節子の恋(8)

 民助がやってきた。鷹揚な態度で、長兄らしくことをまとめようとし、岸本を訪ねたり、義雄と話したりして、この二人の弟の義絶を解いて和解させてから節子を台湾へ連れて行こうと考えた。
 ところが、民助としては、岸本が心の中で節子を思っていても、実事がなければいいと思ったが、義雄はそうではなく、心の中で思っているのもいけない、まったく節子を思い切ってしまわなければ和解はできない、と言うのだった。
 義雄は、
 「どうして捨吉はああいう懺悔を断りなしに発表した、何故その前に俺に相談しないか」
 と怒っている。民助は、
 「相談すれば反対されるに決まってるからじゃないか」
 と言った。
 岸本は麻布へ転居するためにぼつぼつ準備を始めていた。夜、節子から電話が掛かってきた。
 「叔父さんでいらっしゃいますか……」
 その後で電話が混線して雑音が聞えた。それが切れて節子が声を出すと、
 「台湾の伯父さんにお前のことを頼んでおいた――これから先の方針の話でも出た時にだね、お前の意志だけは重んじるようにッて、俺の方でよく頼んで置いた――無論それはお前の自由に任せるッて、返事をしてくれた――」
 「え――台湾の伯父さんがそう言って下さいましたか――」
 節子はそう言ってから、
 「今度お引越しになるお宅の番地を伺って置きましょう――。発ちます前に、お届けしたいものがありますからね」
 岸本が麻布の住所を言うと、
 「ちょっと待って下さいね、伺ったお処を書きつけますからね――」
 手帖に住所を書きつけて、
 「それから今度のお宅のご近所に電話がありましたら、その番号も伺っておきましょう――」
 と言うと、
 「もうそれには及ぶまい」
 と岸本は返事をした。
 「ここでお別れとしよう――好い旅をして来て下さい――台湾の伯母さんの側へ行って、しっかりお手伝いをして来て下さい――頼みますぜ――そんなら、御機嫌よう――」
 「叔父さん――」
 岸本は電話を切った。えつが
 節子はいよいよ台湾へ行くことになった。彼女は手植えにした秋海棠の根を四つ、包んで小包にし、鉛筆で書いた手紙と一緒に岸本の新しい住所へ送った。
 「取急ぎしたためます。この手紙は前後もなくしたためますから、そのおつもりで御覧下さい。未だ愛宕下の方へお伺いします頃、祖母さんの鼈甲のかんざしの頂いたのがありまして、それを束髪のに直して貰うように頼んでおきましたが、そのままになっております。あれは私にはもう用のないものでございます。失礼ですがあれを記念に差上げたいと思いますけれど、いろいろ都合もございますので、もし上野辺へいらっしゃるような時がございましたら、どうぞお受取り下さい。小間物店のあるところは別紙にしたためて置きました。それから只今小包をお送りしましたからお受取り下さい。
 ――頂いたお手紙やその他のものはどんな機会で人の目に触れないともかぎりませんから、これもひと纏めにして旅に出る前にそちらへお届けします。どうぞお預かり下さい。創作を護るためには、どんな犠牲をも払わねばなりませんからね。
 ――新しい日の教育を受けるような心持で私は旅に出掛けてまいります。創作のためにベストを尽して下さる時が旅にある私の一番強い時であることを思ってみて下さいまし。以前に頂きました帯と着物でございますね、こちらではちっとも都合が出来ないものですから、あれをそっくり旅費やら何やらに宛てることになりました。お志は身につけ心につけて長く頂いておりますから、どうぞ形の上の失礼をお許し下さい。
 ――もっと落ちついて、ゆっくりこの手紙を差上げたいのですけれど、これだけでも余程骨折って、僅にしたためるのでございます。お別れなんて言うのも何だかおかしいようでございますね。いつでも御一緒なんですもの。台湾の伯父さんからのお話もございますし、しばらくご無沙汰になりましょうが、どうぞおん身御大切に。創作のために払う犠牲は嬉しゅうございます。さようなら」
 秋海棠のほうには、
 「遠き門出の記念として君が御手にまいらす。朝夕培いしこの草に憩う思いを汲ませたもうや」
