節子の恋(7)

 岸本はとうとう「朝日新聞」に「新生」の連載を始めた。大正七年五月一日に始まり、「節子は自分が母になったことを告げた」という一節が出たのは五月十八日のことだった。節子は毎日、新聞を買いに走った。そして岸本の小説を広げて読んだから、まっさきにそのことを知った。体に震えが来た。静かに家に帰り、その新聞を手文庫に蔵った。
 家族がいつこのことに気づくか、戦々恐々とし、一日がひどく長く感じられた。夕飯の時も、父を中心に家族の顔色を窺った。子供たちだけは何も知らないからいつもと同じだったが、父の表情からは何も見て取れなかった。
 二日後、岸本から節子宛に手紙が来た。それには、義雄に宛てて釈明の手紙を書き、自分はもう縁を切られてもいい、世俗から引退してもいいと書いたこと、しばらく無沙汰すること、祖母さんなど目上の人たちに奉仕してくれといったことが書いてあった。
 翌日、父は節子を離れへ呼び、岸本から弁明の手紙が来たことを告げ、もう岸本のところへ行ってはいけないと言い、嫁入りの話は従前どおり進める、と述べた。
 一人になるとすぐ節子は岸本に宛てて手紙を書き、父の心はとけない、しかし自分は漸く少し楽な心持に成った、ほんとに勉強したいような気も起って来たから安心してくれといったことを書き、「お父さんのところへ最初の御手紙の参りました時にも、私には見せませんで、自分で何かお書きになって、台湾の伯父さんの許へ出しました」とも書いた。「布施さんからまた葉書が参りました。先日の御手紙は拝見した、その事につき御面談申上げたいことがあるから近日お伺いすると言って参りました――いい加減にして下されば好いのにね」
 とも書いた。
 節子はその頃、例の女医を通して自分の子供の写真を手に入れた。幼い遊び友達と二人で写っていた。それを岸本に見せたくて、「ほんとに良い事があるから頼みつけの米屋へ電話を掛けてください、そうしたらお伺いします。何も何もお目に掛った上でお話します」という手紙を岸本に出した。すると翌日、米屋から知らせがあったので、節子は岸本を訪ねた。
 そして子供の写真を岸本に見せた。岸本はじっと岸本は初めて親夫という子供の姿を見た。それを節子と一緒に見た。岸本は、
 「お前はもう子供を欲しいとは思わないか」
 などと笑って言った。節子は首を振って、
 「もう沢山、このうえ子供があったら私は死んでしまいますよ」
 と真面目な顔で答えた。それが彼女が岸本のところへ行った最後になった。
 いったん岸本を訪ねて話をした義雄は、数日して、輝子を岸本に使いに立て、以下の文章を手交した。
「噫、万事休す。われに断腸の思いあり。足下は自己を懺悔すと称えながら、相手方の生活を保証することによって不徳を遂行せんとするの形跡あるは言語道断なりと言うべし。吾娘はわれに於いて処分するの覚悟を有す。敢て足下の容喙を許さず。
 ここに涙を振って足下を義絶す。
岸本義雄
 岸本捨吉殿
 猶、子供は罪なきものなれば、泉太、繁二子が時々の来訪を許す。
 世の中の善きも悪しきも知れる身のなど踏み迷ふ人の正みち」
 義雄はなおも節子の縁談を進めようとした。布施が訪ねて来て、父は、姉と祖母をして節子を説かせた。節子はただ静かに断りを言うだけだった。姉が、
 「それではお前は、こんな風に叔父さんとすっかり別れて自分独りでやるというのですか、それとも今までのようにして自分の仕事をするというものか、それを聞かなければお父さんに返事ができません」
 と言う。節子は、
 「何年叔父さんに会わないでいてもそんなことは関いません。精神の上からは叔父さんに別れるなんてことは出来ないんです」
 と答えた。
 姉がこの首尾を父に話したらしく、節子が姉とともに父のところへ行くと、父は何も言わないで長いこと黙っていた。姉が、
 「何か言うことはありませんか」
 と訊くと、父は、
 「俺は呆れて物が言えない、人間だと思えばこそ話しもするがそんな禽獣には何も言うことはない、彼らは禽獣に等しいものだ、蠅なんて奴は高貴な人の前でも戯れるようなものだ、そんなものと真人間と一緒にされて堪るものか」
