谷崎潤一郎詳細年譜(昭和28年まで)

jun-jun19652005-06-20

(写真は谷崎お気に入りの女優・高峰秀子)

1952(昭和27)年          67
 1月、「吉井勇君に」を『毎日新聞』に掲載。昨年暮れの返し。都踊の脚本を共同で書くことになったが、詞章は吉井のものであること。『婦人倶楽部』で辰野と対談「男の友情五十年」。角川文庫より『痴人の愛』刊行、解説・野村尚吾。
   2日、水嶋喜八郎宛、年賀か。
   4日、重箱で新年宴会、武者小路、志賀、里見、広津、梅原、安井曾太郎、安倍、大内兵衛
   6日、熱海より鮎子宛葉書、8日上京東京ステーションホテル一泊、同日午後四時半頃家族とおいで。
   7日、熱海より城戸四郎宛書簡、今日草人夫人来て昨年のこと感謝。
   8日、上京か、東京ステーションホテルで鮎子一家? 山中美智子宛葉書、和歌四首に病気見舞い。
   10日、喜代子が福田屋へ来訪。
   12日、杉並区井荻の濱本宛葉書、十日書簡拝見、月末来訪とのこと、23、4は上京不在、田岡典夫も招きたい。一枝宛書簡、新年おめでとう。大阪歌舞伎座は見たか。来月あたり帰洛。
   13日、喜美子宛葉書、スライドの枠到着、23日は歌舞伎座夜、24日は演舞場昼の予定。
   18日、大倉喜七郎の招待で、病気の谷崎の代理で松子が重箱へ行く、志賀、広津夫妻、福田蘭童(47)夫妻と一緒。春日とよの小唄(志賀日記)
   22日、志賀と中谷宇吉郎来訪。
   23日、上京、歌舞伎座夜の部、喜代子、喜美子と「花上野誉碑」「連獅子」「松浦の太鼓」「廓文章」吉右衛門猿之助歌右衛門幸四郎、同日楽屋で白井松次郎の一周忌法要。
  夕刊で高島屋の飯田直次郎の死を知る。
   24日、新橋演舞場で昼の部。菊五郎劇団に海老蔵権十郎で「青砥稿花紅彩画」「雪の道成寺」。
 同月、新橋駅で寺木定芳夫人に会い、久米が高血圧で苦しんでいると聞き、布施の治療を受けられないかと相談されるが、腎臓が悪いというのでそれは無理だと答える。
   31日、公職追放が解けた小林一三(63)が東宝社長に返り咲き、ストリップ追放を宣言して日劇小劇場を閉鎖。
 2月5、6日頃、布施から来書、長野県の甥の所へ診察に行き、帰りに熱海へ寄れるかもしれないと言うので、久米を鎌倉へ見舞うよう書簡。
   7日、一枝宛書簡、女性秘書は気に食わないのでやめる。12日はとで帰る、洛陽ホテル。ヨネ連れて行く。   
   10日、久米夫人から電話、いま布施が来てくれたと。その後布施から電話、これから鳩山宅へ行くから泊まるはず。
   11日、布施熱海へ来訪、一二時間いてハトで帰る。
   12日、帰洛。
   16日、玉上らを招いて宴。 
   23日、下鴨より熱海の重子宛書簡、三月は歌舞伎座で「お国と五平」上演、帝劇は「鶯姫」、二つを観てから帰洛願う、私が熱海へ行くまでお待ちを、京都は都おどりの用で三月八日まで、九日ハトで帰る、若夫婦帰洛はいつ頃か、恵美子は○○に会ったか。
 3月、「或る時」を『毎日新聞』に掲載。父母の性交の情景を一度だけ見た時のこと。「生涯に一度でも、父と母のさう云ふ光景を見た記憶のあることをたいへん有難く思ふのである」。創元文庫より『陰翳礼讃』刊行、解説・辰野隆
   1日、久米正雄死去(62)。熱海へ電話があり留守宅から電報が来る。
   同日より4月17日まで。『鶯姫』のパロディー「浮かれ源氏」を帝劇で上演、谷崎が秦に頼んで草人を使ってもらう。
   3日、下鴨より麹町の津島宛書簡、大任を果して帰朝の後も東奔西走ご苦労、西下のこと知るも公用と思い控えていた十日に熱海へ帰るので再遊願う。
