流産した対談シリーズ

 コロナが三年目の暮れに入ってまた感染者が増えつつあった十二月八日、つまり真珠湾攻撃の日に、その「飛び加藤」からのメールが突然やってきた。前にツイッターにいて、何か言葉を交わした、私の著作のファンらしい、五十がらみの男性だった。彼は、私と誰かの対談シリーズを企画していて、それを動画に撮り、ユーチューブみたいなところにアップしたいと言うのである。私には三万円くれ、対談相手には一、二万くれると言う。
 私はコロナになってから、人と会うのは極力避けていて、年に二回ある芥川賞についての由良本まおりさんとの対談もズームでやっていたから、実際に会うことを前提としての企画には二の足を踏んだが、三万円は収入の乏しい私には魅力だったし、話をしてみたい相手も数人いた。「飛び加藤」は、自分が作ったという動画をサンプルとしてURLを送ってきたが、エロスの何とかいうもので、あまり上品なものとは思われなかったし、訊いたら、撮影はカラオケボックスでやるという。妻に相談したら、私の書庫にしているマンションは貸しスペースにもなっているので、そこでやったらどうかと言われ、提案したら、相手は喜んで、それでいいですと言った。私は、対談相手に一、二万は少なすぎると言うと、では対談相手にも同額の三万円を出すと言った。しかしそもそもユーチューブが広告で収益を得るのは大変なことで、登録者は一万人必要であろう。「飛び加藤」は、自分は事業で成功したからカネはあると言っており、それならまあ、収益にならなくてもいいか、と思った。
 それから一週間ほどして、アドバイザーであるF社の女性編集者の加藤宗子さんと三人でズーム会議をした。「飛び加藤」は直接私と会いに来ると言っていたのだが、私はコロナが怖いのでズームにしてもらった。すると、対談相手としてやはり妙な名前が出て来た。「浅田彰」とか言うので、私は「いや、あの人はポモだし」と言ったら、「ああ、そういう噂も聞いたことがありますが・・・」と言うから、また勘違いしているなと思い、「いや、ホモじゃないですよ、ポモ、ポストモダン」と訂正したのだが、「東西両巨頭」とか言うのだが、それはよっぽど私を過大評価している。浅田彰が京都から来てくれるはずもないし、仮に東京にいても断られるだろうと思ったが、何しろ大手のメディアの企画ではないからそこがすごく弱いし、「飛び加藤」は私のことをよほどの大物だとでも勘違いしているんじゃないかと思った。その一方で中川淳一郎などと言うし、私はネットを誹謗し反ワクチン反マスクの中川など嫌悪しているから、嫌だと言い、加藤宗子は佐々木敦などと言うから、私と佐々木が大喧嘩したことを知らないのかと思った。そのころターフとTRAが内ゲバを起こして激しいことになっていたから、「千田有紀」と言ってみたら、「飛び加藤」は千田有紀を知らなかった。栗原裕一郎が奮戦していたのでそう言ったら、「ああ、なんか言ってましたね」という感じで関心もないらしく、わりあい不安な感じだった。それでズームをタダで使っているから時間切れになり、一週間後にまた会議をやるということになったが、どういうわけか一週間後、年末だったこともあるが、あちらから何も言ってこず、二度目の会議はなかった。
 私のほうはちょっと張り切ってしまい、対談相手をリストアップして、あれを話そうこれを話そうと考えていたが、断られることも三、四件あった。年末・正月を挟んで、私のほうで三人の了解を得て「飛び加藤」に知らせたら「ありがとうございます!」といったメールが返ってきたから、それでいいんだと思っていた。
 ところが、一月七日、コロナ感染者や死者が増えて、気になった私は「飛び加藤」に、対談中マスクをしてもいいでしょうかとメールを出した。その時点では、なるべくしないでほしい、程度の返事しか予想していなかった。ところが翌日来た返事は、映像を撮る人間として表情は重要なので、つけないでほしい、どうしても先生が嫌だと言うなら、コロナが収まるまでリスケしましょう、というものだった。私は、コロナは収まることはないと思っていたし、すでに三人決めているのを延期されては困るとも思い、それならなんで最初に言わなかったのかとメールしたら、電話で話しませんかと返事が来たので、電話番号を教えた。かかってきた電話に、「そういうことは先に言ってくれないと困ります!」と言ったのが強い調子だったらしい。だが問題はそれだけではなく、「飛び加藤」は私が出した対談相手に不満だった。