 などと、岸本と節子を激しい言葉で非難した。
 姉が、
 「そんなに御自分のことばかり仰っても、節ちゃんの方のことも聞いてやらなくちゃ、私が聞いてもその通りには話せませんから節ちゃんに書いて貰うことにして、それを私がお父さんに読んであげましょう」
 と助け船を出した。父は、
 「鸚鵡やインコなんて奴はよくしゃべるから、迷い言の百万遍くりかえしても俺の耳には入らないが、禽獣のしゃべるのを一つ聞いてやろう、人間の顔をした禽獣のことだから何か物も書くだろう、一つ禽獣の書いたものを見てやろう」
 と言った。節子は、何を書いても分かって貰えないだろうと思ったが、自分の考えだけは一応明かにして置きたいと思ったので、父宛の手紙を書いた。
 「先日の御説確かに拝聴仕り候。父上の論法より推す時は、あるいはそこに到着するやも計られず候。されど、百万遍の迷い言何の益なけれど聞いてつかわすべしとの仰せを幸、おのが心事を偽らず飾らず唯有りのままに申し上ぐべく候。
 ――先ず申上げたきは親子の間に候。親の命に服従せざるごときは人間ならずとは仰せられ候えども、そは余りに親権の過大視には候わずや。斯く言えばいたずらに親を軽視するものとの誤解も候わんなれども、決して決してさる意味にて申上るにはこれなく候。何事も唯々諾々としてその命に従い、あるいは又、内部に反感等を抱きながら表面には唯これに従うごときは、わが望むところにはこれなく候。生命ある真の服従こそわが常の願いに候。思想の懸隔に加えて、平生の寡言のため、これらを言い出ずる機会もなく今日に至りしものにこれあり候。
 ――自己の過ちを悔いもせず改めもせで、二度これを継続するがごときは禽獣の行為なりと仰せられ候。まことに刻々として移り行く内部の変化を顧みることもなく、唯外観によりてのみ判断する時は、あるいは世の痴婦にも劣るものとおぼさるべく候。すべてに徹底を願い、真実を慕うおのが心のかの過ちによりて奈何ばかりの苦痛を重ねしか。そは今更云々致すまじ。最後の苦汁の一滴まで呑み乾すべき当然の責ある身にて候えば。されど孤独によりて開かれたるわが心の眼は余りに多き世の中の虚偽を見、何の疑うところもなくその中に平然として生息する人々を見、耳には空虚なる響を聞きて、かかるものを厭うの念は更に芭蕉の心を楽しみ、西行の心を楽しむの心を深く致し候。わが常に求むる真実を過ちの対象に見出したるは、一面より言えば不幸なるがごとくなれど、必ずしも然らで、過ちを変じて光あるものとなすべき向上の努力こそわが切なる願いに候。
 ――おのが生きむとする道を宗教に択びたるは、一つは神を求むる心より、一つはかの歎きの底より浮びたる時にあたり恐るべき世の冷さに触れ、その悔悟も熱心も遂に多くの罪人等の自棄に陥る道に到るべきことを見出したるに外ならず候。宗教につきては、ここにはわが志を申上ぐるにとどめ申すべく候。
 ――右は意を尽さざるところ多けれども、これによりてわが心事の一端なりとも御斟酌下され候わんには幸にこれあり候」
 節子はこの手紙の写しを作り、手紙とともに岸本に宛てて送った。岸本宛にはこういう経緯を説明して、
 「別紙のようなものを昨晩書きました。今日にも姉が参りましたら、読んで貰いましょうと思っております。毎日何かにつけて、そんなことを言われますけれど、この節は腹など立たなくなりました。自分を打つ鞭とも考えまして、はっきりした心持で一心に勉強したり家事を手伝ったりしております。つくづく『創作』の力を思います。それにしてもお父さんの気象として、何でも御自分の意のままになると考え、無理にもまたそうしなければ気のすまないところから、思いのままならぬ嘆息を僅かに禽獣と見て慰めていらっしゃるかと思いますと、お気の毒のようにもぞんじます。おん身御大切に。もう少しで遠い旅からお帰りになった日もまためぐって参りますね」
 父は姉を通して、「今に俺が考えておく」という返事をよこした。結局節子は処分が決まるまで外出禁止になり、渋谷の姉のところへも行ってはいけないことになった。