   同日より27日まで歌舞伎座夜の部で「お国と五平」里見紝演出、鏑木清方装置。歌右衛門幸四郎勘三郎
 中旬、熱海へ。皮膚に吹き出物ができ近所の医師の診察を受けると紫斑病とされる。
   16日、日劇小劇場を日劇ミュージック・ホールと改称、「東京のイヴ」柿落とし公演、丸尾が運営委員に就任。公演は不入りで31日で打ち切られたが、谷崎も招待さる。その後も谷崎は日劇ミュージック・ホールは毎回観ていた。
   18日、喜代子、宗一郎、千代子と帝劇でエノケンの「浮かれ源氏」。舞台裏でエノケンと話。
 4月2日、笹沼夫妻と宗一郎、喜美子熱海訪問。宗一郎がカメラで色々撮影、西山の重箱で夕飯。宮地裕京都府立西京大学助手となる。
   3日、志賀宛葉書、明日より上京、今後の予定(発病で不可となる)
   4日、松子重子と「いでゆ」で熱海を発、新橋駅で身体の異常を感じ、虎の門の福田家へ入って松子に告げるとバビンスキー反応を見るが、笹沼三夫人と無理して新橋演舞場の都おどり、「新羽衣」「保名」「二人道成寺」に行くがまったく集中できず、昼食に菊村が来て新橋倶楽部、遠藤為春、山口久吉。喜代子、登代子、喜美子と福田屋へ。松子が呼んで日赤の森田紀三郎が来て血圧を計ると240ある、江藤義成が来て瀉血
   5日、江藤診察、血圧170まで下がる。
   7日、志賀夫婦宛葉書、熱海へも京都へも帰れなくなった十日頃(不可)
   9日、江藤、宗一郎、笹沼三女の見舞い。
   10日、「久米君の死の前後」を『文藝春秋』5月号に掲載。もく星号墜落事件。東宝成瀬巳喜男監督『お国と五平』封切。小暮実千代、大谷友右衛門(現雀右衛門)。
   11日、喜代子、千代子と新橋演舞場山本安英「夕鶴」を観る。
   12日まで福田家で仰臥、中公の滝澤がゲラを持ってき、寝ながら見る。
   13日、紀三郎に付き添われて新橋から「いでゆ」で熱海。
   17日、源氏の仕事再開。
   19日、志賀夫妻来訪、松子が康子に病気のことを話して泣く。
   20日、一枝宛書簡、病気で暫く行けない。今高折夫人が来ていて24日恵美子と二人で帰洛、十日か半月で恵美子は戻るからついてきてくれ。歌舞伎座見せる。
   21日、『映画の友』編集長の淀川長治(44)来訪。
   25−5月25、日劇ミュージック・ホールで「ラブ・ハーバー」、丸尾の意見でヌードを復活させ、ストリップとは違って最初から半裸体で出た。
   29日、布施来診、欧州旅行に発つ志賀を熱海駅頭に見送る。
 5月、創元文庫より『春琴抄』刊行、解説・山本健吉。角川文庫より『お国と五平・恐怖時代』刊行、解説・舟橋聖一
 三代目市川左団次襲名を祝って和歌を詠む。
   3−26日、歌舞伎座で『源氏物語』第二編上演。男女蔵が三世左団次襲名。
   3日、松子が志賀を訪ね、餞別のネクタイ入れを渡す。
   5日、『新訳源氏物語』巻四刊行(薄雲−胡蝶)。
   11日、熱海来宮で「心」の座談会。志賀、梅原、武者小路、長与善郎、小宮、安井、安倍能成。志賀と梅原の送別を兼ねる。
   13日、熱海より津島宛書簡、先日入洛の由帰東の途次恵美子同車の由、お見舞いお礼、快方に向かう。
   14日、三田村鳶魚死去(83)。
   15日、嶋中宛代筆葉書、源氏特製本について。
   16日、嶋中宛書簡、今は新訳に専念したく放念願う、あの日の写真現像できたら早速見せてくれ。
   21日、志賀宛葉書、出発の日には是非見送りたく時日知らせ願う、恵美子が貴美子さんを招待したいと。田中館愛橘死去。
   22日、喜代子宛葉書、先日は宗一郎幻燈機械持参してくれ家族皆大喜び、左団次には手紙と短冊を小瀧に預けた23日楽屋へ届けると。
   25日、嶋中と?  
