三島由紀夫と生方たつゑ

 『短歌研究』1956年7月号に「日本美の再発見」と題した、三島由紀夫と生方たつゑの対談が載っている。三島三十一歳、生方五十二歳だが、これは生方側の熱心な懇請で実現したらしい。
 たつゑの娘である生方美智子(1928- )の『母とのたたかい』(リヨン社、1985)によると、たつゑは群馬県沼田の二十九代続いた名家生方誠(せい、一八九四‐一九七八)に嫁して美智子を生んだ。生方誠は戦後国家公安委員を務めたという。千葉大学を出てカリフォルニア大学とバークレー大学に留学、と美智子は書いているが、これはカリフォルニア大学バークレー校のことだろう。帰国して聖路加に勤務したというから医師で、なら千葉大はないから、千葉医学専門学校卒だろう。
 さて美智子は、日本女子大卒ののち、鹿島慶三(よしみ)と恋におちる。鹿島は江戸の商家鹿島家の御曹司だというから、鹿島清兵衛の孫に当たるのだろうが、父は十代目清兵衛ではあるまいか。慶三は学習院初等科で三島と同期、その後武蔵高校をへて東大でも三島と同期の親友であった。だが慶三との結婚にたつゑは猛反対し、定規でぶつなどの折檻を加えた。田中治之助(英十三、一八八八‐一九六六)が間に立ったが、誠はそうでもなく、たつゑの反対が激しかった。理由がはっきりしないのだが、どうも、娘を独占したい母の欲で、相手が誰でもそうだったのではないか。田中治之助は里見とんと大小一腰と呼ばれたとあり、これは里見の背が低かったからだろう。
 それでも二人は、勘当されつつ一緒になる。一九五〇年ころである。はじめは鹿島姓になったが、のちたつゑと和解し、慶三は生方姓になったらしい。三島が死の三日前に、慶三に電話してきたというが、慶三も三島の死からほどない一九七四年に病死している。
 さて、そんな中でたつゑが三島との対談を懇請したので、三島は慶三とは親友だから嫌で、対談をした後も、ペンクラブでたつゑが三島に近づこうとしても避けていたという。対談そのものは一応穏当に行われているが、「記者」がいて、なんだか鼎談のようで、三島はしばしば、たつゑではなく記者と話をしている。この記者は、もしや中井英夫では、と思ったのだが、中井は五五年十二月に短歌研究社を辞めているから、杉山正樹(一九三三‐二〇〇九)ではあるまいか。
 さて問題は鹿島慶三で、三島研究家に訊いて、三島の戦後の「会計日記」に名前が出てくることが分かった。昭和二十一‐二十二年に、盛んに「カジマ家のパーティに行く」などとある。「カジマ」と呼び捨てで登場するのが鹿島慶三で、「カジマ慶一氏」と出てくるのが、恐らく長兄なのだろう。ところがここに、「カジマは妻に逃げられた」とか、「離婚問題は決裂せりと」などとある。これは慶三でしかありえないのだが、三島と同年だとすれば、二十一歳くらいで結婚していたことになる。親の決めた相手であろうか。しかるに、生方美智子は、昭和二十三年に鹿島家のパーティで慶三に会って恋におちた、としているから、慶三は当時妻がいたのかもしれず、それなら生方家の反対の理由も分かるのである。もちろん、それ以前か、それ以後に前妻とは離婚したのだろう。
小谷野敦