 岸本はただ新聞連載を続け、節子への手紙も控えたが、節子はよく手紙を書いた。岸本から父宛に来た手紙も、姉が読んで聞かせてくれた。父は「青くなったり、赤くなったりして、自分のした事を書かなければ食えないかと思うと、お気の毒な商売だ」と姉を通じて岸本に伝言したという。さらには、
 「あいつは恐しいことをしてくれた。黙っておきさえすれば最早知れずに済むことではないか。黙って置きさえすればいい親戚として通り、いい叔父さんとして通っているではないか」
 とも岸本のことを言っていた。父は嫌な顔をしていることもあるが、どうかするとすっかり馬鹿にでもなったように節子を見ている時もあった。
 節子の手紙には、
 「父から叔父さんへ送った離別状のことも姉から聞きました。仕方の無い自然の成行と思うと書いてよこした。しかし今までの苦しいことも、悲しいことも、何一つ無駄になったもののないことを思えば、今度のような出来事からもいろいろと物を考えさせられて、かえって自分にとっては静かにはっきりとした心持で勉強の出来る時を与えられたような気がします。今度お目に掛れるのは何時のことか、何年の後かと思われますが、その時になって叔父さんに自分を見て貰うのが何よりの楽しみです。自分は毎日神に祈るようになりました」。
 とあった。
 父義雄は、台湾にいる兄民助を東京へ呼ぼうとしており、節子を台湾へやってしまおうという気らしかった。節子はそれを知っても、相変わらず落ち着いて本など読んでいたから、義雄のほうで意外に感じているようだった。
 八月になって、節子は久しぶりに岸本に手紙を書いた。
 「この節はちっとも手紙を寄さないと御思いになりましょう。いつでもそういう時があったら、ほんとに手紙らしい手紙を書いているといったような好ましい心持で書いた手紙を差上げるために、今の自分が支度をしていると思い出して頂きとうございます。こうしてお目にも掛れないようになったら、さぞ自分が鬱ぎ込むとでも父は思っていたのでしょう、それなのに自分が一所懸命で勉強しているので父は案外なような顔付で随分いろいろなことを言います。でも余りにいろいろなことを言われると、少しでも眼前の煩わしさから離れたいと思うから、余計に読みたいと思う書籍も読めます。
 私は随分貧しく育てられましたが、こうしておけば良かったと後で悔むようなことは何事もなかったから、家庭の貧しさもさほどに苦にもしませんでした。私は他の子供のようにお銭を持って行って少しずつ菓子などを買うものでは無いと思い込んでいましたが、田舎で生煎餅というあの三角な菓子などを売りに来て、他の子供が皆それを持っていると、どうかすると自分も欲しくなったりしたものです。それを御願いして、では買ってあげるから一銭だけ自分で出して行くようになどと言われると、子供心に嬉しかったのを思いだします。見ると、状箱のような容器に毛糸で編んだお金入れが入れてあって、そのお金入の中にほんの僅なお金を見た時は、自分はほんとに済まないことを言ったような悲しい気持になって、もう決してそんなことは言い出すまいと思ったのでした。それは私の十か十一の歳の時でありました。考えてみると自分は幼い時から苦労性だったようです。
 今度なぞは、もし台湾へ行くようになろうとも、最早心の曇るようなことはあるまいと思います。この間も父が一ちゃんを酷く叱った時、後で一ちゃんが青ざめた顔をしていたから、祖母さんが見かねて、いろいろなことを言いました。その時父の言うには、節ちゃんなんかがそういう意見を出しているに違いないが、口で言って聞く位なら真に有難い、口で言っても聞かないものがあればこそ牢屋もあり警察もある、言うことを聞かない奴にも種々あるが、そういう奴はまたそういう奴で別に処分する、そんなことを言って暗に父から仄めかされました。けれども自分はしっかりした、心強いものを持っている。台湾へ行くようになろうと朝鮮へ行くようになろうとそんなことのために動かされません。いつでも心の中では御一緒ですものね」。
 節子は、夜買い物に出ることだけ許されていて、その時に町中の電話室から、岸本に自動電話を掛けることがあった。それも何度か重なって、
 「叔父さんでいらっしゃいますか――」