   26日、滝澤来る。
   27日、嶋中宛書簡、セントポールラジオセンターのジョヴァンニという神父から同封の手紙、源氏の放送許可はよいが権利は如何か、今後の予定。
   28日、映画世界社淀川宛、30日御社三十周年記念の色紙と短冊妻が持っていく。
   29日、上京、福田家泊。「メモランダム」執筆。
   30日、松子、映画世界社へか。
 6月、「メモランダム」を『毎日新聞』に掲載。
   1−26日、歌舞伎座で『源氏物語』第二編再演。
   6日、松子宛葉書、無事帰洛と思う、7日小舞みて千五郎にこちらで見せてくれるよう。重子もこの小舞は一緒に稽古願う。
   7日、茂山千五郎狂言小謡・小舞公演『細雪』、京都で、松子ら観るか。その詞を印刷したものを送ってくるが、「妍をきそひ」が「研」になっていたので叱責の手紙を出す。熱海より下鴨松子宛葉書、小舞について。
   8日、嶋中宛書簡、9日上京、十日社へ行く、恵美子の支度金十万円用意願う、十日帝劇の切符頼む。
   9日、上京、福田家泊。
   10日、中央公論、帝劇。
   17日、「篝火」訳了。
   18日、「野分」にかかる。
   22日、「野分」訳了。
   25日、松子重子と上京、東おどりの「盲目物語」の件で里見、菊村と会合、夜歌舞伎座で『源氏物語』、幕間に大谷社長、左団次に会う。福田家泊。
   26日、宗一郎が福田家にタイプライターを届ける。明治座歌右衛門の「鏡獅子」、勘三郎の「法界坊」福田家泊。
   27日、午後十時頃熱海着。某氏に紹介された灸の名人がいて、嫌だったが灸を据えてもらう。
   28日、朝から変調、目がおかしく終日安静。
   29日以降、耳下腺炎、高熱、記憶の空白が十日ほど続き、眩暈に悩まされる。沼津の飯塚直彦博士の来診。
 7月、現代文豪名作全集『谷崎潤一郎集』を河出書房から刊行、伊藤整の解説。『心』で「熱海閑談」志賀、梅原、武者小路、長与善郎、小宮、安倍能成。『映画の友』に淀川長治谷崎潤一郎をお訪ねして」。
   1日、山本実彦死去(68)
   18日から8月21日まで仰臥。
   24日、誕生日を祝われるが殃々として楽しまず。
   27日、鎌倉の大佛診察の途次布施来診。
 8月、角川文庫より『蓼喰ふ虫』刊行、解説・山本健吉
   6日、吉井より書簡、先日は病気中でお目にかかれず残念その他。
   14日、嶋中宛葉書、志村の件骨折お礼、箱根行きをやめて西山松平邸にいる。相談あり一度来駕願う。
   21日頃、重子京都へ帰る。
   22日、ようやく書斎に入る。「行幸」のあたり。
   28日、「行幸」訳了。
   31日、「藤袴」にかかる。
 9月1日、重子帰ってくる。舅高折から鈴虫の籠を土産。
   2日、松子重子と東京の精神科Q博士を訪ね動脈硬化症と診断され処方を受く。
   6日、「細雪」片岡美智による仏訳、フロント社と契約。
   13日、X夫人の紹介で東京S病院のL博士が来診。寿命はあと一二年とX夫人に語り、松子が聞いて涙を流すが谷崎には知れず。
   24日、映画世界社橘弘一郎宛、三十周年祝の電報。
 10月、中村光夫谷崎潤一郎論』河出書房より刊行。
   4日より毎土曜日、山本安英の「新訳源氏」朗読、文化放送から十二回放送。
   18日、毎日新聞正蔵宛、コリーは京都で飼うことにした、兼松牧場長へこちらから直接言う。
   20日、「梅枝」訳了。
   23日、松子重子恵美子に紀三郎がついてはとで帰洛。眩暈は収まらず。
   千五郎と千之丞、誤植の詫びに来るか。 
   29日より、三輪の嶋中美雄来診。
 11月、新橋演舞場「東をどり」で盲目物語、清元栄二郎作曲、西川鯉三郎振付で上演、プログラムに「盲目物語の原作者として」を寄せる。
   3日、永井荷風文化勲章受章。
   6日、嶋中宛書簡、美雄氏来診お礼、源氏第五巻原稿完成ほっとす。京都市民税分久保義治宛頼む、熱海の下の家は手放すつもり。
