないことではない。まあ1960年頃約束したとして、半世紀かかったわけだ。
 ところでこの本には「保元の乱の勝ち組」という表現が出てくる。ああ、80歳の人がそんな誤用を…。

文覚 (人物叢書)

文覚 (人物叢書)

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江刺昭子の『樺美智子 聖少女伝説』をざっと見て、変だなと思った。江刺はよい筆者であり、ここでも、樺美智子が没後聖化されていく過程に疑念を表明していて、よい。
 問題はその両親である。父・樺俊雄は社会学者で、中央大学教授だったが、神戸大教授を兼任して、一家は芦屋に移り、美智子は兵庫県立神戸高校へ行っているが、父が中大へ戻ったため東京へ戻って、東大へ入る前に一年研数学館へ通っている。
 ところが、父は高円寺に住んでいたが、長兄は東北大へ行っており、母、美智子、中大生の次兄は、武蔵野市と杉並区で借家を転々としたとあり、中大教授の給料では生活が苦しかったのだろうと書いてある。別居して二世帯あったらそれは苦しいだろうが、なんで高円寺と杉並近辺で別居する必要があるのか。ノンフィクションとしては、一番の突っ込みどころである。そりゃ、両親が不仲だったとか、俊雄に愛人がいたとかしか考えられないではないか。
 美智子が死んだ日も、両親の歩調はまるで揃っていない。俊雄は駿河台の中大で安保闘争について会議をしてから国会へ向かい、女子学生が死んだと聞いて驚き、探し回るが、美智子だとは分からない。家に電話するが、妻はラジオで女子学生が死んだと聞いて出かけた後だったというが、出かけた後だというのは誰から聞いたのか。次男としか思えないが、ほかに誰かいたのか。俊雄はその後で、美智子だと知って警察病院へ駆けつけるが、この時は電話していない。妻は終電車を逃して、池袋の実家へ辿りついて寝ていると、ラジオで美智子が死んだと聞いた兄にたたき起こされて警察病院へ行き、俊雄に会っている。
 あまりに連携の悪い夫婦で、その後も歩調は合っていない。
 なお美智子が渋谷から二駅の駒場駅で降りて東大教養学部へと書いてあるが、駒場駅と東大前駅が合併するのは1965年なので、ここは東大前駅が正しい。今の図書館のそばの踏切のあたりである。
 あと気になったのが、美智子の同級生で東洋史学科の榎本暢子というのが出てくるが、これは運動家の長崎浩と結婚して長崎暢子、のちの東大教授だが、江刺はなぜか後のほうまで榎本で通している。しかしあとがきでは、協力者として長崎暢子の名が出てくる。暢子は今では長崎浩とは離婚しているが、公的には長崎のままである。

樺美智子 聖少女伝説

樺美智子 聖少女伝説