「最初の撮影が終わった時点で、じゃあ次誰にしましょうかとか話し合えばいいし、その人に断られたりしたら二月はなくて三月でもいいんですよ、月刊誌じゃないんだから」と言うのが、いかにもちゃらんぽらんで行き当たりばったりに思えたから、私はそう言ったら、気分を害したらしく、怒鳴り合いに近くなった。私はまじめな対談を考えていたが、「飛び加藤」はどうやら『SPA!』とか「朝まで生テレビ」みたいな下品なものを想定していたらしく、相手についてももっと通俗的な相手を考えていたらしいと分かった。私も、中川淳一郎とか言われたのは、自分がそんな怪しい人物と対談すると思われているのかとショックだったが、結局はそうだったのである。「飛び加藤」は、栗原裕一郎の名前もあげていたから、私は絶交されているからそちらで交渉してくださいと言ったら、もろに断られたそうで、「生涯二度と関わりたくないと言っていました」と言い、私と栗原の対談が公開された時に「飛び加藤」も見ていたが、小谷野さんの態度が上から目線で、いろいろ積もる不快があったんじゃないですか、などと言われ、私は栗原を嫌ってはいなかったので、それなりにショックだった。しかし三つ年上なんだから少しは目上めいた態度になるのも当然で、そんなことを言われる筋合いはないとも思った。
  険悪な雰囲気を溶かすために私は「今は年収が百万くらいになっちゃって」と言った。「飛び加藤」は「年収百万でも書きたいことを書いていくというのが小谷野さんの・・・」と言ったから、私は「いや、好き好んでフリーなわけじゃないですよ、大学の公募にも出してます」と言うと、「知ってます」と言った。隠してはいないからどこかから伝わったのだろう。
 マスク問題については、私が、じゃあアクリル板を立てるってのはどうですかと言うと、「飛び加藤」は不貞腐れた態度で「そんなのどこで手に入るんですか」と言う。かたわらで聞いていた妻が、それならあると言い、妻に電話をかわり、二、三分話をしたあと、私に戻して、翌日また相談するということにした。
 妻は、貸しスペースの使用料金についてと、「エロスの何とか」みたいなタイトルのところに続けて載せられたら嫌だからというので、チャンネルはどうするのかという質問を記したメールを「飛び加藤」に直接送った。妻は、「ってことはその人、浅田彰カラオケボックスへ呼ぶつもりだったってこと?」と言い、私も、うーんそうだなあ、と思った。地位のある人を呼ぶのは、出版社の部屋か、都心のホテルの部屋をとるのが普通で、「飛び加藤」はカネはあると言いつつそこは妙にケチなんだな、と思った。
 やるとしたら、当日は、「飛び加藤」と加藤宗子とスタッフ二人が来ると言うので、私と妻に対談相手だから、あのスペースに七人が入ることになって、これはちょっと「密」だなと思ったが、その当時、世間には猪瀬直樹のような反マスク論者が跋扈し始めていて、「飛び加藤」がそれだったら困るなと思った。
 ところが、妻のメールへの返事はその日は来ず、翌日の昼近くになっても来なかったから、私は電話をしたら、出ない。それでメールを送っておいてちょっと出かけたら、留守電が入っていたので折り返し電話した。
 「飛び加藤」は、前日の電話で私に人格否定をされたとプンプン怒っていて、五十を過ぎて人から叱られるなんてことは経験したくないと言ったが、聞くとこの人は東大卒で、実用品の三億円規模の会社の社長をしていて、五十三歳くらいのようだが、私より七つも年下なんだから別にいいじゃないかと私は思った。それより問題は対談チャンネルのタイトルで「炎上上等!小谷野敦の・・・」みたいなケバケバしいのを四つくらい並べたから、そういうのはやめてくれと言い、「小谷野敦の対談シリーズ」とかおとなしいのにしてくれ、と言ったが、向こうは、嫌だと言い、先生だって『俺の日本史』みたいな下品なタイトルの本を出しているでしょう、と言う。だが今回は私一人ではなく、対談相手も巻き込むことになるから困るのだ。もはや私は、既に決まっている三回でこれを終わらせようと思っていたが、対談相手から了承をとりつけていなければ、一切白紙に戻したいというのが本心だった。「飛び加藤」は、私が選んだ三人をみな知らなかった。うち一人は、東大英文科の教授だった。「飛び加藤」は、二度目にズームでの相談をするつもりでいたが、と言うから、私が、じゃあなんで黙っていたんですかと訊いたら、さあ・・・と口を濁した。