   15日、川口松太郎、山口久吉見舞い。
   16日、吉井、里見見舞い。
   17日、激しい眩暈。
   21日、荷風、武者小路、吉右衛門文化功労者となる。
   22日、吉井よりの書簡、先日はお世話、都をどり楽しく、明日より歌碑が立ったので九州旅行、来月7日頃帰る。    
   30日、『新訳源氏物語』巻五刊行(蛍−藤裏葉)。
 12月1日、片山九郎右衛門原作の鼓供養を聴く。
   4日、嶋中宛葉書、手紙お礼、十日以後お出で願う相談あり。
   31日、志賀宛葉書、三日の新日本放送吹き込みの由、こちらも四日放送吹き込み。 この年、根津清太郎の二番目の妻千代子死去。その後藤子と三度目の結婚。

1953(昭和28)年
 1月、「アルペンフレックス推薦文」を『アサヒカメラ』に掲載。綱淵謙錠、中公入社。
   茂山千五郎、簑助一家、富十郎ら年始に来る。応対は松子。
   4日、午前七時十五分から新日本放送で「新春放談」(録音)。
   6日、喜美子宛、ラジオの具合悪く聞こえなかった由残念、新聞でも読んでくれ。志賀宛、三日放送聞いた、辻留感激して新年の重詰貰い不当利得、四日は電報で騒がせ失礼、笹沼では聞こえなかった由。この頃から「墨塗平中」台本執筆、武智のものに手を入れた程度。
   11日、松子、阪大の西沢義人の新薬について阪大を訪ねる。以来、GLCの注射を続ける。
   14日、代々木本町の土屋宛書簡、病気のこと、杏雲堂の佐々に診てもらっている、阪大の医師らにも。熱海の家は手放し、とりあえずまた別荘を借りたい。日本経済新聞の話だが、毎日と深い関係あり、朝日、東京にも約束しているのでそう簡単には書けない。近々毎日に筆記したもの出る。
  「ラヂオ漫談」を『毎日新聞』に掲載。
   20日京都府立山城高校教諭・長尾伴七(42)の許を沢瀉久孝夫人と息子久元が訪れ、松子の漢文教師を委託する。
   25日、長尾、宮地裕の案内で潺湲亭を訪れ、松子に会う。
   29日、長尾、二回目の講義で訪れる。
   30日、嶋中宛書簡、先日は電話お礼、柚から病状は聞いてくれ、今日若菜上三分の一を送る、二月中に終わって下に移り三月には第六巻が出るはず、恵美子のことは条件を出したがまず纏まるだろう、式は熱海で三四月。金のこと。長尾、沢瀉を訪ね挨拶。
 2月3日、渡辺たをり誕生。この頃水島芳子入洛か。
   5日、長尾、第三回講義。
   7日、松子より芳子宛書簡、ようやく会え長年の念願が叶った。
   10日、NHKの録音。潺湲亭で、嶋中との対談。
   12日、長尾、第四回講義。「藝術新潮」が写真を撮りにくる。
   16日、嶋中宛書簡、先日は君が帰った後で血圧を計ったら205あった。一時間も録音するとはと医者に叱られた、藝術新潮が写真を撮りにきて二三十枚撮られ目をやられた、目は治ってきたので仕事にかかる。
   19日、長尾、第五回講義。
   25日、斎藤茂吉死去(71)、二代桂春団治死去(60)。同日ラジオ第一放送で春団治追悼番組があったので、八時から第二放送で柳宗悦バーナード・リーチ浜田庄司の民藝座談会を聴き、四十五分から追悼の方を聴く。
   26日、長尾、第六回講義、重子に会う。夜、NHKで嶋中との対談「谷崎潤一郎よもやま話」放送。(『文学の心2』)
   28日、喜美子宛葉書、放送聴いたと思う、お父さんの名が出るかと思ったら出なかったので僕も失望、もう一回続きを放送するのでその時は出るか。茂山千五郎のために狂言小謡「細雪」を作った、昨年披露したがこの五月に東京の新しい観世の舞台でやるので聴きに行ってくれ、あと井上八千代が一中節振付をして11月東京で披露、11月東おどりは乱菊物語、春団治が死んだので何か新聞に書くかも。 
 3月、津島寿一『谷崎と私』に序。
   5日、長尾、第七回講義、重子が先に聴いていた。