 という言葉がつけられていた。
 民助が岸本を訪ねて、節子の台湾行の旅費を貰ってきた。
 十月二十九日、民助と節子という、台湾へ発つ者たちが渋谷の輝子宅へ別離の宴に呼ばれた。輝子は節子に、餞別に欲しいものはないかと訊いた。節子は、欲しい本があると言い、姉妹して神田の書店まで探しに行った。輝子は翌日岸本を訪ねるというので、節子は、貰った本で岸本に預けてあるのがあるからそれを貰ってきてくれと伝言した。
 しかし輝子は、本は持ちかえらず、台湾へ行っても伯母さんからは荷厄介扱いされるだろうから、よく辛抱して伯母さんの手伝いをするようにという伝言をことづかってきた。
 節子の出発は十一月一日で、東京駅から神戸まで出て船に乗ることになった。節子は岸本に手紙を書いた。
 「わが心にあらず、御心のままに。  節子
 捨吉様
 心からの信頼をもって遠い旅に上る身の幸を思い、そのよろこびをここに残してまいります」
 一緒に小包も送ったが、中に入れたのは例の手箱で、朝顔の押花、例の男の子の人形や、岸本の少年時から青年時の古い写真、また豊国の錦絵も入れた。どういう機会に他人の目に触れるか分からないので、岸本から来た手紙やハガキもみな入れた。残したのは数珠だけだった。
 神戸から香港丸に乗った。紀淡水道を通り過ぎて、日本本土が遠ざかっていくのを節子はほかの乗客と同じように後部甲板から名残惜しく眺めた。だが中には、二度と本土へ帰る見込みのない人だっているかもしれない。岸本もかつて同じ航路をフランスへ向かったのだ、と思ったら涙が浮かんだ。
 台湾は、日清戦争で日本が清国から割譲された日本領だ。それでもやはり、外国へ行く気分である。民助は同地で製氷事業をしていた。次第に気温が上がっていき、二日で基隆に着くと、汽車で台北へ向かった。
 伯母は曖昧な微笑で節子を迎えてくれた。節子は伯母の家事を手伝い、あいまには聖書などの本を読んだ。
 「叔父さま
 お元気でいらっしゃいましょうか。台湾に来ております。船で日本を離れる時は心細い気持ちもいたしました。叔父さまの「椰子の実」とは逆ですが「果てしなき流離の憂い」でございました。数珠だけは私の手元にありますから、それを握りしめて寂しさに耐えたような気がいたします。」
 大正八年が明け、節子は二十七歳になった。パリでは世界大戦の講和会議が開かれ、日本からは西園寺公望が全権として出席していた。一月に岸本の『新生 第一巻』が刊行され、節子も購入してひそかに再読した。第一巻があるということは続きも書かれるということだ。
 二月はじめに岸本から来た手紙には、四月から「新生」の第二部が連載されることが書いてあった。衝撃的な内容なので、続けるか新聞社内でも議論があったが、続けると決まったという。このあとは、岸本の帰国後のことが書かれるのだと思うと、節子はどきどきした。
 ところが、根津の節子の実家では、母が死んで節子がいなくなり、祖母さんを抱えて、父の眼病もまだ完全ではなく、女手がなくて困っていた。頑固だった義雄が音をあげて、節子に帰ってもらいたいと言いだした。
 四月、『新生』続編の連載が始まったが、節子は町の新聞縦覧所でそれをぽつぽつ読むばかりだった。実のところ、前編に、
「その岸本が別に多くの女の中から択んだでも何でもない自分の姪と一緒に苦しまねば成らないような位置に立たせられて行った。節子は重い石の下から僅に頭を持上げた若草のような娘であった。曾て愛したこともなく愛されたこともないような娘であった。特に岸本の心を誘惑すべき何物をも彼女は有たなかった。唯叔父を頼りにし、叔父を力にする娘らしさのみがあった。」
 などとあるのを読んだ時は、苦い失意がこみ上げてきたものだ。前編では、叔父がひたすら節子から逃げようとしているさまばかりが見てとれたが、節子はそれを叔父には言わずに耐えていた。フランスで、
 「節ちゃんはどうしてああだろう。どうしてあんな手紙を度々寄すんだろう」
 とか、
 「あの事さえ書いてないと、節ちゃんの手紙はほんとに好いんだがなあ――」