 「飛び加藤」は、自分は会社をやっていて、自分が悪くない時でも頭を下げてきました、(それに比べてあなたは)「正直正太郎だから(謝ったりしないわけだが)それが小谷野さんの持ち味ですから」などと言っていた。しかし私は事業であっても、悪くないのに頭を下げるようなことはないほうがいいと思う。
 私は、「飛び加藤」がどういう人との対談を望んでいるのか、具体的に名前を言ってくれと言ったのだが、どういうわけか頑として言わないから、私が、原武史か、橋爪大三郎か、中島岳志か、佐伯啓思か、と言ったら、佐伯啓思を知らなかった。「飛び加藤」が出す題名は「文学」が入っていたから、別に文学だけの話じゃないからと言った。すると、芥川賞をとっていないけれど先生が十パーセントくらい可能性があると思っている作家とかいないですか、と言うから、十パーセントじゃダメだろうと思ったが、多分木村紅美のことを念頭に置いているんだろうと思った。私は、そりゃあ宇佐見りんが引き受けてくれるならいいですけど(無理でしょう)、と言った。向こうは、じゃあ先生が考えている対談相手の名前をメールで送ってください、私は加藤宗子とすりあわせして返事します、と言う。
 私は加藤宗子という人を、当初「飛び加藤」の夫人かと思っていたら、違うと言うから、じゃあ「彼女さん」かと思ったが、大学時代以来の友人で、無給で相談に乗ってもらっていると言うから、おかしな関係だなと思った。しかしということは、この女性も東大卒なんではないか。「飛び加藤」は、私の著書は読んでいるが、ツイッターやブログは、以前は見ていたが今は見ていないと言い、それで話がズレるんだなと思った。題名は「小谷野敦談論風発」というところで落ち着いた。電話を切ると、私は自分が予定していた対談相手の名前を四つ書いてメールを送った。
 妻は風邪のひき始めになり、「飛び加藤」のおかげで体調を崩していた。翌日の昼近く、「飛び加藤」からメールが来た。「煽情的な帯の例は、「さまよえる下半身の記録」ですが、営業が付けようが、作家がつけようが、読者にとっては同じというのが私の考えです。『バカのための読書術』なんてのは、ふざけた題名の例かと思いますが、ひねってて面白いです」とあり、対談相手として、呉智英、摘菜収、木村紅美などとあったが、木村紅美のところに「作家の年収について」と書いてあり、作家を呼んでおいて作品の話をしないで年収の話をするのは失礼だろうと思った。その下には村田紗耶香とか山崎ナオコーラとか田中慎弥とか適当に選んだみたいな名前が書いてあり「思い付き」と書いてあった。「さまよえる下半身の記録」は私の『文豪の女遍歴』の帯の文言だが、私は何だか「飛び加藤」があくまで下品なタイトルをつけようとしているような気がしてならなかった。このメールを妻に見せたら、「人をコンテンツだとでも思ってるんじゃないか」と言い「思いつき」で人を呼ぶとか失礼だろうと言った。私は加藤宗子という人がなんでこういう暴走を許しているのか、私の中に、女の方が常識的だという概念があるために思い、加藤宗子にだけメールを送り、これでいいと思ってるんでしょうかと訊き、「飛び加藤」には、呉智英とはすでに決裂しており、そのことはブログで詳しく説明してあること、摘菜などという右翼は論外であるというメールを送った。加藤宗子にメールしたのと同時に「飛び加藤」から、では三ヶ月でやめましょうと返事が来た。
 ほどなく加藤宗子から、もう企画は中止したほうがいいでしょうねと返事が来て、私も、三人には頭を下げて詫びることにした。翌日、「飛び加藤」から、加藤宗子から聞きました、三人の相手には私からお詫びするのでメールを教えてくださいと言ってきたが、私は、この三人のメルアドを「飛び加藤」に教えるのは不適切だと思ったから、自分で話しますと言った。「飛び加藤」は、すみませんでしたと言ってきた。
 「飛び加藤」が、なぜ私のツイッターやブログを読まなかったり、対談してほしい相手の名前を出さなかったり、マスクのことを言わなかったり、二度目の相談会をしなかったりしたのか、不思議に思ったが、一つは、決裂するのが怖くて目をそらしていたのだなと思い、また、彼は私が「もてない男」の時に思い描いた人間ではないことを直視したくなかったのだろう、と推測するほかなかった。だから、私の妻からのメールには返事しなかったし、電話で私が「妻から言われて」と言った時、「飛び加藤」は「人から言われて」とオウム返ししたのではないか。 

小谷野敦