   12日、長尾、第八回講義、谷崎署名の『細雪』を貰う。
   17日、「春団治のことその他」を『毎日新聞』に掲載。   
   23日、長尾、第九回講義。
   30日、喜美子宛書簡、手紙拝見、お母さんの挨拶痛み入る、失礼なこと申したのに了解頂き。恵美子数日前に京都へ帰り清治は初節句、夫婦揃って入洛してほしい、喜美ちゃんも一緒ならさらによし。
 4月、京都祇園歌舞練場の都をどり公演に「墨塗平中」を寄せる。今東光の個人組織、東光会発足、雑誌『東光』創刊、推薦人となる。他に林武、川端、保田與重郎佐藤春夫、日出海ら。
 谷崎英男、早稲田大学商学部非常勤講師。
   6日、辰己長楽宛葉書、具合悪く花見にも行けない。
   12日、長尾、第十回講義、谷崎に会う。谷崎、吉川幸次郎『新唐詩選』(52)『杜甫私記』(50)『杜甫ノート』(52)に不満を漏らす。長尾、『墨場必携』を求めて渡す。
   19日、長尾、第十一回講義。
   21日、第一ホテル土屋宛書簡、熱海の家のことお礼、代理で23日、重子と恵美子ハトで熱海へ。
   23日、重子と恵美子熱海へ。
   26日、長尾、第十二回講義、谷崎と会う。元気になっている。
   29日、長尾、都をどりの墨塗平中を観る。
 5月2日、土屋宛書簡、雪後庵引き渡しについて。新田さんに任せる。
   3日、長尾、第十三回講義。
   上旬、「若菜下」訳了。秘書を求めて数人を試みる。
   16日、長尾第十四回講義の筈だが都をどりを観に行くので休みと連絡、対句の本を渡して帰る。
   17日、京大国文学研究室勤務で、退官した沢瀉久孝に『万葉集』を学ぶ伊吹和子(25)が初めて来訪、助手として「源氏物語」新訳の口述筆記に当たる。伊吹は京都の古い呉服商の一人娘。
   21日、熱海の別邸(雪後庵)を手放し、再び山王ホテル内の土屋別荘を借りる。
   24日、長尾第十五回講義、夜に。
   25日、「柏木」から伊吹の仕事始まる。ようやく元気になり、河原町へ散歩に出たり、松竹座や朝日会館へ行ったりする。    
   31日、長尾第十六回講義、重子も。武者小路講演会がある。
 6月、昭和文学全集『谷崎潤一郎集』を角川書店から刊行。井上甚之助『佐多女聞書』(12月刊)の序文を書く。
   1日、『新訳源氏物語』巻六刊行(若菜)。
   8日、長尾第十七回講義、重子も。谷崎は血圧高し。
   9、10日、熱海の家からの引っ越し。
   11日、嶋中宛書簡、上京は取りやめ、代理で松子が13日はとで熱海行き、14日上京福田家泊、15日社へ行く。
   13日頃、「源氏物語−−空蝉」を『文藝』7月号に発表。
   18日、「柏木」口述終了。
   23日、喜美子宛葉書、七月上旬には熱海、前の別荘と並びの銀座フジアイス太田氏の別荘と二つ借りた。
   24日、「横笛」口述終了。
   28日、長尾第十八回講義。
   30日、「鈴虫」口述終了。
 7月4日、中野区本町通後藤末雄宛葉書、明日熱海へ行き八月上旬まで滞在、二十日過ぎに来てくれ。
   5日、家族、伊吹とともに熱海へ。長尾の潺湲亭で講義の予定だったが忘れていて、長尾は無駄足を踏む。
   11日、伊吹、使いで東京の富崎春昇を訪問、「花散里」作曲に際し派手になり過ぎないよう内容の説明。途中まで重子と一緒。
   12日、「夕霧」口述開始。
   13日、熱海ロマンス座で松子と恵美子が志賀に会い、谷崎具合よしと話す。
   14日、熱海より後藤宛書簡伊吹代筆、先日の葉書は京都へ発った後らしかったがもう帰ったと思う、来訪は延期願う、旧友との座談は時間が掛かるので止められた、8月10日くらいまでこちら。嶋中が「東京新聞」に「荷風・潤一郎・白鳥」を書く。
   16日、武者小路宛書簡、揮毫お礼、いずれ来月帰洛竹に彫らせて庭内中門に掲げるつもり。
   20日、後藤宛葉書、両国橋界隈の話懐かしく、新思潮時代を思い出した。
