伊藤詩織「裸で泳ぐ」書評「週刊朝日」12月16日号

 伊藤詩織は、ある意味、偉大な人物である。性暴力の被害者でありながら、顔と実名を出してそれを告発し、落合恵子が『ザ・レイプ』で書いたのをはるかに上回る壮絶なネット上の誹謗中傷、つまり二次レイプを乗り越え、検察が犯人を不起訴処分にしたり、逮捕されるはずの犯人が直前で逮捕とりやめになるといった理不尽を前にしつつ、民事訴訟で相手を粉砕してきた。私は当時、「モリカケ」なんて大した問題ではなく、伊藤詩織事件で安倍内閣は倒れるんじゃないかとさえ思ったほどだ。    
 事件に関する伊藤が書いたドキュメンタリー『Black Box』は、当時出先の駅の書店で買って読み、これは事実だと確信した。本書は、告発から五年たっての、エッセイ集であり、二〇二一年から折々に書かれた五十編の断片から成っている。先に言っておくと、文学作品ではないから、やや「キレイゴト」の言葉でまとめられたところもある。  
 二四年前、私は緑河実紗の『心を殺された私 レイプ・トラウマを克服して』(河出書房新社)を読んで激しいショックを受けた。強姦被害で精神を病んだ記録であるとともに、伊藤詩織になれない人の手記であり、この世には何万、何百万の、伊藤詩織になれない人がいるのだということが頭を離れない。                          
 しかしその伊藤詩織も、自殺未遂を起こしていることが窺える。今さら、驚くようなことは書いてないだろうと思って読んでいて、驚いてしまったのは、昨年つまり二〇二一年の暮れ、五日後から同棲しようとしていた日本人の彼氏と別れた話で、その彼氏は、伊藤が反政府勢力に操られているのではないか、強姦被害は作りごとではないかと疑っており、『Black Box』は怖くて読んでいないと言ったというのだ。私はいったい伊
藤がなんでこんな男とつきあい、同棲しようとまで思ったのか、その人物鑑定眼の甘さにも驚き、もしかして抜けた人なんじゃなかろうかと思ってしまった。          
 「裸で泳ぐ」は、屋久島で実際に裸で泳いだことからつけられているが、誤解を生みそうなタイトルだ。伊藤は、ADHDの傾向があるそうだが、運動が得意で、活発で、物おじせず、言葉が通じない外国にも平気で出かけ、友人も多く、男にももて、美人で、性的にも活動的だ。そういうところが、「自業自得」と誤解されそうな点で、それを逆手にとったタイトルともいえるが、読んでいてハラハラもする。ジョディ・フォスター主演の「告発の行方」は、派手な服装をした女が強姦されて、それでも強姦されてはならないということを訴える映画で、私も若いころ観たが、伊藤も、父親が銀座のクラブへ通っていたからそこでアルバイトしていたとか、疑念を抱かれる仕事もしており、同じ種類の世間の意識と戦っているともいえる。
 引っかかったところもあるが、日本国憲法の十二条から十四条を引用したところで、スリランカ人の事件が出てくるが、憲法に「国民」とあるのを見落としているのではないか。また「風の中の少女 金髪のジェニー」という子供のころ観たアニメの、ジェンダー的偏りを気にするところが、何だか過去を歪曲しようとしているように思えたので、注意すべきだろう。

 依然として、伊藤を強姦した犯人の逮捕が中止され、検察が不起訴とした理由は解明されていない。このことは今後も粘り強く追究されていくべき日本社会の課題だろう。私は伊藤の政治思想を共有しているわけではないが、今後も元気で活躍してほしいから、アルコール中毒の疑いが濃厚なのも気になった。今はまだ平気でも、四十を過ぎると健康への被害も大きくなるので、くれぐれも注意してもらいたい。(小谷野敦
 (これは編集部による修正前の原文です)