 といって電話をかけた。出たのは岸本であった。
 「なんですか、三晩も続けて叔父さんの夢を見たもんですから――あまり気になりましてね――どうかなすったんじゃないかと思いましてね――皆さんお変りもありませんか――」
 と訊いた。
 その時、岸本は彼女の話で台湾の民助兄が遠からず上京するということだけを確めた。上京の日取はまだ決まらないとのことであった。
 「そうか。いよいよ台湾の兄貴が出て来るかね」
 と岸本は言った。
 「お前も是非お願いするがいい――自分の方から進んでお供をするがいい――」
 「私もそう思いまして――」
 「今度はそっちが旅に出かける番だね――」
 節子が楽しそうに笑った。
 しかし、台湾の民助はなかなか上京せず、八月の末になった。節子は手紙を書いた。
 「今日はお父さんも病院へお出掛けになりましたから、久しぶりでお二階の三畳でこれを書きます。私がこの部屋に居るのは何だかお邪魔のようでもあり、お父さんは居睡りしていらっしゃる時の外は何時でも暗誦ですから、私の方でも思うようにはできませんから、長い間ずっと階下の四畳半で皆と一緒におります。この頃は私は人の知らない満足と隠れた誇りとに満ちた日々を送っております。私共はすでにすでに勝利者の位置にあることを感じますね。自分のベストを尽した時でなければ、心から満足を感ずることも出来ないのに、私の周囲にある人達はどうしてこう小さなことに一生懸命になったり悦んだり悲しんだりして、それでいながら根本の問題には触れようともしないのでしょう。近頃ほんとうに生き甲斐のある時を送ったと思いましたのは、お母さんの亡くなった前後でございました。それから思い合せて下すっても、この頃の日々がどんなものかは想像して見て下さることが出来ましょう。お母さんが病院へ入ります前に、『お前がもし大病なような時でも、私にはこれだけのことはして上げられない』とよく言い言いしましたっけ。それにつけても、自分の直ぐ隣に居る人達を愛したくていながら、愛することの出来ないのは悲しいものとぞんじます。思えば僅かに心の顔を合せることの出来ましたお母さんとの間は、どんな他の人との関係にも勝って私の心に鮮かでございますが、その母子の愛情ですら私どもの創作には比較にも成らないような気が致します。これほどの創作が肉体と共に滅びてしまうようなものとは、どうしても考えられません。『神もし選び給わば、死して後なおよく愛することを得べし』とか。あの異国の婦人の言葉を私はどんなに嬉しく感じましたでしょう。今は創作の豊富を願うの外には何もございません。風吹かば吹け、雨降らば降れ――死の上にすら超越せしものなるを。
 ――私の健康を御心配下さることは何もございません。少しぐらいな無理も、溢るる希望の前には何でもございませんから……」
 ---つくづく年は取りたくないものだと思います。私はお婆さんになりましても、苛酷な心だけは持ちたくないと思います」
 父は、節子がしゃあしゃあとしている、と文句を言った。食事の後で宗教の話が出て、父は、
 「宗教なんてものに碌なものはない、そんなものを信じる奴は馬鹿ばかりだ、天理教だの日蓮宗だの耶蘇教だの皆きちがいのやることだ」
 と言い出した。節子はよほど何か言おうかとは思ったが我慢した。台湾からは何とも言ってこなかった。
 節子はそんなことを岸本宛の手紙に書いて、
 「けれども、女の伝道師などにも一種の型がございますね。ああいうのは私もあんまり好きではございません。外観から申しましても私の好きなのは、所謂上品から野暮を捨て、意気から下品を捨てたものでございますから」
 などとコメントしていた。
 十月十一日に、民助が基隆出港の船に乗ると知らせてきた。民助は大阪の愛子夫婦の家に一二泊、用事の都合で静岡へも立寄って、その上で上京した。この兄は先ず根津の家の方に着いて、それから岸本のところも訪ねることになった。
 「新生」は、十月五日をもっていったん終了した。それは岸本が帰国の決意を固めたところで終わっていた。一族としては、とりあえず胸を撫で下ろし、この続きが書かれないことを祈った。

(つづく)