   21日、雨のためホテルの裏山に崖崩れ起き、松子重子と、伊吹の仲田の宿に泊まる。
   23日、「夕霧」始め三分の一を中公に発送。
   28日、志賀と武者小路来訪。重箱での座談会の帰途。
 8月、角川文庫より『少将滋幹の母』刊行、解説・正宗白鳥
   1日、藤田圭雄中央公論編集部長。
  この夏、『蓼喰う虫』英訳の件でエドワード・サイデンスティッカー(27)、滝沢博夫に連れられて来訪。
   2日、「夕霧」三分の二を発送。
   4日、後藤宛葉書、今仕事あるので三四日中に完成そしたら知らせる。
   6日、笹沼喜代子、子宮癌手術のため慶応病院に入院。
   8日、「夕霧」訳了。
   16日、大文字、帰洛。
   28日、嶋中宛書簡、荷風に揮毫を頼む件。
   29日、「御法」訳了。
   31日、「御法」発送。
 9月、『谷崎潤一郎文庫』全十巻を中央公論社より刊行開始(29年2月完結)。
   5日、「幻」口述終了。
   9日、「匂宮」口述終了。
   15日、高峰秀子主演『雁』封切、新村出が感心する。
   20日、下鴨より喜美子宛書簡、千五郎の会(大蔵会)決定、喜美子来られないのは残念、八千代の方は観てもらえるか、23日熱海、25日上京福田家。
   21日、嶋中宛葉書、荷風揮毫拝受。
   23日、熱海へか。
   25日、上京福田屋か。松子より長尾宛、詫びの手紙。
   29日、長尾より返信。
   末、帰洛。
 10月、『中央公論』文藝特集で、座談会「谷崎潤一郎−−思想性と無思想性」伊藤整河盛好蔵臼井吉見中村光夫。創元文庫より『乱菊物語』刊行、解説・大仏次郎
   2日、嶋中宛書簡、松子上京予定一日延期、明日辰野を訪問、いでゆで、新橋駅へ車頼む、京都に二十万円届いたそうだが三十万頼んだはず。
   3日、荷風宛書簡、揮毫のお礼。
   4日、荷風宛書簡着。(断腸亭)
   7日、新潮文庫より『少将滋幹の母』刊行、解説河盛好蔵
   10日、下鴨より代筆嶋中宛葉書、舟橋邸へお出でお礼、歯の薬の件、帰洛以来第八巻始めて紅梅、第七巻送ってくれた由。京大内科の前川孫二郎(47)教授の来診を受け、さほど重症ではなく、血管が柔らかいので悪性の高血圧にはならないと言われる。
   19日、「紅梅」口述終了。東山区下河原松園旅館武者小路宛書簡、手紙お礼、絵も字も面白い、今日よりぼつぼつ仕事。 
   20日、『新訳源氏物語』巻七刊行(柏木−匂宮)。
   25日、嶋中宛書簡代筆、帰洛以後目まいまた起こり、前川の来診、明日月曜から三四日通うので一週間ほどつぶれる。
 11月4日、喜美子宛書簡代筆、京舞のプログラム送った、東京では大変な人気で切符取りにくい由、言ってくれれば手配する、鮎子も観たいと言っている。
   6日、京都から川口松太郎宛書簡、先般はいろいろお贈りお礼、今月中に熱海へ帰るのでお越しを、三益さんによろしく。
   9日、山田孝雄文化功労者となる。
   10日、喜美子宛書簡代筆、27日夜二枚入手、希望と違って済まない、同日は恵美子も行く。
   11日、喜美子宛葉書代筆、26日昼二枚(蓬生)、27日夜三枚(花の段)取った。「蓬生」「花の段」は谷崎の詞章。花の段は、新橋の菊村こと篠原治(はる、70)が都一春の名で一中節に作曲。
   27日、松子、恵美子、喜代子、登代子、喜美子、千代子で、新橋演舞場の井上流京舞の会を観る。プログラムに「八千代さんのことなど」。「竹河」口述終了。
   28日、喜代子、再入院。
 12月、松尾いはを『余白ある人生』(翌年一月刊行)はしがきを執筆。
   12日、嶋中宛葉書代筆、先日は滝澤氏京都まで足労、14日はとで熱海、二三日休養するのでそれ以後願う。
   14日(12日−伊吹)、熱海へか。
   25日、新潮文庫より『武州公秘話』刊行、解説伊藤整
   28日、笹沼と宗一郎が訪問。
 この年、三笠書房三笠文庫で『青春物語』刊行。