 などと独語しているのを読むと、悲しくもあり、またいくら何でも鈍感すぎるのではないかと思い、読んだ人はどう思うだろうと心配までした。
八月に、節子は伯父とともにまた船で日本へ帰った。民助は娘の愛子のところに住んだが、節子はまた根津宮永町の家に押し込められ、「低気圧」が起きて二階で寝込むようになった。手もまた硬くなって痛くなり何もできず、祖母や父が持て余した。岸本は、愛子に二百円を渡し、そこから節子に少しずつ小遣いを出すことにし、それで岸本は以後は金は出さない、ということに話が決まった。節子は、小遣いの中からメガネや時計を買い、本も買って、少しずつ元気になっていった。
 新聞連載の「新生」は、十月二十三日をもって完結した。台湾へ行った節子が残して言った秋海棠を岸本が庭に植えるという抒情的な場面で美しく終結した。すぐに第二部が単行本として刊行された。
 大正九年一月号の『婦人公論』には、「岸本蘭村氏の懺悔として観た「新生」合評」というのが載せられ、徳田秋聲近松秋江正宗白鳥、阿部次郎、巌谷小波厨川白村室生犀星上司小剣小杉天外小栗風葉、片上伸、小川未明堺利彦豊島与志雄といった人たちが批評をしたが、多くは口を濁すように、ちゃんと読んでいないと言ったり、岸本の名声に媚びるように、浄化された懺悔などと書いていた。白鳥と秋江だけが少し違って、特に、神戸で岸本を見送った秋江は、情痴小説の作家だったが、
 「肝心の『新生』その物には如上の無理からぬ経路が委(くは)しく書かれてない。…あれでは、主人公の岸本が節子とさういふ破滅(ママ)になる経路が恋からではなくして、性欲の渇からであるかのやうな誤解を生ぜしめる。…せめて、若い処女の温く柔い胸から吐く太息の如き太い息が『新生』に通つてゐればよいのだが…何故岸本の節子に対する愛を、もつと強く書かなかつたか。/叔父が、何故姪を愛して悪いか?若し仮りに此処に、叔父と姪とが相思相愛であつて、それが世間の習慣や、道徳や、法律の為に、その感情を実現することが出来ないとすれば、一層悲しいではないか。(略)何故(なにゆえ)に作者は、(岸本)その愛情を書くにもつと大胆でなかつたか。作者は、斯かる人倫の秘密を自から公表するほど大胆であるに比し、案外如説の、節子に対して感じてゐる筈の愛を書くに臆病である。…
 そして作外の実存人物なる姪に対しては、只管に気の毒である。作者は二重に、二度まで姪を犠牲にしてゐる。一度は愛情の犠牲であつて、後には斯の如き人倫の秘密を世間に公表して、実存の姪をして、世間から顔を見られる境地に陥らしめたること。(略)それよりも作者実存の姪をして、人に顔を見らるゝ境地に置いた作者の、かゝる人倫の秘密を公表した事その事を、どうかと思つてゐる。これは寧ろ公表しない方が善くはなかつたか?…何しろ男と違ひ、女子は気の毒である。滔々たる世間は、さう参酌をして見てくれないから、所詰(つまるところ)多少の浄化はあつても公表と浄化と差引、勘定無しといふことになる」。
 それと共に、「新生」のこの事実は、近親結婚といふことに対して、一つの疑問を新にする筈であるが、惜しいかな、作者は、さういふ立場に立つて、何処までも疑問を深めてみせやうといふ考へは、余り見せてゐない。いはゞ、作者の態度は、姪を、そんな破滅に置いて、あとは遠くへ逃げて、顧みて他を言ふといつたやうな処がある。」
 とあった。節子は自分の思っていたことを言い当てられた気がした。心の奥底には、もっといろいろなことがあるのを、うまく岸本が世間を軽く欺いたという気もしていたが、なお節子は岸本を思慕し続けていた。
 根津宮永町の二階家は、二階に父・義雄が、一階の四畳と六畳に祖母と節子の部屋があり、父は「お二階さん」と呼ばれていた。岸本の話はこの家では禁句だった。同郷の勝野という青年が来てよく節子と話して行ったが、岸本の話は出なかった。だがこの勝野がふと庭へ出て『若菜集』の一節を口ずさんだ時、節子が聞きとがめて、「二階に聞こえたら大変ですよ」などと言った。

(つづく)